2021年05月10日

5月まとめ(1〜10日)

5月1日(土) 朝6時半起床。白湯、マヌカハニー→ぶなしめじと油揚のおつけ、あさりご飯、海苔→新宿に出て丸の内線に乗り換える途中、〈箱根そば本陣〉で昼(天玉そば)→四谷三丁目〈CON TON TON VIVO〉の柿落としにお邪魔。出演は初めて聴く騒乱武士で、ゲストに高岡大祐(テューバ)、増岡彩子(ピアノ)、岬花音菜(ダンス)。フリージャズと歌謡曲、その他諸々というバンドと思ったが、わかりやすいテーマをいろいろに繰り返しながら爆発していく手法は、新鮮な驚きは少なかったが親しみやすい感じ。バンド名の通りいろいろな味わいの騒がしさの妙味を味わわせてくれるバンドと思ったが(違ってたら失敬)、音響的にもその味わいをきっちり味わわせてくれたと思った。よい音楽の場になっていくと確信。昼を食べてきてしまったのでタコスふたつだけつまんだが、これがまたなかなか(凝ってるのにそうと思わせない奥ゆかしさも感じた)。次に訪れる折には、フェイジョアーダやリングイッサも楽しみだ→店主や高岡さんにご挨拶しておいとま→〈いーぐる〉で休憩→腹ごなしに少し歩こうと、新宿通りを渡って旧鮫ケ橋のほうへ。しかし須賀神社の辺りから外苑東通りに出てしまい、旧鮫ケ橋付近には辿りつかなかった。信濃町から平和に電車で帰宅。帰宅したらすぐに大雨と春雷→風呂→『翔んだカップル』(原作:柳沢きみお、監督:相米慎二。鶴見辰吾、尾美としのり、円広志、薬師丸ひろ子、石原真理子、西田浩、真田広之、原田美枝子。1980、東宝)。懐かしい原宿の風景と、薬師丸ひろ子が怒る場面が印象に残ったのみ。他に感想なし。必要が生じなければ二度と観ない→『マルクスの二挺拳銃』(原題『Go West』、監督:エドワード・バゼル。グルーチョ・マルクス、チコ・マルクス、ハーポ・マルクス、ジョン・キャロル、タリー・マーシャル、ダイアナ・ルイス、ロバート・バラット、 ウォルター・ウルフ・キング、ジェーン・マクロイ。1940、MGM)。『マルクス一番乗り』『ルーム・サーヴィス』『マルクス兄弟珍サーカス』と、観ているこちらの集中力切れもあるがマルクス兄弟自体も息切れ感があるのではないかと思ったが、本作には『御冗談でしョ』以前の力を感じられた。終盤近くの汽車の追跡は『キートン将軍』、汽車が家屋に突っ込んで家屋ごと走ってくるのに玄関からハーポが上がり込む場面は『キートンの船長』からの引用だそうだが、知ってて観ても知らずに観ても面白い→夜0時前就寝。
5月2日(日) 朝8時半起床。白湯、マヌカハニー→『つげ義春大全』別巻二読了。読みにくいわけではないがとにかく文章量が多く、一ヶ月かかった→昼は演藝番組見ただけで特に何もせず→午後『憲兵と幽霊』(監督:中川信夫。三村俊夫、天知茂、中山昭二、久保菜穂子、三原葉子、芝田新、宮田文子、中村彰、坂根正吾、万里昌代、胡美芳、国創典。1958、新東宝)。天知茂が水も漏らさぬ完璧な悪党のように見せながら、すぐにそのメッキがガラガラと剥がれていく、その描写の間や速度感が印象的だし、ある種衝撃的。そう思うと、冒頭の祝言の場面でのカメラの高速パンも、天知茂扮する波島憲兵中尉の肝の座らなさを表しているような気にもなる(ほんとうはどうかは知らない)→風呂→晩は菊水堂ポテトチップス、めかぶ酢、ほうれん草胡麻汚しでビール中瓶一本だけ。あとは貝柱と黒豆とちりめんじゃこの粥、佃煮(かつお小町、生あみ、きゃら蕗、手むきあさり)、納豆→『マルクス兄弟 デパート騒動』(原題『The Big Store』、監督:チャールズ・F・ライズナー。チコ・マルクス、トニー・マーティン、ダグラス・ダンブリル、ブラッドリー・ペイジ、リチャード・ヘイデル、ヴァージニア・グレイ、マーガレット・デュモン、グルーチョ・マルクス、ハーポ・マルクス、ヴァージニア・オブライエン、マリオン・マーティン、ヘンリー・アルメッタ、アル・ヒル、ポール・スタントン、ラッセル・ヒックス、チャールズ・レイン。1941、米MGM)。しっかり構成されたデパート乗っ取り劇の物語の上で繰り広げられる、冒頭のチコのピアノ藝を子供たちが真似するところ、グルーチョの売れない探偵の見栄の貼り方、前半のバカバカしいくらいに賑やかなのが素晴らしいグルーチョ中心のミュージカル、チコとハーポのピアノ藝、ハーポの偽の鏡を使った演奏藝、そしてデパートの中でこれでもかと繰り広げられる追跡劇などなど、初期の数作のエネルギーが蘇った上で緻密さと爆発の深みも増した、傑作と思った。ここまで一年か二年に一作だったのが、このあとは『マルクス捕物帖』まで五年の時間が空くから、全盛期の最高傑作と言ってもよいかもしれない。プロデューサーのアーヴィング・タルバーグの死後(1936年以降)はパッとしなかった、というのが世評のようだが、本作を観るととても肯けない→『マルクス兄弟 デパート騒動』観ながら金宮お湯割×2。午前1時就寝。
5月3日(月) 朝7時半起床。白湯、マヌカハニー→午前中特に何もせず→昼は〈JazzKeirin〉。今年初の青ぶっかけ。ぶっかけシリーズは軽いのがよい→〈三友〉ではまぐり、あさり、鰯を購入し、〈あずまや〉で豚玉とソース焼きそばを買って帰宅→青ぶっかけが軽いので、帰宅後豚玉とソース焼きそばでビール中瓶×1.5がちょうどよい感じ。〈あずまや〉はよいな。またいろいろ試してみよう→午睡→風呂→『マルクス捕物帖』(原題『A Night in Casablanca』、監督:アーチー・L・メイヨ。シグ・ルーマン、リセット・ヴェレア、ハロ・メラー、フレデリック・ジレマン、ダン・シーモア、ハーポ・マルクス、チャールズ・ドレイク、ロイス・コラー、チコ・マルクス、グルーチョ・マルクス。1946、米United Artists)。Wikipediaによれば「1941年までいくつかの作品をMGMで制作したが、往年の冴えは見られず、兄弟は映画界からの引退を決める。しかしその後もチコの借金返済にあてるために」作ったものとのことで、兄弟三人の見た目も前作から5年経ってさすがに草臥れた感は否めないが(特にハーポの天使感はかなり失われている)、しかし往年の笑いは質・量ともに衰えてはいないと感じた。冒頭、ハーポが家屋に手をついて立っていて、「家を支えているのか?」と問われた直後に手を引っ張られたとたんに家が崩壊するギャグなどものすごい。カツラひとつでナチの残党を部屋に閉じ込めるという発想も、そのバカにする仕方に感心した→晩は鰯刺身/肝焼き/皮焼き、ほたるいか茹で、小松菜おしたし(ちりめんじゃこ)、はますい、貝柱と黒豆の粥、ビール中瓶×1、御酒×1。鰯刺身も煎り酒でやるとまた一味違って楽しい。蛤は今年はこれで仕舞かな。あとは家での貝はあさりとしじみを順繰りでじゅうぶん→午前1時就寝。
5月4日(火) 朝7時半起床。白湯、マヌカハニー→朝は貝柱と黒豆の粥に卵投入。はますいとほたるいかの茹で汁を加えたが、微妙な感じではあった→午前中特に何もせず→昼はカップヌードル。この辺りから映画鑑賞開始→『怒号する巨弾』(監督:石川義寛。林寛、天知茂、大友純、芝田新、吉田昌代、倉橋宏明、宇津井健、沖竜次、宮浩一、国方伝、九重京司、三ツ矢歌子、高松政雄、浪野光夫、佐伯一彦。1960、新東宝)。新東宝最後期の一作。きちんとよくできてはいるが、それを超える魅力はよくわからなかった。天知茂も破綻や突出した部分、狂った部分がまったくない役に思えたが、終幕の死際はカッコいいしとても印象的だった→『クヒオ大佐』(原作:吉田和正、監督:吉田大八。内野聖陽、大河内浩、松雪泰子、満島ひかり、堺雅人、児嶋一哉、安藤サクラ、新井浩文、中村優子、古舘寛治。2009、ショウゲート)。騙す側、騙される側、騙す側を騙す側、騙す側を脅す側、その周辺の間接的な被害者、それぞれの悲哀に薄く笑いをまぶして重ね描いてく感じに、静かに心動かされた。なかなかの佳作だと思う→この辺りから飲酒開始→『ラヴ・ハッピー』(原題『Love Happy』、監督:デヴィッド・ミラー。グルーチョ・マルクス、ポール・ヴァレンタイン、ヴェラ・エレン、マリオン・ハットン、ハーポ・マルクス、イロナ・マッセイ、メルヴィル・クーパー、レイモンド・バー、ブルース・ゴードン、チコ・マルクス、レオン・ベテスコ、エリック・ブロア、マリリン・モンロー。1949、米United Artists)。マルクス兄弟としては最後の作品。グルーチョは狂言回し的な役割に徹していて、笑いの場面に参加するのはほぼ終盤のみ。ハーポのなんでも出てくる<Rートがなんでも入る<Rートとして使われているのが可笑しいほか、全体的にはハーポが笑いを導いている印象(チコがハーポの言いたいことを通訳≠キるのは今まで通り可笑しい)。全体を通して受け取ればよくできた喜劇映画だが、やはり『デパート騒動』の笑いには敵わないかな。まだ売り出し中のマリリン・モンローがひと場面だけ出てくるのは見もの→晩は鰯フライ、鰯骨煎餅、たらこ粕漬け、ピーマン焼き、筍とニンジンと牛肉の炒め煮、舞茸のおつけ、貝柱と黒豆粥、錦松梅、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→O形に見せるために再び『クヒオ大佐』→夜0時就寝。
5月5日(水) 朝7時半起床。白湯、マヌカハニー→風呂→『阿部薫2020 僕の前に誰もいなかった』読了。それぞれの書き手個人が阿部薫とどう向き合ったか、という文が多かったが、それらについてはそれぞれの個人的体験なので、私個人には興味を覚えるようなことは少なかった(ただし、いろんな人の証言を読み進むうちに阿部薫像が立ち上がってくるのは面白い読書体験ではある)。そうした文が並ぶ中では、田中啓文の(小説家としてデビューする前の)若書きの『阿部薫のソロインプロビゼーションについて』での阿部薫の演奏技術と間の話は蒙を拓かれる気がしたし、纐纈雅代の『超 阿部薫現象』は阿部薫を突き放す感じに独特な新鮮さを覚え、面白く読んだ。またサックスというハードウェアまたはインターフェイスに着目した吉田隆一『阿部薫の楽器と技法について』や、阿部薫が日本以外でどのように聴かれているかの詳細は報告である齊藤聡『阿部薫の他国への伝播と影響』、高柳昌行の音源の管理者という立場の人間にしか書けない斉藤安則『もう一つの解体的交感』の三編には、これらだけでこの本を買った価値がある、と思わせられた→昼頃四谷三丁目〈CON TON TON VIVO〉へ。本日はプエルトリコ・サルサのLOS BORRACHOS。

もっとも、プエルトリコ・サルサとキューバン・サルサとの違いについて、私はダンス・スタイルが違う(キューバより形がきっちりしていて派手)程度の認識しかないし、また踊ると言ってもベーシックのステップを踏むくらいだから、もう大雑把にサルサを聴き踊る、ということを楽しんだ。バンドの演奏は、私のような永遠のサルサ初心者をも楽しく踊らせてくれるものだった。

ところで内覧会にお邪魔して見学した際、ここのステージは小さいと思っていたが、それでも奥からティンバレス(バスドラあり)、ベース(エレキ+アンプ)、キーボード、ボンゴ、トレース(+アンプ)、コンガ(三本?)、ボーカル二人の計8人が乗って、ボーカル二人が踊るくらいの余裕があったのには驚いた。そしてステージ下手の外側(アップライトピアノが置いてある前)にはホーンセクション(トランペット×3、トロンボーン、バリトンサックス)の5人が並ぶ。

合計13人の大所帯で、お客も立ち見が出るほどだったが、入り口からまっすぐ正面突き当たりまで(フロアとカウンターの間)が通路のような扱いで空けられていて、また入り口からお手洗いの前辺りは空間に余裕があるので、立ち上がって踊るのもさほど困難ではなかった(ペアの相手をターンさせたり、という余裕はほぼないが)。大所帯のダンスバンドもじゅうぶん楽しめる場所だなあということが、今回訪ねてみてよくわかった。

食事は前回同様タコスのほか、フェイジョアーダとリングイッサをいただいたが、これもなかなか。フェイジョアーダにはファリーニャ(ファロファ)かけてくれた。酒はビール×2、モヒート×2、ラムのロック×1→帰途はどこにも寄らず、千歳船橋の〈あずまや〉でたこ焼きとたこせんべい買って帰宅→O形が若竹煮をこさえてくれ、たこ焼き類とそれで晩(ビール中瓶×1)。O形に『スパイの妻』を見せたが、途中で飽きて眠くなり、早々に就寝。何時か失念。
5月6日(木) 朝7時半起床。白湯、マヌカハニー→『つげ義春大全』別巻三読了。つげ義春の本分はあくまでも漫画作品だから、本巻に収められた(一枚絵のイラストはともかく)温泉宿の写真は全集としては蛇足とも思ったが、すでに失われた風景も多い(ほとんど?)だろうと考えると、よくまとめてくれたものと思う。改題を読むと北冬書房のホームページに掲載されたことがある写真ということであり、そうと知れば「蛇足」と思った認識を改めざるを得ない→昼は山かけ納豆そば(刻み海苔)→『一家に三男二女あり』(演出:瑞穂春海。河村黎吉、吉川満子、末松孝行、葉山正雄、大藤亮、八木民江、長船フヂヨ、坂本武、西村青児、笠智衆、土紀柊一、大坂志郎、三浦光子、伊東光一、水戸光子、大原英子、山岸美代子、高倉彰、槇芙佐子。1943、松竹)。以前観たときには「物語が練れてなくて急ぎ足だった(略)故の展開の速さが面白くもあり」と思ったが、再見してみると、ただ雑に構築した話だな、という印象だった。「日本人の普遍的な気持ちの描き方に泣かされたりもする」というのは今回も少し感じたが、しかし日本人をちょっときれいに描き過ぎではある。つまるところ、これだけの名優を揃えて何やってんだ、というのが感想→晩の支度。本日は完全に断酒することにして、さらに粥にする。しかし筍ニンジンどんこと豚コマの煮物とトマトとパルメザンチーズとピーマンのサラダ、およびわかめと新玉葱のおつけは作った→風呂→『悩まし女王』(原題『Copacabana』、監督:アルフレッド・E・グリーン。グルーチョ・マルクス、カルメン・ミランダ、ラルフ・サンフォード、スティーヴ・コクラン、アンディ・ラッセル、グロリア・ジャン、ルイ・ソボル、アール・ウィルソン、アベル・グリーン、アンドリュー・トームス、フランク・J・スキャネル、マーガレット・マクウェイド、リー・フェルプス、ディック・ラッシュ、ケイ・マーヴィス。1947、米United Artists)。肩の力を抜いて軽く作ったように見せながら、各所に至藝が散りばめられた傑作、と言ったらほめ過ぎか。カルメン・ミランダの冒頭の歌には圧倒されるが、ひとり二役への力の入れ方といい、グルーチョが無理をしていない風に振る舞っている感じといい、あるいは秘書役のグロリア・ジャンが恋に悩む不器用な女の子を演じながらいざ歌うと輝いたり、ちょい役かと思ったシガレット・ガールのケイ・マーヴィスが終幕で素晴らしい踊りと肢体を見せたりなどなど、輝きの見せ方がなんとも粋だと思った。カルメン・ミランダが紛れもないスターなのに人のいい感じ(清川虹子とか笠置シヅ子を思わせる表情)を見せるのも面白い→晩はさらっと食べようと思ったのだが、結局お腹いっぱいになった。しかし飲まなかったのでよしとしよう→夜11時頃就寝。
5月7日(金) 朝8時起床。白湯、マヌカハニー→朝は昨夜のおつけ(わかめと新玉葱)に、顆粒鶏がらスープを溶いた湯に散らした卵をかけた粥。あと錦松梅→『かりら』の「後記の後記」を書くなど→その後女将編集長とやり取りし、追加制作の挟み込みの方針がだいたい固まる→昼は納豆蕎麦(刻み海苔)→『わらの犬』(原作:ゴードン・M・ウィリアムス『トレンチャー農場の包囲』、原題『Straw Dogs』、監督:サム・ペキンパー。ダスティン・ホフマン、デル・ヘニー、スーザン・ジョージ、サリー・トムセット、レン・ジョーンズ、ボブ・キーガン、ピーター・ボーガン、ピーター・アーン、デイヴィッド・ワーナー、T・P・マッケンナ、ケン・ハッチソン、ジム・ノートン、コリン・ウェランド、シェリーナ・シェアー、ドナルド・ウェブスター。1971、米Cinerama Releasing Corporation)。一言で言うとスカッとしたカタルシスのないタランティーノという感じが今観るとするが、公開当時だとどんな衝撃で受け止められたのだろうか。とにかくずっしりとしたものは受け取った。都会からやってきたひ弱な人間と閉鎖的で野卑な田舎者との軋轢、という視点で観始めたが、今で言うところの反知性主義という観点もあるかもしれない(しかしバーの主人がトムを疎んでいながら最後には味方するのを見ると、前者の見方も誤りではあるまい)。主人公のデイヴィッド(ダスティン・ホフマン)がアメリカで妻エイミー(スーザン・ジョージ)とどんな出会いと暮らしをしてどんな負け方をして英国に逃れてきたかについては想像するしかないのだが(エイミーの自分というものがないようなかまってちゃんぶりやスキだらけの人間性は明確に描かれるが、それが恒星の構造の研究助成金を確保した応用数学者の妻にどうしたなったのかを想像するのは難しい)、そこをどう想像するかで見方はずいぶん変わってくるのだろうと思った。終盤とそれ以前とでのダスティン・ホフマンの人格が変わったかのような芝居の深い意図も、そこを理解しないとなかなかつかめないのではなかろうか→晩の支度。主役はあさり炊き込みご飯。新じゃがとニンジンのスパイス煮込み、新玉葱とトマトとピーマンの胡麻ドレッシングサラダも作り、空豆も焼いた→風呂→本日も断酒で炭酸水とレモン水→『ダブル・ダイナマイト』(原題『Double Dynamite』、監督:アーヴィング・カミングス。ドン・マクガイア、ジェーン・ラッセル、フランク・シナトラ、ハリー・ヘイデン、グルーチョ・マルクス、ウィリアム・エドマンズ、ネスター・パイヴァ、フランク・オース、ハワード・フリーマン、ラッセル・トーソン。1951、米RKO Radio Pictures)。婚約者との結婚もままならない貧乏な若い銀行員(臨時雇用の出納係)が偶然助けたのが競馬のノミ屋の親分で、お礼にと競馬で儲けさせてもらったその日に勤める銀行で7万5千ドルの不足が発覚、疑いが自分にかかるのではないかと若い銀行員は知恵を絞るが…… という物語自体はまあまあ凝っているが、それをさらっと軽くまとめた佳作コメディの味わい。ジェーン・ラッセルとフランク・シナトラがお金に困っている若者という設定なものの、いったん歌い出すとスター性丸出しというのが却って楽しい。グルーチョはただグルーチョとしてそこにいるだけ、という風情だけれども、それがまた楽しい。観終えて何も残らないが、何度も繰り返してみたくなる映画と思う→緊急事態宣言の延長と、神奈川県のまん延防止等重点措置の延長と拡大について確認し、バカバカしくなる→夜0時頃就寝。
5月8日(土) 朝8時起床。白湯、マヌカハニー→朝はわかめと新玉葱のおつけ、あさり炊き込みご飯、佃煮(かつお小町、生あみ、きゃら蕗、手むきあさり)、海苔。あさりご飯に佃煮は過剰だな→『かりら』挟み込みのデザインの方向性が浮かんだので、さっそくiBook G4を起動しひさしぶりにAdobe Illustratorをいじってみる。が、ウイルスのイラストはすいすいと思った通りに描けたが、出来上がったのは浮かんだアイデアとは似ても似つかぬひどいバランスのデザインになった→昼はほたるいかと春キャベツのスパゲティ(ニンニク、青唐辛子、黒胡椒、クミンシード、クローブ、煎り酒)、ビール中瓶×1→挟み込みは、テキスト(編集後記と用語集)を適当に並べ替えてひとつのテキストボックスに流し込み、それぞれのスタイルを変えてから背景にコロナウイルスのイラストを配置すればよいのではと思い試してみたら、ランダム感を演出したままテキストはすっきり読みやすいバランスになった。午前中の作業が無駄にならなくてよかった→午後、注文していたAUXの最新録音作品『鍾意』(アナログ版7インチシングル。5,000円)と『エネルギーカルマ理論』(CDマガジン。3,000円)が届いた。

さっそく聴いてみたが、『鍾意』も『エネルギーカルマ理論』も、以前ライブで体験したときを思い出すずっしり太く重くしかし身体がぐいぐい動かされるような、私にとっては最高のファンクであった。

ちなみにどちらの作品も音楽の演奏の録音≠ニいうことについて制作者が長年考えてきたことへの現時点での回答という意味合いもあるようで、アナログ版シングルの『鍾意』はオープンリールテープにマイク一本で、一方『エネルギーカルマ理論』はといえばスマートフォンに付属のアプリ「ボイスメモ」で、どちらもライブ録音されたものだそうだ。

そして『エネルギーカルマ理論』のほうには、録音方法や制作過程の話を中心に、電気を使って音楽を録音するということに関する考察が、短いながら鋭い言葉で綴られている。
私は音楽の演奏の録音≠ニ格闘してきたわけではないから、深い理解に至るには何度も読み返さねばならないと思うが、しかしそれでいて、制作者が今現在得たところの答に、誰が読んでも最短距離で辿り着かせてくれるような速度も感じ文章で、読んでいてとても痺れた。

正直、懐具合からするとちょいと値の張る買い物ではあったが、思い切って買ってよかった。そして京都にライブを聴きに行きたくなったな。

−では自分にとっていい音とはなんだろう、と鑑みると非常に抽象的な表現に行き着く。
それは、心が踊れるかどうか、という点だ。(『エネルギーカルマ理論』より)

なおCDのほうは、PC用のDVDドライブで再生したところ最初の三曲でノイズが乗ったが、Apple Losslessでリッピングしてから再生したら問題なかったので、私のDVDドライブの所為と思われる→風呂→『マルクス兄弟珍サーカス』二回め。一回めで「グルーチョ登場の場面でのやけに哀愁を帯びた顔が印象に残る」と思ったのは今回も同じだが、その後のチコによる乗車拒否があったのにしれっと列車に乗っているのは、巻が失われたのかそれとも演出か編集が雑なのか。あと「全体的にはマルクス兄弟の影が薄い作品であるようにも思った」と思ったのは、やはり「見方が荒くなって」いたのだと思う→晩は新玉葱とセロリとピーマンとトマトのサラダ、ハーブ&ガーリックポテトフライ、ピザ(ジャーマンポテトP、テリヤキチキンP、フンギT)、ビール中瓶×1、白葡萄酒×1/2→夜10時就寝。
5月9日(日) 深夜起床し、3月21日から4月いっぱいの日記を校正して投稿→マルクス兄弟『ココナッツ』を途中まで見ながらビール→朝方就寝→朝10時半起床。白湯、マヌカハニー→クスリ飲むためにあさりご飯の残りと納豆。これが昼に当たるのかな→『転校生』(原作:山中恒『おれがあいつであいつがおれで』、監督:大林宣彦。佐藤允、尾美としのり、岩本宗規、大山大介、斎藤孝弘、柿崎澄子、志穂美悦子、小林聡美、高橋ます乃、奥藤直美、円福寺幸二、入江若葉、樹木希林、中川勝彦、井上浩一、宍戸錠、加藤春哉、鴨志田和夫、林優枝、山中康仁、鶴田忍、大林千茱萸、人見きよし。1982、松竹)。木を見て森を見ない感想になってしまうが、どうしても小林聡美と尾美としのりの瑞々しさと演技力の高さ(それを引き出した演出の腕)だけが印象に残ってしまう。不注意な受け手がそう見てしまうことは織り込み済みなのだろうが、それでも人と人の心がぐっとつながっていくことで感動させるのは、さすがだなと、何度観ても思う→晩は三種のダール製作。その他、ピーマン新玉葱トマトのカチュンバル、ニンジンのココナッツバター炒めを作り、F式らっきょうをみじんに刻んで、そらまめを焼く。ご飯は玄米とバスマティ米のブレンド→『マルクスの競馬騒動』(原題『A Girl In Every Port』、監督:チェスター・アースキン。グルーチョ・マルクス、ウィリアム・ベンディックス、ヘンリー・スタッフォード、ジーン・ロックハート、ジョージ・E・ストーン、ロドニー・ウートン、マリー・ウィルソン、パーシー・ヘルトン、ドン・デフォア、ディー・ハートフォード、リラン・ウェスト、テディ・ハート。1052、米RKO Radio Pictures)。元バットボーイにして映画『ベーブ・ルース物語』の主演(すなわちベーブ・ルース役)のウィリアム・ベンディックスは、当時としては知られた存在だったのだろうが、今となってはグルーチョがひとりでギャグを連発し物語を引っ張る映画、という印象しか得ることができなかった。頭が弱そうで意外にしっかりしているマリー・ウィルソン(馬の元持ち主という意味でもキー・パーソン)の存在感がそれに花を添えていて、まったく見られない作品ということではなかったが、競馬狂の青年実業家(ドン・デフォア)を更生させようとする婚約者(ディー・ハートフォード)の存在があまり効いていなかった(グルーチョとの絡みもほとんどなかった)のが残念→これでマルクス兄弟DVDボックスは全部観終えた。しかしいつでも観られると思うと、妙な安心感がある→晩の酒はビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1のみ→夜10時就寝。
5月10日(月) 朝5時半起床。白湯、マヌカハニー→昨夜のカレーにポーチドエッグ→午前中青木達之とそのご家族の墓参。ゴミ拾い半分だが、この土日も花を手向に来られた方がいたようで、墓前はきれいだった。墓場の中の茶屋が跡形なくなっていて、事務所で聞いたら「あの場所で店を営んでいたのは昔からあの場所にいたからの特例。つい先頃、屋号も変えて駅前に移転した」との由。それで墓場正門前の〈すずらん茶屋〉を利用してみたら、とても親切なおばちゃんがおられた。次からはここにしよう→〈湧水〉にて昼(湧水天もり)→昼前に帰宅→飲酒開始(夕方までに菊水堂ポテトチップス、いくら粕漬け、のりせんとピーナツでビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4。〆に胡麻入り即席ラーメン)→『さびしんぼう』(原作:山中恒『なんだかへんて子』、監督:大林宣彦。小林稔侍、藤田弓子、富田靖子、大山大介、砂川真吾、尾美としのり、浦辺粂子、林優枝、岸部一徳、秋川リサ、佐藤允、入江若葉、根岸季衣、明日香尚、峰岸徹、樹木希林、小林聡美、柿崎澄子、半田安弘。1985、東宝)。『転校生』同様十代の少年少女がひとつ大人になる物語であり、同じように感動させられたものの、こちらはより80年代くさい感じの軽さが印象に残る。『HOUSE』のような悪ふざけの感覚も感じられたので、大林宣彦のセンスのひとつが突出したということかもしれないが。特に秋川リサと入江若葉にはふざけさせ過ぎと思った(一方樹木希林と小林聡美の場面にも同じ感じはあるものの、こちらは話を転がしていくのに必要)。フィルムの入っていないカメラを覗くことで甘い記憶を蘇らせたり、メイクが雨に溶けて黒い涙が流れるたりするところは、映画表現として感心した→『夕なぎ』(原題『César et Rosalie』、監督:クロード・ソーテ。ウンベルト・オルシーニ、サミー・フレー、イヴ・モンタン、アンリ・ジャック・ヒュー、カリオ・ネル、ジャック・デリー、ロミー・シュナイダー、エヴァ・マリア・メインケ、ベルナール・ル・コック、エルヴェ・サンド。1972、仏CIC)。野卑な乱暴者が自分の好きな女を手放したくない、女の歓心を買いたい一心で、事業(解体業)で儲けた金を使って好き放題する、その傲慢さと哀れさを混ぜ合わせた人間描写が面白かった。この映画の魅力はそこだけではないのだろうけれども、私はそこが最も強く印象に残った。そしてそんな人間なのに暴力を振るわれるなど迷惑をかけられた人たちがその人間的な魅力を感じてしまっている様子というのは、イヴ・モンタンだから表現できたのかもしれない→夕方から夜にかけて午睡→風呂。最近は風呂の中で『一遍聖絵』を読んでいるが、ちっとも進まないので本日は先に巻末解説を読む→『うず潮』(原題『Le Sauvage』、監督:ジャン・ポール・ラプノー。カトリーヌ・ドヌーヴ、ルイジ・ヴァンヌッキ、イヴ・モンタン、ボボ・ルイス、トニー・ロバーツ、ルイス・ヘラルド・トバール、ダナ・ウィンター、ヴァーノン・ドブチェフ。1975、仏Gaumont)。『夕なぎ』同様、女に執着した男が大暴れする映画ではあるが(本作ではイヴ・モンタンではなくルイジ・ヴァンヌッキが情熱的なラテン男を熱演)、こちらはもっとカラッと軽いコメディという印象。イヴ・モンタンが孤独を求めて生きながら、実は女房の手のうちで転がされていたり(スパイまで付けられている)、カトリーヌ・ドヌーヴのじゃじゃ馬っぷりなどが楽しい。最後に主役のふたりが再会して感動、という映画だとは思うが、むしろその二点を軸にした楽しさのほうが印象に残った→午前4時就寝。
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