2015年01月11日

不入りなら廃業!?  初笑い 快楽亭ブラック たったひとり会

於お江戸日本橋亭。第一部(昼)、第二部(夜)の両方を見物。この日の演目。

・第一部
正月丁稚
権助魚
お若伊之助(根岸御行の松狸塚由来の一席)
(仲入り)
七段目
お血脈

・第二部
羽団扇
演歌息子
イメクラ五人廻し
(仲入り)
聖水番屋
おまん公社

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木戸も前座もすべて快楽亭ブラック(木戸は福田秀文、前座は立川ワシントン名義)がひとりで担うという触れ込み。実際は弟子(多分ブラ坊)が手伝っていたし、めくりもないのでどこまでがワシントンかも曖昧だったが、ほぼすべてひとりで仕切っていた、というのは間違いない。

会の名に「不入りなら廃業!?」とあり、また宣伝惹句に「不入りでしたら16年以降、名古屋芸人になるか、廃業するか、東京では落語家活動は辞めます」とあったので、まあ半分は洒落だろうが、気になるので出かけてみた次第。結果的には昼も夜も八割くらいの入り〜ほぼ満員だったので、その心配はなかったようで安心した。

ちなみにほぼひとりで仕切るのに加え、木戸銭も「お気持ち」であった。捉え方にもよると思うが、噺家がこんなに厳しい姿勢で臨む会も滅多になかろうと、素人としては思う(もちろん他の噺家が気を抜いているとかそういう意味ではない)。木戸銭については、快楽亭ほどの芸での独演会ということと会場の規模から考えて、三千円くらいがひとつの目安だろうと思い、たまたまそれくらいは財布にあったので、昼夜ともに三千円ずつお渡しした。

ちなみにすべてひとりで担ったり「不入りなら廃業!?」と謳った背景には、立川左談次や川柳川柳らを伴ったお江戸日本橋亭での会(2014.11.18)や、満を持したはずの今年正月の名古屋大須・お馬のおやこでの四日間全8回の興行(ゲストに日替わりでジキジキ、立川談之助、坂本頼光、 宝井駿之介、立川左談次、桂ぽんぽ娘ら)の不入りがあったという。

#その後快楽亭のブログを辿ってみたら、この会の主旨を決めたのはこの会だったようだ→ http://kairakuteiblack.blog19.fc2.com/blog-entry-3317.html なので本文一部修正。

さてまず第一部、『正月丁稚』は不勉強ながら初めて聴く噺だったので、肝がどこかをつかめずだらっと聴いてしまったが、上方の噺を流暢な上方言葉でさらりと演るところはさすがと思う。

続く『権助魚』は元の噺に忠実に演りながら、桂某や立川某の(ここには書けない)暴露話を差し挟みつつ、ブラック風味に。

『お若伊之助』はくすぐりをほとんど入れず、元々の噺の面白さを味わわせてくれた。

仲入り後は『七段目』『お血脈』と続けたが、『七段目』のマクラで某歌舞伎俳優のSM好きを暴露しつつ(もっともその俳優自身が大手媒体で告白しているそうだが)、その俳優に快楽亭が仕掛けた悪戯を話したりすることで、結果的に芝居にのめり込むことの変態性の可笑しさを強調していたり、『お血脈』では善光寺に向かった五右衛門が安いビジネスホテル泊まって欲情してマッサージを呼び〜といったくだりでサゲに向かい場面での五右衛門の芝居好きを際立たせていたりなど、一見ただ“危ないくすぐり”を入れただけのように見せかけてその実噺の肝の部分を強く印象づける効果を上げていることに、改めて気付いた。この種の噺での芝居振りのうまさももちろん魅力だが、そういう計算があってのくすぐりの挿入も、快楽亭の芸の大きな魅力なんだなと思う。

第二部は、まずは『羽団扇』。上方から伝わった『天狗裁き』は割とよく聴くが、『羽団扇』は珍しい。談志直伝だろうと思うが、七福神に自分も加わって、こりゃ8Pだ、8Pニューイヤー、などといったくだりはブラック独自ではなかろうか(知らないだけかもしれないが)。そのくだりを入れることによって弁天に起こされるところに多少の色気が生じ、初夢がおめでたい淫夢というところが妙味だった。

続く『演歌息子』は、川柳『ガーコン』を逆さまにした導入部が可笑しい。日本と中国、日本と韓国、米国と日本、白人と黒人など様々な差別をネタにしているがその差別ネタが入れ子構造になっていて、差別という行為(をする人間)そのもののバカバカしさが滲み出てくるようなところが、さしづめ差別の戯画化だなと思った。

続いて『イメクラ五人廻し』。三人目の良子皇太后のくだりでの「おしゃぶりくださる」という言い回しに爆笑。その他全体的に、相変わらずの破壊力を堪能した。

仲入り後は『聖水番屋』と『おまん公社』。『聖水番屋』も『イメクラ五人廻し』と同じで、変態の変態ならではの淫靡さや猥雑さを聴いているこちらに多少の劣情を催させるくらいには残しつつ、全体的には変態を相対化するような手際を楽しんだ。これまた変態の戯画化なんだなと改めて思う。

『おまん公社』は何度も聴いているし、今となっては最初に聴いたときの衝撃があるわけではないのだが、権力機構のバカバカしさを笑うという意味では今なお力を感じる。『ぜんざい公社』からの改作は、大きな意味があったと思う。
posted by aokiosamublog at 23:00| 落語/演芸