2024年09月30日
9月まとめ(21〜30日)
橋本照嵩スライドトークショー『瞽女さんと、旅まわり』 於高円寺〈ちんとんしゃん〉、GRACE生誕60周年大感謝祭『メルシードラゴン還暦まつり』 於下北沢440、水上勉/篠田正浩/岩下志麻/原田芳雄『はなれ瞽女おりん』、ランダ・ヘインズ/リチャード・ハリス/シャーリー・マクレーン/サンドラ・ブロック/ロバート・デュヴァル『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』、ティム・バートン/アレック・ボールドウィン/ジーナ・デイヴィス/ウィノナ・ライダー『ビートルジュース』、クロード・ピノトー/ヴァンサン・ランドン/ソフィー・マルソー『ステューデント』。
9月21日(土) 朝9時起床。白湯→野菜スープ、ピザPOCOサイズ×1.5、オムレツ→昨夜観た映画四本の感想まとめ→シャワー→午後高円寺へ。〈ちんとんしゃん〉にて写真家・橋本照嵩スライドトークショー『瞽女さんと、旅まわり』を見物。写真集『瞽女』掲載の写真を一葉20秒間表示しながら、橋本照嵩が表示中の写真について話すという形式だったが、開始後間もなくお話は表示中の写真を離れ、撮影時の体験や瞽女の生態などに脱線。たまに表示中の写真の話に戻ることもあるが、その脱線具合が楽しく、また橋本照嵩が撮影中に聴き覚えたという瞽女歌や民謡まで聴けて、とても印象深い鑑賞になった。企画・運営のK丸さんと〈ちんとんしゃん〉には感謝→懇親会でも楽しく飲み(枝豆、チリビーンズ、鰹刺身、煮物、おむすび、ビール中瓶×2、御酒×3)、平和に電車で帰宅→崎陽軒シウマイ、即席熊本ラーメン(青葱、ニンニク、生卵)、ビール350ml缶×2、御酒×1→夜0時頃就寝。
9月22日(日) 朝10時起床→じゃがいもと油揚のおつけ、卵かけご飯、海苔→シャワー→冷やし花巻そば→めんつゆ仕込み→午後下北沢。駅前でK丸さんと待ち合わせ、O形と三人でまずは〈PANES HOUSE〉にて一服。フライドポテト、ビール中ジョッキ×2→それから〈440〉に移動し、『GRACE生誕60周年大感謝祭 メルシードラゴン還暦まつり』を見物。出演バンドは第一部がドクロズ/のぶいす/Saltie with The Heavy Gauge、第二部が昭和歌謡のゆうべ/てつ100%/田ノ岡三郎&reina kitada、第三部がデカダンスケバンド/jaco:neco & Pearl 猫に真珠(そして総合司会に元〈440〉店長の行天裕子)。総勢8バンド/24名が参加で、8バンドのうちてつ100%を除く全バンドにてGRACEがドラム(てつ100%でも一曲参加)という、すさまじいイベントであった。個人的に面白かったのは、ドクロズ(もう少し理解できるまで聴いてみたい)、のぶいす(かわいしのぶの歌う「Manic Depression」が最高だった)、昭和歌謡のゆうべ、てつ100%、田ノ岡三郎&reina kitada(reina kitadaのフランス語歌唱が美しい)、デカダンスケバンドかな。でも普段聴かないようなメジャーな感じ≠フバンドも、メジャーな感じ≠ネらではの技術を堪能し楽しく聴く機会に接することができてよかった。最後に飛び入りでタブレット純、なぜかモノマネを披露したのち「柔」を歌い、そして脱ぐというなんだかよくわからない演目ながら、けっこうすべてをさらっていったような気がする→GRACEさんは仲間に囲まれてお忙しそうだったので、ご挨拶は後日にしておいとま。三人で〈Mother〉に移動し、サルサ&チップス、揚げチーズ、ベトナム焼きそば、ビール1パイント、モヒート×2。店混んでて立ち飲みだったが、楽しく過ごす→平和に電車で帰宅→シャワー→冷やしカップヌードル、ビール350ml缶×1→午前2時就寝。
9月23日(月) 朝10時起床。白湯→焼きうどん(稲庭うどん、叉焼、葱、ニンジン、キャベツ、鶏ガラ出汁顆粒、めんつゆ、黒胡椒)→『喧嘩道中』(監督:佐々木康。中野雅晴、堀正夫、山口勇、百々木直、伊東亮英、立松晃、千原しのぶ、吉野登洋子、花村菊江、堂国典、富久井一朗、徳大寺伸、大川橋蔵、原健策、阿部九洲男、丘さとみ。1957、東映)。家の名誉のために大名家の部屋勤めに送り込まれるのを拒んだ豪商の娘おたか(千原しのぶ)が鳥追いに身をやつして旅に出る。その行方を大名家に取り入る高坂格之進(堀正夫)の一党やおたかの兄戸倉屋彦作(立松晃)らが追い、そこに報奨金に目をつけた旅鴉の悪党鬼の小平(原健策)と役者の弥吉(阿部九洲男)が加わる。一方妹お雪(丘さとみ)をなぐさみものにされた草間の半次郎(大川橋蔵)は、妹の行方を追ううちにおたかと袖擦り合い、おたかがお雪をなぐさみものにした彦作の妹であることを知り、さらに彦作に捨てられ絶望したお雪を宿女郎に売り飛ばしたのが鬼の小平と役者の弥吉、それから旅の途中で半次郎に惚れた旅人呑みこみの金介(徳大寺伸)の三人であることもわかり、さらに真実を知った彦作が高坂格之進に妹の縁組を断るに至り、自体は混迷を極める−− と、物語も複雑かつ丁寧に組み立てられた、スターの起用も多い娯楽時代劇なのではあるが、いかんせんテンポがゆったりし過ぎていて、映画の世界になかなか入り込むのが難しかった。大川橋蔵扮する草間の半次郎の人物像になにか明確な特徴(たとえば『若さま侍捕物帳』シリーズの若さま≠竅w緋ざくら大名』の松平千代三郎のような)がなかったのも、「映画の世界になかなか入り込むのが難しかった」所以ではないかなと思う。ことがすべて解決し、戸倉家大旦那彦右衛門(高堂国典)の粋な計らいによっておたかが半次郎に着いてゆくという終幕はまあよかった→『旅笠道中』(監督:佐々木康。花園ひろみ、浪花千栄子、小沢栄太郎、大川橋蔵、原健策、三波春夫、吉本清子、千原しのぶ、阿部九洲男、山茶花究。1958、東映)。『喧嘩道中』同様、やくざ出入りの際に誤って兄弟分の源次郎(尾上鯉之助)を斬ってしまった草間の半次郎(大川橋蔵)が、源次郎の生家に詫びに行ったところ盲目の母親(浪花千栄子)のために兄の代わりを務めてほしいと妹おちか(花園ひろみ)に懇願され、源次郎に成り切って母親孝行をしているうちに、土地のやくざ同士の抗争に巻き込まれ、一方で源次郎が身請けした女郎のおもん(千原しのぶ)との複雑な情の行き交いがあり−− といろいろな様子が織りなす物語を、ゆったりとしたテンポで組み立てた娯楽時代劇。「映画の世界になかなか入り込むのが難しかった」「大川橋蔵扮する草間の半次郎の人物像になにか明確な特徴がなかった」という感想は『喧嘩道中』と同様だが、物語にどこか長谷川伸を思い起こさせる人情味があったのが印象に残る。もともと敵方だった旅鴉が半次郎に惚れて寝返るという仕掛けも『喧嘩道中』同様だが、本作ではその役割を担うどろんの新助を山茶花究が演じており、その実はありつつ抜け目のない様子の芝居が見事だった→菊水堂ポテトチップス、かつ節昆布出汁殻、冷やしきつねそば、ビール中瓶×2、御酒×1→晩の支度→シャワー→カレースープ餃子(キャベツ、トマト、ニンニク、生姜、青唐辛子、ひとくち餃子×2)、ひとくち餃子×8(トマト、キャベツ)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×5→午前0時頃就寝。
9月24日(火) 朝9時起床→梨、カレースープ餃子→午前中は昨夜観た映画の感想まとめと連絡業務。老父が毎日の薬11錠をまとめて飲みたいからオブラートを買ってきてほしい≠ニいうので、11錠をまとめて飲むと喉に詰まるので、服薬ゼリーで小分けに≠ニ提案→午後はひさびさに徒歩で下高井戸。まずはイカ天ぶっかけ、ビール小瓶×1(JazzKeirin)→〈三友〉休みなので今日は魚を諦め(〈前田商店〉は刺身のときに利用したい)、野菜類と豆腐類だけ買って帰宅。〈いづみや〉は再び駅前市場(ただし跡地)に移転してから初→『必殺仕事人』録画消化→『おしどり道中』(監督:佐々木康。東日出雄、瀬川路三郎、徳大寺伸、河野秋武、大川橋蔵、青山京子、進藤英太郎、原健策、沢村宗之助、大河内傳次郎、桜町弘子、里見浩太朗、田中春男。1959、東映)。前二作同様、テンポがゆったりとしていて、「映画の世界になかなか入り込むのが難しかった」「大川橋蔵扮する草間の半次郎の人物像になにか明確な特徴がなかった」という感想。加えて、意に沿わぬ婚礼を嫌って(そして半次郎への想いから)旅に出てしまう土地のヤクザ金平の娘おもんに扮する青山京子は伝法な様子はよかったが、ほかの主要と思われる登場人物−−おもんの妹のお藤(桜町弘子)、金平の子分の政吉(里見浩太朗)、悪辣な金貸しの鬼権(沢村宗之助)、半次郎に金平一家の様子を伝える三島の春太郎(田中春男)など−−が、肝心なところでピリッとしていないような印象の演出も気になったし、途中でおもんが「おたき」と名を偽る場面があるが、単に嘘をついているのが丸わかりというひねりのない演出なので、ここもちょいと興醒めであった。三作めで化ける可能性もあるかなと思ったが、期待外れだったようだ。そういえば、挿入歌として丘さとみが歌う「半次郎さんよ」という歌がタイトルロールに記載されていたが、劇中でかかったのかな。聴き逃してしまった→菊水堂ポテトチップス、ポテトスナック、トマト梨キャベツのサラダ、枝豆豆腐、栗ご飯半膳、金宮酎ハイ×2、ビール中瓶×1、御酒×3→夜9時半就寝。
9月25日(水) 朝6時半起床。白湯→大根と油揚のおつけ、ご飯(塩昆布、梅干し)→老父買い物代行(サミット、クリエイト)。服薬ゼリーは昨日から二店見たがスティックタイプがなく、諦めかけたが、いつもの〈クリエイト〉にあった→ガソリン入れ家近くの〈サミット〉で買い物して帰宅→『草間の半次郎 霧の中の渡り鳥』(監督:内出好吉。坂東好太郎、須賀不二男、伏見扇太郎、大川橋蔵、岡譲司、沢村宗之助、原健策、香川良介、清川荘司、進藤英太郎、月形龍之介、大川恵子、山田五十鈴、喜多川千鶴、岸井明、北龍二、汐見洋、田中春男、波多野博、神木眞寿雄、有島竜二、疋田國男、寿賀太郎、末広恵三郎、唐沢民賢、桑田茂、山波啓太郎、青木茂、君和田民枝。1960、東映) 「草間の半次郎」シリーズ最終作。『天保水滸伝』を援用した序幕、笹川繁造(坂東好太郎)の助っ人として飯岡助五郎(岡譲司)との喧嘩に平手造酒(須賀不二男)などと参加した草間の半次郎(大川橋蔵)は、相棒の横瀬の弥市(伏見扇太郎)を助けるために、助五郎の奸計によって喧嘩の場に現れた役人を斬り捨て、お尋ね者の身となる。弥市を母親の元に送り、さらに母親と共に逃したのち、半次郎は鹿島路の浜津賀へと逃げ、その地の網本平田屋の分家おこよ(喜多川千鶴)の元に身を寄せる。この浜津賀こそ何を隠そう半次郎の故郷、ここで五歳のときに神隠しに遭って以来放浪の旅人となったのだが…… その道中知り合った浪人中富十兵衛(月形龍之介)と、最初は(半次郎が一方的にだが)反目していたものの、次第に意気投合し、実は水戸国家老(汐見洋)の甥だった十兵衛が水戸から連れてきた十人の男たちと共に、半次郎を探しつつ浜津賀の村を手中に収めようとしていた境田の安五郎(進藤英太郎)に立ち向かう。見事安五郎らを倒した半次郎は、平田屋本家の主人おとく(山田五十鈴)が実の母であることを知り、涙の再会を果たす。おとくは養女おけい(大川恵子)と夫婦になりこの地に留まるよう半次郎に乞うが、半次郎は自分は凶状持ちだから≠ニ、浜津賀の地をあとに、また流浪の旅に立つ。という、シリーズ第二作『旅笠道中』同様長谷川伸の股旅ものを思わせる物語はよいのだが、今作で監督が変わったので少し期待はしたものの、やはりテンポがゆったりとしていて、「映画の世界になかなか入り込むのが難しかった」「大川橋蔵扮する草間の半次郎の人物像になにか明確な特徴がなかった」という感想が残った。山田五十鈴、大川恵子、喜多川千鶴それぞれの美しさや佇まいは印象に残ったのだが、観終えてみればそれだけの映画かなあと思う(むろんそれだけではないのだが、受け取り方として)。四作観て思ったが、大川橋蔵の魅力のひとつになんだかなよなよしていて頼りないのにいざという時には強い、という点があると思うのだが、本シリーズはその「なんだかなよなよしていて頼りない」という要素がまったくなかった。となると、せっかくの大川橋蔵の魅力を楽しむ、という流れにならないわけで(強くて魅力的なスター役者なら、同世代でも鶴田浩二、若山富三郎、市川雷蔵、萬屋錦之介などがいるし、別に大川橋蔵でなくてもよいということになってしまう)、それが本シリーズに心躍らない一番大きな理由ではないかなと、四作めにして思った→菊水堂ポテトチップス、チーズ、油揚とニンジンと青葱の煮物、ビール中瓶×2→午睡→O形サイト更新(トップページ画像)しようと思ったらメニューに誤りがあったので指摘→風呂→ようやくサイト更新→12/7のLHの演奏曲目確認など→録画消化→ポテトサラダ(ニンジン)、目玉焼き、栗ご飯(醤油)、長芋千切り(青海苔、めんつゆ)、大根と油揚のおつけ、ビール中瓶×1、御酒×2→午前1時就寝。
9月26日(木) 朝9時起床。白湯→大根と油揚のおつけ、卵かけご飯(青海苔)→12/7(LHライブの日)は、いろいろ考えたが結局野毛一泊することにして、いつもの〈マンダリンホテル〉を予約→録画消化→菊水堂ポテトチップス、冷やし山かけそば(生卵、刻み葱、刻み海苔)、ビール中瓶×1→録画消化→風呂→菊水堂ポテトチップス、ポテトサラダ、冷奴(刻み葱、おろし生姜)、ひとくち餃子8ケ、大根と油揚のおつけ、ビール中瓶×1、御酒×2、金宮酎ハイ×1→夜7時就寝。
9月27日(金) 朝9時起床。白湯→ぶなしめじと油揚のおつけ(昆布出汁に鶏ガラ出汁顆粒少々)、ご飯、納豆、海苔→録画消化。『必殺仕事人』ようやく追いついた→『コールユーブンゲン』届いたので、最初の数章を試しに。4/4の場合一拍ずつ強弱中弱とアクセントを意識する、というのが意外に難しい。あと第一章末尾の「旋律とは、楽理にかなった音列によって満たされたリズムである」という一文にしびれた→自民党総裁選挙の模様を見ていて気分が悪くなる。ここで消去法にせよ最善の選択がなされたとしても、その次の総裁は残った誰かがなる可能性が高いわけだ。だからといって立憲民主党も野田が党首になった。未来がどんどん暗くなる→おろしそば(生卵、葱)。いつものように何も考えずにそばをこさえていて、啜っている最中にあ、今日は冷やしにしなかった、と気づいた。
で、この夏≠ひとまず7月1日から本日9月27日までの89日間とした場合、この夏に冷やし○○そば(うどん、ぶっかけそうめん、ラーメン、カップ麺含む)が何食あったかを数えてみたら、全56食であった(うち外食が14回)。
ちなみに昨年同時期の冷やし○○そばの類を数えてみると、わずか6食。
してみると、今年も自分ではあまり暑さには動じていないつもりだったが実はけっこう応えていたのかもしれない。そういえば9月に入ってからできた首の汗疹は、まだちょいとかゆい。
ま、どうでもいいか→山田太一原作/宮藤官九郎脚本/片山修演出の『終わりに見た街』(今年の9月21日テレビ朝日にて放映)を観てみたが、物語は面白いものの終幕の急展開が飲み込めず(頭ではわかるのだが)、あと大泉洋の芝居にどうも幅や広がりや深みや含みが感じられなくて人間としての多面性に欠け一面的に過ぎるように見えてしまい、入り込めなかった。吉田羊、堤真一、三田佳子ら他の主要な役者と比べてそう見えるのは、あるいは脚本/演出の段階での人物設定の問題か。それともそれが(戦時下に置かれた際の人間の性質と行動のサンプルのひとつとして、などの)狙いか。終幕の急展開と共に、このドラマにちょいと距離を感じる要因だった→『はなれ瞽女おりん』(原作:水上勉、監督:篠田正浩。嶺川貴子、浜村純、岩下志麻、原田芳雄、加藤嘉、初井言榮、中村恵子、奈良岡朋子、樹木希林、神保共子、横山リエ、宮沢亜古、西田敏行、殿山泰司、安部徹、小林薫、原泉、桑山正一。1977、表現者製作/東宝配給)。生まれつきの盲目のため母親から瞽女屋敷に置き去りにされ、親方テルヨ(奈良岡朋子)の弟子となったおりん(嶺川貴子)。五人の瞽女たち(樹木希林、横山リエなど)と共に修行そして旅の日々を続けるが、長じてのち(岩下志麻)、その美貌と色香から夜這いをかけられ男性と関係を持ってしまい、瞽女の戒律に背いてはなれ瞽女(はぐれ瞽女、落し瞽女とも)になってしまう。はなれ瞽女としてひとりで旅を続けているうちに、おりんは脱走兵の平太郎(原田芳雄)と出会い、お互い惹かれ合うも平太郎はおりんを抱こうとはしない。それに不満を覚えつつふたりは旅を続け、ついには結ばれるが、脱走兵である平太郎(おりんとの旅の途中に殺人も犯している)は憲兵(小林薫)に捕えられ離れ離れに。おりんは師匠テルヨを頼るがテルヨはすでに他界しており、おりんはその後も旅を続け、しまいには野垂れ死んで白骨化して、映画は終わる。観終えてから物語を反芻すると、だからなんだったのか? とも思うが、盲目という厄介な境遇故生きていくために同じ立場の者たちと守らねばならぬ戒律を破った者の末路を描いた、あるいは女という生き物の哀しさを描いたと捉えると(男も、その馬鹿さ加減から存在の哀しさを描かれているとも言えるかもしれない)、普遍的な意味が出てくるものと思う。そしてなによりも、瞽女≠ニいうかつて存在した文化を、多少美化(岩下志麻の美しさはもとより、他の瞽女たちに漂う清潔感なども)し過ぎかなとは思うものの、後世に伝えるという点ではとても意義のある作品ではあろう。若き小林薫の、カミソリのような鋭さも印象に残る。なお脚本は監督の篠田正浩のほか、台詞の書き手として長谷部慶次という人の名がクレジットされているが、ひとまず山形県酒田市出身ということしかわからず、瞽女との関係は不明。瞽女唄は吹き替えなしかなと思うが、クレジットには杉本キクイという名前があったので、吹き替えもあったのかもしれない(詳細不明)。映像表現としては中途半端な藝術性≠ニいう気もするがそれほど不満を感じなかったものの、タイトルロールのゴシック書体と蛇の目記号(◉)の多用(クレジットされる全員−−だったかな? 役者と監督は確かに全員だった−−の氏名の前後に配される)は、作品世界にまったくそぐわずいただけないと思った→キャベツ塩揉み、トマトチーズ、オニオンスライス、水戸ぎつね、ぶなしめじと油揚のおつけ、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×3→夜8時半就寝→二時間ほどで起床→シャワー→『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』(原題『Wrestling Ernest Hemingway』、監督:ランダ・ヘインズ。リチャード・ハリス、シャーリー・マクレーン、サンドラ・ブロック、ロバート・デュヴァル、パイパー・ローリー、ジャグ・デイヴィース、エド・アマトルド、アキラ・オーウェンズ、ドリス・キャリー、ミコール・マーキュリオ、ジョディー・ウィルソン、イルゼ・アール、ダニカ・ダリー。1993、米Warner Bros.)。舞台はフロリダ。引退したアイルランド人船員のフランク(リチャード・ハリス)は息子と離れひとりフロリダのアパートへ。同じく引退したキューバ人理容師のウォルター(ロバート・デュヴァル)はフランクの移住より以前からフロリダに住処を構え、近所の食堂のウィトレス・エレイン(サンドラ・ブロック)にご執心だがうまく気持ちを伝えられない。フランクは大家のヘレン(シャーリー・マクレーン)と多少ギクシャクしながらも親交を温め、同時に映画館で出会ったご婦人ジョージア(パイパー・ローリー)にも想いを寄せるなど、港港に≠フ船員らしい生活を送る。このふたりの老人が公園で出会い、フランクのほうからウォルターに声をかけ、粗暴なフランクと紳士的なウゥルターとで性格はまったく異なるものの、互いの孤独を紛らわせるために友人付き合いが始まるのだが−− しかしそこから先はほとんど何も起きない。事件らしい事件といえば、ウォルターが観戦している少年野球で普段はまったく打てない選手・ヘンリーが、父親が監督と喧嘩してアドバイスを送っていないときに限って長打を飛ばしたり(そのときに限って観戦しているのはフランクのみでウォルターは見ていない)、フランクがジョージアとデートの約束を取り付けるものの遅刻して振られたり、その帰りにヘレンの部屋を訪ねるが役に立たなかった≠閨Aしまいにはフランクととウォルターが些細なことから喧嘩をして仲違いしたり、といった程度。しかしそういう他愛もない出来事を繋いでいく間と(終幕でウォルターがフランクを訪ねるとすでに死んでいる、というところの間合いなど、なんとも言えない哀しさと笑いを感じた)、ひとつひとつの挿話の味わいよさ(役者の動作だったり表情だったり、あるいはウォルターがフランクの息子−−父親の誕生日に変な帽子を送ってきただけで、まったく登場しない−−の悪口を言うと「息子をバカというな、なぜなら本当にバカだからだ」とフランクが返すなどなど)と、リチャード・ハリス、シャーリー・マクレーン、サンドラ・ブロック、ロバート・デュヴァル、パイパー・ローリーらの芝居の素晴らしさに、不思議と引き込まれてしまう。サンドラ・ブロックの老人であるウォルターを恋愛対象と見ているわけではないが故の優しさ≠竅Aシャーリー・マクレーンの大家として当たり前のことを無表情に告げながらも温かさが伝わってくる様子≠煦象に残った。興行成績が振るわなかった(米国Wikipediaによれば、製作に二千万ドル使ったが収益は278,720ドルに止まったとのこと)のは話が地味過ぎる所為とも思えるが、なかなかどうして、心に残る佳作であると思う。なお原題は「アーネスト・ヘミングウェイと格闘」というほどの意味か。これはフランクが若い頃にアーネスト・ヘミングウェイと(レスリングで?)戦った、という思い出から来たものと思うが、ウォルターがエレインの店で必ず(エレインには身体に悪いわよと注意されながらも)トーストとベーコンをもらって自分でサンドイッチにしていて、それがウォルターの象徴であることを考えると、邦題は理に適ったものだろう→青葱とニンニクのスープ、金宮酎ハイ×5→朝5時半就寝。
9月28日(土) 午前11時半起床。白湯→ぶなしめじと油揚のおつけ、卵かけご飯(かつ節)、納豆、海苔→ギターと歌練習(逢いたくて逢いたくて)。そろそろ始めてからひと月経つが、低いところの声も出てきて、ゆっくりゆっくり形にはなってきている→『月の出船』(監督:森一生。田端義夫、広沢虎造、葛木香一、日高澄子、上田寛、志賀明、岩田正、北河内妙子、久我美子、名和太郎、淡谷のり子、菅原都々子、小柴幹治、近衛敏明、大伴千春。1950、大映)。バタヤン31歳、戦前流行歌手となり、戦後は昭和21年(1946年)にポリドールからテイチクに移籍、その直後、「かえり船」「かよい船」「たより船」「玄海ブルース」とヒットを飛ばした田端義夫主演の歌謡映画。復員してきた船乗り畑義夫(田端義夫)が、復員した土地の飲み屋の親爺新造(広沢虎造)や新聞記者たち(上田寛、岩田正、志賀明)、幼馴染池田眞理子(北河内妙子)や亡き友人の妹三村美知子(日高澄子)、美知子の父卯平(葛木香一)の世話になりながら、一人前の歌手として世に出る物語ではあるが−−、飲み屋の親爺の広沢虎造が浪曲嫌いと言いながら実は元々浪曲師という設定はまあいいとして(というか、この設定はむしろ面白かった)、畑義夫が惚れた三村美知子が、父卯平の(ブローカーに騙された上での)会社の金の横領によって卯平の会社の社長(小柴幹治)に無理な求婚をされるという顛末が本作の物語に於いては重要な要素と思われるのに尻切れトンボで(社長≠ェ卯平の横領を盾に美知子を口説くくだりも、新造が卯平を救うために過去の不義理を乗り越えて浪曲師として返り咲いて借財を肩代わりするくだりも、義夫がやはり美知子を救うために歌手への道を諦めて再び船乗りとなり仕事中に目を怪我するくだりも、卯平がいつの間にか死んでいるという展開も)、なんだか全体に脚本や設定が中途半端な印象が残った。社長≠ノ謂れなき要求を突きつけられた美知子が、せっかく助けに来た義夫に真実を打ち上けずそのため社社長の魔の手≠ゥら逃れられず、しかし義夫が去ったあとの雨の町に階段から転んで(これも、何故転ぶ?)泣くだけで、その後は毎日波止場に出掛けては義夫との再会を待つだけで隙はいろいろあるはずなのに、その割には社長の魔の手≠ノ落ちず病気になって同僚荻原静江(久我美子)の家で寝ていたりという展開も、何か物語を創り上げる上で理に適っていないように思う。最終的には新造が浪曲界に返り咲き(これも浪曲界の中のしがらみなどは一切描かれない)、義夫も歌手としてデビューしてめでたしめでたしなのだが、肝心なところで雑な映画だったなあというのが最終的な感想であった→夕方〈KAPPE Diningtable〉にて早めの晩(もしくは遅い昼)。今日で三回めだが、変わらずおいしく、そして気持ちのよい酒場であった。やみつき人参、三代目ぬか漬け、馬筋肉ときのこの塩煮込み、あか牛メンチカツ、ラム焼きそば、ビール中瓶×1、熊本産レモンサワー×3→帰宅後いったん就寝→夜9時起床→風呂→『ビートルジュース』(原題『Beetlejuice』、監督:ティム・バートン。アレック・ボールドウィン、ジーナ・デイヴィス、アニー・マッケンロー、モーリス・ペイジ、ヒューゴ・スタンガー、キャサリン・オハラ、ジェフリー・ジョーンズ、ウィノナ・ライダー、グレン・シャディックス、マイケル・キートン、シルヴィア・シドニー、ロバート・グーレ。1988、米The Geffen Company製作/Warner Bros.配給)。『ピーウィーの大冒険』(1985)に続く、ティム・バートンの長編第二作。『ピーウィーの大冒険』はアメリカでは700万ドルの予算で興行収入4090万ドルを上げたそうだが(Wikipedia英語版)、世界的な出世作としては本作を挙げるのが妥当と思うが、果たして。幽霊となったアダム(アレック・ボールドウィン)とバーバラ(ジーナ・デイヴィス)の家の外に広がる砂漠とサンドワームの世界、「セパレート・ガール」「チョロピー」など死後の世界の相談所?に集うキャラクターのデザインや、アダムとバーバラが彼らの家を買い取ったディーツ一家(ジェフリー・ジョーンズ、キャサリン・オハラ、ウィノナ・ライダー、グレン・シャディックスなど)を驚かせようとさまざまな方法を試みたり「バナナ・ボート」を踊らせようとするくだり、あるいはフリーランスのバイオ・エクソシスト(人間怖がらせ屋)として活動しているが単なるお調子者でトラブルを引き起こすだけで望むような効果は偉られない≠ニされるビートルジュース(マイケル・キートン)の暴れっぷりなどなどは、もちろん緻密な計算に基づいてはいるのだろうが(おそらく)、思いつきをそのまま映像化したような味わいを味わえるのが楽しい。とはいえ、後年の作品をある程度観たあとでは、物語の運びにせよ絵造りにせよ粗さはどうしても感じられてしまう(もっともティム・バートンの映画監督としての出発点を確認できるという点では観るべき作品と思う)。その辺を考えると封切り時にちゃんと観ておくべきだったと思うが(ただし封切り時に観ていたら、大林宣彦『ハウス』の狂気ややりたい放題との比較から、ティム・バートンをあまり評価しなかったかもしれない)、今回初めて観ていろいろ調べていたら、本作の後年を描いた『ビートルジュースビートルジュース』なる映画が公開中と知る。そういう意味では、いいタイミングで観たということになるのかもしれない→菊水堂ポテトチップス、オニオンスライス、寒鯖水煮缶詰、煮干し出汁殻、昆布佃煮、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→午前3時就寝。
9月29日(日) 午前11時起床。白湯→おとつい寝床の下に落とした空調機のリモコンを回収→ミニドーナツ×4、アイスミルクコーヒー→昼は下高井戸に買い物がてら、と思って出かけたが、途中で雨降ってきたので断念→カップカレーヌードル(生卵)→ギター練習。昨日からガットギターを引っ張り出して弾いているが、なるほど、丁寧に弾かないときれいに鳴らないので、その点は練習になるな→きつねおろしそば(青海苔、刻み葱)→風呂→『マンハッタン無宿』(原題『Coogan's Bluff』、監督:ドン・シーゲル。ルディ・ディアス、クリント・イーストウッド、メロディ・ジョンソン、トム・タリー、ルイ・ゾリッチ、リー・J・コッブ、スーザン・クラーク、ドン・ストラウド、ティシャ・スターリング、ベティ・フィールド、アルバート・ポップウェル、スキップ・バッティン。1968、米Universal Pictures、The Malpaso Company製作/Universal Pictures配給)。クリント・イーストウッドは確かにカッコいいし、ビリヤード場での乱闘や公園でのバイク・アクションには痺れるが、冷めた眼で観るとアリゾナの田舎出の保安官クーガン(クリント・イーストウッド)が大都会ニューヨークに出てきて凶悪犯リンガーマン(ドン・ストラウド)護送の際に自分のミスでリンガーマンの仲間や愛人リニー(ティシャ・スターリング)に襲われリンガーマンを逃してしまい、ニュー・ヨークでの捜査権はないのだからこの一件から手を引きアリゾナに帰るように命令されるものの、自分の意地だけで無茶な捜査をする≠ニいう映画で、そう受け取ってしまうとクーガンが頭の悪い頑固な田舎者という存在に思えてしまい、いささか興醒めはする。そしてニューヨークのタクシー運転手にカモにされたり、リンガーマンの護送許可が出るまでの手続きに時間がかかることにイライラするが担当のマッケルロイ警部補(リー・J・コッブ)にはあまり相手にされなかったり、護送の際の空港で電話がかかってきて油断したり、リンガーマンの母親にあしらわれたり、警察で出会った女性犯罪人専門の保護官ジュリー(スーザン・クラーク)やリンガーマンの愛人リニーにすぐに鼻の下を伸ばしたり、都会のレストランで格好をつけたりするクーガンはいちいち間抜けだ(なので、終幕でクーガンとマッケルロイ警部補との間に男と男の友情が芽生えるような描写は滑稽に思えた)。ドン・シーゲル/クリント・イーストウッドのコンビとしてはのちの『ダーティハリー』につながる作品である、という点を除けば、それほど評価に値しない作品ではないかと思うのだが、果たして。なお、クーガンは映画冒頭ではアリゾナの砂漠でナヴァホ族の男を捕えるがその際は煙草をやらず、終幕で無事リンガーマンの護送を(改めて)始める際には煙草をやる。その違いの意味はなんだろうかと考え、クーガンがニューヨークでの失敗を踏まえて、アリゾナでは強引な捜査手法で同僚や上司から疎んじられていた℃ゥ分を少し反省したという表現なのかなとも思ったが、今のところは不明。あと原題はクーガンの虚勢、はったり≠ニいうような意味だが、それを『マンハッタン無宿』とした邦題の発案者はいい仕事をしたと思う(この邦題でなければ観ていなかった)/すぐにもう一度観てみたが、ラロ・シフリンの音楽がカッコよかったのを再認識したほかは、終幕のヘリコプターが飛び立つ直前にジュリーがやけに真っ赤な若造りで登場するのはクーガンを若いリニーに一度とはいえ寝取られたからかな、と思ったくらいだった→栗黒豆ご飯、ビール中瓶×1.5→午前3時就寝。
9月30日(月) 午前10時起床。白湯→野菜スープ(キャベツ、ニンジン、じゃがいも、玉葱、大根の葉)、栗黒豆ご飯半膳、昆布佃煮→『スチューデント』(原題『L'étudiante』、監督:クロード・ピノトー。ヴァンサン・ランドン、ジャン=クロード・ルゲ、ソフィー・マルソー、エリザベート・ヴィタリ、ギヨーム・コリア、エリ・シュラキ、ロベルト・アッティアス、ブリジット・シャマランデ、クリスチャン・ペレイラ、エレナ・ポンペイ。1988、仏Gaumont)。登場人物などの設定は異なるが、『ラ・ブーム』『ラ・ブーム2』とほぼ同じ製作スタッフで作られた、ソフィー・マルソー22歳の頃の恋愛映画(監督は『ラ・ブーム』二作と同じクロード・ピノトー)。バカロレア予備校の講師や中学校の補助教員として働きながらソルボンヌ大学で古典文学を学ぶヴァランティーヌ(ソフィー・マルソー)が音楽演奏家(ギター、キーボード)として生活の糧を得ながら作曲家として世に出ることを目指すネッド(ヴァンサン・ランドン)と出会い、お互いの性格や嗜好、生活の違いから幾度もぶつかりながらも、お互いの欠点を受け入れつつ、愛情を深めていくという物語だが、1988年のアイドル映画(主に音楽の軽さがそういう印象を与えるものと思うが、ソフィー・マルソーもまだアイドルという領域にいるものと思う)らしい軽さがありつつ、ヴァランティーヌの台詞に「サルトル ゾラ ピカソの社会への発言の効果は……」といった話が普通に出てくるのがお国柄かなという点が面白い。対するネッドは『スター・ウォーズ』が好きでマルクス・ブラザーズが嫌いで、ヴァランティーヌとはまったく興味の対象が異なり、また政治に無関心、性愛には奔放だが、そんなふたりがどうしようもなく惹かれ合っていく様子の面白さは、前言撤回するようだがアイドル映画の範疇を超えているとも思った。ふたりは最終的にはお互いを受け入れきれず、別れを決意するのだが、大学の口述試験でヴァンラティーヌがモリエール『人間ぎらい』の「愛と利己愛についての説明」を答弁するくだりで、次第にネッドへの感情を確かめる(ネッドにも確かめてもらう)話にすり替わっていくところは、いい塩梅の興奮や緊張を生み出し、そして感動的だった。ヴァランティーヌの服装が80年代的でありながらちっとも古くなく素敵なところや、ヴァランティーヌと彼女が間借りする家の同居人たちの関係も、フランスらしい(パリらしい?)感じなところも、映画を観る楽しさとして味わった。そういう点も含めて、佳作と思う。そしてすでにソフィー・マルソーはアンジェイ・ズラウスキー作品に出演しており(1985年の『狂気の愛』)こののち結婚(事実婚)。本作の一年後には『私の夜はあなたの昼より美しい』、三年後には『ソフィー・マルソーの愛人日記』とズラウスキー作品に続けて出演するようになる−−俳優としての過渡期に当たる作品であるという点でも記憶すべき作品だろう→納豆月見そば(刻み葱、刻み海苔、青海苔)→シャワー→『学生やくざ』(原案:富綱宏一、監督:清水彰。鈴木サミ、宇崎尚韶、渡瀬恒彦、南利明、荒木雅子、菅原文太、堀越光恵、青木リカ、北村英三、岡八郎、川谷拓三、峰岸隆之介、松川勉、今井健二、神太郎。1974、東映)。東京の、元やくざ一家に生まれた主人公の大学生島崎角太郎(渡瀬恒彦)は喧嘩に滅法強いが子分達夫(鈴木サミ)を救うために他大学の応援団を壊滅状態にしてしまい、ほとぼりが覚めるまで大阪に身を移すことになる。その大阪亡き父の友人であるやくざ一家(北村英三、岡八郎)に草鞋を脱ぐが世話になってばかりもいられないと、釜ヶ崎で労務者として働き出したことで、大阪で知り合ったスケバンや喧嘩学生たち(青木リカなど)とともに過激な政治運動家たち(峰岸隆之介、松川勉)の労働運動に巻き込まれながら、釜ヶ崎の労務者たちを牛耳るやくざ一家(今井健二、川谷拓三など)およびやくざ一家に利用されている不良学生たち(神太郎など)と対峙する−− という、一見すかっと痛快な喧嘩暴力映画で、やくざとどう対決するかを角太郎たちが話し合う緊迫感あふれる場面で(舞台がスナックということもあるが)アグネス・チャンの「草原の輝き」が流れたり(それも二度)間抜けな可笑しさもあるが、その一方「政治運動家たちの労働運動」の描き方が、60〜70年代の学生運動に対する痛烈な批判だったりもする(金による裏切り、内ゲバ、自己批判の強要、リンチなどなど)。そして学生運動≠ノ欠けているもの、見失ったもの(すなわち仁義や人情など)の象徴が、角太郎が被っている妙に古臭い(祖父の形見である)帽子というのが面白い。クレジットはされていないが、スケバン役として杉本美樹と池玲子がちょいとだけ顔を覗かせているのは、本作より少し前から同時期に「女番長」ものに主演/出演していることからのサービスと仁義だろうか→菊水堂ポテトチップス、野菜スープ(ひとくち餃子5ケ)、薄い金宮酎ハイ×5、ビール中瓶×1→炭酸水を飲みすぎた所為か、お腹が張って苦しくなったのでしばし横臥→明日よほど天気が崩れなければ墓参、ということにして、老父買い物代行のまま向かうからひさしぶりの中央道経由で道を再確認したり、ドライブ中のプレイリストを作ったり(といっても、Buffalo SpringfiledとAntônio Carlos Jobimの手持ち音源を全部ぶち込んだだけ)→本日放映のNHK BS『アナザーストーリーズ バリケードの中のジャズ』を観たけれども、1)1969年に決行された早稲田大学本部キャンパス四号館での山下洋輔トリオのライブを50余年の時を経て、「村上春樹presents山下洋輔トリオ歳乱入ライブ」と銘打って再現した様子のドキュメンタリーだが、そもそも入っちゃいけない場所に再び乱入≠キるわけではなく、単に山下洋輔トリオが大隈講堂でライブをやるだけである、2)番組中、「最乱入」の山下洋輔トリオの演奏が始まると、「あのときと同じ曲だ」というナレーションが入るけれども、フリージャズで「あのときと同じ曲」ってのは(仮にテーマ部分が同じだったとしても)言葉の表現としてはおかしい、3)1969年のライブを仕掛けた田原総一郎が「50年前と変わらない」と言ってたが、50年も同じことをやっている音楽はジャズではない、といった、ライブの企画と番組制作について本質的な疑問が残った(山下洋輔トリオの演奏については、ほとんど流れないので、何か言うことはない)→午前1時半就寝。
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