2023年06月10日

6月まとめ(1〜10日)


『山本周五郎全集』(全三十巻)購入、シルヴァン・ショメ『イリュージョニスト』、片山真理個展『CAVERN』 於西麻布〈GALLERY ETHER〉、西荻窪〈はつね〉のラーメン、千葉に遊ぶ。

6月1日(木) 午前0時起床→『奥さまは魔女』(原題『Bewitched』、監督:ノーラ・エフロン。ニコール・キッドマン、マイケル・ケイン、ウィル・フェレル、ジェイソン・シュワルツマン、ヘザー・バーンズ、クリスティン・チェノウェス、シャーリー・マクレーン、キャロル・シェリー、ケイティ・フィナーラン、スティーヴ・カレル。2005、米Sony Pictures Entertainment/Columbia Pictures)。『奥さまは魔女』のリメイク・ドラマを撮る現場に魔女が奥様役で参加、というメタ構造が楽しい。昔風の雰囲気と現在の空気が混ざる塩梅もいいし、女性三人がいつの間にか親友っぽくなっているのもなんだか面白い。ニコール・キッドマンはただスター≠ネのではなく役者なのだなあということが伝わってきつつ、また荒唐無稽な世界を描いているなあとわかりつつ、観ている最中にそういうことが(頭の端に上ってきても)鑑賞の邪魔にならないという点も、軽く撮っているようでいてかなり気を遣っているのだろうし、大したものだと感心→菊水堂ポテトチップス、割れ煎餅、冷かけそば(うずらの卵×3)、金宮酎ハイ×2、御酒×1→朝7時就寝→昼頃起床→なめこ汁、とうもろこしご飯→本日より中島丈博脚本の昼ドラ『真珠夫人』。もちろん再放送→『淑女と髭』(監督:小津安二郎。岡田時彦、斎藤達雄、月田一郎、坂本武、飯塚敏子、伊達里子、川崎弘子、岡田宗太郎、飯田蝶子、吉川満子、南條康雄、葛城文子。1931、松竹キネマ)。モダン≠ニギャグ≠ナ構成された映画と受け取ったが(制作クレジットには「ギャグマン:ジェームス槇」(小津安二郎のこと)とある)、モダン≠ノ関してはたとえば『学生ロマンス 若き日』や『落第はしたけれど』など他作品のようなこれでもかという印象は薄く、自然でさりげない印象すらあるように思う。ギャグ≠ヘ他愛もないものがほとんどだが、古臭かったり邪魔だったりはしない。細かい笑いをたくさん重ねていくような工夫があったのかもしれないと思ったが、果たして。髭(古臭い因習)とモダン≠対比させながら、笑いをまぶしつつ淑女≠フ存在にその対比を無効化させていき、普遍的な人の心模様を描いていく(=不良モガが更生していく、心根のきれいな淑女≠ニ髭≠フ間に心が通い合う。不良モガが手を振りながら去っていく終盤の場面は、これまたさりげないが名場面と思った)という作りは、現在もどうにかしてリメイクできるのではないか、現在ならではのリメイクが可能であれば観てみたいと思わせられた→割れ煎餅、金宮酎ハイ×2→O形サイト更新(絵日記)→午睡→シャワー→昨晩観た『奥さまは魔女』など観ながら晩。ルッコラ新玉葱トマトピーマンのサラダ、空豆、フライドポテト、鶏の唐揚げ、なめこ汁、とうもろこしご飯おむすび、海苔、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×5→夜10時頃就寝。
6月2日(金) 午前0時起床→今日はダールを作ろうと思いつき(キャベツの外葉の使い道を考えてたらそうなった)、豆を水に漬けるなど。あと録画整理→朝6時就寝→朝9時起床→味噌湯、磯部焼き→昨日届いた『山本周五郎全集』全三十巻開梱のために一階の部屋を片付けて(中途半端に)、開梱と検品。本を包んでいる薄紙(グラシン紙?)はだいぶ傷んでいたものもあったが、月報は揃っていて、中身もきれい。よい買い物だった→明太子スパゲティ(ルッコラ、刻み海苔)→晩の支度→風呂→キャベツとルッコラとピーマンの胡麻油和え(塩)、はんぺんとさつま揚げの煮込み(針生姜、葱、煎酒)、新玉葱のクミンピクルス、五種のダール、ココナッツ風味ポークキーマカレー、ジャポニカバスマティ米ブレンドご飯、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1。調理時に味見をし過ぎた所為か、カレーの段階でトルコどんぶり半分くらいでお腹がくちくまた眠くなってきてしまい残して寝る。夜9時頃。
6月3日(土) 午前2時起床→『山本周五郎全集』、第一巻から読み始めることにする。まずは「夜明けの辻」に感動。史実は苦い結末だが、そこに至る前の光明が読者を励ますような作品→『ツーリスト』(原題『The Tourist』、監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク。アンジェリーナ・ジョリー、ルーファス・シーウェル、ポール・ベタニー、ティモシー・ダルトン、ジョニー・デップ、スティーブン・バーコフ。2010、米仏伊英Sony Pictures Releasing)。本作の面白さの核心は、アレクサンダー・ピアースなるお尋ね者がいつどこでどのように登場するのか≠ニいう点だが、もうひとつ、アレクサンダー・ピアースと合流する予定のエリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)がたまたま列車の中で拾った米国人男性フランク(ジョニー・デップ)が実はアレクサンダー・ピアース当人なのではないか≠ニいう点。しかしながら、ジョニー・デップが配役されている時点でもういわゆる出オチというやつで、そこのところの興醒め感は否めない。しかしジョニー・デップが務めて地味な顔、もっさりした動きのアクションを演じることで、その出オチ感から観客の目をそらそうとしているのはなんとなく可笑しいし、本作の魅力であるとも思う。それとアンジェリーナ・ジョリーの尻で、もうこの映画は十分(監督もその辺の機微をわかっているようで、これが見たいんだろうと観客をからかうように、冒頭からアンジェリーナ・ジョリーの尻を追いかけている)。アンジェリーナ・ジョリーの顔がやたらゴツいのはご愛嬌か(東洋人が見るからそう見えるのか)。舞踏会でとつぜん踊りに入る展開とか、終幕のふたりの会話「2000万ドルもかけた整形手術の顔がそれなの?」「気に入らない?」「我慢するわ」という会話の粋な感じとか、随所に見られる笑いとか(主にジョニー・デップの間抜けさ)細かい見どころは多い。評判はよくなかったようだが、娯楽映画としては十分傑作ではないかと思う。私は満足→『「流木」より女豹とならず者』(原作:飯野明、監督:野口博志。水島道太郎、高品格、葉山良二、瀬川路三郎、弘松三郎、左幸子、雪岡純、宮原徳平、雨宮節子、広岡三栄子、河野弘、美川洋一郎、小林重四郎、河野秋武、伊丹慶治、河上信夫、藤倉実。1957、日活)。左幸子が山の娘なのに化粧が不自然に派手なのは、アップが多い所為もあり不満を感じるところだが、可愛らしさと野生味の塩梅はよく、総合的には好ましい印象。旧世代(水島道太郎)と新世代/近代化/合理化(葉山良二)の対立というのがひとつの軸だが、単純に対立させるだけでなく、新世代の至らないところを旧世代のやり方が救っていったり、新世代が旧世代の欠点を赦したり受け入れたり、という揺らぎがあるのがよい。葉山良二と左幸子がトロッコに乗って喧嘩の現場に駆けつける場面は、映画表現としてなかなかの見もの→晩に残したカレーライス、金宮酎ハイ×4→朝方就寝→午後2時起床→釜揚げそば(生卵、もみ海苔)→読書→昨晩観た『ツーリスト』をまた見ながら、キャベツとルッコラと新玉葱のサラダ(小海老)、枝豆、鴨燻製、カレーライス、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→食後すぐ就寝。夜9時頃。
6月4日(日) 午前1時起床→『ブエノスアイレス』(原題『春光乍洩』(Happy Together)、監督:ウォン・カーウァイ。レスリー・チャン、トニー・レオン、チャン・チェン。1997、香Golden Harvest Company)。ウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)が何故惹かれ合うのか、わかるようで明確ではなく、そのため結局なんだったのかよくわからなかった。うまく行ってないけど別れられないふたりが別れて、ひとりは新しい心の支えを見つけて新しい一歩を歩み出すことができた、という風にも見えるが、それでは陳腐だし、だからなんだという話だろう。ついでに言うと、白黒とカラーの映像の使い分けも、明確な意味がわからなかった(ふたりが一緒にいて不幸なところと、別れて心が満たされてていないときが白黒。再開して仲違いしながらもファイのほうは満ち足りていたときと、また別れたがまだ心が残っているときがカラー。そしてひとりでイグアスの滝に向かうところは心空しく白黒で、滝を訪れたことによって心が前向きに変化してことを受けて台北ではまたカラー。と見ることもできるが、これまただから何? である)。映像美には感心したが、特殊効果の濫用が鼻につくし、映像として心躍ったのは終幕の台北の短い場面だけだった(といっても、映画表現というよりは町が活き活きしているのが楽しかった、という次第だが)。というわけで、私としてはよさがわからず、ほぼ点の付けようのない作品であった→『恋と涙の太陽』(監督:井上梅次。橋幸夫、林家珍平、早瀬久美、立原博、佐乃美子、村田知栄子、倍賞千恵子、山東昭子、香西謙一郎、川村禾門、初名美香、香山美子、待田京介、柳沢真一、呉恵美子、有木三太、志賀真津子、巽仙太郎。1966、松竹)。なんとも明朗快活で痛快な青春映画。橋幸夫の(当時の)新曲(映画と同名)とニュー・リズムである「アメリアッチ」を売るための映画と思われるが、さてアメリアッチというリズムはこの映画によって普及したのか。一応三田明「恋のアメリアッチ」や、白木秀雄や猪俣猛が60年代に当時のヒット曲をアメリアッチアレンジで演奏した企画盤があるようではある(もともとはハーブ・アルパートが「蜜の味」で採用したリズム)。映画は橋幸夫が爽やかにモテモテで、名門舞踊家の失踪事件やチンピラたちとの抗争はあるものの暗さはほとんどなく、笑いも適度で、頭を使わず楽しむことができた。フォークダンスのように相手を変えながら踊りそこに会話が発生する演出には笑ったし、橋幸夫一行とチンピラが警察に捕まった際の「あんた警察のクセに顔見てどっちが悪いのかわからないの?」「わしは骨相学はやっとらん」という会話も可笑しかった。適当に作られたようなにおいもするが、繰り返しの鑑賞に耐え得る作品と思う→割れ煎餅、御酒×2、冷胡麻かけそば(うずらの卵×4)→朝方就寝→午後起床→修理に出していた老父の腕時計、修理完了し届く→荻窪ラーメン(もやし豚ひき肉炒め、ニンニク、生姜)→風呂→『ぼくの伯父さんの休暇』(原題『Les Vacances de Monsieur Hulot』、監督:ジャック・タチ。ナタリー・パスコー、ジャック・タチ。1953、Discifilm)。2014年8月に下高井戸シネマで観て以来9年ぶり(コンプリート・ボックスを購入したのに観ていなかった)。その際の感想を「意味不明だが繰り返される食堂のドアのノイズ、細かい伏線と描写ながら回収しないギャグの応酬、迷惑な存在のはずのユロ氏をみんな遠巻きに優しく興味深い目で見ているところなどなど、見応えたっぷりだった」と記しているが、今回は音に細かな配慮がなされているのを強く感じた。左記の「意味不明だが繰り返される食堂のドアのノイズ」もそうだし、ちょっとした動作への効果音、とつぜん爆音で再生されるレコードなどなど、おそらく同録ではないだろうから、編集作業にはかなりの時間と神経を費やしたのではなかろうか。それでいて「細かい伏線と描写ながら回収しないギャグの応酬」をひたすら続けることで、音へのそういう神経の細かさら、あるいはなんの主張も教訓も感じさせない、ただただ笑わせてくれる作品に仕上げているのもすごい(4コマ漫画集を映画化したような、という印象を今回は得た)。「惑な存在のはずのユロ氏をみんな遠巻きに優しく興味深い目で見ているところ」については、終幕だけは前の晩の花火騒ぎにうんざりして他の客はみんな少し冷たいが、太った中年女性とパナマ帽のご老人だけが「また会おう」みたいなことをユロ氏に言うのがとてもよい。物語の起承転結も特にないが、観終えると観ているこちら側もひと夏の休暇を楽しみそして家に帰るような気持ちになってくる→レタスのサラダ(胡麻、笹身)、鴨燻製、チーズ、野菜のポタージュ(ニンジン、じゃがいも、かぼちゃ、キャベツ)、フランスパン→夜9時頃就寝。
6月5日(月) 午前2時起床→『プレイタイム』(原題『Playtime』、監督:ジャック・タチ。ジャック・タチ、バルバラ・デネック、ジャクリーヌ・ルコント、レオン・ドワイアン、ジョルジュ・モンタン、ラインハルト・コルデホフ、トニー・アンダル、イヴェ・バルザック、ジョージズ・フェイ、アンドレ・フーシェ、ビリー・カーンズ、ニコール・レイ。1967、仏SN Prodis)。前半、グレーで統一されたセットの中でのくすぶる笑いが続き、後半、色彩を取り戻したかのような新規オープンのレストランの中で繰り広げられる狂宴(レストランの急拵えも含めて)で爆発する、という構造を、今まではなんとなく眺めていて、それでも知らぬ間に笑いの渦に巻き込まれていたのだが、この構造を今回は、急速に変わりゆくパリをからかうように眺めつつ(実際、パリらしい風景はほとんど写されない)、町は変わっても人は変わらないとばかりに、新しい顔のパリを古きよきパリに引き摺り込む、という風に見た。それはつまらない見方だろうか?(いずれにせよ、さかしらな解説は本作には不要とは思う) その見方が当たっているかどうかはわからないが、古きよきパリの狂乱の果ての徹夜の爽やかさのようなものを、今回は感じた。音に関する神経の細やかさは『ぼくの伯父さんの休暇』と同様。ガラスに映る光景を笑いに用いるなどの映画表現の妙も、今回改めて発見した点。冒頭に出てくるユロ氏を探す女と、4人ほど(3人?)現れるユロ氏のニセモノ≠フ意味は今回も不明だったが、ユロ氏と面接官ジファールとのすれ違いの強調だったりメタファーだったりということだろうか。ま、どうでもいい部分か→キッシュ、ポタージュ、赤葡萄酒一杯→朝7時就寝→午前11時起床→惣菜パン、ポタージュ→『青葉城の鬼』(原作:山本周五郎『樅ノ木は残った』、監督:三隅研次。杉山昌三九、柳永二郎、荒木忍、原聖四郎、宇津井健、浅野進治郎、堀北幸夫、水原浩一、林与一、花布辰男、長谷川一夫、藤原礼子、高田美和、細谷新吾、藤村志保、矢島陽太郎、天知茂、加藤嘉、近藤美恵子、成田純一郎、阿井美千子。1962、大映)。物語を知っている所為もあろうが、原作をのんべんだらりと映画化したという印象が最後まで拭えなかった(その割には、時間的制約があるから仕方がないが、省略も多い)。山本周五郎ならではの視線も、映画化では感じることもできなかった。まあ以上二点はそれこそ私の個人的な感想、もしくは鑑賞能力の問題だが、確かに原田甲斐の働きや覚悟に焦点を当てた話ではあるけれども、それを長谷川一夫のような大スターが演らなくてもよかったのではなかろうかとも思った。元々多大な存在感を持っている(観る側が勝手に感じてしまう)スターではなく、むしろ存在感はそれほどでもないがちゃんと芝居ができる手堅い役者を配したほうが、原田甲斐という人物の凄さが実感できたように思う、原田甲斐の「私は力も才もない人間でございますが」という台詞が、長谷川一夫ほどの人物から発せられると、少し空々しく感じられてしまったのである(謙虚さの表現が活きてこない気がする)→菊水堂ポテトチップス、ビール中瓶×1→午睡→風呂→レタストマトピーマンのサラダ、枝豆、五種のダール、豚キーマ、フランスパン、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1/2→冷かけうどん(生卵)啜ってから午前1時頃就寝。
6月6日(火) 午前8時半起床→ペンネ入りポタージュ→午前、表参道に出て〈神宮前皮膚科〉にて左上のぶつぶつと痒みについて受診。光線過敏のようなものではということで、クリーム状のクスリを処方してもらって完了→表参道の交差点でO形と待ち合わせ、〈ひがしや〉で差し入れの焼き菓子など買い求めつつ、あるいて西麻布へ。〈GALLERY ETHER〉にて、片山真理個展『CAVERN』を鑑賞。滞在は三、四十分ほどだったが、ここでしか触れ得ないような美にとつぜん触れ、思いがけず暫時どこかに連れて行かれた、という印象。どの作品も、私には容易に言葉にできないが、地下一階の階段裏の、ごく最近に制作されたという装飾を排した白黒の作品群には、とりわけ魂を震わされたように思った。ちょっと頭がクラクラするような素敵な時間が過ごせた→作家とマネージャーにご挨拶しておいとまし、またぶらぶら歩いて麻布十番〈更科堀井〉にて昼。たたみいわし、小海老天種、十割蕎麦、ビール中瓶×1/2、御酒×1。たまにはと十割蕎麦を奢ってみて、まあおいしかったが、ここんちに来たときはやはりさらしなが気分だなと思った→椎間板ヘルニア発症前夜のように麻布十番から乃木坂まで歩いてみようかと思ったが、〈たぬき煎餅〉で買い物したところで草臥れてしまい、麻布十番駅から地下鉄(南北線)に乗り溜池山王/国会議事堂で千代田線に乗り換え、平和に千歳船橋着→千歳船橋の薬局で本日処方されたクスリ買い帰宅→午睡→風呂→『ぼくの伯父さん』(原題『Mon Oncle』、監督:ジャック・タチ。アドリアンヌ・セルヴァンティ、ジャン=ピエール・ゾラ、アラン・ベクール、ベティ・シュナイダー、ドミニク・マリー、イヴォンヌ・アルノー、ルシアン・フレジス。1958、仏Gaumont)。とても大雑把に言えば、『ぼくの伯父さんの休暇』(1953)から『プレイタイム』(1967)へと至るちょうど真ん中という感じ。近代化≠フ象徴として、『プレイタイム』と同じくグレーが基調の建物が舞台となっている点などからそう思ったが、『プレイタイム』と異なるのは古い町並みとそこでの生活が、もう壊れそう/壊されそうではあるもののまだ残っているという点。それ以外に新発見はなく、前回観た際(2014年8月)の感想とほぼ同じ。ただし読み返して今となってはよくわからない点はあるが、そのまま引いておく「『ぼくの伯父さん』は、前作『僕の伯父さんの休暇』と比べるとなにか“論”めいた理屈を話したくなるような要素が多い。たとえば旧来の街と新興かつ富裕層が住む住宅街とその中間にあるような団地との対比とか、新興住宅街から近代的な化学工場に出勤するためには旧来の街を通るのだが、その道程に取り壊しが進む家や壊れた石塀や野っ原があり、その壊れた石塀や野っ原を境界としてすべての場所を自由に行き来するのは犬と子供(あとユロ氏)だけとか、その他いろいろ。しかしそんなことを論ずるべく考えるより、ただただ脈絡のない話と笑いに興じた。丸い窓を目玉に見立てた場面や、植木を切りそろえようとしてどんどん短くなってしまう場面、庭のある場所に杭を突き立てたら噴水の出が可笑しくなる場面、車庫に自動扉を取り付けたとたんに閉じ込められる場面、どう置いても寝にくいソファをわざわざ倒して寝てる場面、化学工場でのドタバタ、そして口笛を吹いて歩行者の注意を逸らせて街灯の柱などにぶつからせる悪戯などなど。最後に悪戯については、前半で使われたものが伏線となり、結末部の暖かさを演出している。書けばきりがないしまとまらないが、まとまらないままに敢えてしておきたい。総じて言えば、前作からさらにちょうどよく膨らんだ(あるいはちょっと膨らみ過ぎた)という印象を得た。繰り返し見たい映画である」→レタスと新玉葱のサラダ、カツオ叩き(紫蘇、茗荷、生姜)、黒あわび茸炙り、焼豚、トマト、茎わかめと油揚のおつけ、ご飯、ビール中瓶×1、御酒×2→夜11時頃就寝。
6月7日(水) 午前8時半起床→茎わかめと油揚のおつけ、卵かけご飯、海苔→老父買い物代行(サミット、クリエイト)および修理完了した腕時計届け。最近は体調安定しているようで、ひと安心→西荻窪に移動しまずは昼。〈はつね〉にてタンメンではなくラーメン。スープひと口飲んでさすが、と唸る一品だった。とはいえ、〈はつね〉でタンメンを頼まない理由になるかというとなんとも。その都度どちらを食べたいかを悩むことになりそうではある→〈フランクフルト〉でハムソーセージ類購入、帰途〈サミット〉に寄ってトマトとピーマン購入、週末の遠出に向けてガソリン入れて帰宅→ おやつにクロワッサン×1/2、柿ピー、ビール中瓶×1→午睡→風呂→レタスと新玉葱のサラダ、ゴーヤチャンプルー、ロースハム薄切り、コンビーフ、茎わかめと油揚のおつけ、ご飯、納豆、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→午前1時就寝。
6月8日(木) 午前7時半起床。白湯、マヌカハニー→味噌湯、卵かけご飯、納豆、海苔→『俺たちの血が許さない』(原作:松浦健郎、監督:鈴木清順。細川ちか子、緑川宏、井上昭文、弘松三郎、長谷百合、柳瀬志郎、高橋英樹、小林旭、近江大介、松原智恵子、小沢栄太郎、雪丘恵介、野呂圭介、上野山功一、高品格。1964、日活)。一応小林旭主演ではあるが、小林旭よりも高橋英樹と井上昭文が印象に残る。特に終盤の立ち回りでの井上昭文の立ち往生は記憶に残りそうだ(高橋英樹は『けんかえれじい』のキャラクターに近い好ましさを持った青年役だが、本作のほうが先なので、本作であの感じを醸成したのだろうか)。女優陣も最も印象に残ったのが小林旭/高橋英樹の母親役の細川ちか子で、ヒロインと思われる松原智恵子と長谷百合の印象が不思議と薄い。上野山功一もただ「若い男」という役で、それほど個性を発揮していないように見えたが、脇にいても存在感を感じさせるのは、1967年の「女賭博師」シリーズ以降になるのかな。冒頭のカット割りや、坂幕波を従えた明らかに走っていないクルマ、終盤の(先述の)井上昭文の立ち往生などなど、鈴木清順らしい演出が随所に施されながら、ちょいと肩透かしをくらったような感想も残り作品と、改めて観て思った→荻窪ラーメン+豚ひき肉もやし炒め(どんこ、ニンニク、生姜、葱)+胡麻→午睡→『肉体の門』(原作:田村泰次郎、監督:鈴木清順。野川由美子、宍戸錠、長弘、和田浩治、河西都子、中庸子、チコ・ローランド、松尾嘉代、石井富子、富永美沙子、江角英明、緒方葉子、横田陽子、玉川伊佐男、野呂圭介。1964、日活)。原作の物語を刈り込んで(原作の第2部は採用せず、第1部に伊吹新太郎の死という結末を加えた)、パンパンたちの生態を敗戦直後のひとつの風俗として採り上げ、敗戦直後の地べたで生きる人々の生活を活写した、という印象。題材がパンパンやヤクザ、米軍から物資を盗む復員兵だし、鈴木清順的な絵造りやカット割りもあって特異な印象がないわけではないが、むしろ奇を衒ったりする映画ではなく、「敗戦直後の地べたで生きる人々の生活」を丁寧に描いた映画ではないかと思う(五社英雄版と比べると自然にそう思えてくる)。黒人牧師(チコ・ローランド)がボルネオ・マヤ(野川由美子)の手で地獄に落とされる≠ニころは痛ましいが、パンパンたち(河西都子、松尾嘉代、石井富子、富永美沙子。その他洋パンや町の女たち)も町の男たちもとても活き活きと描かれていて、地べたの人間たちの生命力を役者たちに表現させたという点が、特異な演出以前に鈴木清順の演出の手柄ではないかと、改めて観て思った→キャベツとトマトのサラダ、じゃがいもとニンジンとベーコンのソテー、焼豚(紫蘇)、茗荷と油揚のおつけ、ご飯半膳、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→夜0時就寝。
6月9日(金) 午前3時起床→『恋する惑星』(原題『重慶森林』(Chungking Express)、監督:ウォン・カーウァイ。ブリジット・リン、金城武、トム・ベイカー、ピギー・チャン、Lee-Na Kwan、Liang Zhen、フェイ・ウォン、トニー・レオン、チャウ・カーリン。1994、香)映像の特殊効果(ブラー?)に頼り過ぎだったり、男二人(金城武、トニー・レオン)が甘過ぎだったりモノローグがポエムだったり、「夢のカリフォルニア」って選曲? だったり、フェイ(フェイ・ウォン)が警官663(トニー・レオン)の家に侵入する意味がわかるけどよくわからなかったり警官はなぜなかなか気づかないかという疑問が生じたり、そもそもモウ(金城武)の失恋エピソードと警官663のそれとをそれぞれの新しい恋と共に並べてみてだからなんだという私にとってはほぼ不満だけを生むような映画だったが、それでもフェイ・フォンの魅力には平伏してしまう。といった映画だった→『伊豆の踊子』(原作:川端康成、監督:川頭義郎。城山順子、瞳麗子、鰐淵晴子、田浦正巳、桜むつ子、津川雅彦、戸塚雅哉、中村是好、佐竹明夫、野辺かほる、吉川満子、小林十九二、浅茅しのぶ。1960、松竹)。原作とは細部が異なるようだが、旅芸人への差別・排除や学生という存在が敬われながらも実際は無力だという点が少し強調されて描かれているのかなと思った。「旅芸人への差別・排除」や貧乏人同士の軋轢(困った上での借金を断ったり、踊り子を勝手に藝者に売り飛ばしたり。前者は浅茅しのぶ、後者は中村是好が好演)はあるが、踊子一座(城山順子、瞳麗子、鰐淵晴子、田浦正巳、桜むつ子)と学生(津川雅彦)の心のきれいな様は観ていて気持ちがよい。それだけでも残っていく映画かなと思った。あと踊子(鰐淵晴子)と学生がようやく仲よくなる隧道の場面がとても印象的→柿ピー、割れ煎餅、冷かけそば(うずらの卵×3)金宮酎ハイ×2、御酒×2→朝ドラ×2見てから午前9時就寝→午後2時起床→ウインナー入りペペロンチーノ→風呂→晩の支度→『伊豆の踊子』(原作:川端康成、監督:野村芳太郎。石浜朗、小林十九二、片山明彦、由美あづさ、桜むつ子、美空ひばり、大宮敏、雪代敬子、南美江、芦田伸介、水木涼子、野辺かほる、桜井将紀、三島耕、多々良純、日守新一、明石潮、松本克平。1954、松竹)。ひとつあとの川頭義郎版(1960年)に比べると、物語の中で起きる事件のひとつひとつを際立たせない方向で撮っているという印象。「旅芸人への差別・排除」や、旅芸人たちと過去を共有する人たちとの軋轢は描かれるが、それほど胸に刺さってはこない(序盤の茶屋に学生が置き忘れたお金を茶屋の子供が返そうと学生を探し歩くのも、物語の中でどう活きているのかよくわからなかった)。踊子薫は本来無邪気で子供で透明感があって、という感じだと思うが、美空ひばりはこのとき16歳にして貫禄があり過ぎて、薫という感じはあまりしない。美空ひばり以外の役者も目立った魅力を発揮しておらず、結局のところ、当代人気者の美空ひばりを起用してベストセラー『伊豆の踊子』を映画化した、という意味しかないという印象の作品であった。そのクセ、お座敷などで美空ひばりならではの藝を見せる場面もないのである→野菜炒め(キャベツ、ピーマン、ベーコン、ニンニク、生姜)、トマトとハムのサラダ(新生姜、バルサミコ酢、オリーブ油、粉チーズ)、黒あわび茸炙り、コンビーフ入りオムレツ、茗荷と油揚のおつけ、ご飯半膳(塩昆布、梅干し)、ビール中瓶×1→Mac側の「メモ」アプリが同期されないので、「メモ」メニューの「アカウント…」から「システム設定」を呼び出し「iCloud」の「メモ」の同期をいったんオフにしてまたオンにしてみたところ、メモの同期がはずれ、Mac側のメモがすべて消えてしまった(同期をオフにしたら消えるのは想定内だが、ふたたびオンにしても復活しないのは想定外だった)。いろいろ試してみたが、結局、1.「メモ」アプリを終了 2.「システム設定」の「iCloud」で「メモ」の同期をいったんオフ、すぐにオン 3.「メモ」アプリを起動、で復活した。「メモ」アプリを起動する前に「システム設定」の「iCloud」で同期をオンにしないといけないようだ。覚書→明日明後日の道の確認。A星家までとからが割と複雑なことを再確認。「まで」は着いていけば大丈夫と思うが、はぐれた場合を考え一応→『哀しみのトリスターナ』(原題『Tristana』、原作:ベニート・ペレス・ガルドス、監督:ルイス・ブニュエル。カトリーヌ・ドヌーヴ、ロラ・ガオス、ヘサス・フェルナンデス、フェルナンド・レイ、フランコ・ネロ。1970、伊仏西Mercurio Films S.A.)「物語の進行に従ったカトリーヌ・ドヌーヴの変わり様が素晴しい」という感想はこれまで何度か観た際と同様だが、観るほどに謎−−鐘の舌がペニス(亀頭)に似ているのだがと思った矢先にドン・ロペ(フェルナンド・レイ)の生首になる意味、トリスターナ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の脚に腫瘍ができて切断に至る意味、キリスト教の否定、この映画で金≠ノ持たせた意味、トリスターナとオラーシオ(フランコ・ネロ)が暮らした間の様子(まったく描かれない)、終幕の巻き戻しの意味、等々−−が積み重なっていく。自由についての映画だと言われればなるほどそうかなとも思うが、それでわかった気になれるわけでもない。で、結局、ドヌーヴの魅力に逃げてしまうという、今回もそんな鑑賞であった→明日の支度をして、午前3時就寝。
6月10日(土) 朝7時起床。白湯、マヌカハニー→茗荷と油揚のおつけ、おむすび二ケ(梅、塩昆布)→午前9時半出立。〈サミット〉で買い物(葡萄酒、歯磨き)してから、用賀ICより千葉へ向かう→大橋JCTから湾岸道路経由東関東自動車道→11時半過ぎ成田山新勝寺到着。待ち合わせの一時間半前に着いてしまった→氷あずき啜って休憩し、しばしぶらぶら→午後1時過ぎA星さん御一行と合流し鰻で昼→うな重〈大黒屋)→iPhoneの「マップ」のカーナビを利用してA星さん宅へ。まったく迷わず。大したものだ→午睡→宴もたけなわ、くらいのところから参加。初対面の音楽家Uさんが紹介してくれたEmijiやアンジェリーナ・ジョーダンの歌に驚く(しかしEmijiについては、帰宅してから検索してもまったくヒットしなかった。間違えて覚えたかもしれない)。酔っ払ってからは、畏れ多くも持参のギターを弾いてO形が歌うという仕儀に至ったが、恥ずかしさも後悔もなく、なんだかただただ楽しかった。アヒージョ一杯、ビールロング缶×1とちょっと、紅白葡萄酒×5〜6杯→午前1時就寝。
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