2022年07月20日

7月まとめ(11〜20日)


原一男『ゆきゆきて、神軍』、Dead Man’s Liquor 於阿佐ヶ谷〈SOUL玉TOKYO〉、ルネ・クレール『巴里の屋根の下』、ヴィンセント・ミネリ『花嫁の父』、フランシス・フォード・コッポラ『ペギー・スーの結婚』、エミール・クストリッツァ『アンダーグラウンド』、ジャン・コクトー『オルフェの遺言 私に何故と問い給うな』、『ザ・ニュースペーパー7月公演Part100』於〈銀座博品館劇場〉、ジャンフランコ・ミンゴッツィ『蒼い衝動』、ジョシュ・ゴードン/ウィル・スペック『クレイジー・パーティー』、DBKタオルウォーマー修理。

7月11日(月) 朝8時起床→わかめと油揚のおつけ、とうもろこしご飯、海苔→『ゆきゆきて、神軍』(企画:今村昌平、監督:原一男。奥崎謙三、奥崎シズミ、山田吉太郎、遠藤誠、島本イセコ、高見実、妹尾幸男、崎本倫子、野村寿也、会川利一、原利夫、浜口政一、丸山太郎、小島七郎(声)、村本政雄、大島英三郎。1987、疾走プロダクション)。観る側の年齢によっても見方は異なるだろうが、私はひとまず、日本国家が放棄した戦争責任の追及を一個人が仕方なく引き継いだ、その一例の記録として観た。その見方が妥当かどうかはわからないが、少なくとも国が第二次大戦で何があったかその事実を集め広める努力をしていれば、奥崎謙三は(最初の殺人は別にして)犯罪者になることまで覚悟した行動に出ずに済んだだろうと思う。昭和天皇への戦争責任の追及とそこで自分ができることを続けていく過程で、ふたりの兵士の処刑のことが明らかになっていき、人肉食への証言を引き出したとことと同時に、奥崎謙三が元上官たちを追究していく様と、元上官たちそれぞれに対応−というのは自分の良心を参照しながらもしかしどうやって追及を逃れるかを必死に考えての態度だと思うが−に心打たれはするが、しかし奥崎謙三は「過剰な演技をすること」があったというから(Wikipediea)、表面的に観ただけでいろいろ判断はできない。せめて『ゆきゆきて、神軍 製作ノート + 採録シナリオ』と『群論 ゆきゆきて、神軍』を読んでから再見したい→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、ヤムヤム・グリーンカレー・ヌードル、ビール中瓶×1→午睡→夕方、小田急線で代々木八幡、そこからバスで阿佐ヶ谷→腹具合を勘案すると適当なところがよくわからなかったので、本日のお目当ての正面にある蕎麦屋〈福壽庵〉で一杯やってみる。おろし納豆そば、御酒×1。特に可も不可もないちゃらちゃらした蕎麦屋だったが、まだ蕎麦湯を飲んでるのにせいろの乗ったお盆を下げにきて不快。二度めはないな→〈SOUL玉TOKYO〉にてDead Man’s Liquorのライブ見物。第一部はいつもより大人しい印象だったが、第二部で爆発。全体を通しての印象はいつも通り、ああこのバンドは日比谷野音くらいの規模で聴いてみたい、というものだった。満足。生ビール×4→終演と同時に、高岡さんや店の矢野間さんにご挨拶しておいとま。平和に電車で帰宅→シャワー浴びて即就寝。夜0時頃。
7月12日(火) 朝9時起床。白湯、マヌカハニー→わかめと油揚のおつけ、とうもろこしご飯、海苔→B電子仕事完了(CDのジャケット周りの校正)→『巴里の屋根の下』(原題『Sous les toits de Paris』、監督:ルネ・クレール。ポーラ・イレリー、アルベール・プレジャン、ビル・ボケッツ、ガストン・モド、エドモン・T・グレヴィル。1930、仏Films Sonores Tobis)。今となっては冗長なところとか、話が緻密でないところなどもあるが、しかし同時期のマルセル・パニョルのマルセイユ3部作(こちらは本来演劇だが)と並んで、すべての人情喜劇の出発点のような作品と思う。むしろ緻密さよりも大らかで懐が深い印象がある分、先行者〜同時代のチャップリンの人情喜劇よりもお手本にしやすいのではないかと思ったが果たして→アル・ブジャ、チッチャロン・バラット、菊水堂ポテトチップス、鶏胸肉ハム、ちりめんじゃこ入りオムレツ(葱、ニンニク)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→午睡→シャワー→『花嫁の父』(原題『Father of the Bride』、原作:エドワード・ストリーター、監督:ヴィンセント・ミネリ。スペンサー・トレイシー、ジョーン・ベネット、マリエッタ・キャンティ、トム・アイリッシュ、ラス・タンブリン、エリザベス・テイラー、ドン・テイラー、ビリー・バーク、モローニ・オルセン、レオ・G・キャロル、フランク・オース、ポール・ハーヴェイ。1950、米MGM)。リメイクの『花嫁のパパ』(1991)を見直してみないとなんとも言えないが、制作年が昔というだけで、リメイクを必要としない完成度と思った。結婚式の悪夢の場面など、特撮技術が成熟していない分、リメイクにはない味わいがあった。エリザベス・テイラーはこの世のものとも思えぬ美女なのに、映画の(特にこの映画の)中では親しみやすい、その辺もいるお嬢さんに見えるのが不思議といえば不思議。小津『彼岸花』の山本富士子も思い出したりした→セロリとトマトとピーマンとオクラのサラダ、鴨燻製、とうもろこしご飯、ビール中瓶×1→『ペギー・スーの結婚』(原題『Peggy Sue Got Married』、監督:フランシス・フォード・コッポラ。ニコラス・ケイジ、ヘレン・ハント、キャスリーン・ターナー、ウィル・シュライナー、ジョアン・アレン、キャサリン・ヒックス、ジム・キャリー、バリー・ミラー、シグリッド・ヴルシュミット、ドン・スターク、リサ・ジェーン・パースキー、ルシンダ・ジェニー、バーバラ・ハリス、ソフィア・コッポラ、ドン・マレー、ケヴィン・J・オコナー、レオン・エイムズ、モーリン・オサリヴァン。1986、米TriStar Pictures)。全く知らずに(誰が撮ったかすら)観たので、同窓会で倒れたペギー・スーが目覚めたら…… という展開に驚き、また一年前に公開された同じくタイムスリップものの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の影に隠れてしまったのかなとも思ったが、果たして。中年女性の目線を保ちながら、しかし浮くことなく高校生活に溶け込んで行ったり行かなかったりするキャスリーン・ターナーへの演出とその芝居が見事だと思う。ニコラス・ケイジが終始ダメな感じなのも面白いが(ときおり真面目な一面を見せるという塩梅もよい)、男子高校生総じて(得意分野があっても本質的に)ダメという設定も面白い。現実とペギー・スーの夢の世界とで役者を変えていないのも成功していると思う。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のような派手さがない分、忘れないように大事にしていきたい佳作と思った→鶏胸肉ハム、ウィスキー水割り×1→午前1時就寝。
7月13日(水) 朝8時起床。白湯、マヌカハニー→セロリの葉のおつけ、とうもろこしご飯、温泉卵→老父と昼食および買い物付き添い(〈幸楽苑〉にて中華そば(ロカボ麺)、〈サミット〉)→帰途、JAF会費支払い→B電子仕事(BRGの新製品)→『LION/ライオン 〜25年目のただいま〜』(原題『Lion』、監督:ガース・デイヴィス。サニー・パワール、アビシェーク・バラト、プリヤンカ・ボース、クーシ・ソランキ、タニシュタ・チャテルジー、ナワーズッディーン・シッディーキー、リディ・セン、コウシック・セン、リタ・ロイ、スロジ・ダス、ディープティ・ナヴァル、メニック・グーンラットン、 デビッド・ウェナム、ニコール・キッドマン、ケシャヴ・ジャダヴ、デーヴ・パテール、ディヴィアン・ラドワ、ルーニー・マーラ、ロニヒ・カルガイヤ。2016、豪米英The Weinstein Company) 少年時のサルー(サニー・パワール)、実の母親のカムラ(プリヤンカ・ボース)の目の美しさにまず心奪われる。大人になったサルー(デーヴ・パテール)との再会場面では、プリヤンカ・ボースの目の美しさに泣いたが、サルーが貧しいながら大切に育てられてきたという描写がいい塩梅で挟まれることの、一種のサブリミナル効果もあったかもしれない(マントッシュ=ディヴィアン・ラドワは、対比でサルーの育った境遇を強調する意味合いもあったのではないかと邪推)。オーストラリアでの里親役のニコール・キッドマンの、人のよさそうなおばちゃんぶりも見事。物語は実話だそうで、恐らく実話を忠実に再現しようとしたのだろうが、感動的であることは間違いないのだけれども、Googleの宣伝めいているような場面が長々と続き、ほかにそれを凌駕する映画的表現が(前述の目の美しさやマントッシュとの対比以外に)あるのかどうかわからず、劇映画としての深みをあまり感じなかった。とはいえ同じニコール・キッドマン出演の豪映画『オーストラリア』よりはよほど出来のよい作品ではあると思う。ただ、最後の最後に実在のサルーの再会場面を映すのは、ちょっとあざと過ぎるかな。そんなことをしないでフィクションだけで事実の感動を伝えてもらいたかったようにも思う→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、アル・ブジャ、海苔(梅干し、江戸むらさき)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→午睡→『アンダーグラウンド』(原題『Подземље』、監督:エミール・クストリッツァ。ラザル・リストフスキー、ミキ・マノイロヴィッチ、スラヴコ・スティマツ、ミリャナ・カラノヴィッチ、ダヴォール・ドゥイモヴィッチ、ミリャナ・ヤコヴィッチ、エルンスト・シュテッツナー、スルジャン・トドロヴィッチ、ドラガン・ニコリッチ、ミレナ・パヴロヴィッチ、ハーク・ボーム、ペタル・クラリ。1995、仏独洪ユ勃CIBY2000)。これは傑作。知らなかったのが恥ずかしいくらい。恐らく監督の、明晰な頭脳と冷徹な考察によって狂気の表現が成し遂げられており(狂った演出の制御がうまい)、その分狂気にほんとうのわけのわからなさが足りない気もしたが、観終えてみたらちょうどよい塩梅とも思った。ひとつのかつて存在した国≠フ悲劇の歴史を題材としながらも、これだけ狂気と笑いでもってそれを描いたのはものすごいことだと思うし、第二次大戦敗戦後の日本も、こういう感じで自分の国を描けたらその後の歩みもまた違っていたのではなかろうかと妄想した。中南米の文学や映画とはまた味わいが異なるが、魔術的リアリズムという言葉も思い出したが、実際の記録映像に映画の登場人物が合成で紛れ込んだり、水中で主要登場人物が一堂に会したり、映画の中の現実の中で地上と地下とで時代が異なっていたりなど、心地よく混乱させてくれる要素も多い。ジプシー音楽をモチーフにした楽団の演奏も素晴らしく、フェリーニ『8 1/2』のオマージュというかパクリというか、とにかくそれを想起させる終幕も素晴らしい(この映画ならではの?表現として崖が割れて主要登場人物の祝祭が流されていくところも泣き笑いであった)。役者も素晴らしかったし(特にグルーチョ・マルクスを彷彿とさせるミキ・マノイロヴィッチと、アル中でときどき爆発するミリャナ・ヤコヴィッチ)動物の扱い方も面白かったが、終盤のユーゴスラビア紛争中の場面に現れる白馬は何の比喩であっただろうか(あるいはなかっただろうか)。それはともかく、旧ユーゴスラビアから現在のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、北マケドニア(そしてコソボ)の歴史をおさらいしてからまた観たい→ちりめんじゃこサラダ(キャベツ、ピーマン、パセリ、トマト、オリーブ油、バルサミコ酢、黒胡椒)、ぶなしめじ酒蒸し(ニンニク、生姜、煎り酒、ラー油)、鶏胸肉ハム(インド醤油)、鴨燻製、セロリの葉のおつけ、ご飯、納豆(オクラ)、江戸むらさき、金宮酎ハイ×5→夜0時就寝。
7月14日(木) 朝7時起床。白湯、マヌカハニー→シャワー→本日の取材準備→セロリの葉のおつけ、卵かけご飯、納豆(オクラ)、海苔→ちんとん寄付やりとり。一応明日でいったん締め切りなので、会計報告の雛形を作成など→昼前、クルマで三軒茶屋方面へ。DU仕事の取材。運よく界隈で一番安いと思われる駐車場が一台だけ空いていた→取材は、私はほぼ聞き役なので、つつがなく終了。とても興味深い人物だった→帰途、〈タナカ.ロボ〉に寄ろうかなとも思ってたが、雨脚が強くなったので断念。そういえば、往復とも昨年開通した桜木トンネルを通った。開通したのを知らなかったが、ここが開通するといろいろ便利だとは思う→帰宅後、おやつ(菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、End Roll全粒粉パンと鶏胸肉ハムのサンドイッチ)で一杯やったのち(ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×5)、納豆そば(オクラ、うずらの卵)→夜8時就寝→日付変わる前に起床→『オルフェの遺言 私に何故と問い給うな』(原題『Le Testament d'Orphee -ou ne me demandez pas pourquoi』、監督:ジャン・コクトー。ジャン・ピエール・レオ、ジャン・コクトー、ニコール・クールセル、フランソワーズ・クリストフ、アンリ・クレミュー、ダニエル・ジェラン、エドゥアール・デルミ、マリア・カザレス、アリス・サプリッチ、マリー=ジョセフ・ヨヨット、ミッシェル・コント、ヘンリ・トレス、フランシーン・ウェスウェレル、ミシェル・レモーグ、ジェラール・シャトラン、ユル・ブリンナー、クローディーヌ・オージェ、パブロ・ピカソ、ジャクリーン・ピカソ、ジャン・マレー、ブリジット・モリソン。1960、仏Cinédis)。この映画で提供される詩人の言葉と映像からいろいろ読み解くのも楽しいことではあろうが、ありのままの表面をありのままの表面として受け取って、何も理解しないまま楽しむのも、本作の観方ではないかと思った。そうして観ると、逆再生や二重露光などの特殊効果も今となっては微笑ましいし、コクトーのカッコつけた芝居も滑稽に見える箇所が少なくない。そういう表面を表面として、バカにするのではなく何度も愛でるところから、本作の深い鑑賞への扉が開かれるのではないか。少なくとも一度や二度観て記号≠拾ってわかったような気になるよりは、鑑賞法として理に敵っているのではないかと思う→午前1時就寝。
7月15日(金) 朝9時起床。白湯、マヌカハニー→目玉焼き、鶏胸肉ハムサンドイッチ→シャワー→朝のうち雨がひどく、銀座までクルマで出るか等考えたが、出かける時間になったらやんだ。よかった→昼過ぎ銀座に出て、まずは〈ビヤホールライオン 銀座七丁目店〉で昼。フィッシュ&チップス、ビヤホールの煮込み、ナポリタン、ハーフ&ハーフの中×1と小×2→〈銀座博品館劇場〉にて、『ザ・ニュースペーパー7月公演Part100』を見物。寄席でしか観たことがなかったが、本公演ともなるとまったく印象が違って、たいそう面白かった。ネタは安倍晋三、菅義偉のモノマネに始まり(安倍晋三については、事件直後で気を遣ったろうに、変に追悼に寄り過ぎず、いい塩梅に仕上がっていたと思う)、岸田文雄のモノマネとインチキ手話、歌(『ガンダーラ』の替え歌で『円高』)、世界の首脳早変わり(ドナルド・トランプ、ジョー・バイデン、オーラフ・ショルツ、ボリス・ジョンソン)(途中で別の人がプーチンで登場)、節電家族、参院選ダービー、海中風景(ワカメ、マグロ、熱帯魚たち、サカナくん、すしざんまい社長)、皇室ネタという感じで、ダレ場もなくとても心地よい笑いがずっと渦を巻き続けていた。これだったらまた観たいな→お誘いいただいた〈ちんとんしゃん〉ゆかりの方々と〈板前バル〉にて一杯。アボカド胡麻塩、出汁巻玉子、枝豆、刺身盛り合わせ、ネギトロ巻き、生ビール中×3。〈ライオン〉でいささか食べ過ぎ、お腹が減っていなかったのですぐに苦しくなり、失敬して早々においとま→平和に電車で帰宅。しかし経堂に着いてもまだ雨は降っていて、タクシーは長蛇の列。おまけに待ち合わせ時間をちゃんと確認していない様子の間抜けな迎えのクルマが多く、余計にイライラさせられた。タクシーは三十分程度で到着→風呂→ビール一本飲んで、午前1時就寝。
7月16日(土) 朝7時半起床。白湯、マヌカハニー→ニンジンスープ(ニンニク、クミンシード、パプリカ、顆粒鶏ガラ出汁)、ちりめんじゃこ入り炒り卵、全粒粉パントースト→DU仕事、取材音声起こし開始(ほぼ開始しただけ)→故障したDBKのタオルウォーマー、輸入元で修理が可能という情報があったので問い合わせ→即席ラーメン(うずらの卵、小松菜、胡麻、海苔)→DU仕事、30分分音声起こし→午睡→キャベツトマトきゅうりちりめんじゃこのサラダ、ニンジンスープ、ズッキーニとハムのスパゲティ(ニンニク)→DU取材音声起こし完了→風呂→『にっぽん親不孝時代』(原作:松山善三、監督:山本邦彦。堺正章、井上順、井上孝之、大野克夫、加藤充、水上竜子、堺駿二、星由里子、藤村有弘、戸田皓久、佐原健二、かまやつひろし、田辺昭知、上田忠好。1968、東映)。ザ・スパイダースの最後の映画になるのかな。かまやつひろしが音楽担当に名を連ね、ボサノヴァ調のBGMが使われているところは特徴的と思うが、全体に雑さがザ・スパイダースの魅力を超えているという印象。冒頭の女神?が終幕にも登場するが、その意味がわからないし、意味がわからないといえば井上順が片思いしていると思える夢の美少女のシークエンスもよくわからない。星由里子がせっかく潜入捜査官的な役割なのにそう活躍しないのも残念。意味なく冗長な場面が続く程度なら他のザ・スパイダース映画と同じなので気にはしないと思うが、こうまで雑だとちょっと。トランクを取り違えて最後に大金を捨ててしまう、という締め方は、ありきたりだけれども面白くはある→午前2時就寝。
7月17日(日) 朝8時半起床。白湯、マヌカハニー→キャベツトマトきゅうりちりめんじゃこのサラダ、目玉焼き、全粒粉パン、ベーコンエピ→終日DU仕事。ラフ原稿(最初は文字数考えずに聴いた話をすべて盛り込めってやつ)8割方出来→途中で昼。菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、冷やしぶっかけそうめん(生卵)、ホッピー外×1→夜、塩豆腐、豚汁、ご飯、納豆、海苔→シャワー→『蒼い衝動』(原題『Les Exploits d'un jeune Don Juan』(若きドン・ファンの偉業)、原作:ギヨーム・アポリネール、監督:ジャンフランコ・ミンゴッツィ。ファブリス・ジョッソ、マリナ・ヴラディ、セレーナ・グランディ、クローディーヌ・オージェ、ペランジェール・ボンヴォワザン、ロラン・スピルボジェル、ヴィルジニー・ルドワイヤン、ダニエル・ラングレ、ロゼット、マリオン・ピーターソン、ジャン=クロード・フリッスン、フランソワ・ペロー、アレクサンドラ・ヴァンデルムー、オレリアン・ルコワン、ルーファス、イヴ・ランブレクト。1986、仏伊Acteurs Auteurs Associés/A.C.T.A.)。イタリアの艶笑喜劇のつもりで観ていて、観終わってから仏伊合作、しかも原作がアポリネールと知る。それはともかくラテン民族らしい大らかさでもって、しかも優雅(というのは音楽の効果も大きい)に面白可笑しくセックスを描いたよい映画。主人公の少年が性愛の素晴らしさを覚えたらたちまち館の女たちを妊娠させていくという身も蓋もない話も面白いし、その少年が悪戯のおしおきにお尻を薔薇の鞭で打たれた翌日頭を皿で殴られたあとに、殴った張本人が「この前はお尻、今度は頭、それが人生」とつぶやくのも可笑しい。性愛に対してみんな積極的だが、それにそんなに真剣にならないという描き方もよい。しかし現在、こういう映画を撮るのは難しいのだろうなとも思う→『リオ・ロボ』(原題『Rio Lobo』、監督:ハワード・ホークス。ピーター・ジェイソン、ジョン・ウェイン、クリス・ミッチャム、ホルヘ・リベロ、ビル・ウィリアムズ、ジェニファー・オニール、ロバート・ドナー、スサーナ・ドサマンテス、シェリー・ランシング、マイク・ヘンリー、デイヴィッド・ハドルストン、ジャック・エラム、ヴィクター・フレンチ。1970。米National General Pictures)。撃ち合いとかアクションよりも、冒頭の南軍が北軍の金貨を奪うくだりも、終幕の悪徳保安官を裏で操る黒幕の誘拐、それから相手側が取った人質との交換のくだりも、それぞれの作戦が面白い。敵の黒幕があっけなく捕まえられるところは少し拍子抜けしたが、その後の展開を味わうためにそこは力を抜いたのかな、などという邪推もした。ジョン・ウェインは名優と思う一方飛び抜けた面白さを感じることはなかったが、ホルヘ・リベロ、ジャック・エラムとクセのある俳優の面白さを存分に味わい、そしてヒロイン三人の素晴らしさ、とりわけシャスタ役のジェニファー・オニールの可愛らしさ、美しさ、気風のよさには痺れた。南北戦争に始まり悪辣な保安官一味との対決が描かれるものの、そうした争いに恨みがましさがないのもよかった。唯一、顔に傷をつけられたマリア(スサーナ・ドサメンテス)の役割にのみ、嫌な悲しさを誘われた(あそこまでする扱いの効果がどうなのか、一度観ただけではちょっとわからない)→午前3時就寝。
7月18日(月) 朝9時起床。白湯、マヌカハニー→シャワー→豚汁、ご飯半膳、江戸むらさき→『アバウト・タイム 愛おしい時間について』(原題『About Time』、監督:リチャード・カーティス。ドーナル・グリーソン、リンゼイ・ダンカン、ビル・ナイ、リチャード・コーデリー、リディア・ウィルソン、トム・ヒューズ、ウィル・メリック、マーゴット・ロビー、トム・ホランダー、ジョシュア・マクガイア、レイチェル・マクアダムス、ヴァネッサ・カービー、ハリー・ハッデン=ペイトン、ミッチェル・ムレン、リサ・アイクホーン。2013、英米Universal Pictures International)。「時間について」という題名が示すように、タイムトラベルについてではなくあくまでも時間とはなにかを問いかけるような作品と思った。したがって、作品中でのタイムトラベルの仕組みやタイムパラドックスについての理論はぼやかしてあるが、その辺の混乱は混乱のまま(いったん過去に戻ってやり直しても結果的には辻褄を合わせられてしまうとか、セックスは何度もやり直せるとか)笑いの要素として放置しつつ、物語が進むにつれ、一日を二度ずつ生きるという辺りから最終的には現在生きている時間を大切にするという時間の捉え方に変わっていくところは、登場人物のちょっとした行動の描き方の巧みさもあって心に刺さる。「登場人物のちょっとした行動の描き方」といえば、(実際にどうだったかは知らないが)ひとりひとりの身体の動かし方まで緻密に、そして自然に演出したと思われるところにも好感を持った。台詞ひとつとってもさりげなくこちらの中に入ってくる感じで、センセーショナルなところはほとんどないが、観ていて気がついたら静かにいい影響を与えてくれているという感じで、相当優れた映画ではないかと思う→チッチャロン・バラット、アル・ブジャ、ベーコンエピ、豚汁、ご飯半膳、納豆、江戸むらさき→DU仕事→夢亀氏より、本日夕方ひっそり店を開ける旨ご連絡いただいたので、夕方〈夢亀らーめん〉を訪ねラーメン(味玉追加)。先週土曜日から禁酒しているので、飲酒を楽しめなかったのは残念だが、夢亀氏がようやく復活されたようでなにより→〈オオゼキ〉で買い物して帰宅→午睡→シャワー→『クレイジー・パーティー』(原題『Office Christmas Party』、監督:ジョシュ・ゴードン/ウィル・スペック。ケリー・コープランド、ジェイソン・ベイトマン、ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ、ケイト・マッキノン、ジェイミー・チャン、ロブ・コードリー、アンドリュー・リーズ、オリヴァー・クーパー、カラン・ソーニ、サム・リチャードソン、オリヴィア・マン、ヴァネッサ・ベイヤー、T・J・ミラー、ランドール・パーク、ジェニファー・アニストン、コートニー・B・ヴァンス、ソニー・ヴァリチェンティ、ニック・ペイン、ジミー・バトラー、アビー・リー、マイケル・トゥーレク、ジリアン・ベル、女ウーバー・ドライバー、ベン・ファルコン。2016、米Paramount Pictures)。舞台となるとある会社の支社が、支社長以下みんな底抜けにバカか、あるいは肝心なところが抜けていて、最高に痛快。『ハング・オーバー』シリーズを思い起こすくらいのバカ映画だった。細かいところのつじつま合わせは雑だが、しかしそれが昭和30年代のクレージー映画のような味わいにもつながっている。物語の起伏とか起承転結よりも、延々続くパーティの中でただただみんながじわじわとバカになっていく様が楽しく、そこになにかメッセージや教訓があってもなくてもどうでもいいという気持ちにさせてくれる。跳ね上げ式の橋を飛び越えるかどうかというくだりは、いったん飛び越えてからいろいろ破壊したほうがよかったんじゃないのかなとは思った→午前1時就寝。
7月19日(火) 朝6時半起床。白湯、マヌカハニー→DU仕事、取材内容のまとめ≠送付→豚汁、卵かけご飯(錦松梅)、海苔→早めの午睡→『ラウラ・アントネッリの青い欲望』(原題『Mio Dio, come sono caduta in basso!』(神よ、私はどのように堕落したのか!)、監督:ルイジ・コメンチーニ。ラウラ・アントネッリ、ミケーレ・アブルッツォ、ウーゴ・パグリアイ、アルベルト・リオネッロ、ローズマリー・デクスター、ジャン・ロシュフォール、カリン・シューベルト、ミケーレ・プラシード。1974、伊Dean Film)。典型的なイタリア艶笑喜劇と言ってよいのかな? 大袈裟で類型的な演技や、ずっとエロい空気を漂わせつつじわじわじらしてずばりそのものはなかなか見せない手法(いや手法なのか?)、冗長とも思える展開なども、なぜだか心地よく眺めてしまう。フランス人男爵の「処女はごめんこうむる!」とか、主人公(ラウラ・アントネッリ)の夫が終盤で「近親相姦だ!」と喜ぶところとか、あるいはその夫の浮気が発覚した際の写真を使ったカットとか、ちょっとした笑いもうれしい。修道院育ちという設定の主人公が電話自体を知らないというちょっとしたところも、主人公の人物造形や全体に漂う呑気な雰囲気の醸成に効いていたのではないかと思った。それにしてもやはり性愛に対する視線が(性愛に戸惑う人への視線も含めて)大らかでよい→菊水堂ポテトチップス、即席ソース焼きそば(ハム、ピーマン、どんこ、ニンニク、生姜、パプリカ、ターメリック、赤唐辛子)→DBKのタオルウォーマー、輸入元が修理に応じてくれるとのこと(ただし治らない可能性もあり)。明日川崎の修理センターに持ち込むことにしたので、道順確認など→鯖塩焼き、冷やしぶっかけそうめん(大根おろし、刻み生姜、刻み葱)、納豆→だらだらとTV見たのち、午前1時頃就寝。
7月20日(水) 朝6時半起床。白湯、マヌカハニー→豚汁、ご飯(梅干し、錦松梅、江戸むらさき)、温泉卵(ちりめんじゃこ)、海苔→老父と昼食および買い物付き添い(〈湧水〉にて納豆山かけ、〈サミット〉〈オリンピック〉)→高井戸ICから首都高に乗り、川崎の東扇島までDBKのタオルウォーマーを修理に預けに。高井戸ICから乗るのは初めてなので合流失敗(止まってしまった)ものの、あとはスイスイ。しかし最後の最後の川崎浮島JCTでまっすぐ(横浜方面)に行けばいいものを、「川崎」という表示につられ川崎線に乗ってしまう。こりゃ間違えたと最初の殿町ICで降り、Uターンして最初に目についたコンビニエンスストアの駐車場に停まって道を確認したら、その交差点を左折して次の夜光交差点を左折すれば目的地に辿り着くことが判明して安堵。あとは間違うことなく、目的地である東洋運輸倉庫に到着→DBKの輸入元の人にブツを渡し、帰途は調べた通り「川崎マリエン東側」「塩浜」「大鳥居」と辿って環八に入り、無事帰宅。が、最後の最後に家の前の一通を逆走するクルマがいて、これはさすがに怒鳴りつけてやった。不愉快だ→シャワー→『見合い旅行』(原作:吉屋信子、監督:枝川弘。川上康子、見明凡太朗、北原義郎、山本富士子、英百合子、矢島ひろ子、平井岐代子、酒井三郎、坂口美沙子、高堂国典、宮島健一、小杉義男、金沢義彦、町田博子、春本富士夫。1955、大映)。偶然出会って惹かれ合った男女が上司の仕組んだ見合いで再開して、しかし思わぬ障害が生じて…… という物語は面白いのだが、本作では芳子(坂口美沙子)の存在が、なんというか質的にこの映画の調和を悪い方向に崩してしまっているような気がした。それがこの役者の芝居に起因するのか、演出が間違っているのか、その辺はよくわからないが、少し暗さが勝ってしまっているというか、単純に要素の量的な問題ではなく質的な問題という気がしたのだが、しかしよくわからない。あと大事なところをはっきり撮らない(観客の想像に委ねがちな)手法も、本作では最終的にはもやもやが残るものだった。その辺が気になって、終幕に向けて皆の気持ちが解れていく様にあまり感動を覚えなかった。社長令嬢の百合子(川上康子)はの改心は少し心に響いたかな→チッチャロン・バラット、菊水堂ポテトチップス、サラダ(キャベツ、ピーマン、オクラ、トマト)、鶏手羽と大根とニンジンのスープかけご飯(うずらの卵)→『大巨獣ガッパ』(監督:野口晴康。山本陽子、藤竜也、和田浩治、小高雄二、大谷木洋子、桂小かん、川地民夫、山田禅二、雪丘恵介、加原武門、町田政則、平塚ひろみ、花柳萬利助、マイク・ダニーン、ルイジ・フィダンザー、ポール・シューマン。1967、日活)。美樹克彦の歌う主題歌はなかなかカッコいいが、全体的位はショボい以上の感想が出てこない。弱音を吐く山本陽子に川地民夫が吐く「東京へ帰って玉葱でも刻んでろ」というセリフが可笑しく、また親子ガッパの再会場面はなにかよくわからない感情をかき立てられるが、南の島の住民がみな明らかに日本人だったり特設の稚拙さ(ミニチュア丸出しのガッパによる破壊や自衛隊の反撃の場面が7分近く続いたりする)についてはまああれとして、功名心だけで子ガッパを連れ去ったことで島の人たちと日本の熱海、河口湖、日光、東京寸前の辺りの建物が破壊された(ということは人も死んでいる)のに、親子ガッパが帰っていくのを清々しく見ている関係者一同、という無責任さは、今となっては暖かい目で観るべきなのだろうが、どうもそういう気持ちにはならなかった。それでいて、ガッパの造形以外、稚拙故の魅力がどこにあるのかもよくわからなかった→夜0時就寝。
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