春日大社に「鹿苑」という鹿の保護施設があるのは知っていたが、春日大社自体、ずいぶん前に一度立ち寄ったことしかない。今回の旅の終わりに、蕎麦屋を予約した時間までまだ間があったので奈良公園から新薬師寺に向かう途中、春日大社の境内を横切ったときに、この鹿苑が目の端に入り、初めて立ち寄ってみた。
まあ、ぱっと見たところ現代的な普通の建築物でしかなく、特に注目すべき物件ではないようではあった。フェンス越しの遠く向こう、ちょうど正面の反対側に、多数の鹿が、30〜40頭くらいはいるだろうか、集まっているようなので、右のほうから裏にも回ってみることにした。
半時計回りで真裏に回り込むと、一匹の歳若い?鹿と目が合った。奈良公園でさんざん鹿とはすれ違っていたので、こちらはあ、鹿だ、くらいにしか思わなかったが、先様の受け取り方はちょっと違ったようだ。なんでここに人間が? といった態で、落差5〜6mはあると思われる崖をざざざっと駆け下りて逃げる。そして、崖の下からこちらを見上げている。ただし鹿だから、威嚇するでもなく不審に思う様子でもなく、無表情である。
だから、ちょっと驚かせちゃったか、悪いことしたな、とは思ったが、そう大事とは思わなかった。で、このまま進行方向に回って一周し終えようとしたところ、身体の左側になにがしかの気配を感じる。左を向いてみる。
鹿苑の鹿のすべてがフェンス近くに寄ってきて俺を視ている!
野犬や虎やライオンなら、こちらへの敵意を剥き出しか、あるいは直裁的に襲いかかったりするからわかりやすいが(まあ、わかりやすいといえばだが)、鹿は無表情で黒目勝ちだから却って不気味だ。これだけ数が集まればなおさらだ。口だって、いつだって何かを言いたげなのかそうでないのかが不明確な様子で、ぎゅっと真一文字だ。
そういう、なんというか鹿の黒目を全身に浴びながらこの鹿の園をもう半周する気力が萎えたところで、ふと気付くと頭上では鴉の群れが騒ぎ始めている。たとえば、若い鹿は間諜で、今日の奈良公園の人間共の様子を鹿苑にいる参謀たちに報告に来ていて、そこに闖入者が現れた、ということかもしれない。そんな想像をして平静を保つしか術がなく、もと来た道を引き返して、参道から本殿へと向かった。
その後、なにかしかるべき行いをと思い、といってそれが正しいかどうかはわからないが、春日大社の大小の祠に賽銭を弾んだのはいうまでもない。
それから新薬師寺を訪問し、山を下りて猿沢池の近くに停めてあるクルマに辿り着いたところ、ボンネットには見覚えのない鹿の足跡がまるでなにかの警告のように点々と!
というのはウソで、クルマは無事だったし、玄で蕎麦をおいしく手繰ってから、何事もなく帰っては参りました(いや、名阪国道の魔のSAと呼ばれているところで休憩中、イグニッションキーを紛失して狼狽えたりはしたのだが)。しかし、まだあの無数の黒目は、記憶にはっきりと残っているなー。
追記)
あ、今回気付いたことですが、鹿煎餅を持っていると大勢の鹿がかなり強引に襲って来ることがあるのに、鹿煎餅屋は無事なのはなぜでしょう?
そう思って鹿煎餅屋に注目しながら(注目するなよ)奈良公園や春日大社の境内を歩いていたのですが、店番が留守の鹿煎餅屋台や無人の鹿煎餅販売施設に対しては、鹿はたいへん紳士的な態度なんですよねー。
はっ、鹿の園の秘密にまた気付いてしまったか!
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今度奈良に行ったときは、ぜひ鹿と鹿煎餅屋がつながっている現場を押さえたいですね。奈良ホテルの一室や江戸三旅館の離れで、和菓子の箱の中にぎっしり入った鹿煎餅が受け渡されている現場とか。
でも、今度こそ消されてしまうかもしれない!