2024年09月20日
9月まとめ(11〜20日)
散髪再開、ひさびさのセッション遊び 於三軒茶屋〈stage P.F.〉、ミシェル・アザナヴィシウス『キャメラを止めるな!』、タクラ君DJ 於赤坂〈Miracle〉、居間大掃除、山下智彦/テレビ東京『ホリデイ〜江戸の休日〜』と小国英雄/島耕二/川口浩/志村喬/長谷川一夫『江戸っ子祭』、さらに松田定次/月形龍之介/松方弘樹/岡千恵蔵/市川右太衛門/丘さとみ『天下の御意見番』、隣家来訪、新藤兼人/乙羽信子『母』、リチャード・ベンジャミン/ダン・エイクロイド/キム・ベイシンガー『花嫁はエイリアン』、グリフィン・ダン/マシュー・ブロデリック/メグ・ライアン『恋におぼれて』。
9月11日(水) 朝7時半起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、卵かけご飯(しらすぼし)、納豆、海苔→午前中、〈所澤クリニック〉にて老父の薬受け取り老父宅に配達→〈松葉茶屋〉にて昼。十割せいろ→帰宅後水風呂、ビール中瓶×1→午睡→菊水堂ポテトチップス、舞茸と油揚のおつけ(揚げ玉)、小ハンバーグ、いちぢくの生ハム巻き、和風ペペロンチーノ(ぶなしめじ、玉葱、ニンニク、しらすぼし、醤油)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→夜10時いったん就寝。
9月12日(木) 深夜起床→LH関連連絡業務。なかなかまとまらないが、うまくいけば面白くなる雰囲気あり→『レディ・ガイ』(原題『The Assignment』、原案:デニス・ハミル/ウォルター・ヒル、監督:ウォルター・ヒル。シガニー・ウィーバー、トニー・シャルーブ、エルティ・ピアース、エイドリアン・ハフ、ミシェル・ロドリゲス、キャロライン・チャン、アンソニー・ラパーリア、ブレント・ラングドン、ジョン・カレンダー、ビル・クロフト、ダリル・クオン、テリー・チェン、ポール・マグリオン、ケイトリン・ジェラード、デイヴィッド・ジャコックス、アレックス・ザハラ、ケン・カージンガー。2016、米英加SBS Films製作/Saban Filmsほか配給)。30分ほど観るまで、以前観ていたことを思い出さなかった。感想特になかったので、前回(2020年1月)の際の感想を引いておく。「ポーやシェイクスピアの中途半端な引用には失笑させられたが(シガニー・ウィーバーの人物造形以外にあまり意味がなかったし、その人物造形もそれほど印象的ではなかったので)、ミッシェル・ロドリゲスの根性ありそうな芝居はなんだか印象に残った。つまらないようで不思議な印象が残った」→和風ペペロンチーノ、金宮酎ハイ×3→午前5時就寝→朝9時起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、ご飯半膳(しらすぼし)→シャワー→昼過ぎ表参道へ。復活なった〈fg〉にて散髪。ひとまずAさん元自宅を空っぽにして(そのために引っ越した)、居室のひとつで背術という趣。シャンプー台がない以外はこれまでとまったく同様なので安心した。シャンプーはシャワーを借りて自分で(汗を流しつつ)行うスタイル。この季節は却ってさっぱりしてよい。施術中御酒(カップ酒)を一杯→どこにも寄らずまっすぐ経堂。ちょいと時間余ったので、駅前の〈三省堂〉で文庫本を二冊買い求め、脇のベンチで読書→裏を返そう返そうと思っていた〈KAPPE Diningtable〉にて遅い昼。本日はやみつき人参、馬ひれ刺し、馬にクレソン、とん平焼き(高菜)、ビール中瓶×1.5、カルダモン焼酎(TAKE7)×2。さすがに開店と同時(15:00)だと客はおらずのんびり食事できた。遅い昼(あるいは早お夕飯)にまた利用しよう→帰宅、シャワー、午睡→ゴーゴーカレースナック、生ハム、即席ラーメン(マルタイ棒ラーメン、生卵、刻み葱、ニンニク)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→日付変わってから就寝。
9月13日(金) 朝9時起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、ご飯(しらすぼし)→くだんのキャッチコピー仕事、主催者の迷走により主催者が言いたいことを全部ぶちまけたようなぜんぜん「キャッチ」にならないコピーが採用となり、私のはボツ。まあ競合に負けたわけではないし、成功報酬とのことだったが半額保証していただけることになったので、よしとしよう→「水色の恋」の打ち込み音源(フルサイズ)、「逢いたくて逢いたくて」の譜面など、本日のセッション遊びの準備→冷やしたぬきそば(うずらの卵×3、刻み葱、青海苔)→ニ時間ほど「水色の恋」「逢いたくて逢いたくて」「私の青空」を練習(歌入り一時間)。曲ごとにピックアップ使い分けるアイディアが今さらのように→夕方、昨年12月以来ぶりに三軒茶屋〈stage P.F.〉にてセッション遊び。メンバーはB電子、特許とその友人、M岡、Uりゃ、KORG氏、そしてお初のK田さん(面識はないが、高柳昌行のディスコグラフィー制作の際に情報を参照させていただいた)。自分の参加セッションは、まずはB電子/特許/M岡/K田で「Mercy, Mercy, Mercy」「Black and Crazy Blues」、それからK田/KORGとのトリオで「枯葉」「Blues For Narcissus」、夫婦デュオで「水色の恋」「逢いたくて逢いたくて」、最後にB電子/M岡/Uりゃ/KORG/K田で「Chicken」と適当なブルース。ひさびさで楽しかったし、メンバーが全員初めて共演なのに加え曲も(おそらく)『Flower Girl』のレコーディング以来初めて演奏されるものだが、まあなんとかなったのもうれしい。しかしドラムは冒頭の二曲で息が上がった。練習もしなければならないが、体力作りも必要だ。コンビニサンドイッチとビール350ml缶×1→往復ともスイスイ。復路は、世田谷通りの環七から先が妙に混んでいたし、小腹が空いて家の近くの〈すき家〉で牛丼でも買って帰るかということになったので、環七右折して赤堤通り経由で帰宅→シャワー→『キャメラを止めるな!』(原題『Coupez!』、原案:上田慎一郎/和田亮一『カメラを止めるな!』、監督:ミシェル・アザナヴィシウス。フィネガン・オールドフィールド、マチルダ・ルッツ、グレゴリー・ガドゥボワ、ラファエル・クエナード、ベレニス・ベジョ、セバスチャン・シャサーニュ、ロマン・デュリス、リエス・セーラム、竹原芳子、成田結美、シモーヌ・アザナヴィシウス、グロリア・ハザナヴィシウス、マリー・ザブコベック、イヴォン・マルタン、ルアナ・バイラミ、ジャン=パスカル・ザディ、フローレンス・ヤナス、アグネス・ヒュルステル、クリスタル・ブルサン、チャーリー・デュポン、ルアナ・バイラミ。2022、仏Getaway Filmsほか製作/Pan Distribution配給)。本作のオリジナルである上田慎一郎『カメラを止めるな!』(2017)は、だいぶ話題になってから観たこともあり、少し厳しい眼で観てしまい、「発想は面白いが仕上がりがそんなに面白かったり特筆すべき点があるようには思えなかった」と感想を残している(2019年3月)。おそらく話題になってすぐだったら「発想は面白い」のほうで高く評価したのではなかろうかと思うが、どうにも役者ひとりひとりに魅力を感じず(監督&俳優養成スクールの製作プロジェクトということで仕方のないことなのかもしれない)、劇映画としての面白さを感得しなかったのだろうと思う。翻って本作は、フランス人だからそれぞれの自己表現の仕方を含む文化の違いが他国の者にとって面白い≠ニいうこともあろうが、役者ひとりひとりに人間の面白さを感じて、すでに知っている話なのにとても面白くまた引き込まれて観た。オリジナルと比べ細かいが重要な点が端折られているという批判も観たが、オリジナルの細部はもうすっかり忘れていたので、そういう点も気にならなかった(その批判を読みながら本作を思い出してみたが、本作でも−−濃さや重さは違うかもしれないが描かれてはいる箇所もあり−−単に見落としじゃないかという箇所もいくつかあった)。まあ確かにそれは説明不足では、という箇所もあったが(主要な役の俳優の交通事故のくだりとか)、という次第で、現場のドタバタ、ヤケクソで臨機応変な対応、そこに至る経緯、それらの構成、そして家族の物語など、オリジナルにもあったであろう面白さを、本作でようやく味わうことができた。「発想は面白い」という感想は、当時どういう思考の流れでそう思ったのかは忘却の彼方だが、今となってはハズレではなかったようだ→牛丼並、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→午前3時就寝。
9月14日(土) 朝8時半起床。白湯→すき家カレーライス1/2(クミンシード、ニンニク、青葱、バター追加)、生卵→昨日のセッション遊びの動画確認など。ビデオカメラは名機ではあるが、オートゲインの効き方はiPhoneのほうが細やかな気がしたが、果たして→『キャメラを止めるな!』復習→旧友より連絡あり。無責任な安請け合いもできないと思われる状況なので、気が楽になるようなら連絡くれと返事→めんつゆ仕込み→夕方、まず下北沢に出て、三月前に液晶交換したiPhone 6sの液晶画面に黒いひび割れ?が生じたので、その際の修理店を訪ね保証期間内だがなんとかならないか、と交渉。液晶漏れと思われるが、その場合は保証対象にならないとの由。仕方がないと諦めるも、納品書に「液晶漏れは対象外」と明記したほうがよいとか、液晶交換後ほとんど使っていないのに液晶漏れが生じたというのは明らかに初期不良なので部品の調達先に注意したほうがよいとか話してたら、最終的に受付の人が部品の調達先と交渉してくれて、保証対象となった。よかった→〈貝麺みかわ〉にて冷やし貝麺→本日はタクラ君が〈Miracle〉にてDJをするというので、赤坂に移動し数年ぶりに〈Miracle〉訪問。タクラ君も元気そうだし、DJプレイも楽しんだが、なんとなく草臥れてきたので、一時間ちょっとでおいとま。タクラ君の仲間が集まってた所為か、赤坂がまるで水戸のような空気になっていたのが面白かった。生ビール×1、ハイボール×3→帰途の電車の中でちょいとうとうとしたら、立ち上がる際にふらついたり下半身に力が入らなかったりで、経堂駅からタクシーで帰宅。まあおそらく連日ちょいと飲み過ぎなのが溜まったのだろう、と思うが果たして→帰宅即シャワー即横臥→小一時間眠り復活→『愛と死の谷間』(脚本:椎名麟三、監督:五所平之助。桜井将紀、山田禅二、芥川比呂志、北林谷栄、宇野重吉、津島恵子、乙羽信子、安西郷子、飯田蝶子、木村功、田中筆子、柳谷寛、沢村貞子、若原初子、高杉早苗、稲葉義男、伊藤雄之助、多々良純、光沢でんすけ、山形勲、清水一郎、中村是好、大山健二、殿山泰司、左ト全。1954、日活)。悪徳とまではいかないが不実ではある診療所所長大沢捨松(宇野重吉)の下で働く若い女性医師竹内愛子(津島恵子)が、医師としての正義を貫こうとしながらも挫折を味わい、しかしある種異様な出会い方をした男風見潔(芥川比呂志)−−大沢が愛子に求婚しているのを知った大沢の内縁の妻望月栄子(高杉早苗)が愛子の行状を調べるために雇った探偵だが、竹内とは貧民窟の少年関根和男(桜井将紀)を鉄道事故から救った善意の人として出会う−−に励まされ新しい一歩を踏み出す…… という物語ではあるが、背景に大沢の織りなす三角関係−−金蔓である資産家の娘の内縁の妻、求婚している愛子、そして愛人である看護婦今野桃代(乙羽信子)−−あり、愛子がちょっとした善意から無償で少年の母親を治療した結果少年がまったく無邪気に貧民窟の人たちを診療所に連れてきてしまうというひと幕あり、貧民窟の少女坂田律子(安西郷子)の診療所に対する屈託あり、あるいは律子と風見の交流あり、かと思えば坂田律子と診療所内の看護婦(婦長石田てつ=北林谷栄など)や医師(伊藤雄之助、多々良純)同士の人間模様があり、戦争から復員し希死念慮を持つ貧民窟の青年坂田勘次(坂田律子の兄。木村功)が愛子に自殺用の薬剤を求めた挙句愛子の眼前で鉄道自殺をするくだりもありと、物語全体を構成する要素は多岐にわたり、また複雑である(しかも大沢の内縁の妻栄子は、愛子に不審な行状はないという風見の調査結果を受け入れず、風見の調査行動を調査する探偵牛窪直次=中村是好を雇ったりもする。そして最終的には発狂してしまう)。その複雑さがこの映画の主題と思われるもの(人間ってすばらしいもの、やろうとすることができる云々)をどう活かしているのか、私にはわかる部分もあり、邪魔な分もあり、わからない部分もあった。おそらく椎名麟三が小説≠ニして書いたものがあったとしてそれを読めばもっと深く理解できたのではないかとも思うが、だからといって評価できないかといえばそんなこともなく、コントラストが高めの映像美、機関車の煙を巧みに用いた映像演出、マネキンやビアホールの入口、団地などをモダンさも感じさせる映像表現で描いた点などは、映画ならではの愉しみとして味わった。五所平之助作品は、『マダムと女房』(1931)、『愛撫(ラムール)』(1933)、『煙突の見える場所』(1953。本作と同じく椎名麟三原作)、『かあちゃん結婚しろよ』(1962)、『女と味噌汁』(1968)くらいしか観ていないので、私が未だ五所平之助の特徴やよさを理解していないということもあろう。何度か観てみたら、もっと本作のよさがわかるのかもしれない。とは言いながら、しまいには大沢はあっさり愛子と栄子を捨て(それで栄子は発狂するわけだが)、桃代と共に新しい病院と生活を構築するために出奔してしまうのだが、そのくだりが尻切れ蜻蛉の印象があるのと、それもあってかタイトルロールでは津島恵子と並んで主役扱いの乙羽信子があまり活かされていなかったのは、私には残念であった→映画観ながら翌朝の粥製作→昆布とかつ節出汁殻、冷やしたぬきそうめん(刻み葱、青海苔)、ビール中瓶×1→朝方5時就寝。
9月15日(日) 朝9時起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、中華粥(葱、ニンジン、生姜、鶏ガラ出汁、溶き卵)→10月の京都の宿決めて予約。伊藤若冲の初公開巻物(果蔬図巻。若冲ならではの美しい色彩を用いてさまざまな野菜や果物が描かれた、全長3m余りの大作。若冲70代の作品)を観られそうなので愉しみ→水曜日にお隣さんおいでとのことで、居間掃除→冷やし山かけそば(揚げ玉、刻み葱)、ビール中瓶×1/2→その後も夕方まで居間掃除。明日の分まで進んだかな→シャワー→セロリ入り肉じゃが(ニンジン、トマト)、ひとくち餃子13ケ(普通半分、クミンシードニンニク半分)、なめこと豆腐のおつけ、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→食後は勢い余って自室の片付け。といってもすこぶる中途半端だが、ドラム練習環境は確保できた→夜10時頃就寝。
9月16日(月) 深夜起床→『泥だらけの青春』(監督:菅井一郎。三國連太郎、乙羽信子、深見泰三、清水元、山内明、柳谷寛、高杉早苗、大町文夫、下條正己、殿山泰司、加東大介、石黒達也、三島雅夫、清水一郎、伊藤雄之助、清水将夫、田中筆子、志摩桂子、三鈴恵以子、植村謙二郎、安部徹、十朱久雄、滝沢修、黒田剛、小川虎之助。1954日活)。場末の三流劇団でひどい「カルメン」など演っていた役者の加地茂樹(三國連太郎)、春日奈々子(乙羽信子)、里村東介(山内明)らは、芝居の(音楽も含む)あまりの出来の悪さに不入に見舞われ、座長林(清水元)はストリップを取り入れた演出を提案するが劇団員の不興を買い、結果劇団は解散。菜々子は父の洋食屋で働き、加地と里村はエキストラやアルバイトで食い繋ぐ日々に入るが、加地は新映撮影所の宣伝部員・北野(下條正己)の勧めでニューフェイス試験を受け合格。映画主演の座を射止め、ベテラン女優京極真弓(高杉早苗)とのコンビで売り出し、一躍スターになるが、真弓といい仲になりながら増長するようになり、会社に出演料値上げを持ちかけるも次第に疎んじられ、新たなニューフェイス谷徹郎(黒田剛)に座を奪われ、真弓にも捨てられ、失意の底に沈んでいく。一方仲間たちは貧しくも地道に役者の道を歩み、奈々子(もともとは加地のことが好きだった)と里村は結婚。式場に現れた加地は、着実に幸せをつかんでいく仲間たちの姿を見て、哀れに去っていく。今観るとよくありそうな(言ってしまえば陳腐な)物語ではあるが、本作製作とほぼ同時に進行していた三國事件=i松竹にスカウトされてデビューした三國連太郎が、五社協定もなんのその、契約の不備などを突いて東宝、そして本作で日活へと渡り歩いた)を背景に考えると、味わいというか面白さというか、この映画の手応えはぐっと重く深いものになる。そして役者として食い詰めた挙句ずぶ濡れになってフィルムを運んでいたようなしょぼくれた青年が、派手な背広にサングラスで映画会社に出演料交渉に乗り込むようになる増長っぷりを見せるようになるという芝居は、やはり三國連太郎だからこそハマったのだろうなと思う。そして高杉早苗の、加地を増長させる一因でもある女優の表現も見事。軽薄だが冷酷な映画会社の面々(加東大介、石黒達也、三島雅夫、清水一郎、伊藤雄之助、清水将夫、十朱久雄、滝沢修など)の芝居も、私は映画業界のことはほとんど知らないが、けっこうな現実味があるように見受けた。小さな幸せをつかむ奈々子と里村=乙羽信子と山内明は、本作ではほとんど見せ場はないように思うが、そのスター性の消し方≠煬ゥ事と思った。ちなみに本作は俳優菅井一郎の監督第一作だが(新藤兼人が脚本を書き、吉村公三郎が演出監修で協力している)、監督作はもう一本『フランキーの宇宙人』のみ。本作も監督作品として大きな特徴があったと思えはしないものの、第一作としては手応えのある作品に仕上がっているとは思うので、もう一本が(観てはいないがおそらく)もっぱら手だれの喜劇役者の職人藝で組み立てていくような軽い喜劇であろう『フランキーの宇宙人』だったというのは、どういう事情によるものなのか、少し気にはなる→ビール中瓶×1→朝5時過ぎ就寝→朝10時起床→なめこと豆腐のおつけ、中華粥、白髪葱(醤油、胡麻油)→昼過ぎ、クルマで下北沢へ。再修理に出したiPhone 6sを受け取りに、〈ダイワンテレコム〉へ。修理出来を確認し受け取ったのみで、特になし→菊水堂ポテトチップス、柿ピー、イチヂク、冷やし月見そば(青海苔)、ビール中瓶×1.5→午睡→シャワー→『ホリデイ〜江戸の休日〜』(原作:小國英雄脚本/島耕二監督『江戸っ子祭』、監督:山下智彦。望月歩、葵わかな、谷口高史、今田耕司、福澤朗、片渕茜、戸塚純貴、里見浩太朗、本田博太郎、上川隆也、財前直見、小林稔侍、名取裕子、山田純大、高橋英樹、石井一彰、嶋政伸、堀井新太、丸山智己、戸田菜穂、中村梅雀、萩原嵐(一ノ瀬嵐)、内藤剛志、多賀勝一、松本あかり、潮田由香里、西村匡生、奥深山新、野々村仁、太田雅之。2023、テレビ東京、東映京都撮影所製作/テレビ東京放映)。小国英雄脚本/島耕二監督/長谷川一夫および川口浩主演の映画『江戸っ子祭』(1958)をリメイクしたTVドラマ(テレビ東京の「新春ドラマスペシャル」として放映)。今回原作となった『江戸っ子祭』も観てみたが、基本的には原作にほぼ忠実、そして丁寧に作っていながら、家光の描いた絵≠ニいう新基軸を持ち込んで、現代から江戸を眺めるという趣向が面白い(ただし家光と淡い恋仲になる娘の立場など細かい設定は異なるし、なによりも、オリジナルが物語の早い段階で家光の正体が明かされるのに対し本作ではあくまでも身分を偽ったまま話が進む点はオリジナルと大きく異なる)。その案内役として、江戸パートで大久保彦左衛門を演じた里見浩太朗が現代パートでは鑑定家の「謎の老人」という役柄で登場、家光の絵を『開運!なんでも鑑定団』に持ち込もうとしている若いふたり(江戸パートでは家光役の望月歩そして家光と淡い恋仲になる町娘のお仙役の葵わかな)に家光の絵を鑑定する流れで江戸パートへと導く構成で、いい塩梅にオリジナルに新風を吹き込んだという趣だった。際立って特徴的な演出や絵造りはないと思ったが、彦左衛門によって魚屋修行に出された家光/竹と一心太助(嶋政伸)やお仲(戸田菜穂)、あるいはお仙との交情の描き方がしみじみよく、また家光の成長にも寄与していて、けっこうジンとさせられる。嶋政伸の一心太助や望月歩の家光がいささか自分の抱いていたイメージと違うかな、とも思ったが、観ていくうちにそれぞれ役者に合った一心太助、家光が組み立てられていて、観終えてまあ納得はした。放映されたことも知らないドラマだったが、これは拾い物であった(質屋で品物を曲げる≠フくだりや、家光が描いた絵を子供たちに馬鹿にされるくだりなど、笑いの用い方もよかった)。欲を言えば、次期将軍の座を巡る取り巻きたち(家光派と国松派)の暗闘がもう少し際立った感じだとよかったかな(物語の背景としては機能していたが、観ているほうの感情にはなんら影響してこないような作り方だったと思う)。ちなみにクレジットをよく見てみると、企画に「里見プロモーション」とあり、ああ里見浩太朗がリメイクの企画を立てて持ち込んだのかなと、エンドロールに主題歌として里見浩太朗が歌う『約束 -forever-』が流れる理由にも納得した→セロリ入り肉じゃが(玉葱、スパイス追加)、ひとくち餃子5ケ、鮭缶、なめこと豆腐のおつけ、栗ご飯、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→『江戸っ子祭』(原作・脚本:小国英雄、監督:島耕二。川口浩、志村喬、黒川弥太郎、南条新太郎、松浦築枝、中村玉緒、南部彰三、中村鴈治郎、長谷川一夫、林成年、春風すみれ、若松和子、朝雲照代、野添ひとみ、阿井美千子、信欣三、見明凡太朗、天野一郎、月田昌也、浅尾奥山、香川良介。ナレーション:徳川夢声。1958、大映京都)。次期将軍としての御殿生活にうんざりしていた竹千代(将来の家光。川口浩)が退屈を紛らわすために辻斬りに出かけたところを、柳生但馬守(黒川弥太郎)が咎め、大久保彦左衛門(中村鴈治郎)が竹千代の身と成長、そして弟国松を次期将軍にゴリ押ししようとする一派との軋轢とを心配し、一度身を隠しついでに下情に通じさせるのがよかろうと一心太助(長谷川一夫)のもとに住み込ませて魚屋修行をさせる、というのが発端。で、慣れぬ町人の暮らしに戸惑いながら、魚屋として一人前に成長していき、近所の八百屋の娘お豊(野添ひとみ)とも情を通じたりしながら、ひとりの人間として形成されていくという、ある種のビルドゥングス・ロマン的な物語であった。リメイクである『ホリデイ〜江戸の休日〜』と比べると、人の情を細やかに描くという点では同じような感触ながら、江戸≠フ世界の空気を体験させてもらえるという点では、本作のほうが格段に上。長谷川一夫が演じただけあって、一心太助ものとして安心して楽しめる娯楽時代劇であった。川口浩の、いかにもスポイルされた若者という感じも印象に残った。ちなみに同じような題名の映画としては『大笑い江戸っ子祭』(斎藤寅次郎監督。三木のり平主演。1959)、『一心太助 江戸っ子祭り』(山下耕作監督。舟木一夫主演。1967)があるが、確認したらそれぞれまったく別の話であった→『黄門社長漫遊記』(原案:東謙作、監督:小石栄一。柳沢真一、田中春男、松尾文人、今井健二、高倉健、進藤英太郎、筑波久子、桜京美、三田佳子、南道郎、故里やよい、殿山泰司、神楽坂浮子、森さかえ、桂小金治。1962、東映)。軽くてあまり洒落ていない泥臭い笑いで綴られたサラリーマン喜劇。創業社長(進藤英太郎)が現社長(柳沢真一)の緩みを正し重役たち(田中春男、松尾文人)と工場長(南道郎)らによる不正と思われる動きを探る、そのついでに現社長の女関係を整理するために漫遊するという話で、力を抜いて楽しめるという点がもっぱら取り柄の作品だと思うが、今となっては高倉健と今井俊二(社の窮状を救わんと行動する若い社員役として登場する)が組んだコメディ、というだけでいい味わいではある。女性陣(三田佳子、筑波久子、桜京美、故里やよい、神楽坂浮子など)も魅力的ではあるが、三田佳子も含めてB級のにおいがするのは、製作上の意向だろうか→柿ピー、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→午前5時就寝。
9月17日(火) 朝9時起床。白湯→なめこと豆腐のおつけ、栗ご飯→昼前に出かけ、深大寺でそばと思ったが、連休直後ということで〈松葉茶屋〉も〈玉乃屋〉も休みで憮然。たまには〈玉乃屋〉に行こうと思ったのだが→ほかに昼の宛がないので、そのまま〈むらさきmusicラボ〉に向かい、近くの〈コメダ珈琲〉で昼。お月見フルムーンバーガー、アイス珈琲。ハンバーガーはでかいばかりで、パティはつくねみたいだし、値段(800円)を考えると残念な出来だった→〈むらさきmusicラボ〉では園まり「逢いたくて逢いたくて」をまず一回聴き、次に我々が演ってみて、歌のどの部分をどんな風に捉えどんな風に表現するかについてディスカッション。座興で私も歌うなんて言っていたが、Aパートに関しては私のほうが低音が出ているとのことで、そんなパート分けでの練習もすでに開始することとなる。それを踏まえてボイストレーニングも。「コールユーブンゲン」も参照することになった→あと、先月の紙芝居は好評かつ見ていない人たちの間でも話題を呼んだそうで、やったかいがあったなあという話など→いつもどおり〈はま寿司〉で寿司買って帰宅→『黄門社長漫遊記』再見しながら寿司16ケ(大葉漬けアカイカ、活〆まだい、甘えび、まぐろ、真あじ、活〆はまち、かっぱ巻、納豆巻)、ビール中瓶×1、御酒×2(氷入り)→食後横臥→シャワー→ギター弾いたりして(練習ではないな)、午前5時就寝。
9月18日(水) 朝8時半起床。白湯→トースト、アイス・カフェオレ→老父買い物代行(サミット)→本日隣家夫人がおいでになるので〈GYUGYUバーガー〉でも、と思ったが、本店も仙川も休み。すごすご帰る(〈PIZZA POCO〉を取ることにした)→午後1時から夕方まで楽しく飲酒。楽しかったことしか記憶にないが、中野にあった〈クラシック〉の話題が出たのに驚いた。それにしてもこの家に住んで15年経ってから言うのもなんだが、いい人がお隣さんでよかった。グリーンサラダ、コールスロー、枝豆豆腐、つくね、トマトソースフジッリ、ビール中瓶×2、金宮酎ハイ×2→早々に就寝。
9月19日(木) 朝9時起床。白湯→じゃがいもと油揚のおつけ、卵かけご飯、納豆、海苔→午前中特になにもせず→冷やし花巻そば(揚げ玉)→シャワー→午後歩いてDUへ。今年の年末仕事の打ち合わせ。往復一時間、往路は温度湿度ともにちょいと難儀だったが、復路は雨もよいで楽だった→帰宅後即シャワー→菊水堂ポテトチップス、フライドポテト、トマトソースフジッリ、野菜スープ(キャベツ、ピーマン、トマト)、ピザPOCOサイズ三切れ(ボロネーゼ、チチニエリ、サラーメ)、ビール中瓶×3→夜7時いったん就寝→二時間ほどで起床→『天下の御意見番』(監督:松田定次。原健策、山形勲、片岡千恵蔵、小沢栄太郎、三島雅夫、有馬宏治、北大路欣也、明石潮、月形龍之介、松方弘樹、薄田研二、木村功、菅貫太郎、戸上城太郎、沢村宗之助、北龍二、香川良介、市川右太衛門、丘さとみ、櫻京美。1962、東映)。外様大名と旗本の小競り合いを発端に、それを収めようと尽力する大久保彦左衛門(月形龍之介)と、彦左の行動を好ましく思わない老中たち(小沢栄太郎、三島雅夫、有馬宏治)や、彦左の出過ぎた真似を諌めようとする松平伊豆守(片岡千恵蔵)との暗闘、武家社会のあり方に疑問を抱く旗本六方組の面々(木村功、菅貫太郎、戸上城太郎など)の憤懣と行動、そして将軍家光(北大路欣也)の成長などを通して、侍の社会のバカばかしさを鮮やかに表現した娯楽時代劇、と見たが果たして。一心太助(松方弘樹)は脇役だが、彦左のもとに押しかけ女房として乗り込んできた上方の米問屋の娘お遊(丘さとみ)やそのお付きの女中お仲(櫻京美)と共に、深刻に傾きそうになる物語に華を添えていた。何度でも楽しめそうな一本であった→『母』(原作・脚本・美術・監督:新藤兼人。乙羽信子、若杉彰、本山可久子、頭師佳孝、宮口精二、杉村春子、高橋幸治、夏川かほる、殿山泰司、佐藤慶、加地健太郎、横山靖子、加藤武、小川眞由美、吉田道紀、荒谷甫水、武智鉄二。1963、近代映画協会製作)。ひとりの女性吉田民子(乙羽信子)が母≠ノなっていく−−母≠ニしての自覚を獲得していく−−様子を描いた映画、と思ったが、果たして。おそらく間違ってはいないと思うが、ふたりの夫との死別、離婚があり、ふたりめの夫との間に設けた息子利夫(頭師佳孝)には脳腫瘍が見つかり最終的には不治となり、母親芳枝(杉村春子)の助けを乞うがなんのかのと理屈をつけて助けてはくれず、一度はグレかかった弟春雄(高橋幸治)は立ち直ったものの女関係(小川眞由美、武智鉄二)のもつれで殺される。そうした仲、母親が見つけてきた三人めの夫田島(殿山泰司)の優しさもあり「母≠ニしての自覚を獲得していく」わけだが、そこに至るまでの要素が多過ぎやしないか、そこまでいろいろな要素をぶち込んで背景を複雑に描くということは、単に「ひとりの女性が母≠ノなっていく」ことだけを描こうとしたのではないのではないか、そんな単純な映画ではないのではなかろうかと思い、「果たして」という思いが浮かんできた次第(春雄の姉子に抱く複雑な感情や、三人めの夫田島が被爆者の在日朝鮮人であるという設定も、むろんなんらかの意味を持ち、そして「背景を複雑に描く」ひとつの要素であろう)。民子がときおりキラキラとした眩暈に襲われるのは、女≠ゥら母≠ノ変わろうとする過程の暗喩とも受け取れるが、クローズアップを多用した絵造りの意味、ふと気づくと物語の流れに直接は関係ないように佇む原爆ドームなどなど、簡単にすっとは解らないような映像要素が用いられているのも、「果たして」の理由ではある。ネット上で見つかる範囲でも、本作に関する論評をいくつか読むと、たとえば女性の性の問題と原子爆弾の影響かでの妊娠・出産とか、戦争下という異常な状況での結婚(しかも夫が不実)による妊娠と中絶への迷いとか、あるいは若い女(弟春雄の想い人)/女盛りの女(酒場のマダム)/萎びた女(親芳枝)の対比による女≠フ考察などなど、いろいろ一見理解しやすそうな′セ説はいろいろ見つかるのだが、しかしそうした言説を通じてこの映画を理解したくないな、という気持ちを、なんだかひさしぶりに感じた、そんな映画であった。以下はどうでもいい話ではあるかもしれないが、本作製作時に乙羽信子は26歳、不治の病の子を持ち望まぬ結婚をした草臥れた中年女性¢怩ェ見事だったのに加え、女学生(中学生?)時代の民子も演じており、これがまったく違和感がないのにも驚いた(内面からの若さを表現していた)。乙羽信子という役者の藝というか技術というかそういうものを考えるよすがと考えると、いや「どうでもいい話」ではないだろう。ああそれに加え、芳枝と民子によるある意味打算的な結婚の申し出を諾々と受け入れ、静かに民子と利夫への深い愛情を募らせていく田島を押さえに押さえた演技で表現した殿山泰司の芝居も見事だったと思う→午前3時就寝。
9月20日(金) 朝9時起床。白湯→野菜スープ、ピザPOCOひと切れ→O形サイト更新(絵日記)→LH新曲採譜準備。というか、五線譜に小節線引いただけだが→冷やし月見そば(揚げ玉)→O形漫画フランス語チェック→Buffalo Springfield「Special Care」「Questions」の構成と大雑把なドラムパターン書き取り。「Special Care」のほうは終盤のDコード一発のところを盛大にジャムっている中でいい間でギターが「Questions」の頭のGコードのフレーズを弾いて「Questions」に傾れ込んでも面白いと思ったが、果たして→『かげろう』(監督:新藤兼人。乙羽信子、戸浦六宏、富山真沙子、伊丹十三、初音礼子、山村弘三、山岡久乃、殿山泰司、草野大悟、小沢栄太郎、吉沢健、北林谷栄、宇野重吉。1969、近代映画協会製作/松竹配給)。予告編には「因習と貧困の島の暗黒の夜」という惹句があって、確かにその通りではあるが、瀬戸内の島の「因習と貧困」の引き受け方が甘いのではないか、という印象があった。「因習と貧困」の取り上げ方に説得力がないと言うか、無責任に見えてしまうというか。確かに台詞では島の土壌が貧困の象徴とあるし、あるいは閉鎖的な島で難破船から物資を強奪したりその夜は病気の子があろうとも島から一歩も出られない掟になっていたりはするが、これを当の瀬戸内の島の人たちが観て納得するのだろうか、という疑問を感じさせるようなものがあったのは否めない。もちろんこれは私個人が抱いた印象であり、本作への正当な評価ではないかもしれないが、少なくとも私は、薄味の横溝正史≠ニいった印象を得てしまい、少なからず興を削がれた。また謎解きとしても真犯人が割れてからが長く感じたり、意外性がないではないがそれを狙うならもうちょっとその先になにかほしかったりといった不満も感じた。そもそも島民たちはなんらかの形で裁かれないのだろうか−−もっともこれも、別の形で−−あらかじめ−−裁かれているといえばそうかもしれないが、しかし若者(吉沢健)によって偶々殺されるに至ったおとよ(乙羽信子)は本来島民たち(殿山泰司、山村弘三、草野大悟など)の犠牲者なのだから、そこの掘り下げは欲しかったように思う。麻薬≠フ扱いも手ぬるいように感じた(だいたい、どんな麻薬≠使って復習相手を陥れていったのだろう?)。その一方で、冒頭の死体≠フ撮り方などの映画表現の鮮やかさには驚いたし、粘り強く復習を果たそうとするおとよを演じた乙羽信子、事件の真相を追う刑事の戸浦六宏、自分たちの悪行を仕方のないこと≠ニ自ら信じ込もうとして信じ込んでいるような村長を演じた殿山泰司の芝居が見事で、観ていて引き込まれることも少なくはなかった。しかし意地の悪い見方をすれば、そうした名優たちの藝があってこそ成り立つ脚本≠ネのかとも思う。楽しくまた驚きつつ観た映画ではあるのに、感想を書こうとするとなんだか不満ばかりが表出してしまった→『花嫁はエイリアン』(原題『My Stepmother Is an Alien』、監督:リチャード・ベンジャミン。ジョン・ロヴィッツ、ジョゼフ・メイハー、ダン・エイクロイド、ジェシー・ミルズ、キム・ベイシンガー、ジュリエット・ルイス、トニー・ジェイ、ピーター・ブラミロウ、エイドリアン・スパークス。Bagの声:アン・プレンティス。1988、米Weintraub Entertainment Group製作/Columbia Pictures配給)。なんといっても自分の星を救うために地球人に合わせてセクシーな女性として登場するエイリアン≠ニいう設定のセレステを演じたキム・ベイシンガーのコメディエンヌっぷりに尽きる映画。物語も小ネタもドタバタではあるが、図らずもセレステを呼び寄せてしまった地球外生物研究者スティーヴ・ミルズを演じるダン・エイクロイド、その助手(役者名不明)、研究所の所長(ジョゼフ・メイハー)らの藝達者たちがそのドタバタをいい塩梅の笑いに導いていて、しらけることなく楽しませてくれる。そしてスティーブの娘ジェシーを演じたアリソン・ハニガンの芝居がまた子役ながら達者で素晴らしい。最後の最後に出てくる「ステファニー軍団」のくだりにも笑った。ちなみに原題を直訳すると「継母は宇宙人」(意訳なら「今度のママはエイリアン」くらいか)だから、本来はスティーヴ・ミルズ視点ではなく、その娘ジェシーの視点で観るべき映画で、その点では放題はミスリードを誘うものと思う→菊水堂ポテトチップス、ひとくち餃子8ケ、キャベツ炒め(ピーマン、ツナ缶)、トマト、ビール中瓶×1.5、金宮酎ハイ×1→『思えば遠くへ来たもんだ』(監督:朝間義隆。武田鉄矢、思えば遠くへ来たもんだ、植木等、乙羽信子、吉田次昭、山本圭、山田隆夫、熊谷真実、泉ピン子、大山のぶ代、あべ静江、村田雄浩、たこ八郎、大滝秀治、中牟田俊男、千葉和臣、山谷初男。1980、松竹)。1973年に海援隊として「母に捧げるバラード」のヒットを飛ばしたのちすぐに人気が低迷したが、映画『幸福の黄色いハンカチ』(1977)やTVドラマ『3年B組金八先生』(1979)で俳優としての人気をつかみ、また「金八」の主題歌「贈る言葉」もヒットしてお茶の間の人気者≠ノなった武田鉄矢の、(変則的?)アイドル映画(ちなみに公開時の併映は浅丘ルリ子演じるリリー三部作の完結編である『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』)。海援隊8枚めのシングル「思えば遠くへ来たもんだ」をモチーフにした物語で、九州から秋田角館の男子校に赴任した熱血教師(武田鉄矢)と生徒たち(山田隆夫、村田雄浩など)や土地のマドンナ(熊谷真実、あべ静江)、土地の人々(植木等、乙羽信子、山本圭、大滝秀治など)との交流を描いているが、コンプライアンスというものが存在しなかった時代だけに、熱血教師≠ニいう存在の描き方がよく言えば大らか、悪く言えば安易(怒鳴ったり殴ったりすれば生徒がついてくるのだから、安易と言ってもいいだろう)。その大らかさ、安易さの所為で、物語に深みがないなというのが第一印象。しかし植木等、乙羽信子、山本圭、大滝秀治の芝居の見事さと、あべ静江の美しさによって、なんとなくいい映画のような印象も残すから、映画というのも不思議なものである
→『恋におぼれて』(原題『Addicted to Love』、監督:グリフィン・ダン。マシュー・ブロデリック、ケリー・プレストン、ネスビット・ブレイスデル、チェッキー・カリョ、メグ・ライアン、ドミニク・ダン、モーリン・ステイプルトン。1997、米Warner Bros.)。恋人リンダ(ケリー・プレストン)が仕事でニュー・ヨークに旅立ったかと思えば、とつぜんもう帰ってこないという手紙を受け取った天文学者のサム(マシュー・ブロデリック)。慌ててニュー・ヨークに飛びリンダの所在を確かめたところ、なんと新しい男アントン(チェッキー・カリョ)と同棲していた。向かいの廃墟?に潜入して、持ち前の技術力でふたりの生活を監視し始めたサムのところに、マギーなるカメラマンの女性(メグ・ライアン)がとつぜんやってくる。マギーはアントンと婚約していたという。そしてサムとマギーの奇妙な同居生活が始まり、男女四人の関係性がいろいろと変化し始める−− という、いかにもあり得なさそうな設定の物語ながら、違和感を感じさせずに物語が進行するのが不思議。突出した何か≠そんなに感じさせるわけではないと思うのだが、物語、脚本、演出、美術、演技すべてがいい塩梅で創られ組み立てられていることで、そういう普通にあると思わせられてしまう世界∞でも普通ではない面白み≠ニいう作品が出来上がったのではないかと思う。しかし「突出した何か≠そんなに感じさせるわけではない」とは言いつつ、冷静に観るとメグ・ライアンの演じる人物像はかなり非現実的ではあるのだが、観ている最中はなにか地に足のついた、その辺にいる女に見えるのがすごいなあと思う。もっとも役者としては当たり前のことだし、むろん珍しいことではないのだが、こうしたハリウッドの大作(本作も大作でいいのかな?)で、主要な登場人物をそうした「その辺にいる」人と感じることは多い。日本のいわゆるメジャー作品だと、藝能人≠ノしか見えないことが少なくないのと比べると、作品を作るという点に於ける意識の差を歴然と感じざるを得ない−− という話は、もう別にいちいち述べる必要もない話とは思うが、まあ映画を観たら思いついた感想を手早く書くことにしているので、思いついたことをそのまま書いてみた次第。それはともかく、ガチャガチャしたところも含めて現在も鑑賞に耐える名作と言ってよいのではないかと思うが、果たして→金宮水割り×5→午前2時頃就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記