2023年07月10日
7月まとめ(1〜10日)
スズキ・メロディオンM-37C購入、ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ『スキャンダル 愛の罠』(ラウラ・アントネッリ)、、ジェームズ・マンゴールド/ハリソン・フォード『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』、大曾根辰夫『七変化狸御殿』、ダライ・ラマ14世『Inner World』、新しいSNS「Threads」に参加、ペニー・マーシャル『プリティ・リーグ』、鍵盤ハーモニカ初披露、二川文太郎/阪東妻三郎『雄呂血』、「Echos of New Orleans」−−田村麻紀子(Vo, Cl)/ 公平昭宏(Bj)/高岡大祐(Tu)/木村おうじ(Dr)−− 於高円寺〈ムーンストンプ〉。
7月1日(土) 午前11時半時起床。白湯、マヌカハニー→ ひと口餃子と鶏手羽中のスープ(大根)、梅おむすび(海苔)→録画整理→「Descarga Cachao」のソロのアイデア思いついたので試してみる。手持ちの楽器だとテンポ的に難しいが、まあなんとかなるかな→シャワー→『あちらにいる鬼』再見(途中まで)→キャベツとトマトの塩昆布和え(しらす干し)、もやしニンジンひき肉炒め(ニンニク、生姜)、鴨燻製、醤油ラーメン(味玉1/2、焼豚)、ビール中瓶×1.5、ホッピー×1/2→また急に酔いが回り、映画とラーメン半分残して、夜8時頃就寝。
7月2日(日) 深夜起床→寝起きにふと思いつき、いろいろ調べた結果、やはり手持ちのHONNER melodica altoでは早いフレーズ(といっても私にとっての)が難しいと思い、またつば抜きのカヴァーが壊れたこともあるので、スズキのメロディオンM-37Cを購入してしまった。Youtubeで音色や演奏感については納得したものの、トランペット形唄口(楽器に付属)についてだけは不明だったが、まあこれは届いてみてからでいいか。動画で聴く限りでは演奏感は(古びたHONNERよりは)軽そうだし、音域が広いから多少は演奏の幅が広がるではあろう→と言っているうちに、スズキ・メロディオンのすべての唄口を比較レポートしている動画を発見(すがやしおりという鍵盤ハーモニカ奏者のYouTubeチャンネル)。音の違いは正直なところ微妙なところしかわからなかったが、使用感や選び方については大いに参考になった→『スキャンダル 愛の罠』(原題『La Gabbia』(籠、檻)、監督:ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ。トニー・ムサンテ、フロリンダ・ボルカン、ラウラ・アントネッリ、ラウラ・トロッシェル、クリスティナ・マルシラック、ブランカ・マルシラック。1985、伊Acta)。一年前(2022年9月)に観たのを忘れてまた観たが、感想は概ね同じ。「少女の頃に自分を弄んだ男(トニー・ムサンテ)と再会した女(ラウラ・アントネッリ)がその男に復讐する、という話が土台だが、憎しみだけでなく捨てきれない愛情がすべてを狂わせていく様の描き方がとても面白い。そして男のほうの、焼けぼっくいへの火の着き方も。ついでにいうと、男の現在の恋人は(何人かは知らないが)エディ・バウアーみたいなものを着ているのが、ラウラ・アントネッリのねっとりした色気と対照的なのも面白い。とはいえ、ラウラ・アントネッリも完璧ではなく、トニー・ムサンテと同じく大人の男女の間抜けなところを容赦なく表現していて、そこへの娘(ブランカ・マルシラック)の切り込み方がなんとも残酷でよい。SMをひとつのモチーフとしながら、SM的記号をあまり用いておらず、でも嗜虐の面白さを感じるのは、そういう関係の構築によるものかもしれない(と思ったが、果たして)。インテリアがバカみたいに豪華なところとか、タイトルバックも含めた音楽とか(娘が唐突に弾く狂ったキーボードの演奏も可笑しい)、笑いを多分に含んだ狂気の味付けも効いていたと思うが、とにかくエロと間抜けさの塩梅のよさが気に入った」。モリコーネの狂った音楽は全体的にカッコよいが(ズラウスキー『ポゼッション』でのアンジェイ・コジンスキーの音楽も想起させるが、ほかにもこういう味わいの映画音楽は多々あるだろう)、「娘が唐突に弾く狂ったキーボード」は映画冒頭(0:10:00くらいから)でも鳴っているのに今回は気づいた。あとやはり冒頭部分、マイケルとマリーが再開してからの脱がし合いがスロー・モーションなのは(ウォン・カーウァイと違って)効果があるように思ったとか、マイケルの拘束が両手バンザイから首に鎖と変わっていく意味とか、子供(マイケルの恋人エレーヌの息子)が「女の子は頭が悪くて困るな」というようなセリフを言った直後にマリーとジャックリーヌの母娘のケンカが始まりそこから母娘の悪事が破綻するところの軽い皮肉が面白いとか、細かいところに気づいたことはいくつかあった→もやしニンジンひき肉炒め、醤油ラーメンの残り、ホッピー×1/2→午前5時頃就寝→昼過ぎ起床→即席ラーメン(焦がしニンニク、玉葱みじん切り、胡麻、もやしニンジンひき肉炒め、焼豚、味玉1/2)→ギター練習。久しくサボっていたメトロノーム使用。サボっていたが、そんなに気持ち悪いほどにずれることはなかったが、まだまだ→晩の支度→ニンジンとしらす干し炒めとキャベツ千切りのサラダ(トリュフ塩、胡麻油、酢)、トマトと鴨燻製(オリーブ油)、鯖とぶなしめじのトマトソーススパゲティ(ニンニク、クミンシード、カルダモン、醤油、ウスターソース、赤唐辛子、黒胡椒、赤葡萄酒)、ビール中瓶×1、赤葡萄酒一杯→『さかなのこ』観ながらだったが途中で断念。普通の夜の(夕食を取る)時間帯にちょっと飲んだだけでダウンするのがなかなかよくならない→夜9時頃就寝→夜11時起床→『さかなのこ』(原作:さかなクン『さかなクンの一魚一会〜まいにち夢中な人生!〜』、監督:沖田修一。のん、西村瑞季、井川遥、三宅弘城、さかなクン、磯村勇斗、前原滉、三河悠冴、奥秋達也、鈴木拓、岡山天音、柳楽優弥、賀屋壮也、夏帆、豊原功補、宇野祥平、島崎遥香、長谷川忍。2022、東京テアトル)。「さかなクン」の自叙伝を原作とする劇映画で、原作を読んでないのでなんとも言えないが、子供の頃の主人公ミー坊がさかなクン扮するギョギョおじさんと出会い魚への興味をより一層掻き立てられる、というのは、物語の構造としてどうなのだろうかと疑問に思った。あとやはり細かい点だが、映画冒頭TV出演で成功したあとのミー坊(つまりさかなクン)が出てくるがすこし不相応とも思えるいい家に住んでいるな、というのも気になった。しかしそれらの点を除けば、ゆったりした作りの割には話のテンポが悪くなかったり、話の流れを省略したほうが鮮やかなのにと思いつつ観進めていくと省略をしなかったことで作り出されるテンポに必然性が感じられたり−−というのはその中で周囲の人(大人、先生、警官、不良少年たち、幼馴染の女子など)の主人公に対する優しさが際立たされるということだが−−、二時間と少し、十分に楽しめた。「性別はそれほど重要ではない」という監督の主張と本作での実践は理解できるものではあるが、いろいろ考えてみるといろいろ異論が出る部分でもあると思う→赤葡萄酒×1/2→午前4時就寝。
7月3日(月) 朝9時起床。アイスコーヒー→ 鯖とぶなしめじのトマトソーススパゲティ→昨日受け取り損ねた荷物(8/18のチラシ。まさか夜10時過ぎに来るとは思わなかった)無事受け取り→昼まで横臥→シャワー→昼過ぎ新宿。まずは〈ベルク〉で遅い昼(ホットチリドッグ、エーデルピルスR×1)→続いて〈バルト9〉にて、『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』(原題『Indiana Jones and the Dial of Destiny』、監督:ジェームズ・マンゴールド。トビー・ジョーンズ、トーマス・クレッチマン、マッツ・ミケルセン、ハリソン・フォード、チェイス・ブラウン、フィービー・ウォーラー=ブリッジ、シャウネット・レネー・ウィルソン、ボイド・ホルブルック、オリヴィエ・リヒタース、ホリー・ロートン、ジョン・リス=デイヴィス、アリ・サレー、アマラ・カーン、イーサン・イシドール、アラー・サフィ、アントニオ・バンデラス、ヘンリー・ギャレット、マーク・キリーン、ナセル・メマルツィア、カレン・アレン。2023、米Walt Disney Studios Motion Pictures)。ルーカスフィルムがウォルト・ディズニー・カンパニーに買収されてからの作品なので、老ハリソン・フォードを適当に出して金儲けを目論んだ作品かなとあまり期待せずに観たが、案に反してシリーズの(おそらく)最終作としてよくできた作品だった。冒頭、インディ・ジョーンズが若い頃(劇中では1944年、インディ・ジョーンズ45歳)の場面が30分ほど続くが、これはプログラムによれば「最新のデジタル技術によって(略)高速かつ高水準のデジタル若返り=iディ・エイジング)を実現」したとのこと。もう少し詳しく引用すると、「79歳のフォードを撮影した現在の映像をもとに、ルーカスフィルムが所有する『インディ・ジョーンズ』『スター・ウォーズ』出演当時の若きフォードの映像(実際に使われなかったものを含め数百時間分が保存されていた)を検索し、画角や明るさなどが一致するショットをすぐに発見できるようになっていた。監督いわく「月曜日に撮影した映像が水曜日には若いフォードの顔になっていた」」そうだ。たいへんな技術であり、たいへんな時代になったものだなあと思う一方、技術は技術でしかないわけで、その辺をこの映画の評価の主要な要素に入れていいかどうかは熟考を要すると思うが、(その30分を「オープニング」と位置付ければ)続く本編≠フ鑑賞を、その30分がより楽しいものにしてくれていたことは、間違いないのではなかろうかと思う。ただし、「その30分」は技術を堪能することを考慮に入れなければ、もっと短く刈り込んでもよいのではないかと思わないでもない。で、本編≠ノ入ってからは、モロッコでのカー・チェイスがいささか長いと感じるものの、あとはニュー・ヨーク〜モロッコ〜地中海〜シシリア〜そして古代ギリシャへと続く大冒険はテンポよく、冒険と冒険の合間のちょっとした間に挟まれる粋な会話≠ェ目立たなかった憾みは残るが、冒険の起伏は大いに楽しめたし、古代ギリシャにまで足を伸ばしたのには『シャークネード ラスト・チェーンソー』が思い起こされて笑った(アリストテレスがとてもよい人物像だったのもなんだか可笑しい)。そして(現代に戻った)ラスト・シーンでは泣かされた。あまりのジェットコースター的な展開の連続に少し騙された気がしないではないが、話の顛末がわかっていて繰り返し観ても楽しめそうではあった。ただ、前々作『最後の聖戦』のショーン・コネリーが多少そうだったように、79歳という実年齢の人間の一般的な老い−−何もないところで転んだり、専門分野以外の頭の働きに衰えが見えたり−−をうまく笑いに転じ、冒険時の様子とのギャップを面白く見せていたら、私には満点近い作品だった(本作ではあまりにもスーパー老人過ぎるのである)→終演後小腹が空いたので、桂花拉麺、ビール小瓶×1(桂花)→平和に電車で帰宅(ちょいと経堂駅前〈オオゼキ〉で買い物→シャワー→鯨赤身刺身(おろし生姜、おろしニンニク、紫蘇)、特大マッシュルームソテー、冷やしにゅうめん(茗荷、紫蘇)、ビール中瓶×1→夜11時半就寝。
7月4日(火) 深夜起床→ 『南氏大いに惑う』(原作:源氏鶏太、監督:枝川弘。市川和子、船越英二、角梨枝子、八潮悠子、清水谷薫、山根恵子、小原利之、鶴見丈二、川上康子、立花宮子、小川虎之助、柴田五郎。1958、大映)。源氏鶏太のサラリーマン小説が原作ではあるが、主人公は中小企業の社長(船越英二)。とはいえ、サラリーマンもの≠ニいう位置付けでよいと思うし、一応社長とはいえ実質的には中年のサラリーマンがとつぜんモテモテになるが結局は元の家庭人に戻るという、言ってしまえば凡百のサラリーマン小説の映画化という趣ではある。大社長=i小川虎之助)の娘(角梨枝子)と金に困る娘(市川和子)のそれぞれ異なる今どきの娘≠フ感じは公開当時は新鮮だったと思うが、いずれも時代を越える魅力を発揮しているわけではなかった。ただ、妻(八潮悠子)、バーのマダム(角梨枝子)、馴染みの藝者(立花宮子)の主人公を取り巻く女性たちもどこかのんびりしていて、全体に漂う角のない感じは悪くないし、一時間半弱退屈もしない。退屈凌ぎの娯楽映画としては、水準ちょうどという心地よさを提供してくれる、職人技的な味わいを感じさせられた→飲まずに就寝。午前5時頃→朝10時起床→スズキ・メロディカ届く。息の使い方を研究せねばならないが、出音は大きくいい感じではあった→葱のおつけ、ご飯半膳、紫蘇醤油漬け、しらす干し、梅干し→食後横臥。二時間ほど仮眠→午後、スズキ・メロディオンでいろいろ試そうと思ったが目が覚めきらずなかか腰が上がらず→夕方よりようやく。「Oye Como Va」は以前もらった譜面の通り吹くところと、主旋律を他の楽器(フルート、トランペット)にまかせてカウンター・メロディ(というほど大袈裟なものではない、ホーンをパ・パ・パーと鳴らすようなやり方)を吹くところとに整理してみた→シャワー→『七変化狸御殿』途中まで→キャベツトマト茗荷しらす干し、茄子特大マッシュルームソテー(ニンニク)、鰯刺身(紫蘇、おろし生姜)、鴨燻製、わかめと葱のおつけ、ご飯半膳、しらす干し、紫蘇醤油漬け、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1/2→仮眠。夕食後すぐに眠くなるのが倣いになってしまった→日付変わる前に起床→『七変化狸御殿』(監督:大曾根辰夫。奈良光枝、宮城千賀子、美空ひばり、堺駿二、高田浩吉、山路義人、淡路恵子、西川ヒノデ、渡辺篤、有島一郎、伴淳三郎、E・H・エリック、有木山太、山田周平、小宮山鉄郎、フランキー堺、中村時十郎、秋月恵美子、芦原千津子、西島惇子、川田晴久、廣沢虎造、近衛十四郎、田中謙三。1954、松竹)。一年半ぶり。今回の感想としては、細かいところではタイトルバックのアラビア風音楽とイラストの味わい、こうもりたちのこうもり傘、真面目な顔で「カチカチ王国」、ワープの距離の短さ(演出の意図もあると思うが)、鬼の関所を破る際の桃太郎、フランキー堺のと美空ひばりのドラムvs腹鼓合戦などの可笑しさを愛でたというところだが、前回の感想「企画の骨子を思いついてすぐに撮ったという趣」は変わらないものの、美空ひばりの案山子の踊りとか、女土蜘蛛(クレジットでは「妖精」)のOSK秋月恵美子と芦原千津子の踊りの見事さとか、ただ挿入しただけかもしれないがしかし観ていて確かな満足感はある。そして淡路恵子の芝居と踊りそして佇まいは時代を超えていると思うし、淡路恵子を見るだけでも本作を繰り返し観る意義があるとすら思った。堺駿二、有島一郎、伴淳三郎は好き勝手やっているようで、この三人の藝が本作の面白さの重要な核になっているとも思った。一応、前回観た際の感想「企画の骨子を思いついてすぐに撮ったという趣もあるが、笑いやとぼけた感じなどいい塩梅に抑制が効いている点は、個々の役者の腕ということもあるのかな、というのが最初に感じた感想。そして有島一郎と伴淳三郎の発する狂気がまた笑いと紙一重のいい塩梅だし、淡路恵子の悪女の改心ぶりもいい。日に気持ちよく素晴らしい正月喜劇」→7/8の演奏プラン(現段階での)をまとめ、T後に送付。「Oye Como Va」、かなり単純化してはみたが、さて本番大丈夫か。「Descarga Cachao」はソロだけ吹いて、あとは基本カウベル叩くだけにしようかと思う→『TOVE/トーベ』(原題『TOVE』、監督:ザイダ・バリルート。アルマ・ポウスティ、ロバート・エンケル、カイサ・エルンスト、リーシ・タンデフェルト、ヤーコブ・オールマン、エーヴァ・プトロ、シャンティ・ローニー、エマ・クリンゲンベルク、クリスタ・コソネン、シモン・ヘーガー、リディア・ターヴィツィネン、ジョナサン・ハッチングス、ヨアンナ・ハールッティ。2020、芬瑞Helsinki-Filmi)。「ムーミン」シリーズでお馴染みのトーベ・ヤンソンの人物像を掘り下げたある種の伝記的な映画。「ある種の」というのは、伝記というにはご本人のごく一面に焦点を当てた内容だからだが、画家としての成功を夢見つつそれが果たせない状況の中で生み出した「ムーミン」が評判を得て、絵描き/物語作家として成功していくという複雑な状況/感情を描き出したというのが本作の正しい紹介になるだろうか。アルマ・ポウスティが演じた、愛すべき人物だが面倒臭い人物、あるいは面倒臭いが愛すべき人物として描かれたトーベ・マリカ・ヤンソンは(実際に身近にいたらとても面倒臭そうだが)魅力的。トーベに振り回されるような形で接近しては去っていく人たちも、去っていきはするが、去っていくときも去ってからもトーベの魅力を深く感じているように描かれているのが印象的だった。最後まで頑なにトーベの仕事を認めなかったような父(ロバート・エンケル)の死後に見つけられた膨大な量のトーベのムーミン仕事のスクラップの描写が泣かせる。「ムーミン」についての描写は世に認められる前のスケッチや舞台が主で、世界的に受け入れられてからの諸作(すなわち世界的な成功=jについては画面に現れない(見落としかもしれないが、普通に観ていてあっこれ、と気づくような採り上げ方はなかった)。その意図はなんとなくわかるが、一度観て自分なりに言語化できるには至らなかった→ビール中瓶×1→朝方5時就寝。
7月5日(水) 朝8時起床→わかめと葱のおつけ、ご飯→老父買い物代行(サミット)および介護保険認定確認面談付き添い(老父宅にて)→帰途、生協で買い物。あと〈はま寿司〉で昼購入。ひと皿2個なのを忘れていて、予定より多く注文してしまった(計24ケ)。それでも千五百円程度、〈サミット〉で寿司買うよりいいようだ→寿司12ケ(まぐろ、真あじ、活〆まだい、大葉漬け真いか、煮あなご、活〆ぶり各2ケ)、ビール中瓶×2→午睡→鍵盤ハーモニカ練習→キャベツトマトオイルサーディンのサラダ、セグロイワシ胡麻漬け、鴨燻製、じゃがいもニンジンのソテー、豚生姜焼き(紫蘇)、わかめと油揚のおつけ、ご飯半膳、しらす干し、紫蘇醤油漬け、ピール中瓶×1、ホッピー×1→夜9時頃就寝。
7月6日(木) 午前1時起床→シャワー→Twitterを覗いたら、ダライ・ラマ14世のファースト・アルバム『Inner World』を聴くと眠くなる、という投稿があって、Apple Musicで検索してみたら果たしてサブスクリプションに上がっていた。聴いてみたが、確かに多少眠くはなるものの、投稿にあった意識を失う≠アとはなかったし、有り難味は私にはよくわからなかった。アルバムの題名も含めて、ちょっと笑いたくなる感じもある→なんだか目が覚めたので、「Oye Como Va」の鍵盤ハーモニカ練習。結局、座奏用のホースを使ったほうがうまくいくようだ。何故なら鍵盤が見やすいという単純な理由だが、立奏用唄口に比べて格段に演奏しやすい。土曜日はこれで行くことにしよう。ついでにソロ練習用の伴奏音源も作成(二小節打ち込んで繰り返すだけ)→朝方5時就寝→朝8時過ぎ起床→水かけご飯(しらす干し)→午前中〈GENT & HONEY〉にて散髪。いつも通り→〈HIGASHIYA〉で土産買って平和に電車で帰宅(経堂駅前〈オオゼキ〉でも買い物)→冷やしかき揚げそば→新SNS「Threads」のアカウントを取りいろいろ試してみたが、フォローしてない人の投稿も全部?流れてきて、それがことごとくつまらない。かといってすでに他のSNSで投稿を拝見している人をここでもフォローするというのも同じ話を見るだけになりそうでつまらない。さて使い道はあるやなしや→午睡→『TOVE/トーベ』再見。やはり素晴らしい映画だな→キャベツとトマトと紫蘇としらす干しのサラダ、納豆オムレツ、セグロイワシ胡麻漬け、エビのかき揚げ、舞茸と油揚のおつけ、ご飯半膳、しらす干し、梅干し、ビール中瓶×1、ホッピー×1→夜10時就寝。
7月7日(金) 午前2時起床→『東京の合唱』(監督:小津安二郎。斎藤達雄、岡田時彦、高峰秀子、菅原秀雄、八雲恵美子、山口勇、坂本武、谷麗光、宮島健一、河原侃二、飯田蝶子。1931、松竹)。もちろん当時の世相を実際に体験していたり知っていたりするわけではないが、当時の世相をうまく写し取った映画だな、と、根拠なく思わせられる。しかし正義感から社長と喧嘩して馘になるとか、大学出がサンドイッチマンに身を落としながらも(この辺の挫折感の切実さも、当時の人にとっては身につまされるものだろう)最初はそれを認めなかった妻が最後には自分も協力すると言い出してくれるとか、おそらく実際にはないような希望や理想をうまく組み入れて、心地よく鑑賞できる作品≠ノ仕上げているところは、小津28歳、やはりただものではないと思う(監督に昇進してわずか四年目、とはいえすでに20本の作品を撮っている)。これは小津というより原案(北村小松)や脚色・潤色(野田高梧)の手柄かもしれないが、失業した主人公の「手放しで泣ける子供がうらやましい」という台詞は泣かせる。なお今回は<新音声版>にて鑑賞。やはり音楽の用い方と佐野史郎の台詞にはやや不満を覚えたが、特筆すべき程度でもなかった。右は前回(2021年2月)に(完全サイレント版を)観た際のメモ「サイレント期中盤、小津29歳(註:計算違い?)の作品ながら、晩年の作品の風格と趣を感じた。台詞を想像しながら観ていたら、そんな感慨を得た」→『プリティ・リーグ』(原題『A League of Their Own』(彼女たちのリーグ)、監督:ペニー・マーシャル。ライアン・ハウエル、ブライアン・ボル・グレッソン、リン・カートライト、ゲイリー・マーシャル、デヴィッド・ストラザーン、ロリ・ペティ、ジョン・ロヴィッツ、ジーナ・デイヴィス、ミーガン・カヴァナー、ロージー・オドネル、マドンナ、アン・キューザック、フレディ・シンプソン、トム・ハンクス、アン・ラムゼイ、トレイシー・ライナー、ルネ・コールマン、ビティ・シュラム、ジャスティン・シェラー、ビル・プルマン、ユーニス・アンダーソン、ヴェラ・ジョンソン、バーバラ・アーウィン、バーバラ・ピラヴィン、シャーリー・ブルコーヴィチ、パトリシア・ウィルソン、マーク・ホルトン、キャサリン・バトラー。1992、米Columbia Pictures)。老ドティのチームメイトたちとの再会への旅立ちの様子から野球場に到着するや試合が行われている、という冒頭の流れの組み立て方がよくて、すぐに引き込まれる。そこから回想〜本作のメインパートに入るわけだが、女性のプロ野球リーグの話ではあるものの、ひと組の姉妹を描いた物語なのだなとすぐに気づく(田舎と都会の話もさらに組み込まれるのかなと思ったが、これについてはそうでもなかった)。メイン・パートの、若い女性が野球に駆り出されてからの顛末にもいろいろ心動かされ、そこだけでも十分に映画として成立していると思うが、姉妹の確執を乗り越えた試合の結末から再び冒頭の再会の場面に戻ってからの老女たちの試合での活躍ぶりには涙を誘われ、この終幕のために今までの物語があったのかとすら思わせられた。エンド・クレジットのデザインも含めとても丁寧に撮られた傑作と思う。マドンナが男好きの元ダンサー/センターのメイ・モーダビートを好演、このときすでに押しも押されぬ大スターになっていたのに(1985年の「ライク・ア・ヴァージン」の大ヒットを経て1986年の3rdアルバム『トゥルー・ブルー』がベストセラー、1990年のシングル『ヴォーグ』でヴォーギングを流行らせ、映画ではドキュメンタリー『イン・ベッド・ウィズ・マドンナ』が話題を呼んだ直後)、そんなスター性をみじんも感じさせないような下町風?のはすっぱな人物造形が素晴らしかった→朝方8時就寝→昼過ぎ時起床→舞茸と葱のおつけ、ご飯、納豆、海苔→午後何したか失念→夕方千歳船橋駅前に出かけて、〈土井商店〉で卵買ってから枝豆、ピーマンおしたし、きゅうりともずく、ひと口餃子×15、ビール中瓶×1.5(ひとくち餃子てんまさ)→〈End Roll〉でパン、〈オオゼキ〉でかき揚げ、〈肉の大丸〉で焼豚など買い物し帰宅→ちょいと休憩して寝ようかと思っていたが、録画消化しているうちに目が覚めてきたので、鍵盤ハーモニカ練習。やはり座奏用のホースを使うと鍵盤がよく見えるので、『Oye Como Va』のキメの「レ ファ# ラ レ」のところが圧倒的にやりやすいし、ソロもスケールを間違えにくい(鍵盤が見えないとファ#をほぼ必ず間違える)。立奏でホースは格好悪いけれども、まだまだ間違えるので仕方あるまい→シャワー→『東京キッド』(原作:長瀬喜伴、監督:斎藤寅次郎。堺駿二、川田晴久、高杉妙子、美空ひばり、花菱アチャコ、水島光代、坂本武、榎本健一、西條鮎子。1950、松竹)。前回(2021年2月)鑑賞時の感想「美空ひばりが12〜3歳ということに驚く。子供なのに、歌えば達者で芝居をすれば大人の女の色気も滲ませる。川田晴久の仕込み方もあるのだろうし、どういう藝を見せれば大人が喜ぶかということを本能的に知っている様子を、今更ながらに思い知らされる一本。本作を撮る直前に撮影されたと思われる美空ひばりと川田晴久のハワイでの映像がするっと挿入されるところも含めて、さすが斎藤寅次郎、丁寧に作られた一本とも思った」から特に発見はないものの、子供や動物の扱いがひどいなとは思ったが、まあそういう意識がまだ普通だったからだろう。あとは万城目正の音楽の素晴らしさに改めて気づいた→ひと口餃子×5、セグロイワシ胡麻漬け、焼豚と白髪葱、即席ラーメン×1/2(生卵)、ビール中瓶×1、金宮レモンハイ×4→午前2時就寝。
7月8日(土) 午前11時起床。麦茶→舞茸と油揚のおつけ(生卵)、ご飯、梅干し、海苔→鍵盤ハーモニカ練習。本番はさてどうなることか。譜面はいらないかなと思ったが、ふっと忘れて不安になる場合を考え、結局印刷して持っていくことにした→冷やしたぬきにゅうめん→16:50〈CON TON TON VIVO〉着。三十分くらい待ってからリハーサル。私は全然どうにもなってなかったが、覚悟が決まり舞台度胸はなんとかなった→出番前は、ビール小瓶×1、宝焼酎ハイボール岩下の新生姜割り×2に抑えた→Tokyo Ukkari Boysは細かいところまで神経の行き届いた上での本番でのグダグダ、という作りが面白い。Togo & Las Tres Lindas Cubanasは安定の楽しさ。TYOのY嬢がフルートで入った「シェラザード」も美しかった。私が参加した「Oye Como Va」と「Descarga Cachao」は、ソロ回しの順番がよくわからず焦ったりもしたが、覚悟を決めて吹き始めたらまあそれなりに楽しかった。余裕がなくて抑揚に乏しかったのが今後の課題。今後もライブで吹くなら、ではある(思えば人前で鍵盤ハーモニカを演奏するのはこれが初めてだった)→〈CON TON TON VIVO〉での飲食は(左記と一部重複するが)タコス、リングイッサ、フェイジョアーダ、ビール小瓶×1、宝焼酎ハイボール岩下の新生姜割り×3。大学で同期だったF縄に再開し(といっても二、三度酒席などをご一緒しただけなので、先方は覚えていなかったが)、意外にも落語や歌舞伎の話ができたのが楽しかった→まだ飲んでたUkkariの面々にご挨拶しおいとま。〈dress〉に移動しすももとノルマンディクリームのタルト、モヒート×1、ラムソーダ割り×1。寝る客とぜんぜん喋らない客が先にいて、なんだか変な雰囲気だったが、店主は相変わらず→タクシーで帰宅→シャワー→スーパーマーケットで買ったかき揚げではあるが一応天抜き、ビール中瓶×1→『ひばり・橋の花と喧嘩』を途中まで観て、午前4時頃就寝。
7月9日(日) 午前11時起床→桂花拉麺(茹で卵1/2、焼豚、葱、おろしニンニク、煮込みキャベツ)→午睡→シャワー→『ひばり・橋の花と喧嘩』(監督:野村芳太郎。橋幸夫、美空ひばり、渥美清、財津一郎、大野しげひさ、天草四郎、高橋とよ、真家宏満、中川加奈、山岸映子、左時枝、石井均、榎本健一、佐藤友美、桑山正一、長門裕之。1969、松竹)。前回(2019年6月)の感想は「(大曾根辰夫『牛若丸』と比べて)こちらは美空ひばりの(設定上は三役だが実質的には)ひとりふた役に必然性があった。全体的に大スターとヒット曲を素材に適当に綴った映画という印象だが、それでもなおかそれだからこそか、とても面白く観た。二年前に公開された『卒業』の雑なパクリもあるが、それもまたよい味わい」。まあ今回も同じような感想だが、冒頭のひばりが飛んで「ひばり」の字幕、それからカメラがティルト・ダウンして橋が映り「橋」の字幕、の妙な可笑しさは前回見落としたか。あと「全体的に大スターとヒット曲を素材に適当に綴った映画という印象」も変わらないが、歌の途中に進行する物語を字幕で説明するのも、やはり妙なる可笑しさがあった。ちなみに実際には「ヒット曲」だけでなかったようで、ヒットしたかどうか知らない新曲も多数、橋幸夫は「荒野のまごころ」「別れの眉月」「潮来笠(新アレンジ)」「雨の中の二人」「京都・神戸・銀座」、美空ひばりは「娘船頭さん」「悲しい酒」「真赤な太陽」「雨とサクランボ」「盆おどり唄」、そしてデュエットでなんと「いつでも夢を」のほか「風の恋人たち」「恋のパープルレイン」「夜の中の二人」と、全14曲もふたりの歌が使われていて、一曲ごとの好き嫌い関係なく満足したような気持ちになった。橋幸夫はともかく、美空ひばりは藝者夏子役はともかく双子の妹夏子役は普通に考えたらミス・キャストで、娘然とした扮装(「ぼくたちのアイドル」と来たものだ)はもとより年月が経ちファッション・モデルになった、という設定も美空ひばりの個性からいったら間違っているのだが、そういう点も、取って付けたような満州のくだりも、あるいは盆踊りの最中の『ウエスト・サイド物語』や『ラ・ブーム』(これは本作よりあとだが)の、あるいは終幕の『卒業』の杜撰なコピーっぷりも、最後まで見るとなんだか愛おしく感じてきてしまうから不思議だ→キャベツとプチトマトのサラダ、オイルサーディン、End Rollのパン、鶏手羽元のスープ餃子(青葱、ニンジン)、ご飯半膳、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ(薄め)×1→『雄呂血』(原作:寿々喜多呂九平、監督:二川文太郎。関操、環歌子、阪東妻三郎、山村桃太郎、森静子、中村琴之助、嵐しげ代、中村吉松、安田善一郎、春路謙作。1925、阪東妻三郎プロダクション/マキノプロダクション)。まずは内容よりも、1925年(大正14年)制作の映画が封切り自はこうだったろうというくらいにきれいに修復されていることに驚き、坂本頼光の説明と清水靖晃の音楽が本作に新たな生命を吹き込んで現代にも通用する(という表現が適切かどうかはわからないが、単に過去のものではなく製作者が伝えたいことが生き生きと伝わってくる)作品になったことに驚く(当時の検閲でカットされた「世に無頼漢と称する者、そは天地に愧じぬ正義を理想とする若者にその汚名を着せ、明日を知れぬ流転の人生へと突き落とす、支配勢力・制度の悪ならずや」という字幕も復活)。今まで1966年に撮られた田中徳三/市川雷蔵の『大殺陣 雄呂血』しか見ておらず、こちらを観た際は「侍社会のバカバカしさを描いた好編と思う」と感想を記していたが、本作を観ての感想は、まず日本人への疑問を映画を通して表現し突きつけたという点。強者は強弁することでいくらでも罪から逃れられるという社会の矛盾を描く一方、弱者は弱者で自分だけ助かればよいとばかりに知らぬふりをする、というこの世(この場合日本の社会といってもいいかなと思う)が地獄であることを、主人公・平三郎(阪東妻三郎)が追い詰めらることと、追い詰められ小爆発を繰り返したのち最後に大爆発する、その立ち回りの見事さでもって、強烈に表現したものと思った。加えて、平三郎が「武士の誇り」とやらを早々に捨てていれば破滅も訪れなかったわけで、専ら主人公だけが虐げられ追い詰められたというわけでもないという醒めた視線も感じられ、いろいろ考えさせられるに至った。もっとも寿々喜多呂九平の原作は本作のために書いた脚本のほうだから、『大殺陣 雄呂血』のほうが物語の設定を変えていたのだと思われるので、感想の相違はしかるべきであろう。で、左記のような重いテーマを持ちつつ、阪妻とそれを受ける周囲の役者の、冒頭の宴席での取っ組み合いから城下での三人との切り合い、そして終幕の大立ち回りまでの体技が素晴らしく、見せ物としての魅力も高い。元々サイレント映画だから、説明用の字幕の字体も物語の起伏に合わせて工夫されているのが今となっては斬新に感じられる点も印象に残る。阪妻プロ一作めにして、かなりの傑作を撮ったものだと思う→金宮酎ハイ×2ののち、冷やしたぬきにゅうめん→さらに酎ハイ×1→朝方5時就寝。
7月10日(月) 午前11時半起床。マヌカハニー、白湯→鶏手羽元のスープ餃子、おむすび一ケ(梅干し、海苔)→午後中江クリニック。最近ときどき起こる晩の飲酒後の貧血?風症状、血圧の低下によって脳の血流が悪くなるのが原因と思われるとの由。降圧剤を軽くして、しばらく様子見ることになった→クスリ買ってから高円寺に出て、まずは〈ちんとんしゃん〉。M行さんもいらしていつも通り楽しかったが、変な新客がいてげんなり。私と女将が話している最中に人の会話を遮るように女将に話しかけること三回あったので、あっちが帰る際に意見してやったところ、素直に謝ってくれたので、一応「またお会いできたら!」と慰めておいた。茄子揚げ浸し、ポテトサラダ、ビール中瓶×1、御酒×1→続いて本日のお目当て、〈ムーンストンプ)にて「Echos of New Orleans」−−田村麻紀子(Vo, Cl)/ 公平昭宏(Bj)/高岡大祐(Tu)/木村おうじ(Dr)−−。早めに店に入れてもらって一杯やっていたら、若者の集団が入ってきた−−と思ったら、そのうちの一人が自分の荷物で思いっきり我々のテーブルのグラスを薙ぎ倒し、なんだかひさしぶりに酒場の水難に遭った。私の下半身ハリケーン・カトリーナ状態。難に遭うときは重なるものだなあと思っていたが、その若者はすみませんと倒した分の酒を奢ってくれた。いや年下の人にたかったようで申し訳ない。難にはふたたび遭遇したものの、悪い気分にはならなかった。むしろいい気分だった。そして音楽は最高。伝統的なニュー・オリンズ音楽を生で聴くのはたいへんひさしぶりだったので、自然に身体が動き、年甲斐もなく踊るし、血圧に問題を抱えているのに酒も進む進む。クラリネットの田村麻紀子の歌が(声質も含めて)またよかった。これは再演を希望。アンチョビピザ、ギネス×1.5、バーボンロック×3。おしゃれ番長も聴きに来てて楽しく飲む。またふらりとやってきたというドイツ人女性とも、言葉があまり通じないながらO形が似顔絵を描いてあげたりして楽しく交流した→平和に電車で帰宅→シャワー→なんだか気分がよくまだ寝たくなかったので、『秋刀魚の味』(監督:小津安二郎。笠智衆、浅茅しのぶ、中村伸郎、北竜二、高橋とよ、環三千世、岩下志麻、三上真一郎、佐田啓二、岡田茉莉子、菅原通済、緒方安雄、織田政雄、東野英治郎、杉村春子、加東大介、岸田今日子、吉田輝雄、牧紀子、三宅邦子。1962、松竹)。酔っ払って観たので、いつも通りの感慨が湧いたのみ。新しい発見もなく、今までにない感想も湧いてはこなかったが、男は身勝手でしかもそれをそうと自分では認識しておらず、その割を喰うのはいつも女のほう、という感じを、いつもより強く感じたかな。路子(岩下志麻)の気持ちなど聞かず三浦(吉田輝雄)の結婚の意向を聞いて、路子はなにもしていないのに破談、という流れなど、男というものを眺める小津の視線をかなり強烈に表しているように思った→海苔(江戸むらさき)、生卵(揚げ玉、江戸むらさき)、ビール中瓶×1.5→朝方就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記