渋谷Bar Issheeにて。完全即興のライブ。KONTAとさがゆきは、この日がまったく初対面で、リハーサルも打ち合わせもなかったそうだ。20:20頃、ふたりが登場し、KONTAがソプラノサックスを構える。初手はこちらか? と思ったら、なにかが降りて憑いたように、さがゆきが「ツィア〜〜〜〜〜」と第一声を発した。
この第一声がなかなか衝撃的で、以後しばらく、KONTAがさがを追うような格好で即興が続いたように思う。と、さががテーブルに置いたギターを乱打し始め、それくらいからようやく、ふたりがそれぞれ対等に並立して進む即興演奏が成り立ってきたように思った。このセッションが、概ね10分くらい。
続いてKONTAが楽器を変え、さがも声のほかいろいろなガジェットを用い(ギターの乱打や弦こすりも、20:40頃、22:00頃、22:37頃など何度か繰り返された)、いろいろな音の様相が展開される。必ずしもすごい、面白い、楽しい、びっくり、ばかりではなく、少しあとの出方がわかるような場面もあるし、疑問を感じる場面もあった。
疑問を感じた場面としては、たとえば、第一部の最後(21:00頃)とアンコール(22:45頃)。いずれも三題噺風にお題をもらって展開する即興で、主にお題を言葉や、あるいは楽器による音の模写で表現するような仕方だったが、もっと違った音の産み方で「卒業式、桜、万華鏡」「花粉症、酒、靴下」というお題を取り込んでもよかったのではなかったか。そもそも、寄席の三題噺や紙切りのように、それぞれをきれいに取り込んだり、描写するしたりする必要もないとは思う(漫談的に笑えるところはいくつかあったし、花粉症=くしゃみのサックスによる音模写はなかなか見事ではあった)。
ただし、言葉を用いた即興でも、(リコーダーではない)縦笛を使ったアフリカのどこかの民族音楽を想起させる旋律から、これまたアフリカのどこかのローカル言語を想起させる架空言語での会話→村には医者がいない、という話→医者はいないがカエルの子供が無事生まれた→間違えて「(カエルだから)あるはずのないヘソの尾」を切る→しばらくあやすが持て余してお客にその(架空の)カエルの子を抱かせる・・・、と展開する連想を下敷きにした演奏(21:50頃)は、どこからともなく生まれてくる物語と音響の組み合わせが妙なるものだったのだろうか、10分近い間、素直に楽しかったから、言葉を用いてはいけない、ということではない。要は、それぞれの局面がどう個々人の琴線に触れたかというだけのことか。
そうえいば、まったくどう展開するかわからない即興演奏が続けられる中で、MCの言葉の綾から生まれた「敷地借地」(しきちーしゃくちーしきちーしゃくちー)という言葉のリズムから聴き慣れたようなブルースが展開されたり(22:10頃)、「Tea For Two」をほぼそのまま取り込んだ即興があったりして(22:25頃)、こう来たなら自分はほっとするだろう、と一瞬思うが、実はそんなことはなかった(物足りない気分のほうが強かった)のが、却ってちょっと面白かったということもあった。
総じていうと、私個人は冒頭や21:40頃、あるいは22:37頃の、何かが降りてきて憑いたようなさがゆきの声の即興と、KONTAのサックスの即興の、会話、ぶつかりあい、すれ違い・・・が、最も面白かった次第だが(鳥肌の立つ場面も少なくなかった)、むろん、これはなにか考える基準がほとんどなにもない中での私青木個人の見解に過ぎないわけで、こうした個々の聴衆の感想が、即興演奏に応じて生まれたり消えたりするのも、こうした即興演奏のライブの愉しさなのかな? もうちょっと体験しつつ、また考えてみたい。
ちなみに、サックスほかのKONTAは、バービーボーイズの人。最初にそう書くと、先入見が生まれるかなと思い、最後に書いてみました。
2009年03月17日
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