2013年03月21日

TOKYOてやんでぃ 監督座談会

本日、ふと時間が空いたので、新宿K's Cinemaにて、『TOKYOてやんでぃ』二回めを観てきた。

そしたらたまたま、本作の神田裕司監督と、同じく映画監督の本多隆一氏との対談の回に当たった(18:45の回)。原作である芝居をどう映画にして行ったかなどの話は話題にも出ず、また質疑応答がなかったので伺えなかったが、その他いくつか興味深い話も出たので、箇条書きで簡単にまとめてみた(文中敬称略)。

#話者ご本人方の確認を経たものではないので、発言内容や発言意図が異なる部分があるかもしれない旨、予めお断りしておく。で、神田監督いわく−

・本作は、最初、自主映画で撮ろうと思った。二年前の大震災と前後して、映画の世界で自分ができることはもうないような気になっていて、じゃあ最後に一本監督をやろうかなと。なら、最近ほとんど見かけなくなったドタバタ喜劇で、生きるのが下手な人たちを自分の好きなように描いてみたいなと思った。

・で、実際に制作準備を始めたら、以前から交流のあったラサール石井はじめ、若手、大御所、有名所、個性派などなど様々な俳優の方々が手弁当で手伝ってくれた。現在、こういう台本がなかなかないこともあって、最終的にこれだけ豪華な面々に協力してもらえたのだと思う。

・主演のノゾエ征爾については、自分は一本釣りで大いに期待した存在だったんだけど、本作のプロデューサー側は映画の人たちだから、ノゾエ征爾についてよく知らず、売れてるイケメン俳優で行こうよ、という意見も多かった。それじゃあつまらないし、それを説得するのに、ノゾエ征爾は今演劇会で大注目の若手で、近いうちに岸田國士戯曲賞を取るような存在だよ、などとはったりを言っていたら、撮影中に本当に岸田賞(第56回。第23回劇団はえぎわ公演『○○トアル風景』で受賞)して驚いた。

・仕上がった作品を観ると、カット割が細かく見えることもあり、何十日かかけて撮ったと思われることもあるが、撮影日数は四日(ラサール石井のシーンに関しては三時間弱で撮影)。予備さん役の伊藤克信に至っては、台本を読みながら何度も「これ四日じゃなくて40日で撮る、の間違いだろ?」と確認していたが、実際に一回も徹夜せず、夜8時には撤収の一日10時間×四日で撮り終えた。

・寄席や落語を描いた映画は多数あるが、観ていていつも違和感を覚えるのは、高座のシーン。本物の高座にはどうしたって敵わないし、俳優がどんなにうまく高座の芝居をしても、それはやはり、落語の厳しい修行と高座を何年もの間経験してきた落語家の高座とは異なる。

・それと、ひとつのシチュエーションの中で、一幕ものとして、いろいろな人たちが出たり入ったりする群像を描きたいという希望もあった。

・ということを考えた結果、自分の好きな映画のひとつである、法廷を見せない『12人の怒れる男』のように、高座を見せずに楽屋の群像を描くというテーマに挑んだ次第。

・企画段階では、それでは保たないからミステリーかホラーにしろという意見も多かった。が、楽屋に出入りする芸人というのはそれぞれにそれぞれの特徴があって面白いわけだから、キャラクターをきちっと作りさえすれば、その出入りで飽きずに楽しんでもらえる話が撮れると思った。

・また、カメラに関しても、手持ちで常に視点が動いているような撮り方で、観客があたかも画面の中の楽屋にいて一部始終を見ているような演出を目指した。(筆者註:監督自身は語っていなかったが、常に被写界深度が浅くひとつの画面内で焦点が合っている被写体が極めて少ないという点も、その場にいるような視線の演出に役立てているのではないかな、と思った)

・この二点を追求することで、一幕もののドタバタ喜劇としても充分楽しんでもらえると考えた。

・目指したのは、芝居が台本の文字に添って展開されるようなコントではなく、ドタバタ喜劇。役者にも、台本から読み取れる“期待された演技”ではなく、こんなときにこんな反応をするか? という芝居をしてもらった。そのほうが却ってリアルだから。どちらかというと、ベテラン俳優のほうが形ができていたり台本から期待されていることがすぐにわかるから、苦労されたと思う。が、やっているうちにこちらの意図を充分理解してもらえた。

・終幕の小松政夫が、この映画のすべてを持っていってしまうという印象もよく聞くが、小松政夫自身、どうしても喜劇役者になりたくて、セールスマンをやめて植木等に弟子入りしたような人だから、台本の最後の部分(主人公が師匠である小松政夫に破門を言い渡されるように、一瞬思える場面)を読むとどうしても泣いてしまい、先に進めないと言っていた。ほんとうは、小松政夫の役(主人公の師匠に当たる落語家)は別の俳優がやる予定だったが、小松政夫からの希望もあり、紆余曲折の末に最終的な配役となった。

・小松政夫の最後の見せ所の場面は、本当は落語の師匠ならもっと軽くいなすところだと小松自身から意見があったが、映画的にはそれまでのだらだらした流れをぐっと締めたいと思い、敢えてああいう重い演出にした。それが却って、だらだらと展開するドタバタ喜劇の果てに、生きるのが下手な人たちにも希望があるんだよ、生きてさえいればいいことがあるんだよという、終幕の清々しさにつながったと思う。
posted by aokiosamublog at 23:00| 映画