2023年06月30日

6月まとめ(21〜30日)


大槻義一『背くらべ』、渡辺邦男『武蔵坊辨慶』、コーエン兄弟『バートン・フィンク』、千歳船橋〈End Roll〉、パスカル・プリッソン『GOGO』、スティーブン・スピルバーグ『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』、千歳船橋〈てんまさ〉、ミケランジェロ・アントニオーニ『夜』。

6月21日(水) 朝10時起床。白湯、マヌカハニー、バナナシェイク→ベーコンと赤緑ピーマンとトマトのペペロンチーノ→ポートフォリオまとめを確認し、ファイル転送サービスにて送付→『有難や三度笠』(監督:福田純。佐藤允、守屋浩、緒方燐作、堺左千夫、岡部正、野口ふみえ、八波むと志、浜美枝、広瀬正一、久世龍、中山豊、小西瑠美、向井淳一郎、児玉清、笹るみ子、田村奈巳、清水由紀、島津雅彦、三田照子、坂本武、桜井巨郎。1961、東宝)。『有難や三度笠』で守屋浩主演なので「有難や節」をモチーフにしたシリーズかと思ったら違った。守屋浩の「三度笠」シリーズの二作めで、劇中でも「有難や節」は鼻歌程度にしか出てこない。守屋浩が強くはあるが薄っぺらくてヘナチョコなのが却って効いているような気がするが、本作ではやはり若き佐藤允が後年の迫力もありつつ陽気で爽やかなところが見どころかなと思う。あとは浜美枝と八波むと志。話の流れや演出については、特に言うこともないかな、と思うがどうだろうか。一応時代劇だが台詞に現代の言葉や風俗が出てくる塩梅は面白かった→菊水堂ポテトチップス、釜揚げわかめ胡麻そば(うずらの卵×3)、ビール中瓶×1→午睡→姪の赤子を見に行ったO形が村山うどんをもらってきてくれたので、早めの晩。天ぷら(春菊、かき揚げ、海老)、村山うどん、ビール中瓶×1、ホッピー×1/2→風呂→空豆で金宮酎ハイ×3。午前2時就寝。
6月22日(木) 朝10時起床→味噌湯、磯部焼き→食後眠くなり横臥→午後老父買い物代行および所澤医院付き添い。出がけに心臓が痛いと言い出し心配したが、受診が終わったころにはなんともなくなっていたので、〈ダイエーグルメシティ〉にも寄る→帰途〈サミット〉で買い物→遅い昼に鯖押し寿司×3とビール中瓶×1→シャワー→『’76歌声はひばりと共に』(美空ひばり。1976)。TV東京で放映された、当時のコンサートの模様(美空ひばり芸能生活30周年記念公演。コマ・スタジア創立20周年記念。1976年6月3〜27日 新宿コマ劇場)。この頃の美空ひばりはもう声や歌い方が湿っぽくて好みではないのだが、それでもさすが、とうならされる。最後に「歌は我が命」が聴けたのもよい(氷川きよしの歌唱と比較するのも一興)。映像作品(というかコンサートの構成)としては、意外にひばりが出てこない時間が長かったり、その間に「マツケンサンバ2」でもお馴染みの腰元の群舞があったり、ひばり出てきても録音の歌を流しながらただ回り舞台をくるくる回っていたり、といったところは面白かった。歌唱曲目は、悲しき口笛、私は街の子、越後獅子の唄、リンゴ追分、私のボーイフレンド、あの丘越えて、ふるさと太鼓、お祭りマンボ、花笠道中、娘船頭さん、人生将棋、やくざ若衆祭り唄、ひとすじの道、芸道一代、歌の里、涙、ひとりぼっち、雑草の歌、歌は我が命→天ぷら(茄子、ししとう、舞茸、にんじんかき揚げ、海老かき揚げ)、村山うどん〈大根おろし、おろし生姜、茗荷)、ビール中瓶×1、御酒×1→夜10時頃就寝。
6月23日(金) 午前11時起床白湯、マヌカハニー→釜揚げうどん(昆布出汁、大根おろし、生卵)→本日と明日は節制することにして、昨晩から昆布と豆類を水に浸けておいたので、二日分のダールスープを製作→昼に五種のダールスープ(ニンジン、大根、どんこ、ニンニク、生姜、クミンシード、カルダモン、コリアンダー、クミン、ターメリック、パプリカ、ヒン、塩、ウスターソース)→『背くらべ』(監督:大槻義一。川津祐介、常田富士男、石川竜二、乙羽信子、末永功、島かおり、三崎千恵子、川村禾門、土紀洋児、小林十九二、多々良純、中村是好、田中晋二、草香田鶴子。1962、松竹)。1.家族愛、2.友情、3.若い二人の愛情と未来、4.当時の田舎と都会の世相、の四つを織り交ぜた物語と思うし、その結果うまく当時の世相と家族愛の物語としてまとめられていると思うが、3.(主人公・勝田貞夫=川津祐介とその恋人/織物工場の娘・村上愛子=島かおりの恋愛と結婚)に関しては、貞夫が愛子の工場に養子に入るという話の顛末も含めて、尻切れトンボという印象があった。あと貞夫が北千住のおじさん(多々良純)の工場で挫折を味わい地元に帰るという顛末も、おじさんの対応が具体的に描かれなかった点、物足りなかったとも思う。その辺を描き込んで一時間半くらいにしてもよかったのではないかと思ったが(ちなみに尺は66分)、普段は優しくまた息子二人を少し距離を置いて見つめている母親(乙羽信子)が貞夫と弟(石川竜二)に命令≠キる場面は、親のありがたさというものが伝わってきて、自然に目頭が熱くなった。ちなみに企画は監督の師匠に当たる木下恵介。脚本は同門の山田太一がが担当。山田太一はやはり喜劇よりもこの手の話のほうがうまいのではと思ったが、果たして→午睡→B電子仕事、本日連絡いただいた分二本をひとまず形に→五種のダール・スープ(納豆、タラモサラダ)→『夜の最前線 東京(秘)地帯』(監督:井田探。郷^治、桑原幸子、岡崎二朗、深江章喜、牧まさみ、大泉滉、相川圭子、若水ヤエ子、原田千枝子、中庸子、森みどり、由利徹、沢たまき、藤竜也、南廣、梶芽衣子。1971、日活)。タイトルバックに日吉ミミ『男と女のお話』が流れ、田舎から出てきた加賀三郎=郷^治が町をさまよい、裸の女が出てきてタイトル、という流れのテンポが悪くて観続ける意欲が半減してしまうのだが、その後30分ほど、ボクシングジムで島吟一=岡崎二朗と出会い東京での運命が転がっていく流れは小気味よかった。前半の、大泉滉演じる男娼を使った笑いとか、中盤あたりのしつこいキャットファイトとか、今となっては感覚的に寒い感じがするのはこの時代の作品だから仕方ないか(ただし郷^治と若水ヤエ子の濡れ場はバカバカしくてくだらなくて面白かった)。しかし大泉滉の「おかま」の起用についてはのちに由利徹扮する中年のゲイと郷^治の濡れ場(およびハッテン場の描写)を唐突と見せない手段だったようにも思えるし、物語の中で郷^治と岡崎二朗がひと息つくのが決まって同じ工事現場だったりというのも、本作がよくまとまっているような印象を与えるのに効果を発揮しているように思う。そしてなにより郷^治と岡崎二朗が騙し騙され追われて追って(前者はもっぱら岡崎二朗だが)いくうちに次第にバディ感≠醸し出していく流れのグルーヴ感のようなものは心地よい(やや硬さは感じるが、このふたりの切れ味が本作のピリッとした味わいに効いていると思う)。郷^治がヒロイン安西洋子=桑原幸子を救ったあとに寝て、「オレうまかったか?」と聞くのも可笑しいが、それに対し桑原幸子が「借金を帳消しにしてくれたお礼に寝ただけだから、うまいもへたもないわ」と返し、郷^治が振られてしまうというのも、非情という点では女のほうが上手で、暴力に訴えるだけの男は所詮女に敵わないと暗に言っているようでこれまた何か深いものも感じさせられた(そんなこともないのかもしれないが)。沢たまき、藤竜也、南廣のカメオ出演?は今となってはそんなに驚きをもたらすものではないと思ったが、最後の最後に梶芽衣子を出してくるところはなかなか。主題歌が[]︎恋人にふられたの、という部分のみ合っていてあとは(今となっては)雰囲気に沿わないのは残念かな→シャワー→『ツインズ』(原題『Twins』、監督:アイヴァン・ライトマン。アーノルド・シュワルツェネッガー、トニー・ジェイ、ダニー・デヴィート、クロエ・ウェッブ、ケリー・プレストン、デビッド・エフロン、デヴィッド・カルーソ、フランセス・ベイ、ローズマリー・ダンズモア、マーシャル・ベル、トレイ・ウィルソン、モーリー・チェイキン、トム・マクライスター、ネヘマイア・パーソフ、スヴェン=オーレ・トールセン、ガス・レスウィッシュ、ボニー・バートレット。1988、米Universal Pictures)。家族が再生する物語として感動的ではあるし(終幕の双子がふた組生まれているというくだりはちょいとじんときた)、弟ジュリアス=アーノルド・シュワルツェネッガーがやたらと強いのもなんだか可笑しく、兄ヴィンセント=ダニー・デヴィートに獲物を盗まれたウェブスター=マーシャル・ベルがあと一歩のところで鎖の山の下敷きになるところも笑った。ダニー・デヴィートがいかにも小悪党らしい面構えなのもさすがであった。シュワルツネッガーが「I'll be back」とつぶやく小ネタもあった。ということで楽しめはしたのだが、コメディとしては中途半端で物足りなくはあった。ジュリアスの優等生・スーパーマンぶりとヴィンセントの悪党ぶりのバランスが悪いのが一番の原因かなと思うが(ヴィンセントは劣等生かもしれないが小悪党としては出来がよい)、ふたりの恋人も、主にヴィンセントの周囲の悪党たちも、突き抜け具合が今ひとつ足りない。ヴィンセントの非情さが少し目立ったくらいで、借金取りのクレイン三兄弟は思ったよりもインパクトが弱かった(ジュリアスの強さを際立たせるだけの役割に思えた)。と、少し醒めて観てしまうと、ジュリアスとヴィンセントがその犠牲になったところの複数のエリート男性の性液を混合することで優れた人間を作る。その人間を研究対象として世間から隔絶された孤島で育てる≠ニいうことの倫理的な問題に触れなかった(せいぜいウソをついた研究医のひとりでウソをついたミッチェル=ネヘマイア・パーソフが二人の母親のメアリー・アン=ボニー・バートレットに殴られるだけ)という点に疑問が残り、楽しい気分が少なからず削がれるという結果になった。惜しい→本日は飲まずに就寝。午前3時頃。
6月24日(土) 昼頃起床。白湯、マヌカハニー→五種のダールスープ(ちりめんじゃこ、粉チーズ)→『不死鳥 美空ひばり in Tokyo Dome』(美空ひばり。1988)。1985年以来の体調不良(1987年には入院含め約半年の休養)を乗り越えたのちの、1988年4月11日東京ドーム柿落としとなるコンサートの模様を収録。実に死の一年前だが、このとき51歳、ずっと以前(まだ子供の頃)にこの中のいくつかの楽曲の映像を見た際には、年寄りが色気付いて気持ち悪いな、と思ってしまったのだが、今見るとむしろ年齢なりのいい感じの可愛らしさが感じられて、『'76歌はひばりと共に』のときの歌唱よりも楽しめた。「あの丘越えて」から「お祭りマンボ」への切り替わりとか曲のつなぎの工夫も面白く、またバリトン・サックスがリードする「リンゴ追分」など編曲に面白さを感じた楽曲もいくつかあった。終盤の演歌調のメドレーは個人的な趣味としてはやや退屈を覚えるが、総じて言えば楽しめたコンサート/コンサート映像であった。歌唱曲目は終りなき旅、悲しき口笛、東京キッド、越後獅子の唄、私は街の子、あの丘越えて、お祭りマンボ、ひばりのマドロスさん、三味線マドロス、波止場だよお父つぁん、鼻唄マドロス、初恋マドロス、港町十三番地、花笠道中、車屋さん、柔、みだれ髪、塩屋崎、津軽のふるさと、リンゴ追分、真赤な太陽、俺達の歌今どこに、ひばりの渡り鳥だよ、おまえに惚れた、裏町酒場、悲しい酒、われとわが身を眠らす子守唄、花蕾、さんさ恋しぐれ、裏窓、NANGIやね、暗夜行路、KANPAI!!、ひばりの佐渡情話、涙、ある女の詩、愛燦燦、人生一路。ちなみにこの映像を見た当日は、奇しくも美空ひばりの34回めの祥月命日だった→『武蔵坊辨慶』(原作:比佐芳武、監督:渡辺邦男。高堂国典、黒川弥太郎、山田五十鈴、岡譲二、清川荘司、光一、永井柳筰、山田長正、小高まさる、佐山亮、岬洋二、小杉義男、高峰秀子。1942、東宝映画/日本劇場)。物語自体は弁慶の太刀千本奪いから牛若との出会いまでをよく知られた話のまま描いたという趣。その中で平清盛=高堂国典の元から逃れてきた白拍子小式部=山田五十鈴を弁慶が救うわけだが、従者(友達?)の三郎と共に小式部を想う心情の描き方が本作の味わいの出汁となっているように思う。山田五十鈴はただただ美しく、舞い歌う様子がとても魅力的なのは、非情によく効いた隠し味か。山田五十鈴歌う「逢ひみても」という楽曲もなかなかで、大陸的な趣から服部良一かなと思ったら果たしてそうだった。高峰秀子扮する牛若は最後の最後、五条の橋での弁慶との出会いとその後の治承・寿永の乱をさらっと紹介するエピローグにのみ登場するが、日本人形のような現実味を持たない美しさにはっとさせられた。戦時中の映画らしく、冒頭に「征かぬ身は/いくぞ援護へ/まっしぐら」という標語が掲げられるが、今本作を観るとここで絵が描かれている驕り高ぶった平家(平清盛)は大日本帝国のメタファーにしか思えない。しかし当時の日本人は、平家(平清盛)を鬼畜米英と見ていたのだろう。清盛を諌める息子・重盛の存在は、当時の日本人にはどのように映ったのだろうか→昨日製作したダールスープに舞茸、ぶなしめじ、トマトを追加→シャワー→『バートン・フィンク』(原題『Barton Fink』、監督:ジョエル・コーエン。ジョン・タトゥーロ、I・M・ホブソン、ランス・デイビ、ミーガン・フェイ、デイヴィッド・ワリロフ、スティーヴ・ブシェミ、ハリー・ブーギン、ジョン・ポリト、マイケル・ラーナー、ジョン・グッドマン、トニー・シャルーブ、ジョン・マホーニー−−叫び声のみウィリアム・プレストン・ロバートソンが担当−−、ジュディ・デイヴィス、リチャード・ポートナウ、クリストファー・マーニー、イザベル・タウンセンド。1991、米20th Century Fox)。一見難解風な映画だが、主人公の劇作家バートン・フィンク=ジョン・タトゥーロが、本拠地であるニュー・ヨークで自分が目指す演劇に限りなく近づいていながら目先の金に目が眩んでハリウッドの映画シナリオ・ライターの職を選ぶ、という出発点からすべて人生の選択を誤っていく点(ハリウッドでの宿、隣室の宿泊客チャーリー=ジョン・グッドマンとの交際、先輩ライターとしてすでに落ちぶれていたビル・メイヒュー=ジョン・マホーニーを頼ろうとしたこと、その先輩ライターの愛人=ジュディ・デイヴィスとの情事等々)から考えると、人生≠ニいうもののメタファー、という理解が成り立つが、それだと安易か。小市民と邪悪な存在(悪魔)という考察も目にして、なるほどそうかな、とも思ったが、しかし個人的な感覚としては作品は書いてもらうが制作はしない≠ニいう賽の河原のような宣告と、浜辺を彷徨っているうちにホテルの部屋に飾ってあった絵とまったく同じ光景に捉えられてしまう終幕も含めて(とつぜんカモメが墜落死する点もお前は失敗した。この先は地獄≠ニ言っているようだ)、人生とは選択を誤って無間地獄に陥るものである≠ュらいの解釈がちょうどよいように思う。とはいえ、舞台となるホテル・アールはなんだか悪魔の巣窟めいているし、チャーリーに扮するジョン・グッドマンの芝居が気を衒ったものでないのに怖い点(快演というか名演というか)が却って悪魔っぽく思えてくるし(劫火に焼かれるようなホテルの廊下を平気で歩いてくるし)、悪魔に魂を売るような描写もあるし、そういう解釈も念頭に置きながら味わうのが面白いのではないかとも思う。しかしそこまで考えてしまうともう一度観たい(ほんとうにそうかどうか確かめたい)気持ちが萎えてしまうところが、また不思議な作品であると思う。ただし箱≠フ謎は−−中に入っているのはオードリーの首だろうし、見当はついているものの−−まだ解けずじまい→菊水堂ポテトチップス、茄子ピーマン炒め(バルサミコ酢、粉チーズ、ニンニク)、五種のダールスープ、クスクス、ビール中瓶×1、牛乳→夜10時就寝。
6月25日(日) 深夜起床→『駆込み女と駆け出し男』(原作:井上ひさし『東慶寺花だより』、監督:原田眞人。大泉洋、満島ひかり、高畑淳子、澤村レイコ、でんでん、堤真一、宮本裕子、北村有起哉、戸田恵梨香、武田真治、藤沢かりん、池原猛、木場勝己、円地晶子、キムラ緑子、樹木希林、松本若菜、山崎一、陽月華、松岡哲永、内山理名、山ア努、嵐芳三郎、中村嘉葎雄、玄里、中村育二、橋本じゅん、麿赤兒、大鳥れい、神野三鈴。2015、松竹)。大泉洋が主演という点で期待度は下がっていたのだが、大泉洋意外によかった(早口で捲し立てるのが藝風ではなく藝になっていたといったら言い過ぎか)。話の組み立て方も丁寧だし、ちょっと葛飾応為の浮世絵の陰影を思わせる絵造りもよいし、途中長いかなと思ったところも観終えてみると必然性を感じさせられた(終盤の想像妊娠のくだりとか)。ただ、高畑淳子、でんでん、キムラ緑子、樹木希林、山ア努、中村嘉葎雄といった年代や経歴の役者とそれ以外とが、技量もそれぞれが醸し出す雰囲気も、別の世界の役者のように思えてしまうところが少なくなく、それはもうしょうがないのだろうが、やはり残念ではある(麿赤兒については出番が少ないこともあり、そういう差異の外にいたように思ったのだが)。また「それ以外」の醸し出す空気というか、まあ最近のTVドラマで見慣れているからだろうが、やはり映画というよりは二時間ドラマのように見えてしまう点も、まあしかたがないか。その中で満島ひかりと戸田恵梨香については、家のTVのセコい画面からも何か常とは異なる妙なるものを感じられたという点は、面白いと思った→割れ煎餅、おむすび一ケ、ビール中瓶×1→午前4時半就寝→午前昼頃起床。白湯、マヌカハニー→五種のダールスープ、クスクス、納豆、うずらの卵×2→寝起きに隅田川馬石「居残り左平次」。なかなかよい→『美空ひばりコンサート「ブラジル サンパウロ公演」』(美空ひばり。1970)。1970年8月8、9、10日ブラジル サンパウロ、イビラプエラ体育館でのコンサートの模様。おそらく現地在住の日系人向けのコンサートで、衛星劇場の紹介文によれば「アルゼンチン、パラグアイ、ペルー、ボリビアやアマゾン地方からも日系人が団体で観に来た」とのこと。だから音楽的にブラジルに寄ったという部分はまったくと言っていいほどないが、ドラムとエレキギターが活躍する様子は時代ならではだろうけれども、まあ面白かった。粗い映像はともかく、舞台の設えやバンドの佇まいなど映像的に面白い箇所もあり(美空ひばりがボブのかつらというのも珍しいのではないか)、また音楽とも映像表現とも関係ないが、舞台袖にものすごい巨大な男(警備員?)がいるのがやけに印象に残った。歌唱曲目は関東春雨傘、大川流し、江戸の闇太郎、車屋さん、やくざ若衆祭り唄、ひばりの佐渡情話、どっこい俺がいる、私は街の子、悲しき口笛、東京キッド、越後獅子の唄、ひばりの花売娘、港町十三番地、花笠道中、あの丘越えて、斎太郎節、久保田節、佐渡おけさ、相馬盆唄、リンゴ追分、芸道一代、哀愁波止場、別れてもありがとう、人生一路、真赤な太陽、柔、悲しい酒(セリフ入り)、人生将棋。ドラマーとトランペッターは日本から連れてきた人とのことだが、名前は控えなかった→本日私の誕生日ということで、ひさしぶりに〈End Roll〉にてご馳走。セミドライトマトとオリーブのマリネ、焼きとうもろこしのムース帆立醤油コンソメ、北杜市明野町産蕪のロースト、馬肉のタルタルワサビ山椒、仔羊のロースト(持ち帰り)、宇宙ブルーイング/モーメント×1、オヤジの1リットル(Le Kil du Dab2019/SYLVERE TRICHARD/ボジョレー)×1/4。料理も葡萄酒もとてもおいしく満足したのだが、やはり最近どこか調子が悪いのか、馬肉のタルタルを肴に葡萄酒二杯くらいやったところで肩が痛くなり急に血圧が下がる、たまにある状態になった。無理をして台なしにするよりはと、マダムにわがままを聞いてもらってメインのつもりだった仔羊のローストを折にしてもらった(容器がないというので、近くで買ってきますよと話したら、じゃあ皿ごと持って帰ってくださいと、親切にしてくれた)。ちょいと反省。しかしご夫妻の顔をひさしぶりに見ることができたのはよかった。近々皿を返しがてら、また訪ねよう→O形は買い物をするというが、先に帰らせてもらった→『笑点』の演藝コーナーだけ見ていったん就寝。二時間ほど→シャワー→NHK BSプレミアム『2時間でまわる東大寺』見ながら持ち帰った仔羊のローストとオヤジの1リットルの残り(グラス二杯ほど)。仔羊のローストは冷めても肉がいい塩梅で、添えられたソース+肉汁がまたうまかった。買って帰ったパン・ド・カンパーニュで拭って満足。『2時間でまわる東大寺』は、向井理と尾野真千子のおしゃべりが、内容はともかく楽しげなデートのような口調がやや鬱陶しかったし、知っていることも多々あったが、豆知識的に知らないことの紹介も多く、楽しめた→午前4時過ぎ就寝。
6月26日(月) 昼頃起床。白湯、マヌカハニー→五種のダールスープ、クスクス→8/18の告知の件、O氏のみ返事がないが、あとでいくらでも修正は効くので、ひとまず煽り文句をレイアウトした画像を作成し、店に告知公開依頼を送付→B電子原稿修正→夕方〈End Roll〉に皿をお返しに行こうかと思っていたが、急激に眠くなり、また一杯やって具合悪くなったらいけないなとO形に託すことにした。申し訳ない→もしかしたらこの眠気は空腹の所為ではないかと思い、釜揚げそば拵えて食べてみる。少し目が覚めたような気もするが、劇的ではないので、空腹が主な理由ではないようではある→『その木戸を通って』(原作:山本周五郎、監督:市川崑。中井貴一、フランキー堺、岸田今日子、井川比佐志、浅野ゆう子、榎木孝明、うじきつよし、桜金造、石坂浩二、神山繁。1993、フジTV)。Wikipediaによれば、「日本で初めてのハイビジョン放送の試験放送向けのテレビドラマとして1993年にフジテレビが制作した」とのこと。ふたつの国際映画祭(ベネチア、ロッテルダム)での上映とBS放送で一度放映された以外は公開されなかったが(試験放送用だからか)、映画祭用に35mmフィルムに変換されたものが2008年に劇場公開されたそうだ。物語は、一度決まった婚礼を、さ迷い込んできた記憶喪失の女を娶るために無にした若侍を、周囲が叱りつつも理解し受け入れてくれるという、山本周五郎的な人間像で編んだもので、その味わいはよく伝わってくるのだが、観ていてなにかもうひとつピリッとしない。たとえば山本周五郎の似たような題材の田坂具隆『冷飯とおさんとちゃん』(1965年)の味わいと頭の中で比較すると、どうにも何かが足りないような印象であった。初期ハイビジョンの画質のクリアだがペラペラしたような所為かな、その割には役者は揃っているな、などと考えていたら、監督が市川崑であることに気づく。だからというわけではないが、もう一度観てみようかな。見落としがあったら悔しいので→菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、オイルサーディン、パン・ド・カンパーニュ、五種のダール・スープ、ビール中瓶×1→7/8のT後のイベントのセッションでHONNERのアルト・メロディカ(鍵盤ハーモニカ)を使おうと思い練習。つば抜きのゴムを外そうとしたら壊れてしまい(加水分解?)、楽器の内側に入り込んだゴムのクズを取るのに楽器を分解。まあなんとかなったが、穴を塞がないと音が出ないので、とりあえずセロハンテープを貼った→セッション曲「Descarga Cachao」練習のための音源打ち込み→シャワー→『生きる』(監督:黒澤明。志村喬、田中春男、藤原釜足、小田切みき、日守新一、千秋実、左卜全、山田巳之助、小川虎之助、河崎堅男、中村伸郎、菅井きん、三好栄子、清水将夫、木村功、金子信雄、関京子、浦辺粂子、小堀誠、南美江、伊藤雄之助、谷晃、市村俊幸、村上冬樹、青野平義、加東大介、宮口精二、千葉一郎。1952、東宝)。つい重厚な名作、という先入見で観てしまうが、何も予断を持たずに素直に眺めると、志村喬の芝居と扇情的な物語構築と個性的な構図、もっぱらこの三点で成り立っている、というか、この三点に寄りかかっている映画のようにも思える。そう思えてくると、重厚な名作ではなく頭で考えた薄っぺらい映画、とも思えてきてしまう。その見方が妥当かどうかはわからないが、通夜の席での渡邊勘治=志村喬の死に向かいながらの仕事ぶりに関する議論など、人間というものの心情を鋭く抉っているようでいて、それほど深い会話でもないように思う。当時の衝撃は今となってはわからないが、今となってはこう話の流れの中ではよくあるありきたりの会話のようにも感じられる。渡邊勘治が小説家=伊藤雄之助の連れられて夜の街を遊び呆ける場面は名場面と思うし、ブギウギのピアノ弾きがいる店で「ゴンドラの唄」を歌い始めるところは心動かされる。市民課の女性職員=小田切みきの影響で生き始めるところなども名場面と思うし、細かい部分の編集による効果(冒頭のたらい回しによる緊張感の昂りから爆発に至るところとか、ショックのあまり音を失うところとか、渡邊勘治の息子に対する思いを表す場面とか)にも目を見張るものはあるが、どうも頭で考えたような表面的な表現技巧のほうが、今回の鑑賞では感じられた。まあしかし、左様にあまり感心できなかったところを列挙した感想を書いただけでは語りつくせないところが、本作の大きさなのではあろう→ズッキーニのソテー(ニンニク)、鰯のプチトマト煮(ニンニク)、パン・ド、カンパーニュ、ビール中瓶×2→午前4時半就寝。
6月27日(火) 昼頃起床→大根と油揚のおつけ(生卵、納豆)、おむすびニケ(梅、塩昆布、海苔)→『生きる』復習→どうにも眠くて午睡。体調はやはりどこかどうかなっているようだ→『リボルバー』(原作:佐藤正午、監督:藤田敏八。柄本明、尾美としのり、沢田研二、南條玲子、長門裕之、佐倉しおり、村上雅俊、小林克也、吉田美希、手塚理美、倉吉朝子、山田辰夫、村田雄浩。1988、シネ・ロッポニカ)。序盤30分でバラバラと登場した人たちが、中盤過ぎから徐々に関係を持つようになって、終盤の札幌では一堂に会する、という構成が面白いし、その映画としての組み立て方もよかった。で、その札幌の公園に主要な人物が集合してからの展開も、ベタといえばベタだが期待通りの楽しさがあった。しかし観終えてみるとこの二時間弱はなんだったんだろうな、という感想が出てくるような、なんだか主題のない印象ではあったが、それでも退屈しなかったのは、「バラバラと登場した人たちが、中盤過ぎから徐々に〜」の塩梅のよさと、柄本明と尾美としのりのコンビネーションの可笑しさか。後者は変に笑いを取ろうとしていない(芝居、演出共に)のが、却ってよかったと思う→大根と油揚のおつけ/菊水堂ポテトチップス、チッチャロン・バラット、オイルサーディン、パン・ド・カンパーニュ、ビール中瓶×1→シャワー→『山猫』(原作:ジュゼッペ・ランペドゥーサ、原題『Il gattopardo』、監督:ルキノ・ヴィスコンティ。バート・ランカスター、ロモロ・ヴァリ、ピエール・クレマンティ、リナ・モレリ、アラン・ドロン、フランコ・ギュラ、ルッチラ・モルラッキ、ジュリアーノ・ジェンマ、セルジュ・レジアニ、パオロ・ストッパ、クラウディア・カルディナーレ。1963、伊Titanus)。恥ずかしながら初見。186分のオリジナル版。19世紀後半のイタリア統一運動(リソルジメント)下のシチリアを背景にイタリア新時代の到来と貴族社会の没落を描いた作品だが、没落といってもまだまだ華奢な貴族社会の活写と、その中に咲いた大輪の花アンジェリカ=クラウディア・カルディナーレの鮮やかさ(貴族たちがみな気圧されて押し黙ってしまう)以外のことについて語るのは、まだ私には荷が重い。ただ、ここのところもっぱら小ぢんまりした作品ばかり観ていたので、観る者の退屈すらも引き受けてしまうような懐の深い映画である点は大いに味わった。またいつか、贅沢に飲み喰いしながら観たい映画だ→レタスとトマトとオイルサーディンのサラダ、ナスピーマン味噌炒め、、鴨燻製、パン・ド・カンパーニュ、ビール中瓶×1、赤葡萄酒一本弱→午前4時半就寝。
6月28日(水) 午前10時起床。白湯、マヌカハニー→B電子新製品、実は省スペースにならない、ということが判明したので書き直し。すぐに完了→味噌湯(溶き卵)、梅おむすび一ケ(海苔)→『GOGO(ゴゴ) 94歳の小学生』(原題『GOGO』、監督:パスカル・プリッソン。プリシラ・ステナイ、チェプコエチ、ディナ、リーダーズ・ビジョン小学校 校長。2020、仏Le Pacte)。ケニアの小さな村で助産師として暮らしてきた、3人の子供、22人の孫、52人のひ孫を持つ94歳のおばあちゃん=GOGOが、学齢期のひ孫娘たちが学校に通っていないことを知り、自分も学校に行けなかったことを悔いてひ孫娘たちと学校に通い始める様子を追ったドキュメンタリー。本作の説明としては左記の通りではあるが、GOGO(プリシラ・ステナイ)が自分の取りあげた子供が教職についている学校で勉強を教わったり、クラスメイトの子供たち(目の輝きが素晴らしい)に助けてもらったり、学校の遠足で他の村(部族)のご老人たちと交わったり、という世代間や生活圏を超えた交流の様子に、人間はかくありたいと思わせられる。GOGOだけでなく登場するすべての人たちの、自分の周囲の世界(自然や人間)に対する眼差しからは、学ぶべきものがたくさんあると思った。監督は『世界の果ての通学路』(2012)を撮った人。知らなかった。この映画は観ていないので、一度観てみたい→シャワー→『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』(原題『Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull』、監督:スティーブン・スピルバーグ。レイ・ウィンストン、ハリソン・フォード、ケイト・ブランシェット、ジム・ブロードベント、シャイア・ラブーフ、ジョン・ハート、カレン・アレン。2008、米Paramount Pictures)。前作の『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』にて、物語としてではなくシリーズとしては完結したかな、と思っていたので(主に完成度という点で)、未見だった本作にはあまり期待していなかったが、インディ・ジョーンズの冒険に若者が絡んできたとおもったらなんと実の息子だった、という展開は、その後の新しい物語を予感させるものだった(といっても、結局今年2023年まで新作は作られなかったのだが)。その、若者が冒険に参加してから息子だったと判明する(その母である過去の恋人が登場する)までの間の長さが絶妙な感じで、これまで同様の冒険譚に新たな命を与えていたと思う。これはこれで傑作→レタスとトマトと赤ピーマンとアボカドとオイルサーディンのサラダ、枝豆、鯖トマトソース煮、パン・ド・カンパーニュ、チーズ、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1/2→夜10時頃就寝。
6月29日(木) 午前11時起床→鳥ささみとじゃがいものスープ(玉葱、キャベツ)、目玉焼き、トースト→8/18のマダム高岡岡地、昨晩〈CON TON TON VIVO〉のホームページにも掲載されたので、告知開始→夕方千歳船橋駅前に出て、老父から頼まれた防虫剤等の買い物。ついでに一口餃子の〈てんまさ〉を初訪問(生餃子持ち帰りは以前一度)。ごぼうサラダ、茗荷のおしたし、餃子計15ケ、ビール中瓶×1.5。16時開店だが開店直後は空いていることが多いとのことで、餃子うまくて大きさもおやつにちょうどいいし、居心地いいしで、また来よう→帰宅後午睡→8/18の告知チラシ作成し、〈東京カラー印刷〉に印刷手配→シャワー→『夜』(原題『La notte』、監督:ミケランジェロ・アントニオーニ。ベルンハルト・ヴィッキ、マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、マリア・ピア・ルッツィ、ギット・マグリーニ、ヴィンセンツォ・コルベラ、ジョルジオ・ネグロ、モニカ・ヴィッティ。1961、伊Dino de Laurentiis Distribuzione)。決して難解ではなく、むしろ表面的な話はとても単純(作家が主人公=マルチェロ・マストロヤンニ、その妻=ジャンヌ・モローを愛していた友人=ベルンハルト・ヴィッキが死の床にいて、見舞ったあとはサイン会、ナイトクラブ、富豪のパーティへ。主人公が病院で色情狂の女につかまるのはまあその後の浮気への伏線といえば伏線か。主人公と妻はナイトクラブ以外では離れ離れで、それはふたりの現在の関係の案に示している。主人公はパーティで富豪の娘=モニカ・ヴィッティと仲よくなるが、妻はそれについて心動かれず、夫も自分ももう心のつながりはないと悟る。しかし悟りはするものの、ふたりが別れるか別れないかわからないまま、遠景のカメラがパンしてFINE)なのだが、その話の中にある核心と、核心とは無関係にもそうでなくも思える描写(町の若者の喧嘩、ロケット飛ばし、ナイトクラブのダンサー、富豪娘とのゲーム等々と、およびすべての画面の一枚絵としての美しさ)の塩梅が妙なる魅力は放ち、わかったようなわからないような状態をずっと楽しませるような映画だった。変にわかるよりも、わかったようなわからないような状態を愛でるのが正解だなと思ったのは、またそういう状態で何度もこの映画を眺めたいと思ったからだが、そういう映画こそ映画というものではないかと思った。おそらく今では撮れない(興行的な意味もあるが、監督や関係者が完成まで我慢できるかどうかという点でも)類の映画だと思う→キャベツと赤ピーマンの塩昆布和え(酢、胡麻油)、鴨燻製、菊水堂ポテトチップス、てんまさひと口餃子×5ケ、冷やかけうどん(おろし生姜、うずらの卵×3)、ビール中瓶×1、ホッピー×1/2→午前4時就寝。
6月30日(金) 朝7時半起床→鳥ささみとじゃがいものスープ、パン・ド・カンパーニュ→老父買い物代行(サミットのみ)と通帳記帳→帰りに西荻窪に寄って〈フランクフルト〉、〈はつね〉と回ろうと思ったが、雨なので断念→〈サミット〉で昼その他購入して帰宅→寿司10ケ、納豆巻き3ケ、ビール中瓶×1→午睡→→『六本木の夜 愛して愛して』原作:笹沢左保『六本木心中』、監督:岩内克己。峰健二、中川ゆき、藤原釜足、淡路恵子、清水将夫、松村達雄、高島忠夫。1963、東宝)。新しい町故の活気と実のなさが混在する六本木と、そこで徘徊するほか術がない孤独な若者ふたりの生態とその末路を描いたという点では、可もなく不可もなくという印象だが、それだからなおさら、場面ごとが一枚絵として美しくあってほしかったとは思った(昨日ミケランジェロ・アントニオーニ『夜』を観た影響もあるだろうが)。首都高が頭上を走る前の六本木の姿が拝める点では貴重な映画ではあろう。主役の峰健二(峰岸徹)、中川ゆき共に新人で、峰健二(峰岸徹)は『ニッポン無責任時代』に続く三本めの出演、芝居は『ニッポン無責任時代』と同じ感じの大根。中川ゆきは「社交ダンスの父」中川三郎の娘で、幼少時から藝能の世界にいたとのことで、これがデビュー作のようだが、堂々たる演技だった(現在は中川裕季子の名前でタップダンサーとして後進の指導に当たっているとのこと)→納豆巻き4ケ、キャベツトマトピーマンしらす干しのサラダ、枝豆、ひと口餃子と鶏手羽中のスープ(大根)、おじや、ビール中瓶×1、ホッピー×1→夜11時頃就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記