2024年10月10日

10月まとめ(1〜10日)


墓参、ティム・バートン『ピーウィーの大冒険』、オタール・イオセリアーニ『四月』、井田探/長門裕之/南寿美子『セールスマン物語 男にゃ男の夢がある』、井上ひさし/瀬川昌治/愛川欽也/タモリ『喜劇役者たち 九八とゲーブル』、オタール・イオセリアーニ『落葉』、永井荷風/成沢昌茂/三田佳子/田村高廣/露口茂/木暮実千代/野川由美子『元祖四畳半物語 娼婦しの』、鷹森立一/千葉真一/下沢宏之『出世子守唄』。

10月1日(火) 朝6時半起床。白湯→ぶっかけうどん(稲庭うどん、生卵、青海苔)→早めに家を出て(朝9時出発)、家の近くの〈サミット〉と〈ウエルシア〉にて老父の買い物代行。あと郵便局ほか記帳→10時過ぎに荷物届け、その足でガソリン補給経由中央道で〈冨士霊園〉へ。だいたい二時間ほどで到着し、我が家と親戚家と二件墓参。今日は〈名鉄菜館〉で昼、と決めていたので、昼の閉店時間を鑑み、駆け足での墓参となった。失敬しました→で、〈名鉄菜館〉にて豚細切り焼きそば(揚げ麺、ハーフ)とノンアルコールビール。四年ぶりだった。たまには近くに泊まってのんびり飲み喰いしたいものだ(前回ゆっくりしたのは2020年、ほぼちょうど四年前)→御殿場駅前のほうに戻り、〈渡辺ハム工房〉で買い物して帰途に着く→帰途は東名。ちょいと混んだし追越車線をノロノロ走る迷惑車もいたが、概ねスイスイ→風呂と本日の清算→『スチューデント』再見しながら菊水堂ポテトチップス、サラミ、フランスパン、トマト、生ハム、モツ煮、ビール中瓶×1.5、赤葡萄酒×1/2、金宮酎ハイ×2→夜9時過ぎ就寝。
10月2日(水) 朝8時半起床。白湯→青葱とベーコンのスープ(ニンニク、クミンシード、鶏がらスープ顆粒)、フランスパントースト(オリーブ油、塩)→連絡業務→〈サウンドハウス〉にポータブルキーボードなど注文→冷やし月見花巻そば→明日の取材の準備。依頼元があらかじめ質問を取材先に投げその回答が送られてきたので、明日の取材はなしでもいいかと思ったが、一応参加することになった。せっかくなので取材対象の活動場所である世田谷区某緑地を取材前に見ておくことにした。緑地ひと周りに小一時間、家から駅が15分、電車が5分、緑地までが10分、昼が30分、取材場所まで20分として、10:00頃出ればよいか→『ピーウィーの大冒険』。(原題『Pee-wee's Big Adventure』、監督:ティム・バートン。ポール・ルーベンス、アーヴィング・ヘルマン、マーク・ホルトン、モンティ・ランディス、エリザベス・デイリー、ダリル・ローチ、プロフェッサー・タナカ、エド・ハーリヒー、ラルフ・シーモア、ルー・カッテル、エリカ・ヨーン、ジャド・オーメン、アリス・ナン、ダイアン・サリンジャー、ジョン・ハリス、カーメン・フィリッピ、ジャン・フックス、カサンドラ・ピーターソン、ジェイソン・ハーヴェイ。1985、米Aspen Film Society製作/Warner Bros.配給)。ティム・バートンの長編初監督作品。ポール・ルーベンスが考案しTVや舞台で子どもたちに大人気となった「ピーウィー・ハーマン」なるキャラクターの初主演♂f画でもある。物語の筋はあるがメッセージだの教訓だのはなく(読み取ろうとすれば読み取れるのだろうが、それはそれであまり意味はないと思う)、ドタバタにドタバタを重ねていくという趣向と見た。ティム・バートンらしさもすでにこの長編初監督作品で発揮されているが、らしさ≠謔閧燒ウ声映画時代のスラップスティック映画を研究し尽くしたような味わいのほうが印象に残った。またピーウィー・ハーマンのキャラクターは、のちの「Mr.ビーン」にも影響を与えているのではないかとも思う(表面的な人物造形やしぐさや笑いの質など)。本作だけ観てもただただ可笑しく笑って楽しく過ごせるわけだが、そうした笑いの表現の系譜の中にある作品と捉えると、なかなかに興味深い作品であると思った→キャベツトマトしらすぼしのサラダ、サラミ、ウインナー、ブリーチーズ、牛肉のホロホロ赤ワイン煮、フランスパン、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1/2→夜9時頃就寝。
10月3日(木) 午前1時起床→iPadでゲームに興じたりなど無為に過ごす→風呂、読書→しばし横臥→朝8時半起床。白湯→野菜ポタージュ、フランスパンふた切れ→結局10時半頃家を出て、11時に成城学園前着。成城三丁目緑地まで7分ほど(一般的にはまあ10分というところか)、緑地内を10分ほどうろうろして感じをつかみ、11時半に駅に戻る。なるほど、緑地は保全のために人の手が入っているとはいえ、自然がありのままであろうとする姿を尊重しているのだなと受け取った。「10分ほどうろうろ」といっても国分寺崖線の登り下りはけっこう応える→昼は面倒なので駅前の〈箱根そば〉にて。冷やしいか天そば→時間が少し余ったが、喫茶店に入るのも面倒なので、本日の取材場所の近くの〈みつ池緑地〉のベンチで休憩→取材は、依頼主が事前に質問と回答を取りまとめておいてくださったので、苦労なく有意義に終わった→帰りは成城学園前の駅までちょいと遠回り。南口もお屋敷町だが、地形は南のほうが断然面白い→帰宅即風呂→菊水堂ポテトチップス、サラミ、ブリーチーズ、トマト、生ハム、アクアパッツァ(いか、たら、あさり、オリーブ、パクチー、クレソン)、フランスパン、ビール中瓶×1、白葡萄種×1弱→オタール・イオセリアーニ の『四月』(短編映画『Akvarel』『Sapovnela』に続く三作め。中編)を観るが、酔っ払って頭に入らず、夜8時頃就寝。
10月4日(金) 日付変わってから起床→『四月』(原題『აპრილი(Aprili)』、監督:オタール・イオセリアーニ。ギア・チラカーゼ、タニア・チャントゥリア、アカキ・チクヴァイゼ。1961、具Qartuli Pilmi)。若い男女が貧民街から新しく建てられた団地で暮らし始め、なにもなかった部屋に家具や食器、電化製品などで部屋が埋め尽くされるようになると関係が次第に悪化、ついにそれらを窓から放り出し、ふたりの関係は元に戻る。という物語から単純に理解すると、モノが溢れていることが幸せなのではなく、むしろ不幸を呼ぶ、という教訓譚ということになると思うが、それだけでは済まされないような映像表現を堪能した。たとえば団地の向かいのアパートのなにもない部屋で音楽家たちが楽しそうに演奏している様子(幸福は物質の充足ではない)、なにもない部屋で若い二人が仲よくキスする度に水道の蛇口から水が流れたりガスコンロの火が点いたり電球に灯りが灯ったり(愛情があれば生活は進んでいく)、若い二人が言い争いを始めると二人の服装がコロコロ変わる(諍いの間は心や考えが揺らぐ)などなどの描写は、こうして言葉にしてみるとやはりわかったような気になるが、観ている最中はひとつひとつの映像表現を眼の快楽として受け取った。標題音楽/描写音楽的な音楽の使い方も面白く、印象に残った→『なんとなく、クリスタル』(原作:田中康夫、監督:松原信吾。かとうかずこ、横山エミー、前橋汀子、清水善三、亀井登志夫、壇ちひろ、益岡徹、原田美枝子、蟹江敬三。1981、松竹)。序盤は1981年当時の東京の様子が映されるのを楽しんだが、由利(かとうかずこ)の同棲相手の学生兼ミュージシャンの淳一(亀井登志夫)が東北ツアーより戻ってきてからはなにひとつ興味を惹かれるところがなかった。原作は確かに画期的だったと思うが、原作の物語だけをなにも考えずに映像ドラマ化した、という趣で、映画化する意味がほぼなかった作品と思う。蟹江敬三が酒場で若者にからむ場面だけは面白かったかな。あと記憶ではかとうかずこがハイレグ水着でプールサイドを歩く場面があったと思ったのだが、水着は他の女優だった→『二人の銀座』(監督:鍛冶昇。和泉雅子、山内賢、和田浩治、尾藤イサオ、小林哲子、伊藤るり子、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、桂京子、月の家円鏡、新田昌玄、ミッキー安川。1967、日活)。なんといってもタイトルロールのデザイン(和泉雅子の踊り含む)が画期的。おそらく本作を撮った日活含むこの前後の映画にこういうセンスはなかったように思うのだが、果たして。物語も、ひとりの作曲家戸田周一郎(新田昌玄)が残した楽曲の楽譜をその恋人瀬川玲子(小林哲子)の妹瀬川マコ(和泉雅子)がうっかり落とし、それを学生バンド(山内賢、和田浩治など)が拾ってクラブで演奏したらヒット。戸田は盗作の濡れ衣を着せられ銀座から姿を消していたが、楽曲がヒットしたことでマコらに探され発見され、くだんの楽曲のヒットを目の当たりにしながらまた姿を消そうとするが、恋人玲子に再会する…… と、起伏もあり苦味もあって見応えのあるものだが、タイトルロールの素晴らしさと和泉雅子の実のある可愛さのほうが印象に残ってしまう映画ではある→サラミ、目玉焼き、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→朝6時半就寝→昼過ぎ起床。白湯→野菜ポタージュ(ベーコン追加)、ベーコンサンドイッチ→連絡業務と、今朝方観た映画の感想まとめなど→ぶっかけうどん(稲庭うどん、生卵、おろし生姜、しらすぼし)→風呂→O形サイト更新(絵日記)→DU仕事、取材に参加しなかった分の取材音声文字起こしを少し→『セールスマン物語 男にゃ男の夢がある』(監督:井田探。神戸瓢介、南寿美子、長門裕之、武藤章生、嵯峨善兵、弘松三郎、雪丘恵介、森川信、小桜京子、久遠利三、松原智恵子、由利徹、冬木京三、藤村有弘、河上信夫、左卜全、相原巨典、杉幸彦。1961、日活)。若い新人セールスマン上野洋平(長門裕之)が挫折を味わいながら心ある先輩セールスマン清水龍吉(森川信)の薫陶を受け成長するという、明朗なサラリーマン喜劇。64分という尺からいわゆるプログラムピクチャーという趣だが、上野が清水の助言によって手強い客の植木屋小沢権太郎(由利徹)の懐に入り込んで小沢の植木の客である会社会長(左卜全)から大量注文を勝ち取るくだりが素晴らしく、また何よりも森川信の芝居がよくて感動すら覚え、名作のにおいも感じた。先輩セールスウーマン久保田花枝(南寿美子)と清水の娘菊子(松原智恵子)と上野の恋の鞘当てをもっと膨らませて艶っぽさを加え、一時間半〜二時間くらいの作品にしてもよかったかもしれない。小沢にそんな説明じゃわからないから浪花節でやれ≠ニ言われた上野が銭湯で藤村有弘扮する浪曲好きに浪曲を習うくだりも可笑しくてよかった→ニンジンのしらすぼし和え、昆布佃煮、ビール中瓶×1→午前2時過ぎ就寝。
10月5日(土) 朝9時起床。白湯→ひとくち餃子入り野菜スープ(アクアパッツァ改)、ベーコンエッグサンドイッチ(うずらの卵×2)→『喜劇役者たち 九八とゲーブル』(原作:井上ひさし、監督:瀬川昌治。愛川欽也、園佳也子、笑福亭鶴光、タモリ、秋野太作、南利明、佐藤オリエ、鈴木ヒロミツ、三木のり平、東てる美、あき竹城、財津一郎、橋本功、湯原昌幸、赤塚不二夫、横山道代。1978、松竹)。あくまでも個人的な好みではあるが、愛川欽也主演(売れない喜劇役者港金一のちに芸利九八という設定で、冒頭では園佳也子扮するストリッパー、ラビアンローズの付き人で登場する)、という点でいささか引いた眼で見てはしまうものの、自分が苦手な愛川欽也の泥臭さや上滑りの笑い(と私が思っているだけかもしれないが)があった上でなお、喜劇役者という存在の本質を描こうとした佳作であると思った。愛川欽也の相方の謎の喜劇役者(実は精神病患者)の苦楽芸振をタモリが演じているが、タモリが山下洋輔などに見出され再上京(大学生時代以来)したのが1975年6月、赤塚不二夫の世話になるようになり田辺エージェンシーと契約、『空飛ぶモンティ・パイソン』や『金曜10時!うわさのチャンネル!!』などのTVのバラエティ番組に出演し始めたのが1976年だから、まさに売り出し真っ最中の映画出演(映画初出演と思われる)。「四カ国後麻雀」や「寺山修司のモノマネ」のほか、犬、猫、オットセイのモノマネやラジオ番組の声色などなど、持ちネタをふんだんに、しかも力一杯披露している(イグアナはやらなかった)のも面白いし、井上ひさしの原作らしく、権力批判をいい按配の笑いに包んだ感覚もよい(終盤で苦楽芸振が女流雨政治家をからかい、秋野太作が警官に噛み付く場面は感動も覚えた)。藝人は狂人と紙一重、というメッセージは、(終幕の逃げたつもりが精神病院に送り込まれる≠ニいう展開も含め)いささか青臭い気もするが、観ている最中はそれほど気にならなかった。芸利九八と苦楽芸振が浅草に戻ってからのストリッパーにあき竹城と東てる美、ストリップ小屋の支配人に南利明、進行役に秋野太作、東てる美に憧れるアルバイトに鈴木ヒロミツ、脚本家の先生に財津一郎、芸利九八と苦楽芸振を見出すTVプロデューサーに湯原昌幸、芸利九八の恋人に佐藤オリエ、そして精神病院の院長に三木のり平と藝達者な面々が脇を固めるが、いずれもそれほど目立ったり際立ったりする場面はなく(財津一郎がホモセクシャルを匂わせたり、女流政治家役の横山道代がストリップ小屋を視察に来て苦楽芸振に煽られ立腹するところなどは印象に残ったが)、あくまでも愛川欽也とタモリを立てたような印象の映画だった。正直期待はしていなかったのだが、思わぬ拾い物→取材音声文字起こし続き→『若さま侍捕物帖 鮮血の晴着』(原作:城昌幸「五月雨ごろし」、監督:小沢茂弘。大川橋蔵、富田仲次郎、徳大寺伸、片岡栄二郎、加藤嘉、薄田研二、金剛麗子、富久井一朗、三笠博子、星美智子、伊東亮英、星十郎、岸田一夫、山口勇、浦里はるみ、阿部九洲男。1957、東映)。大川橋蔵版としては三作め(『地獄の皿屋敷/べらんめえ活人剣』を一本と考えた場合)。若さま≠ェたまたま古刹〈西光寺〉の前を通りかかると、なんだか怪しげな男たちの出入りがあり、事件の匂いがする。折しも札差〈越後屋〉に強盗が押し入り、捕物にも遭遇する…… と、映画冒頭で謎を問いかける問いかけ方に、シリーズ他作品同様わくわくさせられる(といっても、『深夜の死美人』『お化粧蜘蛛』は未見だが)。で、「怪しげな男たち」のひとりが殺されてみると、老人に変装した質商〈阿波屋〉の主人六左衛門、鮮血に染まった花嫁衣装を手にしていて、謎は深まる。その阿波屋の店先をうろつく若侍白坂源二郎(片岡栄二郎)、六左衛門が囲っている料理屋〈春月〉の女将おしゅん(浦里はるみ)、〈春月〉に集まり騒ぐ愛甲新七郎(山口勇)ら侍たち、六左衛門がアジトにしていたと思しき谷中の綿打屋に監禁されていたと思しき娘(無役小身の旗本八代将監の娘露=三笠博子)が飛び出してくると愛甲たちに攫われ…… さらに謎が謎を呼ぶ展開となる。若さま≠ヘ与力佐々島(伊東亮英)、目明し遠州屋小吉(星十郎)、そしておしゅんの弟にして六左衛門の手先でもあった四郎吉(富久井一朗)の協力を仰ぎ、事件の真相に八代将監(薄田研二)の野心と強欲、そして阿波屋の番頭重蔵(富田仲次郎)の暗躍があることが次第に判明する。と、ある種の探偵もの∞謎解き≠ニしても楽しく、また大川橋蔵のふだんはなよなよしていながらいざという時には頼りになる@lも堪能できる、いつも通りの痛快娯楽時代劇であった。若さま≠ニ心を通じ合わせるおいと(星美智子)の活躍があまり見られなかったのが、少々の不満といえば不満か→菊水堂ポテトチップス、刻み月見そば(大根千六本、刻み葱)、ビール中瓶×1→午睡→風呂→キャベツトマトしらすぼしのサラダ、ポテトサラダ(ニンジン)、ウインナー炒め、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×5→『喜劇役者たち 九八とゲーブル』再見→夜0時就寝。
10月6日(日) 朝6時起床。白湯→めんつゆ仕込み→野菜スープ、ご飯、納豆、うずらの卵、昆布佃煮→取材音声文字起こし続き→『元祖大四畳半物語』(原作:松本零士、監督:松本零士、曽根中生。山口洋司、原泉、若宮大祐、篠ひろ子、前川清、左右田一平、日野道夫、ラビット関根、ジェームス・ハント、エル、なぎさ、まりか、あき、松本ちえこ、林ゆたか、ガッツ石松。1980、日活)。デビューは早かったものの漫画家として不遇をかこっていた時期の松本零士本人をモデルにした原作の映画化。原作を読んでないのでなんとも言えないが、本作では「本郷三丁目の下宿住まい」という設定は同じながら、主人公は大学浪人−−しかし予備校に通うでもなくアルバイトしたり周囲の人間関係に翻弄されたりなど、無意な日々を送っているという設定である。当時もその後も現在も、そういう人間はいくらもいる(いた)だろうし、それを松本零士の技術と発想による漫画で読むならともかく、特別な映像化技術も発想もないような(と、私は思ったが、私が理解しなかっただけかもしれない。ならば失敬)映像化をしても意味はないのではなかろうか、というのが第一印象。せめていい塩梅の笑いに包んで提示してくれるなら楽しめたと思うが(笑いの要素がないわけではないのにまったく活かそうとしていないように思った)、正直なところ約100分退屈しながら観たが、それでも(オーディションで選ばれたという)主役の山口洋司の小ささ、ひとり異彩を放っていた篠ひろ子の存在感、プロレタリア演劇出身で中野重治の妻であった原泉の好演などなど、好印象に残る点もいくつかあった。しかしながら加藤登紀子の歌(止まらない汽車)を主題歌にしたり、終幕で「たとえ今日絶望に/歯を喰いしばろうとも/若者には明日がある/明日があった/大四畳半は/それをよく知っている」という教訓臭い文言を字幕で示したり、不遇の青春をなんの捻りもなくつらいけれども貴重な体験≠ニして描くのは、やはり私のお歯には合わなかった。篠ひろ子が異次元≠ニ言ってもいいような存在感を放っていたので、それを大事にこの世ならぬ物語=iと思わせるような物語)を紡ぎながらしかし現実に対しても実がある≠ニいうような作品を目指せばよかったのにと思ったが、この評価は果たして。そういえばせっかくのラビット関根(当時。現在の関根勤)のおかま*は、面白かったが本作に対する効果はほとんどなかったのではないかな(最も魅力ある時期だったであろう松本ちえこも、そのよさがまったく活かされていなかったように思う)。主人公がアルバイトするラーメン屋、電器屋、建設現場、廃品処理場などの場面も、そんなに苦労を重ねるわけでもなく、さりとて笑えるわけでもないものであった→昆布出汁殻、かつ節出汁殻、海苔、もりそば(刻み葱、青海苔、うずらの卵×2)、ビール中瓶×1、御酒×2→午睡→『落葉』(原題『გიორგობისთვე』、監督:オタール・イオセリアーニ。ゲオルギー・ハラバーゼ、ラマーズ・ギオルゴビアーニ、マリナ・カルツィワーゼ、アレクサンダー・オミアゼ、テンギズ・ダウシュビリ、バードゥル・ツラゼ、ルスダン・キクナーゼ。1966、具Qartuli Pilmi)。オタール・イオセリアーニ五本めの監督作品にして、初の長編作品(ただし左記の情報はフランス語版Wikiなどによるもので、正しいかどうかの検証はしていない)。冒頭でジョージアの伝統的な葡萄農家の葡萄酒造りを映し、映画は(撮影当時の)現代(と思われる)の近代的な葡萄酒工場へと舞台を移す。若き管理職としてオタール(ゲオルギー・ハラバーゼ)とニコ(ラマーズ・ギオルゴビアーニ)のふたりの技術者が工場へ入社するが、ニコが屈託なく職人たちと打ち解けるのに対し、オタールはどこか職人たちを見下ろすような態度を取る。冒頭の伝統的な葡萄酒造りとは異なり、工場は計画とノルマに支配されていて、またひとりの女性社員マリナ(マリナ・カルツィワーゼ)を巡って幾人かの男たちが争っている。そんな中、まだ酸味の残る49番の樽の葡萄酒も(ノルマのために)瓶詰めすることになり、飄々と過ごしていたニコがマリナを巡る争いに巻き込まれたのち、果然技術者としての責任感に目覚め、この瓶詰めを(ゼラチンを混ぜることによって)阻止するに至る…… という物語だが、物語の主眼は大きく分けると1)職業を通じた青年の成長、2)産業が近代化することへの疑問、ということになるだろうか。むろんその二点だけを見つめていても映画を楽しむことはできないが、イオセリアーニが『四月』で物質社会の虚しさを描いたことを考えると、ソ連的な計画∞ノルマ≠ノ疑問を呈する2)の視点に重心を置いて観ることも重要と思う。ニコに扮するラマーズ・ギオルゴビアーニは佇まいが印象的で、彼の行動や所作を眺めているだけでも楽しい作品ではあるが、最終盤でゼラチン混入≠所長が受け入れるくだりや、そのあとの行楽の場面(顔ハメの写真撮影、ボートに乗る男女、サッカー)は家のTV画面が小さすぎてニコがいるのかどうかがわからず場面の意味が判然としなかった。また原題は機械翻訳に頼るとジョージさんによると≠ニいう意味のようだが、これも意味不明(邦題の『落葉』は仏題の『La Chute des feuilles 』から来たものと思われるが、仏語の由来も不明といえば不明)。その辺りを詳しく追った文献も探したが、今のところ日本語では見当たらない。引き続き探してみたい→キャベツトマト炒めニンジンベーコンニンニクのサラダ、牛すじ肉の赤ワイン煮、フランスパン(バター)、ビール中瓶×1、白葡萄酒一杯、金宮酎ハイ×1→夜9時就寝。
10月7日(月) 日付け変わるころ起床→『落葉』復習→『元祖四畳半物語 娼婦しの』(原作:永井荷風『四畳半襖の下張』、監督:成沢昌茂。三田佳子、田村高廣、露口茂、木暮実千代、野川由美子、遠藤辰雄、進藤英太郎、杉村秀男、三島ゆり子、佐藤綾子。ナレーション・烏有先生:東野英治郎。1966、東映)。永井荷風『四畳半襖の下張』の、襖の下張りに使われた文反故を読んだ回想という形式を利用し、細部を変えた、という映画。とはいえ原作と比較して云々というより、娼婦深沢しの(三田佳子)や米山きみ(野川由美子)、しのの夫大島竜吉(露口茂)や客吉岡糺(田村高廣)の芝居と役者への演出で創られていく明治末期の場末の待合の様子や空気、そこに生きる人たちの表現がとてもよい。無理をねじ込んでくる客へ肝の座った対応をする待合の女将立花種子(木暮実千代)や、色狂いで学生に入れ上げる年増女安藤道代(三島ゆり子)、きみを買ったはいいが腹上死した客塚山泰造(進藤英太郎)の妻できみを責めにやってくる老妻りく(浦辺粂子)の芝居も印象に残る。しのときみに、もう少し汚れた風情があってもよかったかな。しかし旗本崩れで掏摸にまで身を落とした吉岡糺と、実質的にしののヒモでありながら最後の一線は守ろうとする車夫大島竜吉、この二人のうらぶれた男たちの末路も含めて全体を考えると、一本の映画−−それも佳作として、納得のいく出来栄えだと思う→煮干し出汁殻、昆布佃煮、金宮酎ハイ×2、御酒×1→午前4時半就寝→朝10時頃起床。白湯→軽く宿酔か、起きたらすぐ草臥れていたので、昼頃まで横臥→大根と油揚のおつけ、卵かけご飯→取材音声文字起こし続き。依頼元が文字起こし原稿を読んでその中から本文に記載してほしい事柄を指定する≠ェ今回の取材先三件ともとなったので、さすがに別料金をご用意いただくよう交渉(基本的に編集なしで聞いたままの文字起こし原稿、といっても、人様に見ていただく文だからかなり気を使わざるを得なくなるので)。しかしそんなことをするなら、依頼元が一時間なり一時間半なりの取材音声を聞きながら原稿に書いて欲しい内容を手書きでメモ取れば、時間も費用も節約できていいのにと思う。なので次回からはそうしたらいかがですかと提案)→もりそば(うずらの卵×2)→晩のカレー制作。なにも考えずに手を動かしているうちにぶなしめじ入りバターチキン(のようなもの)になった→風呂→取材音声文字起こし続き→バターチキンカレーライス(小皿)、ビール中瓶×1→夜11時仮眠→午前1時起床→午前4時近く、取材音声文字起こし続き。一件め完了し、フィラーの類(えーと、あのー)を削除し明日の提出に備える→午前4時就寝。
10月8日(火) 朝8時半起床。白湯→見積もり制作・提出→取材音声文字起こし最終確認し(取材音声をひと通り確認)提出→大根と油揚のおつけ、バターチキンカレーライス(小皿)→次の一件分の取材音声文字起こし開始。こちらはあまり骨を折らずに、今日中には終わりそうだ→〈中江クリニック〉にて毎月の定期検診。特に問題なし。採血したが結果は来月→〈あずまや〉てたこ焼き注文してからクスリ受け取りに。〈あづまや〉のお兄ちゃん、しばらく行ってなかったのに覚えててくれてうれしい→帰宅して、たこ焼き(ぼうず)5ケ、キャベツ千切り(中濃ソース)、バターチキンカレー(小皿)、ウインナー炒め、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→仮眠一時間半ほど→「次の一件分の取材音声文字起こし」、結局五時間くらいかかってしまった。午前4時前完了→そのまま就寝。
10月9日(水) 朝8時起床。白湯→玉葱と油揚のおつけ、バターチキンカレーライス(小皿)→本日老父買い物代行だが、昨夜遅かったのと雨が激しいので、午後にしてもらう→今やっている取材記事制作仕事は、依頼元が取材音声起こしから記事に入れたい要素を検討する、ということだが、待ってるだけも能がないので、三本ともざっくりアウトラインを作ってみる(うち一本の取材はまだだが)。明日はアウトラインを埋める作業をして、叩き台を作ってみるつもり→風呂→老父買い物代行(サミット)→帰宅して寿司(寿司9ケと卵焼き)、ビール中瓶×1、御酒×2→午睡→先日バターチキンカレーを作った際に余ってしまったカレースープ(野菜くずの出汁とグレービーソースを混ぜた際に多過ぎた水分。バターやぶなしめじとを加える前)を三日ほど放置していたら、悪くなってしまった。悔やみつつ廃棄→新たにキーマカレー製作。なにか木の実を入れたくなったが手元になかったので、柿ピーをすり鉢で砕いて入れてみることにした。さてどうなるか→『出世子守唄』(監督:鷹森立一。千葉真一、下沢宏之、小瀬朗、青柳美枝子、石山健二郎、小川知子、玉川良一、沢彰謙、三原葉子、小畠絹子、川津祐介、遠藤辰雄、一節太郎、丹波哲郎。1967、東映)。一節太郎「浪曲子守唄」を下敷きにした千葉真一の「子守唄シリーズ」最終作。物語は親子でさすらう遠藤文吾(千葉真一)と健一(下沢宏之)が行き着いた土地でその土地の顔役や若い娘の世話になりまっとうに暮らそうとするものの、別れた女房に再会したり、争いに巻き込まれて文吾が大暴れののち、責任を取って自首したり放浪の旅に出たり…… というものだが(もっとも第二作『続浪曲子守唄』には「逃げた女房」は出てこないが)、三作ごとに微妙に設定や物語の運びは異なり(当たり前だが)、流行歌を下敷きにした安易な股旅もの、と思って観るといい方に裏切られる。本作も同様で、他のヤクザ映画と比べて派手さはないが、登場人物も物語も実のある感じで、けっこうずっしりとした人生の重み≠味わわせてもらった。このシリーズは真田広之(当時は下沢宏之)の映画デビュー作でもあるが、6歳から7歳の頃の真田広之の成長ぶりを見ることができるのに加え、本作ではひとりの俳優≠ニしてかなり有望であることの片鱗を窺わせる。Wikipediaによれば、千葉真一は『千葉流サムライへの道』という本で「スタッフから幾人かの候補者を見せられ、どの子が良さそうかと聞かれた千葉が下沢を選んだからで、光るものがあったと述べている」そうだが、さもありなんと思わせられる役者ぶりだった→キーマカレー、ブリーチーズ、フランスパン、バター、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1/2、金宮酎ハイ×4→午前2時就寝。
10月10日(木) 朝9時半起床。白湯→玉葱と油揚のおつけ、キーマカレーライス(小皿)→午前中特になにもせず→月見花巻そば→風呂→晩は出かけるつもりだったが、家内とお友達と、女だけのほうがいいかなと思い失敬→『極道』(監督:山下耕作。楠本健二、堀正夫、若山富三郎、大木実、菅原文太、潮健児、待田京介、山城新伍、佐藤京一、清川虹子、小松方正、小島慶四郎、藤田佳子、小山田良樹、天津敏、内田朝雄、北林早苗、沢彰謙、江幡高志、金子信雄、小田部通麿、鶴田浩二、永田光男。1968、東映)。若山富三郎『極道』シリーズの第一作。『人形佐七捕物帖』シリーズ(1956〜61)以後、所属映画会社の移籍を繰り返していた若山富三郎は脇役に追いやられたり一年も役がつかなかったりと不遇の日々を送っていたそうだが、山城新伍の仲介で1966年に東映に再移籍。再売り出しの策として会社が提示したのが、釜ヶ崎の愚連隊の男(詳細不明)や、仁義に背いた反逆者として知られる新宿のヤクザ石川力夫をモデルとした「ドス黒い悪の匂いをプンプンさせる」ヤクザながら「山高帽にダボシャツ、腹巻き、ステテコ姿に雪駄履きというキテレツな喜劇スタイル」の、それまでになかったヤクザ像だった(「」内はWikipediaの「極道シリーズ」より引用。若山富三郎自身もいろんな人物をモデルにしたり、マキノ雅弘からアドバイスを受けたそうだ)。この悪と欲望と躊躇のない暴力と可笑しさ、そして人情味が同居したヤクザのスタイルは、『緋牡丹博徒』シリーズ(1968〜72)や『シルクハットの大親分』(1970)にも引き継がれているが、その出発点である本作は、「可笑しさ」の部分がそれほど強くなく、我慢に我慢を重ねた上での爆発ではない「躊躇のない暴力」を除けば、それまでのヤクザ映画に比べて際立った特徴がそれほどないような印象だった。このシリーズでは私はシリーズ最終盤(つまり若山富三郎ならではのヤクザ像が完成を見た)『極道VSまむし』(1974)、『極道vs不良番長』(1974)を先に観ていたため(というか、この二本しか観ていない)、余計に本作に物足りなさを感じたものと思う。東映チャンネルではこのあと三作めの『兵隊極道』(1968)まで放映されるようだから、シリーズ全作放映されるなら改めて通して観てみようと思う→菊水堂ポテトチップス、柿ピー、キーマカレー、ニンジンと青葱煮物(ヒガシマルうどんスープ)、ベーコンサンドイッチ、ビリヤニ(小皿)、ビール中瓶×2、金宮酎ハイ×7→『帰って来た極道』(監督:山下耕作。若山富三郎、波多野博、村居京之輔、浪花五郎、天津敏、茶川一郎、山城新伍、小島慶四郎、有馬宏治、汐路章、広瀬義宣、畑中伶一、大木実、有川正治、八名信夫、潮健児、待田京介、大信田礼子、遠藤辰雄、河津清三郎、関山耕司、清川虹子。1968、東映)。若山富三郎『極道』シリーズ第二弾。一作めはまだシリーズとしても若山富三郎扮するヤクザのキャラクターとしてもなにか際立った特徴ができていないようにも感じたが、二作めにしてすでにその萌芽を感じた。また島村清吉(若山富三郎 )とその女房みね子(清川虹子)、そして清吉の子分ジョージ(山城新伍)以外は同じ役者でも違うキャラクターとしての出演というコンセプト(というほどのものではないか。ちなみに本作では大木実の人物像が前作とあまりに違うので驚いた)、そして物語にも連続性がないということが明確にわかる造りであった。「笑い」という点では、清川虹子がリードしていったような印象もあった→午前1時就寝。
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