2024年05月31日
5月まとめ(21〜31日)
アキ・カウリスマキ『枯れ葉』『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』『愛しのタチアナ』『トータル・バラライカ・ショー』『レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う』『白い花びら』『コントラクト・キラー』『カラマリ・ユニオン』『希望のかなた』 於〈下高井戸シネマ〉、下高井戸〈栄龍〉初訪問、下高井戸〈恋々風塵〉の移転先を偶然発見、「クライバー商会presents『rakugo-genic』第四回春風亭朝枝独演会」 於神保町〈On a slow boat to…〉、長谷川伸シリーズ(『沓掛時次郎』『雪の渡り鳥』『中山七里』)、泉沢果那×大石竜輔デュオ 於吉祥寺〈Strings〉、ジョルジュ・メリエス『月世界旅行』および山口哲平/嵐寛寿郎『鞍馬天狗(后篇)』 於〈新宿武蔵野館〉での「カツベン映画祭」、下高井戸〈我音楽〉初訪問。
5月21日(火) 朝10時起床。白湯→ぶなしめじのおつけ(揚げ玉)、ご飯半膳(かつ節、ちりめんじゃこ、キムチ納豆)、海苔→『俺たちは狂っていない』(原案:舟橋和郎、山口権太郎。監督:阿部毅。永田靖、見明凡太朗、伊沢一郎、川島祥二、小林勝彦、土方孝哉、野口啓二、仁木多鶴子、入江洋佑、杉田康、村瀬幸子、千歳恵美、早川雄二、市田ひろみ、丸山修、石井伊吉、米沢永治、渡辺鉄弥、服部哲治、チャック・ワゴン・ボーイズ、紺野ユカ、半谷光子。1958、大映)。高校の野球部(ピッチャーの宮本=小林勝彦や理事長=永田靖など)が携わる様々な不正行為(選手も管理運営の大人も)について学校新聞(野口啓二など)が取り上げたことで、野球部と新聞部の間に争いが起こる。しかし大人はその争いの経緯を見ず殴り合いという結果だけを見て、正しい判断を行わない。で、映画としては子供たちが正しい判断ができなかったのは大人の所為だ…… と締めくくるのだが、今の目で見れば、高校生なら正しい判断ができないのはおかしいし、大人が間違っていることをちゃんと指摘できなければならないとは思ったが…… しかしそれは私の世の中を見る目に欠落があるからとも思う。しかし高校生たち(野球部員だけでなく新聞部員、そして他の学生たちも)が自分たちの卑怯さや奴隷根性を自覚していない(あるいは自覚しながら抗えない)様の描き方は、ショッキングな描き方ではないが強烈ではあった(野球部員の中でレギュラーでないから真犯人の身代わりを頼まれた学生がすっとそれを受け入れる−−もうひとりは疑問を抱くが−−場面が象徴的である)。そして、本作で描かれた卑怯さや奴隷根性は、今なお(いや未来永劫)こうして世の中に訴えかけられ続けるべきだと思った。石井伊吉−−のちの毒蝮三太夫が、物語の中では傍ながらとてもいい味わいだったが、重要な役割を担うべきと思われた新聞部の女子学生(仁木多鶴子)や渦中の新聞部員野口啓二(藝名同じ)をずっと温かく見守っていると思えた女性教師(役者不明)などにほとんどスポットが当たらない点は、物語の構成の上では残念に思った→ぶっかけそうめん(かつ節、ちりめんじゃこ、プチトマト、おろし生姜、刻み葱)→『枯れ葉』(原題『Kuolleet Lehdet』、監督:アキ・カウリスマキ。アルマ・ポウスティ、ミッコ・ミュッカネン、ヌップ・コイヴ、ユッシ・ヴァタネン、ヤンネ・フーティアイネン、マッティ・オンニスマー、アンティ・マエッタネン、シーモン・アル=バズーン、マルティ・スオサロ、アンナ・カルヤライネン、カイサ・カルヤライネン、犬のアルマ、マリア・ヘイスカネン、アリナ・トムニコフ。2023、芬Sputnikほか製作/B-Plan Distribution配給)。原題は語意としてはそのまま「枯れ葉」で間違いはないが、物語から考えると落ち葉(のような人たち)が風に舞うように流れ流れては出会いひと時を過ごす≠ニいうニュアンスかもしれないなと思った。ダメな人たち≠ェなぜそうなったかの来し方をほとんど描きはしないが、それぞれの背景がほの見えてくるのは、その落ち葉(のような人たち)が風に舞うように流れ流れて出会いひと時を過ごす≠謔、な描き方だからかなと思ったりもした。多くのアキ・カウリスマキ作品と同様、どれをどれの代わりに観ても同じような感触だが、それぞれにえも言われぬしみじみとしたよさがある≠ニいう印象ではあるものの、犬の起用が印象的なのは本作だけに限らないが、犬が終盤に向けての物語の展開にも作用する中で、アルマ・ポウスティ扮する主人公のひとりアンサが、犬と過ごしながら笑顔を見せるところなど、アキ・カウリスマキ作品では珍しいのではないか(どうだろうか)。もうひとりの主人公のアル中のホラッパ(ユッシ・ヴァタネン)の職場の友人フオタリ(ヤンネ・フーティアイネン)が自信満々に微妙に下手な歌を披露したり、ホラッパとアンサが初めてのデートでよりによってジム・ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』を観たり、上映が終わったあとの観客の感想が「ブレッソンの『田舎司祭の日記』を思い出した」「いやゴダール『はなればなれに』」だったりアンサの感想が「今までで一番笑った」だったり、例によって変なバンド(ギターとキーボード、ふたりともヴォーカルという編成のマウステテュトットなるフィンランドの姉妹ポップデュオだそうだ)が登場したり、カラオケバーではシューベルト「セレナーデ」が歌われたり(そういえば『罪と罰』でもテーマ曲的に使われていた)などなど、妙なる笑いが散りばめられている点も、他の作品同様印象に残った。2017年の『希望のかなた』のあと何を思って引退宣言し、本作で何を思って引退を撤回したのかは不勉強にして知らないが、引退を撤回してくれてつくづくよかったと思わせられた作品であった→〈Jazz Keirin〉にて休憩。かしわ天、オレンジぶっかけ、ビール小瓶×2→〈内田青果〉で買い物してから〈下高井戸シネマ〉に戻り、『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』(原作:ウィリアム・シェイクスピア、原題『Hamlet liikemaailmassa』、監督:アキ・カウリスマキ。エスコ・サルミネン、エリナ・サロ、ペンティ・アウアー、ピルッカ・ペッカ・ペテリウス、マリ・ランタシラ、エスコ・ニッカリ、ツロ・パジャラ、アーケ・カリアラ、カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、プンティ・ヴァルトネン、ヴェサ・マケラ。1987、芬Villealfa Filmproductions製作/Finnkino配給)。舞台が現代(製作時と同じ1980年代)という点や、ハムレットが巨大企業の御曹司で話の設定が企業乗っ取りという点、あるいは終盤の爆笑殺し合いとか原作とは異なる意外な結末を除けば、劇中劇もちゃんと採り上げているし、思ったよりも意外にちゃんと「ハムレット」だった(ちなみに原題『Hamlet liikemaailmassa』、ビジネス界のハムレット≠ニいったような意味のようだ)。なお「終盤の爆笑殺し合い」は、キャビネットの裏から出てきたポリニウスの息子ラウリ(カリ・ヴァーナネン)が背後からハムレット(ピルッカ・ペッカ・ペテリウス)に奇襲をかけるのにあっさりナイフを蹴飛ばされ、巨大なラジオを頭に叩きつけられるやそのラジオの電源が入り音楽が鳴り出し、ラジオに頭をめり込ませたまま息絶えるというもの。まだまだアキ・カウリスマキ作品は未見のものが多いが、今まで見た作品からいうとこれだけ大きくふざけたのを見たのは初めて。そういえば本作は長編劇映画第一作の『罪と罰』から四年後の四作めに当たるが、名作文学の映画化としては『罪と罰』よりもかなり手腕を発揮するようになったのだなと思った(警備員の机から拳銃を盗む≠ニいう場面が『罪と罰』と同じなのにはちょいとニヤっとした)。後年の作品とは多少趣は異なるが、ハムレットが食いしん坊で小太りで体重を気にしていたりとか、母親ガートルード(エリナ・サロ)もいささか意地汚かったりとか、アキ・カウリスマキならではの妙なる可笑しみも味わえた。ただし前半で数分寝てしまったので、これは機会があればもう一度ちゃんと観たい→帰宅してビール中瓶×1→風呂→金宮酎ハイ×1→午前4時就寝。
5月22日(水) 朝8時起床。白湯→ぶなしめじのおつけ(揚げ玉)、ご飯半膳(ちりめんじゃこ、キムチ納豆)→老父買い物代行(サミット)→帰途〈GYUGYUバーガー〉で本日の昼と夜を購入し帰宅→黒毛和牛ハンバーガー、フライドポテト、ビール中瓶×1→午睡→散歩。希望ヶ丘公園をひと回りして40分ほど→風呂→菊水堂ポテトチップス、鮭缶中骨缶詰(新玉葱、ピーマン)、プチトマト、ぎゅうぎゅう薄切りイイところライスバーガー、ビール中瓶×2→食後小一時間仮眠→深夜飲酒→午前4時就寝。
5月23日(木) 朝9時起床。白湯→舞茸のおつけ、グリンピースご飯、海苔→今年の夏の浅草は8/4〜6ということにして、まずは宿押さえ。公式サイトから予約しようと思ったら二泊で10万円くらいになるのでいったん諦めたが、いろいろ工夫すると(大した工夫ではないが)3万円ちょいくらいに安くなることがわかったので、宿は〈浅草ビューホテル〉にした→鮭缶とキャベツのスパゲティ(ちりめんじゃこ、紫蘇、ニンニク、生姜、ソフリット、ラー油)→シャワー→午後、まず〈下高井戸シネマ〉まで歩いて、本日分の切符を購入→世田谷線で山下、豪徳寺から表参道→散髪。A利さん無事な様子でよかった→表参道から豪徳寺。豪徳寺から世田谷線沿いにぶらぶら歩き、下高井戸に着いてもまだまだ時間あったので〈栄龍〉まで足を伸ばしてカレーライス、ビール中瓶×1。なるほど、これは得難い味と思う→〈下高井戸シネマ〉に向かい線路沿いの道を歩いていたら、提灯の「酒」という文字が目に止まり、なんだろうと看板に目をやったら市場から移転した〈恋々風塵〉だった。おお引っ越したのかとちょいと一杯。ビール中瓶×1。店主のお父上であらせられる某編プロ社長もいらしてたのでご挨拶→『愛しのタチアナ』(原題『Pidä huivista kiinni, Tatjana』、監督:アキ・カウリスマキ。マト・ヴァルトネン、イルマ・ジュニライネン、マッティ・ペロンパー、カティ・オウティネン、キルシ・テュッキュライネン、エリナ・サロ、ヴェイッコ・ラビ、ペルティ・フース、The Renegades。1994、芬Sputnik製作/Finnkino配給)。中年の冴えない男ふたり(ヴァルト=マト・ヴァルトネン、レイノ=マッティ・ペロンパー)がひょんなことからクルマでの旅に出るが、旅先でこれまた中年の冴えない女ふたり(タチアナ=カティ・オウティネン、クラウディア=キルシ・テュッキュライネンに出会い、無口で女には臆病な男たちだからほとんど何も起こらず、しかし物語はどこか可笑しく、そしてときおり妙に美しい光景が現れる…… という、ある種の睡夢のような映画だった。その中で、主人公のヴァルトがクルマでコーヒーショップに突っ込む事件≠ェあるが、これはほとんどなにも起こらなかった旅の終わりに膨らませたヴァルトの妄想。そして旅の最中いつの間にか心を寄せ合っていたレイノとタチアナが去ってひとり家に帰ったヴァルトが日常に戻って、映画は幕。そもそもヴァルトとレイノが「ひょんなことからクルマでの旅に出」たのは、ヴァルトが珈琲を切らした母親(イルマ・ジュニライネン)に腹を立てて母親を納屋に閉じ込め外に飛び出したからだが、しかし観ようによっては母親に腹を立てて納屋に閉じ込めるところからすでに、普段より母親に抑圧を感じていたヴァルトの妄想で、物語がどこか子供っぽいのも、中年男性が子供のままでいるような状況を温かく意地の悪い視点で描いた、ということなのかもしれない。レイノを演じたマッティ・ペロンパーは、他に出演したアキ・カウリスマキ作品とは異なりやけに饒舌な場面があったが、惜しくも本作の翌年急逝→『トータル・バラライカ・ショー』(原題『Total Balalaika Show』、監督:アキ・カウリスマキ。レニングラード・カウボーイズ、アレクサンドル・レッド・アーミー・コーラス・アンド・アンサンブル、キルシ・テュッキュライネン。1994、芬Sputnik)。レニングラード・カウボーイズとアレクサンドル・レッド・アーミー・コーラス・アンド・アンサンブルのジョイント・コンサートの模様を写しただけ≠ニ言ってもいいような映画で、実際、冒頭の調印式∴ネ外は演奏中のステージを何台かのカメラで写したものを編集したのみで、アレクサンドル・レッド・アーミー・コーラス・アンド・アンサンブルがどんな楽団なのか、どういう経緯でこのコンサートが開催されたかなどの解説は一切語られない。しかし先述の調印式≠ェ妙に可笑しく、総勢167名?のアレクサンドル・レッド・アーミー・コーラス・アンド・アンサンブルはただただ圧巻で、そして真面目そうな同楽団をうしろに従えふざけつつも真面目に洋楽のヒット曲≠演奏するレニングラード・カウボーイズという絵はめちゃくちゃ可笑しく、そして演奏っぷりが意外に真面目なのにまた笑う。アレクサンドル〜はロシアの民族舞踏の踊り手たちもメンバーらしく、その踊りが花を添えるのも美しいやらなんでここにこの人たちが出てくるのだという奇妙さも味わわされるやらで、なんとも不思議な体験をさせられた、という映画だった。このコンサートは生で体験したかったな。コンサートの冒頭で司会者¢Rとした女性が、レニングラード・カウボーイズの格好で登場し、また「黒い瞳」の途中でシャンソンの「パダム・パダム」を披露するのだが、この人が『愛しのタチアナ』に出演していたキルシ・テュッキュライネンだとあとで知り驚いた。とあるサイト( https://filmarks.com/movies/12589/reviews/167449413 )に映画内での演奏曲目が掲載されいたので引いておく。Finlandia(J Siberius)、Let's Work Together(Canned Heat)、ボルガの舟唄(ロシア民謡)、Happy Together(The Turtles)、Delilah(Tom Jones)、Knockin' On Heaven's Door 天国の扉(Bob Dylan)、Oh Fields, My Fields ポーリュシカ・ポーレ(レフ・クニッペル)、Kalinka カリンカ(ラリオーノフ)、Gimme All Your Lovin'(ZZ Top)、Jewellery Box ダンスチームのダンス曲、Sweet Home Alabama (Lynyrd Skynyrd)、Dark Eyes 黒い瞳(ロシア歌謡)、Those Were The Days 悲しき天使(Mary Hopkin、ロシア歌謡)。映画のサウンドトラックCDもあり、そちらはさらに多くの楽曲−−「It's Only Rock n'Roll」「Yellow Submarine」「A Cossack Was Riding Beyond The Duna」「Proud Mary」「Dancing In The Street」「Oh, Field」「California Girls」「Stairway To Heaven」「Just a Gigolo (I Ain't Got Nobody」−−が収録されている模様→帰途も徒歩。本日はよく歩いた。帰宅して風呂、ビール、午前3時就寝。
5月24日(金) 朝9時半起床。白湯→舞茸のおつけ、グリンピースご飯(ちりめんじゃこ、うずらの卵×2)、キムチ納豆→アキ・カウリスマキ関連の復習と予習→昼過ぎ、徒歩で〈下高井戸シネマ〉、本日夜の『レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う』の切符購入→世田谷線、小田急線経由で千歳船橋→予約時間通り(十分前)〈はぎの歯科〉到着→無事歯の詰め物入り帰宅→ソフト揚げ煎餅、冷やし花巻月見たぬきそば、ビールロング缶×1→『長崎犯科帳』終了→夕方、再び下高井戸へ。まずは〈Jazz Keirin〉にて早めの晩(昼と近過ぎた)。桃雪うどん、ビール小瓶×1→『レニングラード・カウボーイズ、モーゼに会う』(原題『Leningrad Cowboys Meet Moses』、監督:アキ・カウリスマキ。カリ・バーナネン、レニングラード・カウボーイズ、ニッキー・テスコ、マッティ・ペロンパー、アンドレ・ウィルム、ジャック・ブラン、ニコール・ヘリーズ、キルシ・テュッキュライネン。1994、芬Sputnik製作/Finnkino配給)。『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』の後日譚というか完結編であるが、メキシコまで連れ出しちゃったけどちゃんとシベリアに帰さないといけないよなー、とだけ考えて撮り始め、あとは思いつきのままに撮ったフィルムを適当につないだ、という印象。もちろんそんなはずはないと思うが、レニングラード・カウボーイズたちをアメリカから船に乗せて帰したら面白いんじゃないか? という思いつきの連鎖のように、観ている最中は思ってしまうような映画であった(他の人のそんなような感想も見た)。だからといってつまらないわけではなく、しかしものすごく笑わせられるわけでもなく、話が難しいわけではないがなんでそうなるのかわからないところも多く、その塩梅がとても面白かった。アキ・カウリスマキの味わいの色濃い作品であると思うが、適当に撮ったようであるところが本作の値打ちではないかと思う→どこにも寄らずに帰宅→シャワー→『季節のない街』ののち『北斎漫画』(原作:矢代静一、監督:新藤兼人。緒形拳、宍戸錠、大村崑、樋口可南子、西田敏行、佐瀬陽一、乙羽信子、田中裕子、愛川欽也、初井言榮、フランキー堺、今井和子、観世栄夫、大塚国夫、殿山泰司。1981、松竹/富士映画)。飲酒の賑やかしにと再生していただけであって、横目で眺めていただけでまったく真剣に観たわけではないが、それでも前回(2023年10月)と同じ感想を得たのに加え(観終えてから感想を読み返しそう思った)、樋口可南子が話題になった映画ではあるが今観ると樋口可南子は刺身のツマで、緒形拳、西田敏行、田中裕子の藝を楽しむための映画だなと改めて実感させられた。藝と言っても田中裕子は映画・TV女優デビュー後二年め、映画出演二作めなのだが、子供時代(十代前半か)と古希のお栄を見事に出現させ演じ分けているし(古希のほうは身体の線に多少の無理は感じたが)、堂々たる存在感にこのとき恐るべき才能が登場していたのだなと思わざるを得ない。「前回の感想」は http://aokiosamublog.sblo.jp/article/190603593.html の10月10日(火)を参照→午前3時就寝。
5月25日(土) 朝10時半起床。白湯→舞茸のおつけ、グリンピースご飯→昼前後、昨日観た映画の感想を書いた以外特になにもせず→シャワー→午後下高井戸へ。〈下高井戸シネマ〉にて本日の切符買ってから〈三友〉〈いづみや〉で買い物していったん帰宅。往復ともいつもとは違う道を辿ったらなかなか新鮮な散歩になった→菊水堂ポテトチップス、ゆで卵、ビール中瓶×1→夕方久々の〈さばのゆ〉にてクレソンの会。クレソンたくさん、鰯トマト煮缶詰、ツブ貝とクレソンの炒め、クレソンアジア風炒め、カオマンガイ、鶏手羽元スパイス焼き、ビール小瓶×1、スパイスジンソーダ割り×3、スパイスラムソーダ割り×1→〈下高井戸シネマ〉にて『白い花びら』(原題『Juha』、原作:ユハニ・アホ、監督:アキ・カウリスマキ。サカリ・クオスマネン、カティ・オウティネン、アンドレ・ウィルム、エスコ・ニッカリ、ヤーコ・タラスキヴィ、オナ・カム、オウティ・マエンパー、トゥイア・トゥオミスト、エリナ・サロ、アッテ・ブロム、ペテル・フォン・バグフ、パウラ・オイノネン。1999、芬Sputnik製作/Senso Films配給)。冒頭のヴァン・ダイク・パークス『Jump!』を想起させる音楽で興味を惹かれ、音楽と劇中の現実音(効果音)と芝居の間の合わせ方に感心し、だんだんと作品の世界に引きずり込まれる。本作では敢えて無声映画に挑んだと思われるが、幸せに暮らすキャベツ農家の夫婦ユハとマルヤ(サカリ・クオスマネン、カティ・オウティネン)や都会からの侵略者≠ナあるシェメイッカ(アンドレ・ウィルム)の芝居はもちろん、全体的にわかりやすい展開と役者の芝居は、チャールズ・チャップリン等々のいにしえの無声映画の魅力を敢えて再現させようとしたものと受け取った。マルヤを救いに行こうとするユハの乗るバスを、隣人に預けたユハの愛犬が追いかける場面なども、1910年代的≠ノ感動的で印象に残るが、物語としては悲劇ではありながらどこか乾いたモダンな印象も残る。数々の無声映画に敬意を評しながら、アキ・カウリスマキならではの表現も実現した傑作であると思った→帰宅してシャワー、そしてビール中瓶×1→午前1時頃就寝。
5月26日(日) 朝6時起床。白湯→新玉葱のすり流しと油揚のおつけけ、葱とちりめんじゃこの炒り卵、グリンピースご飯→B電子仕事(各種Webページの修正および修正指示作成)→仮眠→昼過ぎ神保町へ。まずは〈ミロンガ・ヌオーヴァ〉で一杯。ビール小瓶×1→続いて本日のお目当て、〈On a slow boat to…〉にて「クライバー商会presents『rakugo-genic』第四回春風亭朝枝独演会」。演目は下記の通り。
看板の一(ピン)
加賀の千代
(仲入り)
トーク
化物使い
今回は「加賀の千代」の女将さんも相変わらず絶妙な女性像でよかったが、「看板のピン」の隠居の親分、「加賀の千代」の近所のご隠居、『化け物使い』の隠居の吉田と、各ご隠居の貫禄や風格の表現がよかった。主催者とのトークコーナーもようやく練れてきた感じ。春風亭朝枝は現在二つ目だから、まだいろいろな噺の基本を大切にして自分の色を積極的に出すことが主眼ではない段階と思うが、それでも多彩で奥深さも感じる表現には毎度舌を巻く。真打昇進が楽しみだ。会場でビール小瓶×1→終演後、朝枝さんと主催者にご挨拶して、お暇。主催者Rいちゃんとも面識のあるM子さん、N美さんと家内とで、〈マンダラ〉なるインド料理屋で会食。パパド、チキンパコラ、グリーンサラダ、タンドールミックス(タンドールチキン、シークカバブ、マライティッカ、フィッシュティッカ、チーズ&シャスリック)、レディーフィンガー(オクラのカレー)、ナン、ビール小瓶×3→少し酔ったが平和に電車で帰宅。駅からはタクシー乗った→仮眠→夜10時頃起きて風呂→『ちあきなおみ デビュー55周年〜心を照らす不滅の歌声〜』(BSテレ東)を堪能しながら、鰯ワタ焼き、油揚とニンジンの煮物、ビール中瓶×2→午前2時就寝。
5月27日(月) 朝8時起床。白湯→新玉葱のすり流しと油揚のおつけ、グリンピースご飯の炒め(卵)、ちりめんじゃこ→食後仮眠。なんだか疲れが出たようで、本日の歯医者の予約は明日にしてもらった→引き続き仮眠→冷やし花巻そば(海苔、生青海苔、刻み葱、うずらの卵×2)→『長谷川伸シリーズ 沓掛時次郎 前編・后編』(原作:長谷川伸、監督:山下耕作。前編:鶴田浩二、川谷拓三、楠本健二、菅原文太、遠藤辰雄、小田部通麿、松尾嘉代、池田義彦、田中邦衛/后編:鶴田浩二、松尾嘉代、池田義彦、田中邦衛、楠本健二、天津敏、三益愛子、北村英三、片岡千恵蔵。ナレーター:小沢栄太郎。1972、東映/NET)。豪華キャストを使って長谷川伸の作品の梗概を伝えるという、ある意味贅沢な企画と思ったが、全30話あるという、その他の作品はどうだろう(これから全部観るわけだが)。本作に関して言えば、鶴田浩二の沓掛時次郎っぷり、男っぷりがよく、三益愛子の(時次郎の追手に対する)啖呵も心地よかったので、梗概以上の満足感は得られた→晩の支度→菊水堂ポテトチップス、ニンジンオクラ油揚の煮物、クレソン入り崩し豆腐(どんこ、ちりめんじゃこ、かつ節)、生青海苔酢の物、鰯ワタ焼き、新玉葱のすり流しと油揚のおつけ、あさり炊き込みご飯(あさり水煮缶詰使用)、納豆、ビール中瓶×2、金宮酎ハイ×1→ 『長谷川伸シリーズ 雪の渡り鳥』(原作:長谷川伸、監督:井沢雅彦。松原智恵子、小栗一也、中山昭二、古川ロック、江原真二郎、杉良太郎、高品格、松木路子。ナレーター:小沢栄太郎。1972、東映/NET)。序盤ではいささか卑怯者にも描かれる銀平(杉良太郎)が、旅を重ねる中で成長し、最終的には自己犠牲の道を選び、恋敵卯之吉(江原真二郎)、恋しいお市(松原智恵子)との間に爽やかな三角関係≠ェ一瞬成立するようなところに泣かせられる。銀平が今後どうなるかは、終幕の小沢栄太郎によるナレーション「渡世人、鯉名の銀平がいずこへ旅立ち、どのような生涯をたどったのか。その消息は雪の中に絶えて、知る人もいない…」( http://kotatuneco.blog59.fc2.com/blog-entry-2655.html より拝借)のとおり不明だが(処刑の可能性も高いだろう)、それでいてこの話の主役は明らかに銀平なのであるが、しかし残された卯之吉お市の今後の人生も余韻として残る、わずか一時間に満たない時代劇だが、そんな深さも感じた→『伝七捕物帳』。これも名作TV時代劇だな→夜10時頃就寝。
5月28日(火) 深夜起床→朝用にしじみ汁製作→ 『雪の渡り鳥』復習→ 『長谷川伸シリーズ 中山七里』(原作:長谷川伸、監督:原田隆司。梓英子、竹脇無我、戸浦六宏、菅貫太郎。ナレーター:小沢栄太郎。1972、東映/NET)。主役の、明日祝言を挙げるはずだったおさん(竹脇無我)の相手政吉(竹脇無我)よりも、おさんを政吉の務めるお店の旦那(戸浦六宏)に無理やり斡旋する悪人の十手持ち文太を演じた菅貫太郎の表現力のすごさが印象に残った一作。物語としては、政吉のおさんへの問いかけと、中山七里で出会ったおさんそっくりのおなかへの問いかけが重なるところのぎゅっとくる構成が、(この映像作品の表現としても)なんともたまらない。終幕で同道の役人たちが文太を助けないところがこのドラマだけでは釈然としないが、さきほども参考にしたサイトの http://kotatuneco.blog59.fc2.com/blog-entry-2656.html にある記述「もともとの文太の胡散臭さと、政吉の挨拶に何かを感じたのか」という記述は鑑賞のヒントになろう→金宮酎ハイ×2→朝6時就寝→朝9時起床。白湯→しじみ汁、あさり炊き込みご飯、納豆→〈はぎの歯科〉にて噛み合わせの確認と歯の掃除。そういえば電動歯ブラシを導入してから約二ヶ月が経ったが、本日の検診では上の歯はよく磨けていたものの、下の歯は磨き残しが多かった。電動導入後は上下とも同じように磨いていたつもりだったが、1)電動以前から磨き残しがあった、2)同じように磨いているつもりで下は手を抜いていた、3)下のほうが歯並びが複雑で汚れが落ちにくい、といった可能性が考えられる。いずれにせよ、今後は下を少し意識的に磨くことにしよう→〈オオゼキ〉にて、天ぷら(かき揚げ)を買うかどうか迷ったが、結局揚げ玉だけ買って帰宅→あさりわかめ南蛮そば(うずらの卵×2、揚げ玉)、ビール中瓶×1→午睡→クルマにするか迷ったが、徒歩にて夕方下高井戸。〈下高井戸シネマ〉で本日のお目当て『カラマリ・ユニオン』の切符買ったところで開演時間を一時間早く勘違いしていたことに気づき、ひとつ前の『コントラクト・キラー』も観ることにした(本日サービスデイということもあり)→〈ばんや〉にて自然海塩そば、ビール350ml缶×1。自然海塩そばは味が優し過ぎ(薄過ぎ?)と思ったが、食べ終える頃にはちょうどよくなっていた。最初によく混ぜるべきなのか? 悪くなかったが、初訪問の醤油のときほどの特別感は感じなかったな→『コントラクト・キラー』(原題『I Hired a Contract Killer』、監督:アキ・カウリスマキ。ジャン・ピエール・レオ、イモーゲン・クレア、トレヴァー・ボウエン、アンジェラ・ウォルシュ、シリル・エプスタイン、ニッキー・テスコ、チャールズ・コーク、マイケル・オヘイガン、テックス・アクザイル、マージ・クラーク、ケネス・コリー、ウォルター・スパロウ、トニー・ロア、ジョー・ストラマー、ピーター・グレイヴス、セルジュ・レッジアーニ、エット・エリオット。1990、芬瑞Finnkino/Svenska Filminstitutet (SFI))。今回の〈下高井戸シネマ〉でのアキ・カウリスマキ特集に足を運んだ中では、本作が唯一割と最近観ていた作品≠ナあった。その感想(2022年6月)は本日得た感想とほぼ同じなので右に記しておくが、本日新たに得た感想としては、死にたいのになかなか死ねない♂ツ笑しさが死にたくなくなったのに殺し屋を断れない状況になり逃げる≠ノ転換していく塩梅の面白さとか、自分殺しを頼んだほうも依頼を受けたほうも逼迫した状況なのにどこか抜けた感じがある面白さなど。そういう面白さは、話を知っていても何度も味わい楽しめる要素と思うが、そういう要素を作り出せるという点は、アキ・カウリスマキは滅多にいない映画作家であると言ってよい所以だと、本日は(も?)思った。以下、2022年6月30日に観た際の感想「こういうのをオフ・ビート≠ニいうのだろうか。話は仕事を失い外国暮らしに絶望した男が自分を殺す殺し屋を雇うというもので、その殺し屋もパッとしない人間なら男がいきなり恋に落ちる女も花売り娘という恵まれない境遇、といった暗い話になりそうなモチーフを使って、しかも表面的な笑いを用いずに、人間とか人生とかの可笑しさをじわじわと伝えてくる。始終笑わぬジャン・ピエール・レオが醸し出す可笑しさはもちろん、パブで歌うジョー・ストラマーとか、依頼人を友達扱いする殺し屋(前述とは異なる組織の人たち)の人のよさとか、逃避先のホテル主人の人柄とか、最後に匿ってくれたフレンチ・ハンバーガー屋の主人と無愛想なハンバーガーとか、そして当の殺し屋とか、静かで沈んだ絵の中からなんだか豊かなものが次々と浮かび上がってくる感じ。これは話を知ってても何度も観たくなる類だと思う」→『カラマリ・ユニオン』(原題『Calamari Union』、監督:アキ・カウリスマキ。マッティ・ペロンパー、プンティ・ヴァルトネン、サッケ・ヤルヴェンパー、ピルッカ=ペッカ・ペテリウス、カリ・ヴァーナネン、アスモ・フルラ、ペルッティ・スヴェーホルム、カリ・ヘイスカネン、マッティ・シュルヤ、パンセ・シュルヤ、ティモ・エランコ、パテ・ムスタヤルヴィ、マト・ヴァルトネン、ミッコ・マッティラ、マルック・トイッカ、エルッキ・ハーパネン、エルヤ・ダムルト、パウラ・オイノネン、ハンヌ・ラウリ、エルッキ・アスタラ、ミッコ・ヴァイニオ、デイブ・リンドホルム、マリ・ランタシラ、パーヴォ・ピスコネン、マルジャーナ・ミッカネン、Heinäsirkka、ピルッコ・ハマライネン、サンナ・フランスマン。1985、芬Villealfa Filmproductions製作/Finnkino配給)。アキ・カウリスマキ長編第二作。全員「フランク」という名前の面々からなる「カラマリ同盟」(「カルマリ同盟」のもじりとの説がある)が、閉鎖的で地理状況からも人間関係からも生きづらい故郷カッリオ(Kallio)を捨て、町の反対側にある理想郷エイラ(Eira)を目指す…… という物語で、主要登場人物が全員「フランク」で(おそらく)三人を除いて全員サングラスをかけていたり、カッリオからエイラまでの移動手段や移動中に起こる様々な事件が現実離れしていたりする点、そして誰もエイラに辿り着かないという点から、誰もその場所やそこへの移動手段を知らないままそこに向かって彷徨い続ける理想郷∞誰もそこには辿り着かない≠ネどをモチーフにした寓話かなとも思ったのだが、では風刺や教訓や処世訓がなにかと言えば、これがさっぱりわからない。そもそもフィンランド・ヘルシンキにおいてカッリオからエイラまでは、Google Mapで確認したところ徒歩で40〜50分ほど。なにも(ヘルシンキの?)町の中心部まで地下鉄をハイジャックしたり、中心部からエイラまでクルマのボンネットに乗ったりクルマを盗んだり、映画館やゲームセンターで一晩遊んで過ごしたり万引きして飲み食いしたり、向かうのを諦めてホテルのドアマンになったり、女性にちょっかいを出して殺されたりという必要はないのである。「町の中心部」に着いてからの顛末が多少でもわかれば、本作で描こうとしたことを理解するよすがにもなろうが、本日第一回めの鑑賞ではお手上げ(そういえば、映画冒頭ではドラムを叩く姿で登場し終幕ではマッティ・ペロンパーと争う「フランク」が終始サングラスもメガネもかけていないのだが、その意味も不明である)。加えて本作の特徴として(1)登場人物が全員(と言ってよいと思うが)物語を進めるためのコマとして使われている、(2)物語を構成する挿話それぞれの必然性がわかりにくい上にどれもやり過ぎである、という点が挙げられると思うが、いずれも後年のアキ・カウリスマキ作品とは相容れない特徴のように思う。そうしたところから、ひとまず本日の第一回め観賞では、アキ・カウリスマキの最低傑作、という評を思い浮かべたが、それが妥当かどうかはよくわからない。物語の進み方も、なんだかいろいろとっ散らかっていて記憶が追いつかなかったのだが、二回め以降の鑑賞のために、フランクたちが地下鉄をハイジャックして(地下鉄の運転手=Erkki Haapanen)「町の中心部」に着いて以降の登場人物を、登場順にまとめておく(登場順に記憶違いはあると思う)。ハンバーガーレストランの女性(Erja Dammert)、映画館にいる女性(Paula Oinonen、アキ・カウリスマキの妻)、銀行支店長サースタモイネン(Hannu Lauri)、国会議員の運転手(Erkki Astala)、議員(Mikko Vainio)、ビーチの男(Dave Lindholm)、ホテルの清掃員(Mari Rantasila)、精神科医(Paavo Piskonen)、スポーツカーの女性(Marjaana Mykkänen)、Liisa(Heinäsirkka)、秘書(Pirkko Hämäläinen)、裕福な学者の未亡人(Sanna Fransman)。あとタクシー運転手(バーテン?)が割と重要な役どころで出ていたと思うが、imdbの配役表でもよくわからなかった(「フランク」のひとりだったか?)。引き続き調べてみたい→往復とも歩いたが、〈下高井戸シネマ〉で切符を買ってから〈ばんや〉と往復した際のみちょいと雨に降られただけで、行き帰りとも豪雨どころか雨と無縁だった→帰宅して風呂→本日の感想まとめ→『笑点特大号』と『伝七捕物帳』→大和芋梅磯辺揚げ、トマトと新玉葱とクレソンのサラダ、茄子揚げ浸し、ちりめんじゃこ、しじみ汁かけご飯、ビール中瓶×2→午前4時就寝。
5月29日(水) 朝10時起床。白湯→しじみ汁、卵かけご飯(塩昆布、ちりめんじゃこ、胡麻油)、海苔→録画消化/整理→冷やし茄子天そば(うずらの卵×1、生青海苔、刻み葱、紫蘇)→夕方高円寺へ。〈ちんとんしゃん〉にて古今亭菊之丞独演会。演目は「百川」と、仲入りはさんで『茶の湯』。どちらも何度も聴いている噺だし、独自の入れ事のほとんどない綺麗で心地よい話藝だったが、それでも菊之丞ならではの柔らかくて綺麗で複雑な噺の形≠堪能させてもらったような、とてもよい心持ちになる。比較しても仕方がないが、たとえば先日聴いた春風亭朝枝を菊之丞と比べると、藝の傾向に共通するものがあるから余計そう思ってしまうのかもしれないが、やはり噺の形≠ニいう点でまだまだ工夫の余地がたくさんあると思う。むろんこれは朝枝への批判などではなくて、むしろ聴き手がそういう点を理解して藝の鑑賞に臨まなくてはいけない、上手だからと無闇に褒めるだけではいけないという、聴き手の自覚の問題として、そんな風に考えた。でないと、受け手として藝というものを舐めているということになりはしないかと考えた次第→懇親会も楽しく、御酒ふたつかみっつで帰るつもりが(翌朝早いので)、結局いつも通り→面倒くさくなってタクシーで帰宅。家の近くで降りたところで、ジンさんにバッタリ遭遇してびっくり→なぜだかビール中瓶一本飲んで就寝。深夜1時頃。
5月30日(木) 朝8時半起床。白湯→やや宿酔のため朝食抜いて老父買い物代行(サミットのみ)。「薄いポリ袋<5〜6枚>」のリクエストをうっかり忘れる。あと老父の部屋のエアコンフィルター掃除→〈GYUGYUバーガー〉で昼買って帰宅→BLTバーガー、フライドポテト、ビール中瓶×1/2→午睡→→シャワー→クルマで吉祥寺→〈Strings〉にて泉沢果那×大石竜輔デュオ演奏を鑑賞。演奏曲目は下記の通り。
01 Big Chief(Professor Longhair)
02 Bourbon Street Parade(Paul Barbarin)
03 Something You Got(Chris Kenner)
04 Smile(Charles Chaplin)
05 Jambalaya (On The Bayou)(Hank Williams)
06 Isn’t She Lovely?(Stevie Wonder)
07 You Are My Sunshine(Jimmie Davis、Charles Mitchell)
08 Sweet Georgia Brown(Ben Bernie and Maceo Pinkard, with lyrics by Kenneth Casey)
09 Mardi Gras In New Orleans(Professor Longhair)
10 Iko Iko(James "Sugar Boy" Crawford)
11 Route 66(Bobby Troup)
12 Mustang Sally(Mack Rice)
13 Ain't Nuttin' Nice(Jon Cleary)
enc. Take The “A” Train(Billy Strayhorn)
Professor Longhair、Huey "Piano" Smith、Dr. Johnなどのニュー・オリンズ・スタイルのピアノと思うが(James Bookerはちょいと違うかな)、印象としては優等生、とは少し違うが(かなり荒々しい演奏もする)、酒の匂いがあまりしない、という感じ。嫌いではないし楽しくもあるが、面白さは少し薄いかな、私にとっては。編成によっても違うだろうから、また何度か聴いてみたい。タンバリンの大石竜輔はかなり天才的(努力の結果だとしたらそれもまた天才の範疇と思う)な演奏者だったが、なにかもうひとつ欲しいような気がした。しかしそれが何だか、今のところはわからない。これまた何度か聴いてみなければと思う→ベーコンと黒オリーブのピザ、ビール小瓶×1、トマトジュース→泉沢果那さんに、岩下から教えてもらった旨などお話ししてご挨拶してからクルマで平和に帰宅→『伝七捕物帳』『映像の世紀』など観ながら飲酒。キャベツとオクラの塩昆布和え(ちりめんじゃこ、胡麻油、酢)、トマトスライス(粉チーズ、オリーブ油)、鴨燻製、鮭缶、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→午前2時就寝。
5月31日(金) 朝6時起床。白湯→7時前に家を出て新宿へ。まずは〈ベルク〉で朝。マイスターモーニングのビアセット→食べ終えて珈琲飲んでもまだまだ時間があるので、〈新宿武蔵野館〉近くの〈ルノアール〉で時間潰し→ 『月世界旅行』(原題『Le Voyage dans la Lune』、原作:ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、監督:ジョルジュ・メリエス。ヴィクター・アンドレ、アンリ・ドラノワ、ブリュネット、デルピエール、ファージョ、クルム、ジュール-ウージェーヌ・ルグリ、ジュアンヌ・ダルシー、フランソワ・ラルマン、ジョルジュ・メリエス、ブルエット・ベルノン。1902、仏Star-Film)。〈新宿武蔵野館〉での「カツベン映画祭」にて、弁士:植杉賢寿、楽士:坂本真理で鑑賞。植杉賢寿の説明は、私からすると自分の藝風≠ノいささか溺れた感じが鼻につき、活弁だけ取り出すとあまり楽しめるものではなかった。それはまあ単に声が苦手な感じ、というだけかもしれないが、冒頭の場面で振り上げた望遠鏡が椅子に早替わりしたり、水兵の女性たちが大勢でロケットを大砲に押し込んだりという場面を説明に採り上げなかったのも(これもまあ、他の人が説明しているから自分は割愛、という可能性がないとはいえ)気になった。だが活弁に耳を傾けなかった分、月世界人の身のこなしの軽さ/鮮やかさとか、ロケットが地球の海に落ちた後の魚影に手足があるとか、映像の中で今まで気に留めなかったところに目が行ったという収穫はあり、全体的には何度も観た本作を改めて十二分に楽しむことができたと思う。坂本真理の伴奏は、効果音、効果音的な楽音、音楽とすべてが映像にピタッとはまり、本作の魅力を際立たせていたと思う→『鞍馬天狗(后篇)』(原作:大佛次郎、監督:山口哲平。嵐寛寿郎、嵐佳一、五味国枝、尾上松緑、嵐橘右衛門、生駒栄子、小林勝、木村政治、秋吉薫、中村竹三郎、山本礼三郎。1928、嵐寛寿郎プロダクション製作/神戸菊水館配給)。〈新宿武蔵野館〉での「カツベン映画祭」にて、弁士:樗澤賢一/尾田直彪、楽士:坂本真理で鑑賞。嵐寛寿郎プロダクション設立第一作(の後編部分)。鞍馬天狗(嵐寛寿郎)が大阪城に侵入するも正体がバレて、助けに来た杉作(嵐佳一)とともに脱出するところから、黒姫の吉兵衛(嵐橘右衛門)の家に匿われていたところ佐々木只三郎(秋吉薫)からの偽の回状にまんまと呼び出され暁国庵に赴き、見廻組との立ち回りを繰り広げ、そこに角兵衛獅子軍団と桂小五郎(中村竹三郎)率いる勤皇党が集合したところで「?」が出て幕(続きは『鞍馬天狗 恐怖時代』)。嵐寛の立ち回りはもちろん、子供たちの生活や学習そして終結の様子などの活写、黒姫の吉兵衛や娘お露(生駒栄子)ら味方と暗闇のお兼(五味国枝)や佐々木只三郎ら敵役の描写などなど、映画の魅力に溢れた一作と思う(終幕で子供たちまで集結するのは足手纏いで危険なだけでは≠ニ突っ込みたくなる可笑しさがある)。まだ若い弁士ふたりの説明は、とても誠実であり、また登場人物ごとの人物造形と台詞回し・声色の使い分けが見事で、とても楽しめた。欲を言えば、このあと『鞍馬天狗 恐怖時代』で完結する旨まで説明してほしかったかな。坂本真理の伴奏は、『月世界旅行』同様効果音、効果音的な楽音、音楽とすべてが映像にピタッとはまり、本作の魅力を際立たせていた。『月世界旅行』より音量を上げたのか、画面との一体感もより堪能できた→楽士を務めた真理ちゃん先生の片付けを少しだけ手伝いおいとま→経堂駅前の〈オオゼキ〉で買い物し帰宅。台風直撃、通勤ラッシュと懸念事項のある中でのお出かけだったが、終わってみれば平和だった→醤油ラーメン(焼豚、白髪葱、海苔)、ビール中瓶×1→午睡→夕方下高井戸へ。まずは〈下高井戸シネマ〉に寄って本日の切符買ってから、〈Jazz Keirin〉にてイカ天ぶっかけ、ビール小瓶×1.5→〈下高井戸シネマ〉にてアキ・カウリスマキ特集最終日最終回の『希望のかなた』原題『Toivon tuolla puolen』、監督:アキ・カウリスマキ。シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、カイヤ・パカリネン、サイモン・フセイン・アルバズーン、カティ・オウティネン、ミルカ・アールロス、イスモ・ハービスト、マッティ・オンニスマー、イルッカ・コイヴラ、ヌップ・コイブ、ヤンネ・ヒューティアイネン、ハッリ・マルスティオ、アンテロ・ヤコイラ、バンド - Dumari And Spuget Featuring Esa Pulliainen、パヌ・ヴァウコネン、アクセル・ローレン、パウリ・パティネン、ヴァルプ、エリアス・ウェスターバーグ、トンミ・コルペラ、ニロズ・ハジ。2017、芬Sputnik製作/B-Plan Distribution配給)。本作の製作(公開?)直後にアキ・カウリスマキが引退宣言≠オたことを知ったあとで観ると、なるほどアキ・カウリスマキ映画の集大成のように受け取れる。主人公カーリド(シェルワン・ハジ)はシリア・アレッポからフィンランドにたどり着いた難民申請者ではあるが、映画自体は専ら政治的問題を採り上げることが主眼ではなく(フィンランド国内のチンピラ右翼の描写などそういう視点も色濃いが)、他のアキ・カウリスマキ作品同様、社会の隅っこで生きる弱い立場にある人間への眼差しによって組み立てられた映画だろうし、音楽(映画内での生演奏)や笑いへの目配りも本作に至る作品群での方法の増幅を探ったものと思った。笑いについては、寿司のくだりはやややり過ぎとも思ったが、その場面が終わってみれば尺も笑いの量も質も、ちょうどよい塩梅に収められていて(むろん受け取り方には個人差があろうが)、そういう点でも自身の映画製作術を極めた結果のように思えた次第。そして弱い立場の人間に対して弱い立場の人間たちが発揮する優しさ−−本作でいえば難民仲間のマズダック(サイモン・フセイン・アルバズーン)、カーリドを救うレストラン主人ヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)や従業員たち(イルッカ・コイヴラ、ヌップ・コイブ、ヤンネ・ヒューティアイネン)、傷ついたカーリドに寄り添う犬のコイスティネン(ヴァルプ)などなど−−も、マズダックのみ少し前のめりな感じはあるものの、おおむね淡々と、飄々ともたらされつつ、しかしこれまでの作品よりもほんの少しだけその表現が深まったという印象を得た。結末の受け取り方には(にも)やはり個人差はあろうが、私は弱い立場の人間が暴力に脅かされるが、力での対抗はしないけれども決して負けない≠ニ受け取ったこともあり(この辺は本作の原題が「On the other side of hope」「希望の向こう側」といったような意味であることや、終幕の直前にヴィクストロムがいったんは別れた妻と復縁したかに見えることも、この受け取り方に影響していると思う)、本作後の最新作『枯れ葉』への評価をひとまず脇に置けばアキ・カウリスマキの最高傑作と考えるし、またおそらく本作公開時に鑑賞してから引退宣言≠知っても、それほど悲観はしなかったと想像した。話自体は一度観たら頭に入る感じだが、観る度に異なる箇所を味わえるだろうなという映画であった。淡々と撮影したように思える場面場面の中に、アキ・カウリスマキならではの色彩と陰影があり、ときおりハッとするような構図(たとえばカーリドがヴィクストロムと殴り合った末に救われた際の、レストラン店内でこのふたりと店員三人が並ぶショットなど)も印象に残った→終演後、本日開店という音楽(楽器?)バーの〈我音楽〉を初訪問。ちょっと恐々だったが、あまり水商売に慣れていないようなご夫婦(かな?)が営む、居心地のよい酒場だった。ご主人がウクレレ奏者ということで、カホンで一曲演奏参加させてもらった(曲はビリー・ジョエル『Honesty』)。ビール小瓶×3→徒歩で帰宅。途中で大声を出しながら後ろから走ってくる男がいたので、振り向いて「なんだね?」と尋ねたら「すみません、間違えました!」と叫んで走り去っていった。あれはなんだったんだろう?→帰宅して海苔などつまみながらビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1。〆にぶっかけそうめん(うずらの卵×1、揚げ玉)→午前2時頃就寝。
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