2023年02月10日
2月まとめ(1〜10日)
木下恵介『楢山節考』、『合田佐和子展 帰る途もつもりもない』於〈三鷹市美術ギャラリー〉、ジュゼッペ・トルナトーレ『モリコーネ』、うさぎすき焼き、フロリアン・ゼレール『ファーザー』(アンソニー・ホプキンス、オリヴィア・コールマン)。
2月1日(水) 昼過ぎ起床→大根と油揚のおつけ、卵かけご飯(錦松梅、胡麻油)→懸案だった(というほどのことではないが)布団圧縮袋と三階廊下用の本棚を調査→風呂→『はじまりのみち』(監督:原恵一。加瀬亮、大杉漣、田中裕子、ユースケ・サンタマリア、斉木しげる、藤村聖子、濱田岳、濱田マリ、光石研、松岡茉優、相楽樹、宮崎あおい、山下リオ。2013、松竹)。木下恵介が第二次世界大戦末期に『陸軍』を撮り陸軍省の不興を買い映画が撮れなくなり松竹に辞職願を出したのち、母親を疎開させるためにリヤカーを引っ張って峠越えをする話を基にした作品だが、『陸軍』の長い引用をはじめ木下恵介作品の引用がかなりの割合を占め、そのため本編の映画的感興が薄味に感じられてしまった。途中と、あと最後の引用部分で泣かされはしたが、田中裕子の芝居を除けばその涙のほとんどは引用によるものだと思う。それを計算した上での引用であれば成功作ということになるのだろうが、やはり本編の弱さ(濱田岳がいかにもうまいでしょという芝居をしている点を除けば、悪くはないのだが)になんだか複雑な気持ちになる一作だった→菊水堂ポテトチップス、ヤークヴルスト、セグロイワシ酢漬け、鶏モツジンギス(こんにゃく、ニンジン追加)、わかめと油揚のおつけ、ご飯半膳、佃煮(きゃらぶき、生あみ、生海苔)、ビール中瓶×2→夜9時過ぎ就寝。
2月2日(木) 深夜起床→『楢山節考』(原作:深沢七郎、監督:木下恵介。吉田兵次、東野英治郎、田中絹代、市川団子、高橋貞二、鬼笑介、小笠原慶子、望月優子、宮口精二、伊藤雄之助、三津田健、織田政雄、小林十九二、西村晃、末永功、本橋和子。1958、松竹)。冒頭「東西、東西」と口上を始める黒子が異様な雰囲気を醸成するが、映画本編もその口上に続いて芝居仕立てで作られているものの、家のセコいTV画面で観る限りでは、作り物≠ニいう感触をより強調するような演出に感じた。そのため、姥捨という哀しい伝統の哀しさや悲惨さを真正面から受け取らせず対照化しているような印象−−言ってしまえば田中絹代や高橋貞二らの芝居から伝わってくるはずの真に迫った日本の寒村の悲惨さを薄めてしまうような効果があるのでははないかと思ったが、果たして。映像芸術として最高峰と言っていいレベルということは間違いないと思うし、「悲惨さを薄めてしまうような効果」については鈴木清順『オペレッタ狸御殿』を通過してしまった故の感想になるのかもしれない。「歯が三十三本」については、物語で語られているようにお山に行く歳になっても歯が丈夫=色が細くならないのが恥ずかしい、という意味合いのほかに、なにか別の暗喩があるのかなとも思ったが、これは原作を読まないとわからないだろう(恥ずかしながら未読)→鶏モツジンギス、金宮お湯割×4→朝方就寝→昼過ぎ起床。白湯、マヌカハニー→わかめと油揚のおつけ、コンビーフ乗せ焼飯→『プルートで朝食を』(原題『Breakfast on Pluto』、原作:パトリック・マッケーブ、監督;ニール・ジョーダン。キリアン・マーフィー、エヴァ・バーシッスル、リーアム・ニーソン、ルース・マッケイブ、シーマス・ライリー、ギャヴィン・フライデー、ルース・ネッガ、ローレンス・キンラン、ブレンダン・グリーソン、ブライアン・フェリー、スティーヴン・レイ、イアン・ハート、スティーヴン・ウォディントン。2006、愛英Pathé Pictures Internationa)。北アイルランド問題を背景に、今でいう性同一性障害の青年を主人公に、人生に行き詰まりつつある人たちを温かい視線で描いたドラマ、と、とりあえずまとめておくが、そうした問題≠フいずれかを殊更に描いたりというわけではなく、どこかあちこちにあるであろう人たちの生きる姿を描いた、という受け取り方が最も相応しいのかなと思った。性同一性障害の青年が親友の女性が産んだ子供の育児に協力するという終幕の展開は、どことなく橋本治「愛の百万弗」(『愛の帆掛船』所収)を思い出させる→菊水堂ポテトチップス、ポトフもどき(フランクフルト、じゃがいも、玉葱)、鶏モツジンギス、わかめと油揚のおつけ、卵とじご飯→いつの間にか就寝。
2月3日(金) 朝10時起床。白湯、マヌカハニー→風呂→磯部焼き→昼過ぎ三鷹へ。まずは〈グラバー亭〉にて皿うどん、餃子、ビール中瓶×1/2→続いて〈三鷹市美術ギャラリー〉にて『合田佐和子展 帰る途もつもりもない』を見物。オブジェ、写真を元にした油絵、映画スターやロックスターの肖像、エジプト訪問とそれ以降のオートマティズム、レンズ効果などなど、手法の変遷とそのきっかけがきちんと整理された、よい回顧展だった。そして作品はもちろん、その「きっかけ」に天才の天才たる所以があるのではないかと思った。会場は広くなく、作品点数も膨大というわけではないが、じっとりと心地よい疲労感に包まれた。会場外で上映されていた娘合田ノブヨが母のことを語る映像(10分18秒)も面白かった→〈ちんとんしゃん〉でのRちゃんとの待ち合わせにだいぶ時間が余ったので、吉祥寺に寄り道して〈吉祥寺オデヲン〉にて『モリコーネ』を鑑賞。(原題『Ennio』、監督:ジュゼッペ・トルナトーレ。エンニオ・モリコーネ、ジーノ・パオリ、クインシー・ジョーンズ、ミランダ・マルティーノ、アレッサンドロ・デ・ローザ、ジャンニ・モランディ、ニコラ・ピオヴァーニ、パット・メセニー、ジュリアーノ・モンタルド、ブルース・スプリングスティーン、ベルナルド・ベルトリッチ、シルヴァーノ・アゴスティ、ローランド・ジョフィ、ダリオ・アルジェント、クリント・イーストウッド、リナ・ウェルトミューラー、カテリーナ・カゼッリ、ワルテル・ブランキ、アレッサンドロ・アレッサンドローニ、ブルーノ・バッティスティ・ダマーリオ、アドアルド・ヴィアネッロ、セルジオ・ミチェーリ、ゴッフレード・ペトラッシ、ダニエレ・フルラーティ、ボリス・ポレーナ、エンリコ・ビエラヌンツィ、エットーレ・ゼッペニョ、エヴァ・フィッシャー、ジュゼッペ・トルナトーレ、フランコ・ミリアッチ、エッダ・デッロルソ、ブルーノ・ザンビリーニ、トニーノ・ポーチェ、カルロ・ヴェルドーネ、エルジオ・レオーネ、ロベルト・ファエンツァ、セルジオ・パセッティ、マルコ・ベロッキオ、ラファエッラ・レオーネ、ジッロ・ポンテコルヴォ、エンツォ・オコーネ、バリー・レヴィンソン、クエンティン・タランティーノ、レルジオ・ソリーマ、マリーナ・チコーニャ、アントネッロ・ネリ、フランコ・ピエルサンティ、エリオ・ペトリ、ポール・シムノン、アルベルト・ラトゥアーダ、アンリ・ヴェルヌイユ、リリアーナ・カヴァーニ、ドゥルス・ポンテス、ハンス・ジマー、アルベルト・ベヴィラックァ、エンツォ・G・カステラーリ、フーリオ・コロンボ、ジョーン・バエズ、ジョン・ウィリアムズ、アントニオ・オアオオアーノ、ウォン・カーウァイ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、タヴィアーニ兄弟、マルコ・テュリオ・ジョルダーナ、テレンス・マリック、マイケル・ダナ、アンドレア・レオーネ、クラウディオ・マンチーニ、デヴィッド・パットナム、ジルダ・ブッダ、オリヴァー・ストーン、F・ヴェントゥーリ、マルコ・ピスカリーニ、フィル・ジョアノー、マイク・パットン、スッケロ、ヘイムズ・ヘットフィールド。2021、伊Piano b Produzioni)。終盤のたたみかけるようなエンニオ・モリコーネへの賛辞(具体的事実を語らずただ褒めるだけ)は要らなかったような気がするが、それ以外はモリコーネの時代ごとの仕事とその流れ、それぞれがいかに偉業だったかがすっと飲み込めるドキュメンタリーであった。モリコーネが音楽を担当した映画、その映画音楽の実際の演奏、映画音楽制作の様々な背景への証言、映画音楽以外の音楽の仕事の様子など、膨大な映像資料や証言を2時間36分にうまくまとめたのは、編集の勝利と言ってよいのではないかと思ったが、果たして。監督は『ニュー・シネマ・パラダイス』などのジュゼッペ・トルナトーレだが、事実としてのモリコーネの仕事や偉業を淡々と並べたような、観客をどこかの方向に誘導しないようなドキュメンタリー作法は素晴らしいとは思った→図らずも(あまりこのの言葉を安易に使いたくないが)二人の天才の仕事に触れ充実のまま高円寺〈ちんとんしゃん〉へ。M行さんの暗い唄≠ノ関する考察と、それに対する女将の突っ込みが最高に可笑しかったなあ。Rちゃんとのおしゃべりも楽しかった→平和に電車で帰宅→小腹が空いたので〈ゆめかめラーメン〉に寄ってビール中瓶×1、それから子供ラーメン→風呂入って就寝。午前3時頃。
2月4日(土) 朝10時起床。白湯、マヌカハニー→トマトソース(ポトフ改造)のペンネ→『暗殺者の神話』(原作:南原幹雄、監督:高瀬昌弘。隆大介、大門正明、秋野暢子、田村高廣、山本みどり。1984、CX)。将軍が徳川家継から吉宗に代わった頃(正徳6年=1716年)、紀州の山奥に落ちぶれた雑賀一族の末路を描いた時代劇TVドラマ。主人公雑賀孫四郎(隆大介)は吉宗暗殺を持ちかけられ、雑賀一族再興を願ってその申し出を受けるが、最終的には父一石斉(田村高廣)との同族討ちとなり相果てる。で、それは徳川側の陰謀だった、という話。また観たら変わるかもしれないが、ひとまず隆大介のみ強烈な印象となって残った(『御家人斬九郎』の頃の渡辺謙を彷彿とさせる迫力があった)。一方田村高廣は与えられた役をきちんとこなした、くらいの印象だったし、他の役者や場面も何か鮮やかな印象というのは得なかった。まあ、雑賀一族のことを考えるきっかけになったのが、このドラマ化の意義ということか→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、ビール中瓶×1→晩の支度。本日はうさぎすき焼き→風呂→『寺内貫太郎一家』見ながら晩。うさぎすき焼き(春菊、葱、ニンジン、ぶなしめじ、こんにゃく)、白菜塩昆布和え、ご飯、生卵、ビール中瓶×1、御酒×2。すき焼きは、あらかた食べ終えてから冷蔵庫にあった鶏モツジンギスを投入するも、これは全部食べられなかった。割下がちょいとしょっぱかったか→『シング・ストリート 未来へのうた』(原題『Sing Street』、監督:ジョン・カーニー)を半分くらい観たところで眠くなり、夜9時頃就寝→深夜起床→シング・ストリート 未来へのうた』(原題『Sing Street』、監督:ジョン・カーニー。フェルディア・ウォルシュ=ピーロ、マリア・ドイル・ケネディ、ジャック・レイナー、ケリー・ソーントン、エイダン・ギレン、イアン・ケニー、ドン・ウィチャリー、ベン・キャロラン、ルーシー・ボイントン、マルセラ・プランケット、マーク・マッケンナ、Vera Nwabuwe、パーシー・チャンブルカ、コナー・ハミルトン、カール・ライス、アート・カンピオン、リディア・マクギネス。2016、愛英米Lionsgate UK/The Weinstein Company)。家庭の事情で荒れた公立高校への転校を余儀なくされた冴えない主人公(フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)が、ただ学校の前に佇む少女にひと目惚れしたということだけを原動力にバンドを組んで成長していく、という発端と展開は安易と言えば安易だが、その安易さがなんというかうまく作用したような映画と思った。バンドがものすごく成長するわけではなく、上手くなったり様になったりはするものの、オリジナル曲はそれぞれ直前に主人公が聴いた流行歌の影響をモロに受けているものだったりというのも却ってよかったと思う(オリジナル曲を書くようになるのは、主人公の兄ブレンダン=ジャック・レイナーの「パブでも結婚式でも、どこでもカバーバンドが出るが、ヤツらオヤジは真剣に音楽をやったことなんかない。曲を書く根性もない。ロックは覚悟を持て」という台詞があってからのことで、そのために自分で曲を作ることとはどういうことか、という問いが観ている側の心の内に静かに発生するのも面白い)。自称モデルで、少年たちに比べると大人っぽくてすべてわかっているようなラフィーナ(ルーシー・ボイントン)が実は彼らと同じ純朴な子供だと思わせる人物像であるところもよい。少年たちがバンド活動を通じて成長していくという物語ではあるが(いじめっ子のバリー(イアン・ケニー)を最後に仲間に入れるところなどは、成長を表しているものと思う)、映画の中では音楽は彼らが成長してくための踏み台であって、しかしそれが音楽をただの道具として扱っているように見えない撮り方をしているところも評価すべき点と思う。そして全体的に『小さな恋のメロディ』の物語をうまく消化して、アイルランドの現代=i制作は2016年)の思春期初恋映画に仕上げているところも高く評価すべきと思う。まったく知らなかったので、意外な掘り出し物という感が強い→金宮お湯割×1、御酒×3→朝7時就寝。
2月5日(日) 昼過ぎ起床。白湯、マヌカハニー→『浅草お茶の間寄席』、本日は三遊亭天どん『川柳・円丈』と三遊亭白鳥『パパラギ』の二席。これはまたTVで流していいのか、というほどではないかもしれないが、珍しくてちょいと衝撃的な番組だった。録画しといてよかった→釜揚げそば(うずらの卵×3)→『笑点』新メンバーは春風亭一之輔だった。意外といえば意外→『ドライブ・マイ・カー』(原作:村上春樹「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」/アントン・チェーホフ「ワーニャ伯父さん」など、監督:濱口竜介。霧島れいか、西島秀俊、岡田将生、ジン・デヨン、安部聡子、三浦透子、ペリー・ディゾン、松田弘子、ソニア・ユアン、パク・ユリム、山村崇子、アン・フィテ、猪股俊明。2021、ビターズ・エンド)。主人公(西島秀俊)と妻(霧島れいか)との抑揚に乏しく感情が感じられない会話など、細部の演出で意図がわかる部分はあるのだが、全体にはやたら「セックス」「オーガズム」などの語が多用されたりつまらない比喩が出てきたりなどの村上春樹風台詞が鬱陶しく、単に死んだ妻ともっと話がしたかったと嘆くだけの話になんで3時間(179分)もの時間を費やすのだと、終盤で腹が立ってきた。そのためだけにドライバー(三浦透子)の母親殺しや母親が二重人格だったという話を持ち出すのも、意図がどうのというよりは物語のデザインとしてはまらないように思った(そして劇中劇の俳優のひとり=岡田将生が降板したからといって、次善策を考えるためにわざわざ広島から北海道に行くだろうか)。もちろん、いろいろ見落としてはいるのだろうと思うが。見落としているといえば、終幕は「西島秀俊が犬になった?!」と思ったが、もちろんそんなわけはなく、やはり何か見落としているのだろう。しかし見落としたものを見つけるために再見しようと思う映画ではなかった→フライドポテト、フライドチキン、ピザ二種、ビール中瓶×1.5、赤葡萄酒×1/2→『ドライブ・マイ・カー』は途中で飽きて、あと一時間ほど残していったん就寝。夜8時頃→深夜起床→とつぜん確定申告やらなきゃと思い、経費計算(レシート整理)→『ドライブ・マイ・カー』残りを終いまで。感想にも書いたが、終幕で「西島秀俊が犬になった?!」と笑った→確定申告書類も制作し印刷。郵送の準備→『ブロークバック・マウンテン』(原題『Brokeback Mountain』、原作:E・アニー・プルー、監督:アン・リー。ヒース・レジャー、ジェイク・ギレンホール、ランディ・クエイド、デイブ・トリンブル、ミシェル・ウィリアムズ、トム・キャリー、アン・ハサウェイ、スコット・マイケル・キャンベル、グレアム・ベッケル、メアリー・リボロン、キアナ・デュベ、ブルックリン・プルー、ジェイク・チャーチ、リンダ・カーデリーニ、デヴィッド・ハーバー、アンナ・ファリス、ケイト・マーラ、ウィル・マーティン、ロバータ・マクスウェル、ピーター・マクロビー。2005、米Focus Features)。男性同士の性愛と濃厚な精神的つながりを描いた作品ではあるが、男性同士という点に重きを置いたわけではなくて、愛を描いたという点では純粋なラブ・ストーリーと思う。むろん、それが男同士であり、アメリカ南部であり、ふたりとも元々のホモセクシャルではなかったからいろいろこじれるわけだが、そうした障害≠ヘ、もちろん男女に置き換えても形を変えて生じる場合も少なくないはずだ。そうした意味では監督自身が「普遍的なラブストーリー」と言っているのにはうなずける。しかしそうは言ってもお互いに結婚した身では、妻や家族から見れば道ならぬ恋愛だし許される行為ではないわけで、それを妻や家族がどう受け止めるか/受け入れるか、というテーマも重なってくる。そこまで味わうと、なんとも言葉にできない気持ちにさせられるが、かといって不快だったりするわけではない。アン・リーの作品はこれしか観ていないが、かなりの映画作家であると思う→ピザ2スライス、チッチャロン・バラット、なめこ汁、卵とじご飯、金宮お湯割×4→振り子時計が遅れがちなので(一週間で4分)、振り子の錘の位置を調整して掛け直したら、振り子がすぐに止まるようになってしまった。何度か外してはつけ直しし、水平なども確認してみたがどうにもダメで諦める→午前10時就寝。
2月6日(月) 午後2時起床。白湯、マヌカハニー→〈トライフル〉に電話してみるがつながらず(あとで本日は出張修理に出ていたと判明)。店のホームページの問い合わせフォームからあらましを送る→『ロケットマン』(原題『Rocketman』、監督:デクスター・フレッチャー。タロン・エガ−トン、マシュー・イルズリー、ブライス・ダラス・ハワード、ジェンマ・ジョーンズ、スティーヴン・マッキントッシュ、キット・コナー、トム・ベネット、チャーリー・ロウ、スティーヴン・グレアム、ジェイミー・ベル、オフィリア・ラヴィボンド、テイト・ドノヴァン、シャルミナ・ハロワー、リチャード・マッデン、レイチェル・モルドゥーン、マックス・マッキントッシュ、ギレルモ・ベッドワード、チャールズ・アームストロング、バーバラ・ドレナン、セリンデ・シェーンメイカー。2019、米英Paramount Pictures)。幕開け、ド派手なステージ衣装で登場したエルトン・ジョン(タロン・エガ−トン)がステージではなく依存症の互助会に参加する(映画を通じてこの互助会の中でだんだん素顔に戻っていく)というのは面白いし、あまり興味のなかったエルトン・ジョンという人物の来歴について整理された物語を見ていけるのも興味深くはあった。しかし肝心のミュージカルの場面が、役者も踊り手も揃えているはずなのに、何か心の底から楽しめないものがあった。エルトン・ジョンの苦悩の部分もミュージカルで表現している所為もあるかもしれないが、なにか突き抜けたものが感じられない演出のように感じてしまうところが、「心の底から楽しめない」という感想に結びついたようにも思う。それにしてもエルトン・ジョンご本人は、自分がこんなにも孤独な人間だったという風に描かれて、どう思ったのだろうか。エンドロールで最愛のパートナーに恵まれたと表されていたので、もう昔のことはどうでもいいのかな→菊水堂ポテトチップス、ジンギスカン(ラム肉、ニンジン、ピーマン、玉葱、もやし)、えのきとわかめのおつけ、ご飯、佃煮(きゃら蕗、生あみ、生海苔)、ビール中瓶×2、金宮酎ハイ×2→夜0時就寝。
2月7日(火) 午前2時くらいに目が覚めてそのまま眠れず、しかし布団からは出ず、朝7時起床。白湯、マヌカハニー→えのきとわかめのおつけ、卵かけご飯(錦松梅)、納豆、海苔→『ロケットマン』復習→〈トライフル〉に電話がつながったので、先方の指示に従いいろいろ試してみたが解決せず。今週もう一度調整に出すことになる→『ファーザー』(原題『The Father』、原作:フロリアン・ゼレール『Le Père』、監督:フロリアン・ゼレール。オリヴィア・コールマン、アンソニー・ホプキンス、マーク・ゲイティス、イモージェン・プーツ、ルーファス・シーウェル、アイーシャー・ダルカール、オリヴィア・ウィリアムズ。2020、英仏米Lionsgate UK)。認知症が進行している老父役のアンソニー・ホプキンスの芝居と、老父が見ていると思われる世界を第三者の視点で描いていく演出の巧みさに驚いた。老父の認知がただ歪んでいくだけでなく、事態をちゃんと理解した上での歪み、たとえば自分がヘルパーの女性を追い返したことで娘夫婦(オリヴィア・コールマン、ルーファス・シーウェル)の旅行がキャンセルを余儀なくされた、それをとつぜん思い出し娘婿になじられる妄想に苛まれる−−しかしそれは現実≠ゥもしれないのだが−−を描いている点は、人間が老いていく中で叩き込まれるかもしれない地獄を残酷なまでに表現していると思う。そして物語の始めのほうで登場する「男」(マーク・ゲイティス。その時点では娘の新しい夫として認識される)が最後に入院先(姥捨先と言ってもいいかもしれない)の医者として登場することで、老父の認知の歪みが入院時から映画の頭に遡って描かれたという見方ができることに気づいたときの戦慄たるや。決して心和むような救いがある映画ではないが(あると見ることもできるが)、おそらく事故で亡くなった末娘への思慕がやはり認知の歪みをもたらしたり(イモージェン・プーツとオリヴィア・ウィリアムズが出てくるくだりが印象的である)、娘のパリ移住がほんとうなのか認知の歪みなのかが曖昧なまま物語が進んでいったりなど、人がただ生きているだけで叩き込まれるかもしれない地獄を描いたという点では、かなりの高水準に達している作品と思う。なお音楽はイタリア人作曲家のルドヴィコ・エイナウディが担当しているが、映画冒頭ではクラウス・ノウミが「Cold Song」として歌い発表したこともある、また『コックと泥棒、その妻と愛人』のテーマ曲(歌なし)としてもマイケル・ナイマンの編曲により使用されたヘンリー・パーセル(1959〜1695)のオペラ『アーサー王、またはブリテンの守護者』(King Arthur or The British Worthy)の中の一曲「What Power Art Thou?」が使われている→菊水堂ポテトチップス、えのきとわかめのおつけ(とろろ昆布)、ご飯半膳、生海苔佃煮、納豆、ビール中瓶×1→風呂→『SOMEWHERE』(原題『SOMEWHERE』、監督:ソフィア・コッポラ。スティーヴン・ドーフ、クリス・ポンティアス、カリサ・シャノン、クリスティーナ・シャノン、エル・ファニング、ララ・スロートマン、ミシェル・モナハン、ヌンツィオ・アルフレッド・ダンギエリ。2010、米Focus Features)。なんだかよくわからないまま観終わってから監督がソフィア・コッポラだと知り、調べたら「ソフィア・コッポラ監督の幼少時代の思い出から着想を得た映画」という記述がWikipediaにあり、驚くことに父フランシス・フォード・コッポラが制作総指揮に名を連ねていると知った。冒頭からずっと貧乏くさい映像だったので驚いた。作りたい気持ちはわからないではないし、金獅子賞を獲ったりタランティーノが褒めてたりするらしいが、商業映画として点数を付けると仮定すると、私は0点かな。絵造り、芝居、演出、美術、音楽、どこにもよく引っかかる点がなかったが、時間の余裕があれば、もう一度観てみてもよいか→カレーそば、金宮酎ハイ×2→午前2時就寝。
2月8日(水) 朝8時起床。白湯、マヌカハニー→えのきとわかめのおつけ、卵かけご飯、佃煮、海苔→老父買い物代行(サミットのみ)→帰途西荻窪に寄り、まずは〈バルタザール〉(元遊々満月洞ということになるのかな?)にてカキフライ定食、ビールジョッキ×1。小鉢ふたつが付くセットにしたところ、所望したキャロットラペの代わりに青菜和えものが出てきてうきかり食べてしまったところ、キャロットラペも出してくれて、切り干し大根含め煮と合わせて小鉢みっつとなった。親切だ→続いて〈フランクフルト〉で買い物し、さらに家の近くまで来たところで〈サミット〉でも買い物し、帰宅→午睡→晩の支度→サラダ(レタス、ニンジンとピーマン細切り、トマト薄切り、玉葱ドレッシング)、チリビーンズ、ジャガイモのクミンバターソテー(白ワインビネガー)、ウィンナー、菜の花おしたし、えのきとベーコンのスパゲティ、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1/2→本日は『有吉の壁』が当たりだった→風呂沸くまでフットワークの練習→風呂→『宇宙大怪獣・ギララ』(監督:二本松嘉瑞。フランツ・グルーベル、岡田英次、和崎俊哉、ペギー・ニール、園井啓介、柳沢真一、原田糸子、藤岡弘、小田草之助、浜田虎彦、マイク・ダニング、北龍二。1967、松竹)。松竹唯一の怪獣映画。宇宙から持ち帰った鉱物?から大怪獣が発生し地球が襲われるという危機を描いているはずなのに、全体的にお気楽でのんびりした雰囲気が漂っていて、呑気な恋愛模様も描かれたりする、その塩梅が面白い。火星に向かったロケットの乗組員が不具合で月に立ち寄った際にのんびり檜風呂に浸かったり、「とても月にいるとは思えない」と感想を述べたりするところもよい。ただ肝心のギララが登場してからの展開は、特撮も含めて退屈。そこも含めて考えると全体のバランスは悪いかなと思う。音楽はいずみたくだが、主題歌「ギララのロック」(作詞は永六輔)は秀逸。これには笑った。映画には出ていない倍賞千恵子が歌っているのもなんだか可笑しい(ボニージャックスも参加)→金宮お湯割×2→午前4時就寝。
2月9日(木) 朝10時起床。白湯、マヌカハニー→白菜チキンコンソメスープ、チリビーンズ、えのきとベーコンのスパゲティ→昼過ぎからひさびさのご近所麻雀。最初の半荘は跳ね満連発しトップ。続く半荘は一局めで役満が出て一局で終わり(私はマイナスなし)。最後の半荘はビリ。しかし全体でプラマイゼロで場所代飲み代のみ。ひさびさの手打ち麻雀面白かった→早めに失敬して、新装開店なった〈さばのゆ〉をようやく訪問。客は私ひとりだったので、S田さんとしばし歓談。するめ、さつま揚げ、大根と牛すじ煮物、ホッピー中3→帰宅して午睡→『地下鉄のザジ』(原題『Zazie dans le métro』、原作:レーモン・クノー、監督:ルイ・マル。フィリップ・ノワレ、オデット・ピケ、カトリーヌ・ドモンジョ、アントワーヌ・ロブロ、アニー・フラテリーニ、ユベール・デシャン、カルラ・マルリエ、ジャック・デュフィロ、ヴィットリオ・カプリオ、ニコラ・バタイユ、イヴォンヌ・クレシュ。1960、仏Pathé Consortium Cinéma)。ルイ・マルが撮っていることからヌーヴェル・ヴァーグ運動の中の一作とされているようだが(Wikipediaには「フランス映画のヌーヴェルヴァーグ運動の先駆け」とある)、実態はジャック・タチ作品にも近いスラップスティックと思う。何人かの登場人物の性別や正体が不確かだったり、時間や人物の動きが連続していなかったりといった実験的な試みも見られるが、(おそらく)原作のそれよりも激しくなく、そうした表現もスラップスティックの味わいの中に飲み込まれているという印象がある。というのが今回観ての感想で(多分学生の頃に映画館で観てから二度め)、ただただ楽しんで観た→サラダ(レタス、ニンジンとピーマン細切り、トマト薄切り、玉葱ドレッシング)、チリビーンズ、コンビーフ、ゴルゴンゾーラチーズ、ポタージュ、バゲット、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1→いつの間にか就寝。
2月10日(金) 朝10時起床。雪→ポタージュ、ハムチーズサンドイッチ→本日クルマで〈トライフル〉を訪ねる用事があったがどうしたものかと思っていたら、先方から心配の電話をいただき、月曜日に日述べすることになった。よかった→昼過ぎまで睡眠→即席ラーメン(ロースハム、生卵、葱、ニンニク、胡麻、海苔)→風呂→『荒野の用心棒』(原題『Per Un Pugno Di Dollari』、監督:セルジオ・レオーネ。クリント・イーストウッド、ニノ・デル・アルコ、マリオ・ブレガ、マリアンネ・コッホ、ラフ・バルダッサーレ、ホセ・カルヴォ、ヨゼフ・エッガー、ウォルフガング・ルスキー、アントニオ・プリエート、ジークハルト・ルップ、ジャン・マリア・ヴォロンテ、ブルーノ・カロテヌート、マルガリータ・ロサノ。1964、伊Undis)。タイトルバックの赤と黒のアニメーション、終盤のジョーとロホ一味の対決の際の足元や顔のクローズアップなど、物語やアクションやガンファイトよりも絵造りと構図が印象に残るというのが、私なりの感想。荒くれ者の知的な駆け引きの描写とか、暴力描写の鮮やかさなどは、やはり時代を追うごとに研がれ鋭くなっていくので、本来売り物だったはずの「アクションやガンファイト」の印象が現在観て薄いというのはしかたのないことだろう。むしろ「絵造りと構図が印象に残る」という点が今でも迫ってくる映画であるという点が重要だと思った。ひとつケチをつければ(それほどでもないが)、クリント・イーストウッド扮するジョーが二回ほど自分の背後への注意が甘く周囲の人間に助けられるというのは、完璧な人間はいないということを踏まえても、少し格好悪さを感じてしまう。ただそうすることによって緊張感を高めるという効果を狙い、またそれが活きているのかもしれない→レタス(玉葱ドレッシング)、ロースハム、チリビーンズ、いわし缶詰、ポタージュかけペンネ(ジャガイモ、ニンジン、玉葱、ベーコン追加)、ビール中瓶×2、金宮お湯割×1→夜11時頃就寝。
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