2022年09月20日

9月まとめ(11〜20日)


お粥の茶漬け、松本清張/三村晴彦『天城越え』、池広一夫『おんな極悪帖』の安田道代、義父墓参と村山うどん、ゴダール自殺幇助にて死去、『乙女のワルツ』、新宿逍遥(お多幸、CON TON TON、Second Line)。

9月11日(日) 気がついたら一階の板の間で寝ていた。終日強烈な宿酔。何度かお粥の茶漬けというなんだかわからないものを啜り、あとは終日横臥。深夜ようやく空腹を覚え、また椎間板ヘルニアのクスリを飲むために、即席グリーンカレーヌードル(ニンニク入り炒り卵)→シャワー→ネットで〈時谷堂百貨〉という帽子店を見つけ、おとついフェルトハット用のブラシを注文したのだが、最近買ったフェルトハットと同じKNOX社の帆布ポータブルハットを欲しいなと思って逡巡していたのを注文。そしたら私の注文で完売になった。ついていた→『KURAGE TRAVOLTA 2022』の映像配信を観て復習してから、朝8時過ぎ就寝。
9月12日(月) 朝10時起床→わかめとじゃがいものおつけ、卵粥、錦松梅、江戸むらさき→『天城越え』(原作:松本清張、監督:三村晴彦。渡瀬恒彦、榎本ちえ子、平幹二朗、加藤剛、金子研三、中野誠也、伊藤洋一、坂上二郎、柄本明、北林谷栄、吉行和子、小倉一郎、佐藤允、山谷初男、伊藤克信、車だん吉、石橋蓮司、樹木希林、汐路章、石井富子、田中裕子。1983、松竹)。40年前の殺人事件を、事件当時に担当した刑事が老いたあとも淡々と置い続け、真犯人を追い詰める姿が、静かな狂気に満ちているのがとても印象的。渡瀬恒彦が老後も演じていて、老人になり切っていない(なり切ってはいるのだが、実年齢なりの体力を隠し切れていない)点は残念だが、そこを除けば映画化は成功と言ってもいいのではないか。田中裕子がとても鮮やかで、石橋蓮司と樹木希林の夫婦喧嘩や北林谷栄の耳が遠いふりなどのちょっとクスッと笑わせるようなところもくどくなくてよい塩梅。渡瀬恒彦と田中裕子と主人公の少年時代の伊藤洋一をほどよく引き立てるような役者たちの抑えた芝居もまたよい塩梅。広く話題になる要素には乏しいかもしれないが、佳作と思った→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、セグロイワシ唐揚げ、ぶっかけそうめん(うずらの卵×3、刻み海苔)、ビール中瓶×1→シャワー→『初恋の悪魔』は、要素多すぎという結論に達しそうだ。警察署長の裏の顔と(息子が真犯人だったらわかりやす過ぎてがっかりだ)、二重人格を材料にした三角関係との、どちらかでよかったと思う。その上で毎回単発の謎解きが繰り広げられるのがちょうどよいと思ったが、果たして。しかしその一方で、若い女刑事と警察総務との恋の行方は手付かずのままになってしまっている。題名からすると、そっちも重要ではなかろうか(警察署長に対して「初恋のようなものだ」という台詞は、まああったか)→いちじくハム巻き、セグロイワシ唐揚げ、小松菜とトマトと卵の炒め、鮭とぶなしめじと椎茸のホイルバター焼き(茗荷)、ご飯半膳、ビール中瓶×1→食休みに小一時間横臥→『おんな極悪帖』(原作:谷崎潤一郎『恐怖時代』、監督:池広一夫。岸田森、安田道代、芦屋小雁、小山明子、田村正和、寺島雄作、遠藤辰雄、佐藤慶、小松方正、丘夏子、早川雄三、伊達岳志。1970、大映)。「のぞきからくり」のモチーフがあまり活きていないような気もしたが、しかし安田道代と小山明子の底なしの色香と残酷な悪女ぶりだけで満足。特に安田道代は、齢二十四にしてあの底なしの蠱惑的な魅力はなんなのだろうか(ちなみにWikipediaによれば、「もともとは安田道代をかわいがっていた若山富三郎が安田の為に企画していたものであった」とのことだが、実際に恋仲でもあった)。岸田森、遠藤辰雄、佐藤慶、小松方正、芦屋小雁だから太刀打ちできたのだろう、その配役の妙も印象に残る。田村正和は、下手に芝居しないような芝居であるところが却ってよかったが、もう少し得体の知れない凄みがあると、いろいろな悪のコントラストが鮮やかになったような気がしないでもない→午前2時頃就寝。
9月13日(火) 朝9時起床→わかめとじゃがいものおつけ、卵かけご飯、海苔→クルマにて、まずは武蔵村山を目指し、〈はらだ製麺〉でO形実家に進呈するうどんと天ぷらを購入。ごぼう天切れてたのは残念→O形お父さんの墓参してからO形実家へ。村山うどんを啜りながら、お義父さんの話題など。お義母さんもお元気そうでなにより。天ぷら(インゲン、かき揚げ、ニンジン、茄子)、村山うどん、ビールひとくち→午後2時過ぎにおいとまし、近くの商店街の魚屋で買い物して帰宅。結局往復とも(違う道程ではあるが)西荻窪を経由→シャワー→セグロイワシ唐揚げ、いちじくハム巻き、コーンビーフ、イカ刺身、イカゲソホイル焼き、イカワタホイル焼き、白魚卵椀盛、天ぷら(ニンジン、インゲン、かき揚げ)、村山うどん、ビール中瓶×1、御酒×2→食後、いつものように横になったらそのまま就寝、のパターン→深夜起床→午前4時就寝。
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ジャン=リュック・ゴダールの訃報。スイスでは合法だという「自殺幇助」で、いわば自死を選んだそうだ。

なんというか、まあ、私自身主に若年期にはジャン=リュック・ゴダールの映画を大いに楽しんできたわけで、そうした映画体験を思い起こすとゴダールが自分で死に方を選んだことに異議もへったくれもないけれども、私が好きな、あるいは知己を得た芸術家や芸術家でない方々の中にもゴダールに心酔したり影響を受けた人は少なからずいるのではないかと推察するので、うっかりゴダールの死に方を模倣するような人が出なければよいと思う。そういうおっちょこちょいがいないとも限らないので、余計なお世話ではあるが。

最初にゴダール作品を観たのは、ご多分に漏れず『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』の二本立て、高校に入ったばかりでまだ映画をそんなに観ていなかったので、『勝手にしやがれ』の映画史的価値はほぼまったくわからなかったが、『気狂いピエロ』の終幕で主人公フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)が自分の顔にダイナマイトを巻きつけて導火線に火を点けた直後、「くそっ、こんなバカな死が」と鋭くつぶやいて慌てて火を消そうとする場面で、どういうわけか大笑いした。

どういうわけだったかちゃんと整理したり言葉にしたりしないまま今日まで生きてきたが、笑った理由は自分なりに今でも理解している。そしてその最初の出会い以来、ゴダールは私にとっては笑いの人≠セったのだが、その捉え方が妥当なのかどうかは知らない。

妥当なのかどうかは知らないが、ゴダールの映画に笑い≠見てそののち、私は大学の文学部のフランス文学科というところに籍を置き、卒業論文のテーマとして「フランス文学における笑い」というのを考えラブレー辺りからロラン・トポール辺りまでを逍遥してみようと思ったもののあっという間に挫折して大学というところにいたことすら有耶無耶にしたまま今日に至るので、多少はゴダールに影響された今日と言ってもよいのかもしれない。

そんなことを思い出したり考えたりした。

9月14日(水) 朝8時起床。白湯、マヌカハニー→ハムエッグ乗せトースト→老父買い物代行。今回も近くの〈サミット〉で概ね揃ったが、「東京たくあん」だけ置いてなく、仕方なく三鷹市役所前にも回り、時間かかってしまった。ぎりぎり昼前にお届け→昨夜調べた道程(老父宅から人見街道に出て三鷹台駅、立教女学院の辺りを抜け、松庵小前で五日市街道へ右折)で西荻窪。踏切はあるが昼間ならすぐに開くし、平和なよい道だった。〈フランクフルト〉で買い物、昼はゴダール追悼で家で飲むことにしてパン類も購入。西荻では昼食取らないことにした。あと〈フランクフルト〉の並びのワイン屋で赤白一本ずつ購入→セブン・イレブンにて〈タワーレコード〉に注文していたCD受け取り帰宅→シャワー→『気狂いピエロ』(原題『Pierrot Le Fou』、原作:ライオネル・ホワイト『Obsession』、監督:ジャン=リュック・ゴダール。ジャン=ポール・ベルモンド、グラッツィラ・ガルヴァーニ 、ジョルジュ・スタケ、アンナ・カリーナ、サミュエル・フラー、ロジェ・デュトワ、ハンス・メイヤー、ラズロ・サボ、アイシャ・アバディル、ジャン=ピエール・レオ、レイモン・デヴォス、ダーク・サンダース。1965、仏Société Nouvelle de Cinématographie)。追悼ということで観たが、改めて、映像(編集)と音のリズムのよさを再認識した。何度も夢中になって観てしまう一番の理由は、台詞の端々の思想性とか問題提起などよりも、そういうところにあるのではなかろうか。偶然にでも(実際は知らないが)そういう表現に成功したからこそ、いつ観ても色褪せた感じがしないのではないかと思う→『ゴダールの探偵』(原題『Détective』、監督:ジャン=リュック・ゴダール。ナタリー・バイ、オーレル・ドアザン、ジャン=ピエール・レオ、ローラン・テルズィエフ、クロード・ブラッスール、ジョニー・アリディ、アラン・キュニー、ステファン・フェラーラ、ジュリー・デルピー、ウジェーヌ・ベルチェ、アンヌ・ジゼル・グラス。1985、仏Acteurs Auteurs Associés)。前回観たのは二年前で、そのときに「どの場面もストライクから微妙にずれてて間が抜けてて可笑しいのに何故かカッコよい味わい」と感想を書いたが、今回もまあそんな感じ。ゴダールの笑い≠フ感覚がたっぷり味わえたのが封切り当時はうれしかったが、今となっては(比べても仕方がないが『気狂いピエロ』と比べると)狙い過ぎという印象もある。ゴダールが何を撮りたかったのか、掘り下げればいろいろ書けそうだが(当たり前か)、そうしたくならない何かがある作品でもあるのは、その「狙い過ぎ」と感じる部分が理由かなとも思う→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、キャベツと茗荷の塩もみ、ラタトゥイユ風(トマト、茄子、ピーマン、ロースハム)、チキンローフ、コンビーフ、ホットドッグ二種、ビール中瓶×1、赤葡萄酒1/2、白葡萄種1/2→就寝時間不明→深夜起床し、伊藤咲子『乙女のワルツ』の譜面作成など→朝方就寝。
9月15日(木) 朝10時起床。白湯、マヌカハニー→終日特に何もせず。『乙女のワルツ』のギターをいろいろ検討してみたくらい→ぶっかけそうめん(おろし生姜、うずらの卵×3)→『メイド・イン・U.S.A.』(原題『Made in U.S.A.』、原作:リチャード・スターク『悪党パーカー/死者の遺産』(原題 The Jugger)、監督:ジャン=リュック・ゴダール。ラズロ・サボ、ジャン=ピエール・レオ、アンナ・カリーナ、エルネスト・メンジェル、イヴ・アフォンソ、小坂恭子、マルク・デュディクール、レモ・フォルラニ、マリアンヌ・フェイスフル、アレクシス・ポリアコフ、ロジェ・シピオン、ジャン=リュック・ゴダール(声)、ジャン=クロード・ブイヨン、シルヴァン・ゴーデ、ジャン=ピエール・ビエス、フィリップ・ラブロ。1966、仏Lux Compagnie Cinématographique de France)。『気狂いピエロ』の終幕の音楽から始まり、絵造りなど表面的にも『気狂いピエロ』に似ているが、旅(大きな移動)の要素がない所為もあるのか、「映像(編集)と音のリズムのよさ」を本作に感じることはなかった。笑いの要素も多数散りばめられてはいるものの、政治というものは結論が出ないものである≠ニ言ったような主張と、そういう政治がもたらす混乱はアメリカが作ったものである≠ニ言ったような主張のほうが印象に残るが、しかしほんとうにそういう主張が本作にあるのかはよくわからないし、特に後者は題名に引きずられた感想のようにも思う。後者については、もっと表面的なイメージの引用に過ぎないのかもしれない。しかし「WALT DESNEY」の場面には笑った→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、ウィンナーソーセージ、チキンローフ、コンビーフ、ひじき煮付け(ニンジン、レンコン、油揚)、トマト、いちじく生ハム巻き、しじみ汁、ご飯(しらすぼし、うずら卵)、ビール中瓶×1、御酒×3→食後即就寝。
9月16日(金) 朝7時半起床。白湯、マヌカハニー→しじみ汁、卵かけご飯(しらすぼし)、海苔→『踊り子行状記』(原作:直木三十五、監督:安田公義。河野秋武、黒川弥太郎、山本富士子、富田仲次郎、伊達三郎、市川雷蔵、勝新太郎、市川小太夫、長谷川裕見子、江島みどり、武智豊子。1955、大映)。前回(2021年4月)に観たときの「もう勝新、雷蔵、山本富士子、長谷川裕見子ってだけで満足。話の筋とか演出も大事だが、山本富士子と長谷川裕見子のそれぞれ味わいの違う妖艶さだけでも記憶に残る」という感想は変わらないが、今回は探偵もの(捜査ものといったほうがよいかな)としての面白さも味わった。それにしても、終幕の、旅立ちに恋敵である長谷川裕見子が駆けつけた直後の雷蔵・富士子の笑顔には、「日本一!」と声をかけたくなる→菊水堂ポテトチップス、盛香珍蒜香青豆、もりそば、ビールロング缶×2→シャワー→夕方原宿に出て、〈オプティシアン・ロイド〉にて調整とレンズ交換に出した跳ね上げ式眼鏡受け取り。セルロイド・フレームの寿命は三、四年くらいだそうで、そう考えるとレンズ入れ替えたのは無駄遣いだったかな。まあ気に入っているフレームだから、大事に長く使おう→バスで伊勢丹前まで移動(〈伊勢丹〉でお手洗い借りようとしたら休みで憮然)→結局〈伊勢丹会館〉でお手洗い借り、それから〈紀伊國屋〉で知的風ハット監修『サメ映画ビジュアル大全』を購入→〈お多幸〉にてバンド会議。TYOの方々とT後とで、年明けにライブをやろうということに。T後のほうはTres Lindas Cubanasのライブが行える機会を探していたとのこと。刺身、天ぷら、その他酒肴、おでん、ビール中瓶×2、御酒×6→〈CON TON TON〉に移動。しかし天神さんも笠野さんもおられず残念→さらに〈Second Line〉→終電なくしタクシーで帰宅。その旨連絡のメールを打っていたら、変な宗教の勧誘が来た。
9月17日(土) 宿酔で終日横臥。日中はしじみ汁ぶっかけご飯(生卵)と即席ラーメン1/3のみ→夜は鶏もも肉とぶなしめじの炒め(栗)、つるむらさきおしたし、トマトとピーマンと生ハムのサラダ、茄子のおつけ、ご飯半膳、納豆→先日購入した和田直のCD四枚(Coco's Blues、Blues World、Blues-Blues-Blues、Four Scenes)をようやく聴く。派手さとか、明確な特徴はないように思うが、聴き込むとしみじみよくなってくるようなよさを感じた→シャワー→『黒の奔流』(原作:松本清張『種族同盟』、監督:渡辺祐介。谷口香、菅井きん、金子亜子、山崎努、松坂慶子、松村達雄、玉川伊佐男、岡田茉莉子、佐藤慶、穂積隆信、森本澄子、小坂清子、福田妙子、荒砂ユキ、中村伸郎。1972、松竹)。原作では冒頭で殺されるのは女性(バーのホステス)で容疑者は旅館の番頭だが、映画では男女を入れ替え。したがってその後の展開(人間関係)や結末などは原作と異なる点が多いようだが、男の弱さやバカさ加減と女の強さやしたたかさを対比させる物語は、松本清張ならではと思ったが、果たして。山崎努がめちゃくちゃいい男なのに、ふっとダメな男になるところに、芝居の巧みさを見た。岡田茉莉子ももちろん素晴らしいが、山崎努の愛人役の谷口香の芝居がまた素晴らしかった→コンビーフ、ガーリックソーセージ、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1/2→午前4時就寝。
9月18日(日) 午前11時起床。白湯、マヌカハニー→しばらく医療用コルセットをサボっていたが、右足の症状悪化のペースが詰まってきたので、本日より再開。せめて日中だけでも継続して着けるようにしたい→トマトとピーマンと生ハムのサラダ、鶏もも肉とぶなしめじの炒め(栗)、茄子のおつけ、卵かけご飯、錦松梅、山菜山椒、海苔→『パイナップル部隊』(原作:ロバート・本郷「ヘイ・パイナップル」、監督:内川清一郎。ジェリー・イトウ、ミッキー安川、ビル・ロス、杉浦直樹、マイク・佐野、青山宏、ロバート・本郷、大川二三夫、月原一夫、山下洵一郎、春川ますみ、十朱幸代、伴淳三郎、桑野みゆき、小坂一也、沢村貞子、野沢英一、高橋とよ、山田五十鈴、石倉英彦。1959、松竹)。朝鮮戦争が1953年にいったん休戦となっているから、撮影時(1959年)にはなにか朝鮮戦争に対する深い考察なり複数の見方なりが本作に盛り込まれても不思議ではなく、その点は残念ではあるが、「パイナップル部隊」たちの青春群像を描いたという点では、ここで描かれた青春群像(と日本に住む日本人との人間模様)がのちのち批評や修正の対象になることができるという点も含めて、語り継ぐべき作品ではあると思う。戦死したオキ(マイク・佐野)が日本で触れ合った母娘(山田五十鈴、桑野みゆき)には感動させられた。主役(と言っていいと思うが)の杉浦直樹がそれほど精彩を放っていないように思える点はあるが、ミッキー安川が意外な?好演→菊水堂ポテトチップス、胡麻そうめん(おろし生姜、うずらの卵×2)、ビール中瓶×1→『笑点』に三遊亭白鳥出演。大きな混乱?はなかったが、出演自体がひとつの事件か(白鳥がお茶の間に受け入れられるきっかけになったら、という仮定も含めて)→NHK BSプレミアム『Amazing Voice 驚異の歌声』の再放送の、「ブルガリアンヴォイス」と「ハワイ IZ 伝説の巨人」観る(共に2011年)。どちらもそのものの映像と音楽は素晴らしく、堪能したし、その部分の編集にも文句はないが、ナヴィゲーターの藤井フミヤの素人っぷりの驚く(元ちとせのそれぞれの音楽に対する態度には納得)。所詮、音楽家ではなく藝能人なのだろう。こういう言い方も差別的なのは承知しているが、要は門外漢が知った風に語るのではない、というのが正直な感想。でも番組全体は面白かったし、繰り返し観たいとは思う(藤井フミヤが出てくるところは飛ばすか編集で消すかして)→とうもろこしかき揚げ、レンコン天ぷら、コンビーフ、茄子のおつけ、栗ご飯、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1/2→シャワー→『デューン/砂の惑星』(原題『Dune』、原作:フランク・ハーバート『デューン砂の惑星』、監督:デイヴィッド・リンチ。ヴァージニア・マドセン、ホセ・ファーラー、シアン・フィリップス、カイル・マクラクラン、フレディ・ジョーンズ、パトリック・スチュワート、ディーン・ストックウェル、リチャード・ジョーダン、ユルゲン・プロホノフ、フランチェスカ・アニス、ブラッド・ドゥーリフ、ケネス・マクミラン、ジャック・ナンス、スティング、ポール・L・スミス、マックス・フォン・シドー、リンダ・ハント、エヴェレット・マッギル、ショーン・ヤング、アリシア・ウィット。1984、米Universal Pictures)。聞きしに勝る失敗作にして凡作だったが、デイヴィッド・リンチがデビュー直後(『エレファントマン』の次作)である意味請け仕事だったことと、原作の複雑さを考えれば、まあよくできたSF大作くらいに考えておいたほうがよいかもしれない。カイル・マクラクランのデビュー作とのことだが、まだ美少年ぶりが際立つ程度で、後年の独自の個性は見られなかったと思う。一方スティングはすでに変な個性を発揮していて印象に残るが、それでもこの個性だけで映画俳優としてやっていけたとまでは思えなかった(裸で出てくるところは笑ったが)。カイル・マクラクランの母親(レディ・ジェシカ)役のフランチェスカ・アニスは、なにか底知れない美しさが印象に残った。全体的には、『里見八犬伝』的なアメリカの角川映画という趣と思ったが、そう捉えると真田広之、千葉真一、志穂美悦子に当たるアクション俳優が出ていないのは残念。しかし1時間40分位後くらいの終盤になってからの、砂漠での戦いの場面は面白くはあった→『8 1/2』(原題『Otto e mezzo』、監督:フェデリコ・フェリーニ。マルチェロ・マストロヤンニ、ミーノ・ドーロ、グイド・アルベルティ、ジャン・ルージュール、クラウディア・カルディナーレ、マリオ・ピス、バーバラ・スティール、サンドラ・ミロ、ジュデッタ・リッソーネ、アンニーバレ・ニンキ、アヌーク・エーメ、ティト・マシーニ、ブルーノ・アゴスティーニ、イアン・ダラス、エドラ・ゲイル、ロッセーラ・ファルク。1963、伊Cineriz)。もはや新たな発見はないが、同じところで同じように笑い、感心し、そして終幕で感動して泣く。死ぬまで同じだろう→チッチャロン・バラット、金宮酎ハイ×2→午前4時就寝。
9月19日(月) 昼過ぎ起床。白湯、マヌカハニー→茄子のおつけ、ドライカレー(栗ご飯ベース。ニンジン、ピーマン、ニンニク、生姜)→冷蔵庫掃除→連絡業務(TYOと茅ヶ崎関連)→『アメリカン・グラフィティ』(原題『American Graffiti』、監督:ジョージ・ルーカス。チャールズ・マーティン・スミス、リチャード・ドレイファス、ロン・ハワード、シンディ・ウィリアムズ、ポール・ル・マット、ジャナ・ベラン、スザンヌ・ソマーズ、マッケンジー・フィリップス、キャスリーン・クインラン、ラリー・マッゴバーン、ケイ・アン・ケンパー、ハリソン・フォード、キャンディ・クラーク、デビー・セリズ、リン・マリー・スチュワート、クリス・プレイ、ボー・ホプキンス、マヌエル・パディージャ・ジュニア、ボー・ジェントリー、スコット・ビーチ、ウルフマン・ジャック。1973、米Universal Pictures)。ちゃんと観るのは何年ぶりか。田舎町の一夜、少年少女たちがクルマで町をぶらぶらしているという設定のみで、これだけ胸に迫る物語を構築するのは大したものだと、改めて思った。特にテリー(チャールズ・マーティン・スミス)に対してデビー(キャンディ・クラーク)が最後に見せる優しさや、町から出ていくスティーブ(ロン・ハワード)とためらっているカート(リチャード・ドレイファス)の立場が最後に逆転するところなどがよいと思うが、テリーだけクルマを持っていない(ベスパに乗っている)という設定も全体を通してじわじわ効いていると思った。最終幕の、ジョン、テリー、スティーヴ、カートそれぞれのその後がすーっと語られるところがまた涙を誘うが、そのときに流れるビーチボーイズ『All Summer Long』が物語の年(1962年)の二年後のヒット曲であるのが彼らのその後に触れている場面だから、という視点は初めて知った。ハリソン・フォードの出世作でもあるのだが、最後がパッとしなかったのが(映画としてはこの設定でよいのだろうが)まあ残念ではある→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、わかめの吸い物(新生姜)、ドライカレー(栗ご飯ベース。ニンジン、ピーマン、ニンニク、生姜)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×3→食後しばし就寝→シャワー→『内海の輪』(原作:松本清張、監督:斎藤耕一。高原駿雄、高木信夫、三國連太郎、岩下志麻、富永美沙子、中尾彬、加藤嘉、北城真記子、入川保則、水上竜子、赤座美代子、滝沢修、夏八木勲。1971、松竹)。サスペンスよりメロドラマに重点がある印象。それなのに、不倫同士のふたりのうちの中尾彬にまったくといって魅力がない。その人選さえなんとかしていれば、メロドラマとしてまあ観られないものではなかったと思うのだが、果たして。三國連太郎がしょぼくれて性の力も衰えた年寄りという設定ながら、中尾彬のほうがギラギラした生命力に乏しい感じがしてしまうのも、「まったくといって魅力がない」と感じる所以か。一方で観光映画としては、行ったことのない土地をいろいろ映してくれるのは楽しくはある。岩下志麻はこういう、何を考えているのかわからない、というか、何も考えていなさそうな役が似合うのではないかと思うのだが、本作でも蓬萊峡をわあーと感情のない叫び声を上げながら滑り落ちていくところが、そういう岩下志麻ならではの可笑しさに満ちていた→『球形の荒野』(原作:松本清張、監督:貞永方久。藤岡琢也、島田陽子、竹脇無我、乙羽信子、岡田英次、山形勲、芦田伸介、笠智衆、大滝秀治。1975、松竹)。たまたま訪れた寺の芳名帳に死んだはずの父と同じ筆跡の名前があった……という発端と、その父が第二次世界大戦を秘密裏に集結に導く役割を果たすために死んだことになったという背景は面白いが、それはあくまでも原作の面白さであって、ではそれを活かしきれているかというとやや疑問。原作を読んでみないとなんとも言えないが、映画では発端は取ってつけたようだし背景の深追いもない(作中の現在で過去の関係者たちがいろいろ仄めかすだけ)。なので原作は面白いんだろうなあと想像しながら観ていくしかないのだが、それでも退屈せずに観続けさせるのが不思議なものの、父が生きているらしい、という一点が引っ張ってくれているのだろう。実際、生きている父(芦田伸介)が現れてからも、真実を語ることができないという理由でやはりいろいろ仄めかされるだけなので、最終的には父娘の物語という側面だけに矮小化されてしまったような印象となった。当時22歳の島田陽子の美しさ、可愛らしさが救いか→カップヌードル、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→朝6時半就寝。
9月20日(火) 昼過ぎ起床。白湯、マヌカハニー→わかめの吸い物、卵かけご飯、海苔、錦松梅、江戸むらさき→『カルメンという名の女』(原題『Prénom Carmen』、監督:ジャン=リュック・ゴダール。ローラン・ダンガレック、ヴァレリー・ドレヴィル、ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・モッキー、ミッシェル・ストロース、ジャック・プラット、マルーシュカ・デートメルス、クリストフ・オダン、ミリアム・ルーセル、ジャック・ボナフェ、ジャック・ヴィルレ。1983、仏Parafrance Films)。メリメ『カルメン』を原作としている?という説明も読んだし、そう言われればそうだなとも思うが、私がこの映画を理解するには、手取り足取りの解説が必要。とはいえ、音楽と音響と台詞、色彩、表面を流れる物語、それらが醸し出すリズムの心地よさと美しさにはゴダールらしさを楽しませてもらった。多分封切り時に観たときも、それ以上でもそれ以下でもなかったように思うし(ただし明確には記憶していない)、数十年ぶりに観た感想もだいたいそのようなものであった。ただし、「音楽と音響と台詞、色彩、表面を流れる物語、それらが醸し出すリズムの心地よさと美しさ」に惑わされて、単純な物語を見失い、難解な映画と思い込んでしまっているだけかもしれない→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・ブラット、ビール中瓶×1→晩の支度→シャワー→『女は女である』(原題『Une femme est une femme』、監督:ジャン=リュック・ゴダール。ジャン=クロード・ブリアリ、アンナ・カリーナ、ジャン=ポール・ベルモンド、エルネスト・メンツェル、ジャンヌ・モロー。1961、Unidex)。瑞々しいまでの映画への愛情と、切ないくらいのアンナ・カリーナへの愛情が誰の目にも見て取れるような、可愛らしい映画と思う。本作に携わったわけでもないのに観ていて恥ずかしくなるような場面も少なくないが、そういうところの垢抜けてないところがまた可愛らしい。色彩の巧みさは、本作(長編三作め)でいったんの完成を見ているのだなと思った→ポテトサラダ(ロースハム、ニンジン、玉葱)、鯖一夜干しのトマトソテー(ピーマン、生姜、ニンニク)、わかめの吸い物、ご飯半膳、納豆、ビール中瓶×1、ホッピー×3→夜9時就寝。
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