2023年09月10日
9月まとめ(1〜10日)
『絶唱浪曲ストーリー』二回め 於田端〈シネマ・チュプキ・タバタ〉、井上和男『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』、片桐直樹『映画監督・山本薩夫』、大林宣彦『この空の花 長岡花火物語』、TVドラマ『森の石松』(のちの中村勘三郎主演)、緊縛舞踏『フィルム1975』 於森下〈開座アトリエ〉。
9月1日(金) 朝9時起床。白湯、マヌカハニー→冷やしとろろそば(生卵、刻み葱、紫蘇、刻み海苔)→B電子仕事。まずは第一稿に至る以前のラフなものをざっと。いつもに比べて不確定事項がいくつかあるので、想像で書いたり足りない情報を整理したりなど→午後田端に出て、〈シネマ・チュプキ・タバタ〉にて本日の『絶唱浪曲ストーリー』の受付け→上映時間まで隣のハンバーガー屋にて遅い昼。オニオンリング、スタンダードバーガー、フライドポテト、ビール小瓶×2(9)。思ったよりうまかった。ここに映画観に来たら必ず寄るなあ→ 『絶唱浪曲ストーリー』二回め、話はだいたい頭に入っているので、一回めのどこに連れて行かれるのだろう♀エは少なかったが、安心して楽しめ、一回めで気づかなかった味わいも味わえた。川上アチカ監督の舞台挨拶は知っていたが、港家小そめも登壇。質疑応答で一回めでも気になったナレーションや字幕での説明を加えなかった理由について伺うことができた。監督ご自身が取材撮影しながらこの先どうなるんだろうと思ったことを受け手にも追体験して欲しかったとの話に納得。QAを通じて自分が解釈したなりのやり取りを書いておく。
Q1 本作は場面場面を、その場面の説明やその場面がそのあとどう展開するかなどをナレーションや字幕で説明することなく、つなげていっているわけですが、その意図は。
A1 言葉による丁寧な(「過剰な」というニュアンスも含んでいたように感じたが、果たして)説明がなくても伝わるような映像表現を目指しました。また自分は八年間取材し200時間の映像を撮った中で、まったく知らなかった世界からいろいろなものが見えてきたわけですが、それと同じような体験を観客のみなさんにもしていただくことで、自分が体験したのと同じようなものの見え方を味わっていただけるかもしれないと思いました。
Q2 最初に観た際は、どこに連れて行かれるんだろう≠ニいう不安のようなものをずっと感じながら、しかし自然と引き込まれていき、名披露目の場面では感動も覚え自然と涙が流れました。そういう反応を意図あるいは想定しての編集だったのでしょうか。
A2 この作品は私が作った物語ではなく、向こう側にある物語を私という媒介を通して表現したものと思っています。向こうから訴えかけてくるものに対して素直にカメラを向けていく中で、結果的に200時間の映像が残ったわけですが、その200時間の映像を、自分が撮影を通じて体験したのと同じように見ていきながら、その物語の中で何がドライブしていく要素なのかということや、映像が伝えようとしているものは何かということを探っていく作業を繰り返しました。その上で編集に入ってから、あるカットを別のカットに変えてみたらもっとドライブするかもしれない、もっと伝わるかもしれないといったような検証を、思いつく限り全部やってみた。その結果としての作品である点が、そういう反応につながっているのかもしれません。
→玉川祐子/杉江松恋『100歳で現役! 女性曲師の波瀾万丈人生』購入し、監督小そめご両名のサインをいただく。おふたりともこの本の著者ではないが、先日パンフレットを買ってしまっていたので→平和に電車で帰宅→シャワー→鯵フライ、西洋煮物、ネギトロ巻き、ところてん、ビール350ml缶×3、金宮酎ハイ×2→夜11時頃就寝。
9月2日(土) 朝9時起床。白湯、マヌカハニー→オイルサーディンとぶなしめじのスパゲティ、パン(バター)→昨日の話をざーっとまとめてFBに投稿など→ところてん→午睡→『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』(監督:井上和男。笠智衆、井上和男、小津新一(兄)、奥山正次郎、慶光院俊、中井助三(以上小学校同級生)、森本栄蔵(代用教員時代の生徒)、小津信三(弟)、山下とく(妹)、伏見八重(脚本家伏見晁夫人)、佐々木康(映画監督)、岡田茉莉子、木下恵介(映画監督)、浜田辰雄(映画美術監督)、厚田雄春(映画カメラマン)、新藤兼人(映画監督)、斎藤良輔(脚本家)、佐藤忠男(映画評論家)、杉村春子、淡島千景、今村昌平(映画監督)、山内静夫(映画プロデューサー)、川喜多かしこ(映画文化活動家)、ドナルド・リチー(映画批評家・監督)、野田静(脚本家野田高梧夫人)、山内玲子(野田高梧次女)、岸恵子、中村伸郎、山田洋次(映画監督)、有馬稲子、横山隆一(漫画家)、司葉子、東野英治郎、岩下志麻、岸田今日子、須賀不二男 、桜むつ子、三上真一郎、中井貴恵、今日出海(小説家)※俳優は肩書省略。1983、松竹)。小津安二郎の映画監督としての歩みとその人柄を、名作名場面の映像と、小津組の役者たちはもちろん家族、幼少時の友人、小津組スタッフや周囲の映画人、映画人以外の交友関係の証言から浮かび上がらせるドキュメンタリー。映画というよりも映像付きの本、という印象もあるが、映像作品による人物紹介としては表面だけでなく深いところまで掘り下げようとしているとは思った。繰り返しの鑑賞に耐える作品と思う(0:25ほどから、小津の肉声も聞ける)。細かいところでは蓼科雲呼荘にずらりと並ぶ「ダイヤ菊」の一升瓶などは映像ならではの表現とも思った。一応茅ヶ崎時代の話も出てくるが、蓼科に移った、という話だけで、茅ヶ崎を拠点とした経緯や茅ヶ崎館の話が出てこないのは、何か理由があったのだろうか。なお「名作名場面の映像」に採り上げられた作品は下記のとおり(出現順)。落第はしたけれど、生まれてはみたけれど、若き日、大学は出たけれど、東京の合唱、出来ごころ、東京の宿、父ありき、一人息子、戸田家の兄妹、風の中の雌鶏、晩春、麦秋、東京物語、早春、東京暮色、彼岸花、秋日和、小早川家の秋、秋刀魚の味。なお脚本・構成・監督の井上和男は『東京物語』の助監督→『映画監督・山本薩夫』(監督:片桐直樹。三國連太郎、山本薩夫、黒柳徹子、山本圭、伊藤武郎(映画プロデューサー、労働運動家)、西村晃、山田洋次(映画監督)、吉永小百合、ナレーター:高橋悦史。1993、こぶしプロダクション)。『生きてはみたけれど』とほぼ同様、山本薩夫の映画監督としての歩みとその人柄を、名作名場面の映像と出演俳優や関係者の証言から浮かび上がらせるドキュメンタリー。比較に意味はないが、『生きてはみたけれど』と比べると山本薩夫のカタログ、という趣も感じたが、労働運動と映画というテーマに軸を置いて観るとずっしりとした意味を味わされる。「名作名場面の映像」は下記のとおり(出現順)。金環蝕、ペン偽らず 暴力の街、真空地帯、太陽のない街、市川馬五郎一座顛末記 浮草日記、松川事件、人間の壁、武器なき斗い荷車の歌、白い巨塔、あゝ野麦峠、戦争と人間、(未完に終わったので題名に触れられただけ)迷路、悪魔の飽食。確認のために改めて監督作一覧を見てみたら、私が観たことがあるのは『赤い陣羽織』『忍びの者』『続・忍びの者』『座頭市牢破り』と、見事に社会派≠外していたので笑った。なお脚本・監督の片桐直樹は、山本薩夫監督のドキュメンタリー『トンニャット・ベトナム』の共同監督→サラダ(グリーンカール、ピーマン、オクラ、トマト、きゅうり、粉チーズ、オリーブ油、バルサミコ酢、トリュフ塩、黒胡椒)、ミートローフ、冷山かけそば(白胡麻、刻み葱/茗荷/紫蘇/海苔)、ビール中瓶×2→シャワー→本日の映画二本を復習→午前3時就寝。
9月3日(日) 朝10時起床。白湯、マヌカハニー→わかめと豆腐のおつけ、鮭粥、とろろ、錦松梅→『この空の花 長岡花火物語』を途中まで→クロックムッシュ、チーズパン、ビール中瓶×2→午睡→先日Amazonより注文したトラベルカホン(GECKO C-68Z)届いたが、ストラップと調整用の六角レンチが同梱されていなかったので、早速クレーム→『この空の花 長岡花火物語』続き。最後まで。(監督:大林宣彦。石川浩司、松雪泰子、笹野高史、嶋政宏、猪股南、勝野雅奈恵、ベンガル、細山田隆人、柄本明、根岸季衣、犬塚弘、片岡鶴太郎、草刈正雄、星野知子、原田夏希、品川徹、並樹史朗、高橋長英、坂田明、富司純子、渡辺大、寺島咲、尾美としのり、村田雄浩、パスカルズ。2012、PSC)。広島、長崎、福島についても語られるものの物語のほとんどは新潟長岡で語られるわけだが、しかし戦争と大規模な自然災害を軸にした、歴史の語り方のお手本のような映画と思った。そして映画の中に演劇を組み込んだというか芝居を丸々一本作ってしまっていたり、ドキュメンタリーや観光映画の要素もあったり、幻想的な展開も交え、『HOUSE』への回帰(主に女子高校生のアップという表面的な映像表現でだが)もあり、とにかく物量感≠ェものすごい。だからといってわかりにくかったり混乱させられたりといったことはほぼなく、歴史を眺める独特の視線に感動を覚えたりもする。すごい映画と思う。おそらくこれに太刀打ちできる映画作家は、世界にもすくないのではなかろうか。大林宣彦晩年の作品はこれだけ見逃していたのだが、一本前の『その日のまえに』(2008年。南原清隆、永作博美主演)を観ていないのでうっかりしたことは言えないものの、続く『野のなななのか』『花筐/HANAGATAMI』『海辺の映画館―キネマの玉手箱』のみっつの傑作≠ヘ、戦争をテーマにして映画(的表現)と演劇(的表現)を大胆に組み合わせた本作から生まれたと言ってもよいのではなかろうかと思う。ひとつだけ、パスカルズの登場場面はもっと演奏を前面に出して強調してもいいんじゃないかなとは思った(『野のなななのか』ではいい塩梅だったと記憶する)→ソーセージとピーマンの炒め、ミートローフ、冷奴(しらす干し)、わかめと豆腐のおつけと鮭粥(ぶっかけ)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1、御酒×2→夜10時頃就寝。
9月4日(月) 宿酔のため午前中横臥→わかめと豆腐のおつけと鮭粥(ぶっかけ)→B電子原稿、不確定要素などに関するコメントを本文に追記した形で、第一稿を提出→すぐに戻りがあったので、第二稿まとめて送付→冷鮭粥(煎酒)、割れ煎餅→マダムギターの新譜届いたので試聴。いい感じのピアノ弾き語り→グリーンカールと豆腐のサラダ(刻み海苔)、長芋千切り(刻み海苔)、鰯塩焼き、わかめと豆腐のおつけ、ビール中瓶×1→引き続きB電子仕事(本日新たに来た分)。ざっと完了→夜9時過ぎいったん就寝。
9月5日(火) 朝6時起床。白湯、マヌカハニー→わかめと豆腐のおつけ(溶き卵)、冷や汁と冷鮭粥(ぶっかけ)→B電子原稿最後にもう一度見直してから提出→ちょっとうとうとしてきたので横臥→O形サイト更新→昼は老父に頼まれたお礼用の珈琲(フィルターパック)を買いに出るついでにひさびさに〈弘楽〉と思ったがまだ休みだったので、〈スパイス婆ちゃん〉にてキーマカレー小盛り、アルメティ、ビール小瓶×1→〈ミハト珈琲〉〈魚真〉〈オオゼキ〉と買い物し帰宅。まだまだ暑いので少し堪えたが、歩数は五千歩に届かず→シャワー→『台風騒動記』(原作:杉浦明平『台風十三号始末記』、監督:山本薩夫。飯田蝶子、中村是好、永井智雄、渡辺篤、左卜全、三島雅夫、三井弘次、菅原謙次、清村耕二、桂木洋子、宮城千賀子、加藤嘉、野添ひとみ、多々良純、藤間紫、増田順司、佐田啓二、細川俊夫、佐野周二、石島房太郎、坂本武。1956、松竹)。台風に見舞われた小さな町で、小学校再建の補助金欲しさに小さい不正を重ねる役人たちと、その行為に振り回されつつ嗤う町の人たちの姿を描く。前半は役人たちのバカバカしくふざけた態度とまったく救われない町の人たちを、そのコントラストを強調するように少しどぎつく描いているが、中盤東京から友人である学校の先生(菅原謙次)を訪ねてきた失業者(佐田啓二)が大蔵省の役人に間違われる辺りから、風刺も含んだドタバタ喜劇−−お色気もちょっぴりある−−に様子が変わってくる。そこから役人たちを小気味よくこき下ろしたり、その反面町の人たちは権力に弱かったり正義を疑ってかかってたりと、正義と悪とのどちらかに偏らずに話を進める塩梅がよかった。そこに小学校の先生とその同僚(野添ひとみ)、東京からの失業者と藝者(桂木洋子)それぞれの恋模様が絡んでくるのも面白いし、本作の本質とは関係ないかもしれないが(いやある?)、宴会での役人たちがやけに藝達者なのも面白い。今どきは田舎の人たちもあんなにバカではないと思うし、また多少カリカチュアが過ぎるところもあるが、しかし現在にも通じる風刺に満ちていると思う。『映画監督・山本薩夫』で語られていた「社会のことを採り上げていても、映画はまずは娯楽」(引用は不正確)という言葉をそのまま映画にしたような印象もあった→菊水堂ポテトチップス、ビール中瓶×1→午睡→トマトとオクラのサラダ、茄子とピーマンの揚げ浸し、ニンジンかき揚げ、メヒカリ唐揚げ、鰯と秋刀魚骨煎餅、しじみ汁、冷や汁と冷鮭粥(ぶっかけ)、ビール中瓶×1、ホッピー×1/2→夜10時頃就寝。
9月6日(水) 朝7時起床。白湯、マヌカハニー、黒胡麻羊羹→しじみ汁、冷や汁と冷鮭粥(ぶっかけ、ちりめんじゃこ)→老父買い物代行(サミット、クリエイト、郵便局)。クリエイトの前の道が混んでたのでいつもの右折ではなく左折にして杏林病院の前を抜けていこうと思ったら、思いがけず吉祥寺通りが大渋滞。東八道路を右折して遠回りしたところ、どうも杏林病院の駐車場に入ろうとするクルマで渋滞していた模様。何があったのだろう→渋滞でなんだかくたびれたので買い物せず帰宅→『フィールド・オブ・ドリームス』(原題『Field of Dreams』、原作:ウイリアム・パトリック・キンセラ『シューレス・ジョー』、監督:フィル・アルデン・ロビンソン。ケビン・コスナー、エイミー・マディガン、ギャビー・ホフマン、レイ・リオッタ、ティモシー・バスフィールド、ケリー・コフィールド・パク、マイケル・ミルホーン、スティーヴ・イースティン、チャールズ・ホイズ、アート・ラフルー、ファーン・パーソンズ、リー・ガーリントン、マイク・ナスバウム、ジェームズ・アール・ジョーンズ、C. ジョージ・ビアシ、ハワード・シェルフ、ジョゼフ・R・ライアン、バート・ランカスター、アーチー・グラハム、ジョン・キンセラ。1989、米Universal Pictures)。最初の30分くらいは、慣れない農業を始めたばかりなのに、天の声を聞いたくらいでトウモロコシ畑を潰して野球場を立てたい、妻もそれをふたつ返事で認める、という展開にただのバカ夫婦(ケビン・コスナー、エイミー・マディガン)か、と思ったが、"シューレス"・ジョー・ジャクソン(レイ・リオッタ)が登場し、テレンス・マン(ジェームズ・アール・ジョーンズ)、Dr. グラハム(バート・ランカスター)が物語に参加する辺りから、得も言われぬ深さが出てくる。Dr. グラハムの青年時代(フランク・ホエーリー)をヒッチハイクで拾うのはご都合主義的ではあるが、そのあとの展開(野球を楽しんだあと医者に戻って娘を救って帰っていく)はうまいなと思った。そして父ジョン・キンセラ(ドワイヤー・ブラウン)が選手の中に混じっていて、最後に息子とキャッチボールをする終幕には泣かされた。ちょっとあざといし、無理矢理野球場を作るという以外はありがちな気もするが(レイ・キンセラが次第にやつれて行ったら『異人たちとの夏』ではある)、観ている最中はそういうことを思わせない何かがあると思った。60年代的自由に関するくだりがあったり、「ローズ・バット」という映画トリビア的な洒落があったりなどもよかった。とはいえ、やはり最初の30分の間に何か葛藤が欲しかったかな→菊水堂ポテトチップス、ペヤングソース焼きそば(生卵、青海苔)、ビール中瓶×2→午睡→トマトとちりめんじゃこ、茄子ピーマン味噌炒め、鰯と秋刀魚骨煎餅、鮎塩焼き(展)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→夜10時頃就寝。
9月7日(木) 朝7時起床。白湯、マヌカハニー→シャワー→玉川祐子/杉江松恋『100歳で現役! 女性曲師の波瀾万丈人生』読了。面白い人の来し方を書いた本だから面白くないわけはないのだが、書き手は説明が下手というか親切心が足りないというか、そこもうちょっと書けばわかりやすいのに(そこ省略する意味はないのではないか)、というところがいくつかあって、何度かつっかえた。私の頭が悪いからかもしれないが、頭の悪い人にも手を差し伸べるような気持ちがあってこその題材ではないのかな→しじみ汁、卵かけご飯、とろろ、ちりめんじゃこ、錦松梅、海苔→昼から浅草〈木馬亭〉にて浪曲定席。
東家一陽・・・・・・・一休の婿入り(東家美)
東家三可子・・・・・・双葉山物語(東家美)
港家小そめ・・・・・・恨みの十四日(玉川祐子)
玉川奈々福・・・・・・天保水滸伝平手造酒の駆けつけ(沢村まみ)
(仲入り)
東家一太郎・・・・・・山の名刀(東家美)
田辺いちか・・・・・・耳なし芳一(講談)
富士琴美・・・・・・・生きる気合い(水乃金魚)
鳳舞衣子・・・・・・・元禄瓦版(佐藤貴美江)
東家一陽は話は面白かったが、声がくぐもった感じで何を唸っているのかはっきりせず。音響の所為かとも思ったが、続く東家三可子は見事に抜けた声。話はともかく気持ちよく高揚した気分にしてもらった。港家小そめは出だしが子供のようでなんとも不思議な感じだったが、中盤からぐっといい声になった。しかし終盤でちょいと緊張の糸が切れたようなのが残念。玉川祐子の姿が拝めたのは(木馬亭定席では曲師の姿を隠すのが通例のため)よかった。玉川奈々福は後半のベテラン勢とも違った新しい浪曲の楽しさを作り上げている真っ最中と思う。今後ますます楽しみ。
仲入り後のベテラン勢は、私が苦手とする類の浪曲だった。格違いにうまいのであるが、どうも心を揺さぶられるような気持ちにならない。彼らの藝を小手先だけ、と受け取ってしまうのはむろん間違っているのだが、こっちの腰が引けてしまうというか。木馬亭定席では必ず講談がひとり入るのかどうかは知らないが、田辺いちか『耳なし芳一』はぐっと調子を落とした静寂の中から立ち昇ってくる怖さがなかなかだった。田辺いちかがいなかったら、私には後半は辛かったかもしれない。
→〈京や〉で納豆用の器購入してから〈尾張屋支店〉に移動し、上記のような感想を語りながら一杯。親子煮、揚げ銀杏、紫蘇切り、ビール中瓶×1、御酒×1/2。飲んでたら本日トリの鳳舞衣子師匠ご一行いらしてびっくり。〈尾張屋支店〉では、100円で割と大量の揚げ玉購入→浅草から座って外苑前→続いて〈月見ル君想フ〉にてSemballo見物。
昨年三月の相模原のライブ(その際はクルマで道に迷って大幅に遅刻)以来、一年半ぶり。
Sembello=田中邦和(Sax)、沖祐市(Key。東京スカパラダイスオーケストラ)。ゲストにTatsu(B。LÄ-PPISCHなど)、栗原務(Ds。LITTLE CREATURES)。
聴き慣れた曲も少なくないが、今までアルバムやライブで聴いたのとは異なる新しい感興を伴って、演奏が進むほどに身体が動く動く。生きている音楽はいいなあと実感する。変拍子の曲にも、何も数えず考えずに自然に身体が反応する。
演奏者同士が各々の演奏をほんとうに愛しているんだなあという様子がとてもよい。尊敬と信頼の上に成り立っている自由。滅多に見られるものではない。なんて、私はどちらかとういうと割とよく目撃しているほうではあるのだが(自慢のようで恐縮ですが)、それでも昨夜はまた昨夜なりの味わいにうれしくなった。
ちなみに〈月見ル君想フ〉は割と高い(1mくらい?)ステージのある会場だが、この日は演奏者はステージ上ではなく客席真ん中に降りた格好で、ステージ上も含めお客がそれをぐるりと囲む格好。私はステージ上の席に陣取ったが(沖祐市の演奏の様子を真後ろ直近から観察できるのはとても面白かった)、だいぶ復調したとはいえ段差の大きい階段を降りるのはまだ怖いく、そのためバーカウンターに移動しづらくて、演奏中は二杯ほどしか飲めなかった(生ビール、ハイボール)。
それが却ってよかった。もしあと数杯飲んでたら興奮して演奏への反応が度を過ごして、ちょっと喧しい客になっていたかもしれない。
アンコール含み全15曲演奏のうち、私の勘定に間違いがなければ、これまでの三枚のアルバムに未収録なのが6曲(カヴァー含む)。それらも含めた新譜を出してくれないかなとも思ったが、でもやはりライブで聴き続けたいなと思う。またの機会を期待。
01 Hittite*
02 Sembellogy
03 老人と海(Ocean Planet)*
04 Elixir
05 In The Groove
06 Side-whiskers Boogie*
07 鞍馬山(田中-沖デュオ)
08 Indigo Blues(田中-沖デュオ)
09 Cinema*
10 優しい巨人 -A Gentle Giant-
11 Hillside Strut
12 Precious thing(Richard Tee)*
13 Olmeca*
14 スチーム・ジョー
enc. The Star-Crossed Lovers(Duke Ellington)*
(*はこれまでのアルバム『Sembellogy』『The Second Album』『Kairos』に収録されていない曲)
→終演後、S教授の代わりにいらした学院同級生氏にご挨拶し、開演前に姿を見つけていた新生姜探しながら少しぼーっとしてから(余韻を楽しむともいう。結局新生姜には会えず、沖田中両氏にも挨拶できず)、駅までの道すがらちょいと一杯とたいへんひさしぶりに〈バー・ラジオ〉へ。大人しくドライ・マーティニなぞを啜っていたが(都合三杯)、あとから若いカップルがやってきて女性のほうが「わあ、なんて大人の空間なの!?」と大声ではしゃいでいたのが微笑ましかったが喧しかった。いや喧しかったが微笑ましかったとうべきか。でもなんだか面白かった→平和に電車で帰宅→シャワー→醤油うどん(うずらの卵×2、揚げ玉)→帰りの電車乗ってから寝るまでの間、ほぼ記憶なし。午前1時頃就寝。
9月8日(金) 朝10時起床。まあまあ宿酔→オイルサーディンとピーマンとちりめんじゃこのスパゲティ→昨日こっそり録音した音源から演奏曲目を書き出し、感想など認める→冷やしたぬきそば(うずらの卵×2、刻み葱)→O形サイト更新(『四歳児』告知)→午睡→トマトとピーマンのサラダ(ちりめんじゃこ)、マッシュポテト、鰯骨煎餅、エビカツ、ニンジンかき揚げ、茄子のおつけ、ご飯半膳、納豆、ビール中瓶×1→夜10時就寝。まあ多分また夜中に起きるであろう。
9月9日(土) 夜中に数時間起きたのち朝9時起床→茄子のおつけ(揚げ玉)、卵かけご飯(ちりめんじゃこ)、納豆、海苔→昼過ぎ下高井戸までぶらぶら。先日はクルマで行くのを試してみたが、本日はひさしぶりに徒歩。今朝右足に症状出てクスリ飲んで様子見ながらだったが、歩行に特に問題なかった。そろそろ涼しくなってきたので、また下高井戸詣を始めよう→青ぶっかけ、ビール小瓶×1(Jazz Keirin)→八百屋、〈カルディ〉、〈三友〉などで買い物→帰宅後シャワー→「タイッツー」( https://taittsuu.com/ )にアカウント作ってみる。誰も見てない気楽さがあるなと思ったが、誰も見てないわけでもないのか。誰か見てるかもしれないが、実質的には見ていないだろう、という今のところの曖昧な感じはいいな→鰯刺身、枝豆、剣先イカとニンジンじゃがいもの煮物、茄子のおつけ、ご飯半膳(とろろ、うずらの卵×1、錦松梅)、ビール中瓶×1、御酒×1→夜10時頃就寝。
9月10日(日) 午前1時起床→『森の石松』(演出:井上昭。中村勘九郎(五代目、十八代目中村勘三郎)、火野正平、古谷一行、平泉成、荒勢、近藤正臣、ハル・ゴールド、野村真美(野村真実)、仁科ふき(仁科扶紀)、中村玉緒、阿藤海(阿藤快)、安藤一夫、石橋蓮司、岸部一徳、清水健太郎、中村勘太郎(二代目、六代目中村勘九郎)、中村小山三、笑福亭鶴瓶、古今亭志ん朝、中村橋之助、光本幸子、横光克彦、柄本明、波乃久里子。1992、CX)。この年の「新春時代劇スペシャル」。勘九郎(当時)の石松はそれまで映画やTVドラマで見た石松と印象が違って弁が立つ人物なのが印象に残ったが、勘九郎自身の芝居や火野正平(三保の松五郎役)との絡みが絶妙なので、勘九郎の石松像に何か違和感を感じるということはなかった。違和感を感じないどころか新鮮味も感じ、ただただ引き込まれて、知ってる話なのにひと味違う感動を覚える。石松と松五郎の両方から思いを寄せられるお春役の野村真美、石松の母役の中村玉緒、石松三十石船の江戸っ子古今亭志ん朝、そして石松を裏切った都鳥の吉兵衛=石橋蓮司に石松を助ける小村井の七五郎=柄本明とその女房=波乃久里子の芝居も見事。広沢虎造『清水次郎長伝』も劇中効果的に使われていた。これは思わぬ拾い物→『ライジング若冲 天才かく覚醒せり』(作・演出:源孝志。中川大志、加藤虎ノ介、市川猿弥、永山瑛太、渡辺大、木村祐一、中村七之助、石橋蓮司、大東駿介、門脇麦、永島敏行。2021、NHK)。中村七之助の若冲が、名が世に出る前の悩み、画業への熱意と集中、大店の後継(継がないが)ぷりなどの芝居と存在感が見事。その一方、石橋蓮司と永島敏行は別格としても、若冲の大きな支えとなった大典顕常に扮する永山瑛太をはじめとする若手の役者と七之助との力の差が残酷なくらいに感じられて、その点は観ていて辛いものがあったし、あるいは主な仕事が舞台とTV、歌舞伎と一般芸能界ということでずいぶん差が出るものだなあ(生まれ育った環境ももちろんあるが)という点を観察するのが面白くもあった(ちなみに七之助は本作がTVドラマ初主演だそうだ)。あと美術に古色が足りないなという不満も感じたし、若冲と大典顕常の交流をBLの印象に寄せ過ぎるのも気になったが(本作に関する記事を読んでみると、後者は多分に意識した芝居のようだ)、物語自体は自然に楽しませてくれるものだし、なによりも『釈迦三尊像』と『動植綵絵』の都合三十三幅がずらっと並ぶ場面を見せてくれただけでも満足(もっとも先に挙げた役者の力量差、美術、BLに寄せ過ぎという点を敢えて無視すれば、ではあるが)→しらす干し、金宮酎ハイ×1、御酒×2→朝方5時頃就寝→昼頃起床→犬飯(茄子のおつけ、生卵、揚げ玉)→『森の石松』『ライジング若冲』の感想などまとめ→冷やしとろろそば(胡麻、刻み葱、刻み海苔)→夕方クルマで深川森下まで。環七が少し混んでたが、甲州街道入ってからはスイスイ。行き帰りに飲酒できないが、楽は楽だ。駐車場は目を付けていた18時以降最大400円にするりと入庫→O形より、私の部屋から煙が出てたと連絡あったが、外との気温差か冷房切ったことによる温度変化かが原因のもや?だったようだ。その後連絡ないので、大事なさそう→ひさしぶりの〈開座〉にて『フィルム1975』見物。黒田百合出演(踊り手は全部で5人)、有末剛による緊縛もありの舞踏公演。
本公演の緊縛にエロティシズムへの志向がないわけではないとは思うが、それは主眼ではなく、むしろ踊っている人間を縛ることで何か美しいものあるいは醜いものあるいはそれらが混濁したものを構築・表現していくという趣、と感じた。使っているのは枯れ枝やすすきではあるが、ある種活花の実演、という趣もあるのかもしれない。
踊り=自由、緊縛=自由を奪う、と捉えると、その拮抗の面白さもあるように思った。
しかしそんな風に言葉で理解しようとするのはつまらないな、と、途中で気がついた。何事によらず目の前の物事を頭の中で言語化することで理解を深めようとする(理解したつもりになろうとする)のは、職業柄とはいえ、自分の悪いクセであることは自覚している。
それで、途中からそんな妥当なんだかどうだかわからない思考は捨てて、踊り手五人(黒田百合、坂本博美、渡部みか、佐倉萌、岡庭秀之)の表現が何を表しているのか、その意味するところをわかろうとは思わないまま、目の前で繰り広げられている緊縛込みの舞踏と音楽(ヒカシューの坂出雅海による独奏)の刺激を味わった。
わかろうとは思わないまま時間を過ごすのは私にとってはすなわち混乱に等しいのだが、一時間半ほどの間、そういう混乱の妙味だけをひたすら楽しんだ次第。なんでもすぐに理解したがる私としては、珍しい体験をさせてもらったように思う。
そういう混乱の中で一方、どういう状況を描いているのかの想像・妄想も脳みそをぐるぐる回転させながら楽しんだが、その意味でいうと、緊縛の有末剛の存在が、この舞台の上で表現されている世界の中の誰か≠ナはなく緊縛の技術者≠フ素のままに見える、だが黒子としては存在感が強いというのが、「想像・妄想して楽しむ」ことを阻害しているようにも思った。もっともこれは、専ら言語化によって理解しようとすることの弊害ではある。
***
本公演とは何も関係ないが、深川まで出向くなら行き帰りにあそこやあそこで、あるいはまったく知らない酒場で酒食も楽しみたい…… と思わぬではなかったが、最近はそういうのもなんだか煩わしく、この日はクルマで出かけて終演後すぐに帰途に着いた。
しかし前後の飲み食いで鑑賞したものの印象が薄まるということもあるから、すっと帰って道中見物したものから得た漠然とした印象を整理できるのは、酒食の楽しみに勝るかもしれないと思った。
と、結局、頭の中で言語化することで理解を深めようとする(理解したつもりになろうとする)のだな。この悪癖は死ぬまで治らないだろう。
→終演後打ち上げが行われるとのことだったが、クルマだったので失敬しておいとま。帰途はもっとスイスイ。40分弱で帰宅→キャベツとトマトのサラダ、剣先イカとニンジンじゃがいもの煮物、鰯塩焼き2尾、ビール中瓶×2→夜10時頃就寝。
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