2024年11月20日

11月まとめ(11〜20日)


陣出達朗/内出好吉/片岡千恵蔵『さいころ奉行』、永井荷風/久保田万太郎/五代目坂東玉三郎/吉永小百合/樹木希林『夢の女』、横溝正史/沢島忠/中村錦之助/三代目中村時蔵/中村芝雀/中村賀津雄/片岡千恵蔵『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』、フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ/黒岩涙香/小石栄一/月形龍之介/江川宇禮雄/見明凡太郎/小林桂樹『死美人事件』、瀬戸口寅雄/工藤栄一/美空ひばり/東千代之介/近衛十四郎『ひばり捕物帖 折鶴駕篭』、山田太一/日向敏文/杉浦直樹/大原麗子/高倉健『チロルの挽歌 前編「再会」・後編「旅立ち」』、レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ/マッシモ・ダラマーノ/レジス・ヴァレ/ラウラ・アントネッリ『毛皮のヴィーナス』、メル・ブルックス/マデリーン・カーン『メル・ブルックス 新サイコ』、水木洋子/豊田四郎/京マチ子/沢村貞子/桑野みゆき『甘い汗』、TV番組収録さくら。

11月11日(月) 朝10時起床。白湯→ひさしぶりに下高井戸に出て、まずは〈Jazz Keirin〉にて遅い朝。ひやあつカレーうどん白、ビール小瓶×1→〈三友〉月曜定休なのを忘れていて憮然とするも、〈内田青果〉〈前田商店〉〈いずみや〉と買い物できて満足→往復とも徒歩。先月の取材や京都行以来、またちょいと歩くようになった。よい傾向→『若さま侍捕物帖 紅鶴屋敷』(原作:城昌幸『紅鶴屋敷』、監督:沢島忠。大川橋蔵、桜町弘子、花園ひろみ、水野浩、岸井明、尾上鯉之助、月形龍之介、杉狂児、片岡栄二郎、東竜子、原健策、進藤英太郎、堺駿二、富田仲次郎、中野文男、河野秋武、沢村宗之助、金剛麗子。1958、東映)。大川橋蔵版としては六作め(『地獄の皿屋敷/べらんめえ活人剣』を一本と考えた場合)。若さま=i大川橋蔵)がおいと(花園ひろみ)と遠州屋小吉(沢村宗之助)を連れてとある漁村に保養に来てみると−−なぜ保養に来たのは原作には書いてあるようだが、本作では不明−−、今は江戸の豪商越後屋の寮となっている「紅鶴屋敷」にまつわる異変が起き、若さま≠ェその謎の解決に挑む…… という話。漁村の娘お千代(桜町弘子)の若さま≠ヨの思慕の吐露に始まり吐露に終わり、その甘酸っぱい青春の香りを背景に、若さま≠ェさわやかな傍若無人っぷりを発揮する。土地の相談役のような立場にいるはずの覚全和尚(月形龍之介)の終盤での変わりっぷりは見事だし、土地の名士のはずの越後屋清左衛門(原健策)や網本茂兵衛(進藤英太郎)の表の顔と裏の顔の描き方もよい。うすらバカのよだれくりの丁松(岸井明)の用い方も効いている。しかしやはり、なによりも、若さま≠ニおいとが無邪気に遊んでいるのを遠くからお千代が眺めて憧れている、という構図が素晴らしい。『魔の死美人屋敷』『鮮血の人魚』に感じた不満がないことを考えると、まあ個人的趣味ではあるが、『深夜の死美人』から本作までの三作は好調だったのだなと思った→卵サンドイッチ(ロールパン)→本日より必殺シリーズ三作め『助け人走る』。未見だったが、期待できそう。ちなみにひとつ前の『必殺仕置人』放映中に殺人事件が起き、犯人が「『必殺仕置人』を見ていた」と供述したことから騒動となり、その結果題名に「必殺」がつかなかったそうだ→小肌、味噌梅干しかつ節ちりめんじゃこ生姜の手巻き、牡蠣白菜ニンジンの炒め(ニンニク、生姜)、油揚煮付け、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×3→食後仮眠→日付変わる前に起床→風呂→『さいころ奉行』(原作:陣出達朗、監督:内出好吉。丘さとみ、進藤英太郎、片岡千恵蔵、花房錦一、星十郎、黒川弥太郎、香川良介、北龍二、東千代之介、青山京子、吉田義夫、原健策、大邦一公、瀬川路三郎、仁礼功太郎、高松錦之助、阿部九洲男、伏見扇太郎、関根永二郎、中村時之介。1961、東映)。放浪癖に取り憑かれた遠山金四郎(片岡千恵蔵)が旅先で同じ遠山金四郎≠名乗る鬼金(進藤英太郎)に出会い、花嫁お新(丘さとみ)略奪(実は祝言が嫌で江戸に行きたい花嫁に頼まれての所業だった)の廉で縛られている鬼金を助ける。鬼金を伴っての旅の最中、桑名の三十石船の船中で江戸で不審な動きを見せている世直し党≠フ話を聞き、金四郎は江戸へ戻ることに。そして戻った江戸で、将軍家慶(伏見扇太郎)暗殺の計画が進んでいることを知る−− という物語だが、謎に迫っていく過程での各登場人物−−とりわけ掏摸素っ飛び小僧の安(東千代之介)、その昔馴染みで大店八百松の女将に出世したお蘭(青山京子)、三十石船で出会う講釈師三流斎大宝(星十郎)−−の人物像、位置、動きなどがいい塩梅で気持ちよく見物しているうちに、将軍上覧の歌舞伎『伽羅先代萩』の舞台に乗り込んだ金四郎が、将軍家慶の目の前で暗殺の企てを暴いて防ぎ、その首謀者鵜殿縫之介(原健策)と黒幕駒木築後守(北龍二)を裁く場面に胸のすいたような心地よさを感じさせられる快作。細かいところだが、千恵蔵が御燗番をしている様子なども面白いし、歌舞伎の場面では奈落の様子とか千恵蔵がせり上がってくるとか、演出もなかなか細かい。忘れていたがこれで観るのは三度めで、前回(2018年7月)の感想は右のとおり。「東千代之介扮する掏摸の「あの野郎何者だろう、江戸っ子かな?」という台詞が可笑しい。千恵蔵英太郎名コンビの感ありだが、その発端になる作品は何かなと気になった。千恵蔵が歌舞伎の花道に立つところ(成田屋と声がかかる)は、なぜ遠山金四郎に歌舞伎の所作ができるのかという気もするが、胸が熱くなるな。そして舞台にお白州の大道具という趣向に驚くやら大笑するやら。千恵蔵もここぞとばかり芝居がかっていて面白い」→たたき梅(味噌ちりめんじゃこ刻み葱)、ちりめんじゃこと塩昆布とうずらの卵×2、冷やし山かけそば(揚げ玉)、ビール中瓶×1、御酒×3→午前5時半就寝。
11月12日(火) 朝11時起床。白湯→そんなに重い宿酔でもないが(特にお腹)、クルマで出かけるにはしんどい感じなので、本日の〈むらさきmusicラボ〉は失敬させてもらうことにした。申し訳ない(O形のみ出席)→玉葱と油揚のおつけ、卵かけご飯(ちりめんじゃこ、納豆)→日記の整理など→どんこ入り刻みそば→ビール中瓶×1→風呂→『夢の女』(原作:永井荷風、戯曲化:久保田万太郎、監督:五代目坂東玉三郎。永島敏行、樹木希林、綿引勝彦、吉永小百合、佐々木すみ江、戸浦六宏、安井昌二、片岡京子、長門裕之。1993、松竹)。士族の娘(吉永小百合)が、父の病気などによる多大な借金のために奉公に出たら旦那の手がつき妾になるも旦那の死により放逐され、旦那との間に出てきた子供とも別れて洲崎遊郭に花魁として身を売ることになり、馴染客(永島敏行)に一度は借金をきれいにしてもらったものの離れ離れになった子供を取り戻すために店にまた借金を重ね、自分も無理をしてオイランを助けたのにと絶望した馴染客は自死。花魁としての評判も地に落ちた絶望の淵で上客(安井昌二)がつき身請けされ廓の生活を抜け出す。何年も経ってからふと古巣の遊郭を訪ね、自分と同じ名をつけられた若い花魁(片岡京子)と短い会話を交わす−− という、運命に翻弄されたひとりの女の物語であるが、映画としては1)絵造りの巧みさと美しさ(白黒画面のコントラストがやや高いその塩梅が素晴らしい。美術は木村威夫、撮影は長沼六男)、2)主人公を引き立てる老女役ふたり(遊郭のお松=樹木希林と、妾時代の婆やおさわ=佐々木すみ江)の芝居の素晴らしさ、この二点を味わう作品と思った。士族の娘から運命に翻弄される女に扮した吉永小百合も美しくまた儚げではあったが、これは他の役者でもできないことはなかったのではなかろうかと思った。少なくとも大林宣彦『女ざかり』のときのような、この吉永小百合でなくては、という引力というか重力というか求心力のようなものはなかったと感じた→ちりめんじゃこ、海苔、金宮酎ハイ×6→そばつゆ仕込み→午前3時就寝。
11月13日(水) 朝8時起床。白湯→玉葱と油揚のおつけ、卵かけご飯(ちりめんじゃこ、丹波黒豆ふりかけ)→老父買い物代行(サミット)と昼食同伴。ごぼう天×2、いか天×1、かけうどん小盛り、おろし生姜(なかじょう)→この秋冬初の灯油買って帰宅→『お役者文七捕物暦 蜘蛛の巣屋敷』(原作:横溝正史『蜘蛛の巣屋敷』、監督:沢島忠。原健策、雪代敬子、三原有美子、津村礼司、岡譲司、中野文男、月笛好子、中村錦之助、沢村宗之助、桜町弘子、中村米吉、赤木春恵、三代目中村時蔵、中村芝雀、花園ひろみ、中村時之介、香川良介、中村賀津雄、山形勲、片岡千恵蔵、薄田研二、水野浩、松浦築枝、中村歌昇、日高澄子、喜多川千鶴、吉田義夫、徳大寺伸、進藤英太郎、星十郎、団徳麿。1959、東映)。播磨屋一家という、豪華≠ニいう言葉を映画の宣伝文句に使うならこう来なくちゃ、という作品。すでに映画界のスターになっていた中村錦之助が主演のお役者文七−−播磨屋に生まれたがぐれて家を飛び出したという設定−−に扮し、その父である中村歌六を実父の三代目中村時蔵、兄中村しうかを実兄の中村芝雀(のちの四代目中村時蔵)、大岡越前守(片岡千恵蔵)配下の与力池田大助を芝雀と錦之助の弟中村賀津雄が演じ、ほかにも中村歌昇、中村時之介、中村米吉(子役)が出演している(播磨屋でない人を混ぜてないか自信がないが)。で、映画の中でも三代目中村時蔵、中村芝雀そして中村錦之助は播磨屋の人間≠ニいう設定で、その辺観ていて少しこんぐらがってくるが、終盤で中村時蔵と中村芝雀が舞台上で『女暫』を上演、そこでの台詞でそれぞれの実名を言ったりするという、虚実綯い交ぜの趣向がなかなかにたまらない。物語は同じ長屋の母子を助けようと金策に走っていた文七が某藩を巡る因縁に痰を発する陰謀的事件(そのほんの一幕)に遭遇、次第に巻き込まれていくも自ら役者ならではの工夫で事件を解決に導くというもので、文七の活躍にはなかなか心踊らされるが、事件がほぼ解決を見たところで片岡千恵蔵扮する大岡越前が出てきて場をさらってしまう、という展開が可笑しい。その辺も含めて、いろんな味わいを味わえる絢爛豪華な娯楽時代劇大作であった→菊水堂ポテトチップス、昆布とかつ節出汁殻、鶏ささみ茹で(塩、胡椒)、長芋千切り(刻み海苔、そばつゆ、わさび)、熟し柿(塩)、ちりめんじゃこうずらの卵和え(刻み海苔)、冷やかけそば(刻み海苔、刻み葱、揚げ玉)、ビール中瓶×1、御酒×4→午睡→風呂→『幕末』(原案:司馬遼太郎『竜馬がゆく』、監督:伊藤大輔。二木てるみ、片山明彦、大辻伺郎、保積ペペ、松山英太郎、中村賀津雄、山形勲、青山宏、古谷一行、中村錦之助、仲代達矢、仲谷昇、尾形伸之介、神山繁、香川桂子、江利チエミ、小林桂樹、御木本伸介、吉永小百合、三船敏郎。1970、東宝)。司馬遼太郎『竜馬がゆく』を原案として用い、本作の二年前に設立された中村プロダクションが製作に携わった作品。とあるブログには「小説の良いシーンをダイジェストにしただけである」という記述があって、恥ずかしながら原作を読んでないのでなんとも言えないが、そう言われれば坂本龍馬ってこんなに優れていてカッコいいんだぜ≠ニひたすらアピールされているだけのような気もするし、そしてそのカッコいい龍馬≠中村錦之助が演じているので、鑑賞する際は要注意であるとは思う。ただし、坂本龍馬が薩長の仲を取り持ったり、諸外国が迫り来る中他よりも世界の中の日本について熟考していたり、あれやこれやのために行動力を発揮したりといった描写の中に、日本の閉鎖性を嘆く様子を入れ込んでいったところは、私はよいと思った(実際の龍馬がどうかは詳しく知らないが)。そしてその「日本の閉鎖性」は、冒頭で小商人(大辻伺郎)や下級武士(古谷一行)が酔っ払った傲慢な上級武士(山形勲)のだらしない剣に斬られる場面や、亀山社中に加わったまんじゅう屋(中村賀津雄)と鋳掛屋(松山英太郎)が仲間の武士たちに差別される(まんじゅう屋はそういう空気を早くから感じていて洋行を企てるのだがそれを武士たちに咎められる)という描写にも込められている辺り、監督もプロダクションも意識的に考えたものではないかと思われるが、果たして。龍馬の愛人お良に吉永小百合、明治維新の重要人物たちに仲代達矢(中岡慎太郎)、仲谷昇(武市半平太)、小林桂樹(西郷吉之助)、御木本伸介(桂小五郎)、三船敏郎(後藤象二郎)と名優を揃えていたが、意外に印象に残る芝居が少ない中、勝海舟に扮した神山繁の勝海舟っぷり≠ヘ見事だったと思う。そういえば土佐の大名火消し(と思われるが果たして)の亥之として野坂昭如が出演しているようだが、まったく気づかなかった。それと、ほんの短い出演であれ? と思ったが、藝者のひとりとして江利チエミが出演していた→牛すじ肉と白菜とこんにゃくの炒め、卵サンドイッチ、ビール中瓶×2→午前5時半就寝。
11月14日(木) 朝10時起床。白湯→鮭雑炊(ニンジン、白菜、生姜)→昨日観た映画の感想まとめ→希望ヶ丘団地のスーパーマーケット(Big-A)までぶらぶら歩いてビールと牛乳買い出し→菊水堂ポテトチップス、ソーセージ炙り、山かけそば(生卵、刻み葱)、ビールロング缶×3→『博奕打ち外伝』(原案:鳥村喬、監督:山下耕作。伊吹吾郎、汐路章、川谷拓三、金子信雄、鶴田浩二、遠藤辰雄、浜木綿子、松方弘樹、若山富三郎、高倉健、藤浩、辰巳柳太郎、東竜子、内田朝雄、松平純子、菅原文太。1972、東映)。北九州若松を舞台に、同じ会派に所属しながらいがみ合う大室一家=組長弥八(若山富三郎)、代貸し滝松蔵(松方弘樹)と江川組=組長周吉(鶴田浩二)の抗争を背景に、極道の筋の通し方とはなにかを描いた作品、と思うが果たして。宗家の浦田組組長常五郎(辰巳柳太郎)には花井栄次(高倉健)という実子(隠し子)があったが、内紛を避け極道の筋を通すために二代めに栄次を指名せず、大室弥八を指名する。その背景を知った江川周吉と弟政和(伊吹吾郎)は大室一家との争いを避けることを誓い、できる限り大室弥八の−−実のところは代貸し滝松蔵の−−嫌がらせを受け入れる。しかし事情を知らない弟の江川鉄次(菅原文太)の暴発をきっかけに(ここでも事を収めるために江川周吉は自ら指をつめる)、緊張感は極限にまで達し、ついに滝松蔵は大親分常五郎の殺害に至り、大破局へと向かう。そこに至るまでの男の生き様≠フようなものの表現は、鶴田浩二、若山富三郎、辰巳柳太郎、高倉健、菅原文太、伊吹吾郎、松方弘樹それぞれにしびれるものはあるのだが、しかし結局のところ、浦田常五郎が子分の滝松蔵に甘く道を外した行動を諌めることができなかっただけではなかろうかという感想も抱く。そう考えてしまうととたんにつまらなく思えてきてしまうのだが、果たしてこの見方は正解だろうか。江川周吉にまとわりつく馬賊藝者秀子(浜木綿子)の将棋が強い(三段)という設定は面白かったが、物語が進むにつれてその設定はまったく活かされなくなる。その設定が後半の抗争にもなんらかの影響を及ぼすような展開があればまた別の面白さが生まれたのかなとも思ったが、しかしそれでは違う物語になってしまうか。難しい→午睡→昨日より茅ヶ崎館とやり取りあり、結果、今月23〜25日の二泊三日ご厄介になることにする。大規模な改築に伴い大浴場がまだ稼働しておらず、23日の入浴は無理なようだが、まあいいか(24日は離れの部屋に移動するので室内の風呂が使える)。24日は昼〈熊澤酒造〉に集まる予定だが、調べたらひと駅手前の北茅ヶ崎駅近くに公衆浴場があるようだから、24日早出して入浴してもよい→『死美人事件』(原作:フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ『La vieillesse de Monsieur Lecoq』、翻案:黒岩涙香、監督:小石栄一。吉谷久雄、早川百合子、見明凡太郎、河津清三郎、船越英二、日高澄子、小林桂樹、瀧花久子、月形龍之介、江川宇禮雄、曉照子、日高澄子、美奈川麗子、徳川夢声。1948、大映)。フランスの大衆小説家フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ(1821〜1891)の『La vieillesse de Monsieur Lecoq』(名探偵ルコックの老後。1878)の黒岩涙香による翻案を元にした犯罪映画。ちなみにデュ・ボアゴベイは同じくフランスの大衆小説家エティエンヌ・エミール・ガボリオ(1832〜1873)の信奉者であり、ガボリオの死を悼んでガボリオ作品に登場する名探偵ルコック(コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」にも影響を与えているそうだ)の老後を描いたとのこと。さらにちなみに、黒岩涙香は日本におけるフォルチュネ・デュ・ボアゴベイとエティエンヌ・エミール・ガボリオの紹介者でもある。で、物語は膨大な遺産の相続を巡る殺人−−大きなスーツケースに詰め込まれた「死美人」が発見されるというショッキングな描写から始まる−−の謎と真犯人を、一度は引退した薬物犯罪の研究者富永佑策(月形龍之介)が、いったんは捜査への協力を断るもののその息子道彦(小林桂樹)が真犯人として逮捕されたことをきっかけに独自に捜査に乗り出し、見事解決に導き道彦を救う、というもの。物語の冒頭で「死美人」を担ぎ運んでいた唖男=i吉谷久雄)や物語の冒頭では富永に代わって警察へ捜査協力する私立探偵の奥村研一郎(江川宇禮雄)、謎の女立花澄子(美奈川麗子)といった事件関係者の造形が、事件の不気味な様子の表現によく効いていて、謎解きの緊張感を高めており、犯罪映画としてよい雰囲気に仕上がっているとは思うのだが(道彦の死刑執行ぎりぎりに事件が解決するという展開も、本来あり得ないと思われるが、映画としては見事な緊張感を演出していた)−− その一方で、唖男≠まんまと取り逃してしまう警察が間抜けだったり、富永佑策が「ミハシ」なる人物に変装して奥村研一郎の探偵事務所に乗り込むのだがふたりは旧知の仲のはずなのに気づかれなかったり、さらには「ミハシ」が東京を去ることになったので思い出作りにホテルで仮装舞踏会を開催してそこに真犯人と疑っている人物を招いたりと、失笑したり噴飯したりといった場面も多く、全体の雰囲気との落差にしばし戸惑う(そういえば江川宇禮雄がとてもいい男で悪役っぷりも見事なのに猿のような変装をするのもつい笑ってしまった)。そういう不思議なバランスや、あるいは作りもののように見えてしまうセット(「少年探偵団」っぽくもあり、後年の川崎ゆきおの漫画にもつながっていると感じた)が却って独特の雰囲気を醸し出しているところは、この時代ならではなのだろうが、そういう点も含めて愛すべき映画と思った→焼き海苔、ちりめんじゃこ、金宮酎ハイ×4、御酒×1→『ひばり捕物帖 折鶴駕篭』を途中まで観て就寝。午前3時頃。
11月15日(金) 昼頃起床。白湯→親子粥(卵、鶏ささみ、ニンジン)→昨日観た映画の感想まとめ→『ひばり捕物帖 折鶴駕篭』(原作:瀬戸口寅雄、監督:工藤栄一。美空ひばり、花房錦一、尾上鯉之助、藤田佳子、吉田義夫、時田一男、富久井一朗、須賀不二男、東千代之介、春海洋子、沢村宗之助、近衛十四郎、山形勲、里見浩太朗、北龍二、加賀邦男、中里阿津子、青木茂、雪代敬子。1960、東映)。由井正雪(本作では山形勲演ず)の「慶安の変」(1651年)への謀を、阿部伊予守(架空の人物だそうで老中≠ニいう設定のようだが詳細不明。演ずるは賀不二男)の妹ながら目明かしとして活躍するお七こと妙姫(美空ひばり)が暴き阻止、由井正雪捕縛へと導くという、冷静に考えてみれば荒唐無稽な話だが、なぜかすっと飲み込めてしまうのが不思議。その上、終幕で最終的にはお七の味方についた丸橋忠弥(近衛十四郎)が捕えられその妻お律(雪代敬子)が死んでしまうと、なんと妙姫が丸橋忠弥の子弥市(青木茂)引き取って育てることになるというから、もうなんだかわからない(シリーズ最終作なので、その後の様子は不明)。美空ひばりがちょうどよく魅力的なのと(まあ私個人の趣味として、以前も「二十歳前後の美空ひばりは最も輝いている」などと書いているが、要は『べらんめえ芸者』シリーズと同時期。もっとも1952年の『月形半平太』への感想に「役者としては一番いい時期ではないかとも思わせられる」と書いているが)、阿部伊予守の家来で妙姫のお守り役である佐々木兵馬(東千代之介)と妙姫とのツンデレ展開、そして美空ひばりの歌と人形振りとで、観ている間ただただ楽しく時間が過ぎていくという類の娯楽時代劇であった。このシリーズは一応、美空ひばりの七変化が売り物のようではあるが、本作では祭装束、十手持ち、お女中、人形振り、姫(まあこれは本来の姿か)、獅子舞などと、地味な七変化ではあった。まあでも人形振りはよかったな→風呂→フライドポテト、鰯フライ、キャベツ千切り、煮干し出汁殻唐揚げ、白菜と油揚のおつけ、ビール中瓶×1.5、金宮酎ハイ×1→夜9時いったん就寝→二時間ほどで起床→『助け人走る』→『顔を貸せ』(監督:湯浅浪男。初名美香、滝まり子、比嘉照子、比嘉照子、黒羽ナナ、高宮敬二、松岡きっこ、清水まゆみ、光映子、不動明子、荒井千津子、市川瑛子、仲子大介、小高まさる、江波志郎、稲垣隆、菅原文太、豊原路子。1966、松竹)。女性も交えたアウトローな若者たちが地べたで力強く生きる様を、当時の風俗を織り込みながら描いた映画だが、日活の『女番長 仁義破り』(1969)や『野良猫ロック』シリーズ(1970〜71)、東映の『ずべ公番長』シリーズ(1970〜71)や『女番長(スケバン)』シリーズ(1971〜1974)なども含めた他社の同種の作品と比べると、この作品ならではの特徴やパンチに欠けるという印象(不良少女を中心に置いた点では左記の各シリーズの先駆けでもあるから、その所為もあるのかもしれないなと思ったが、果たして)。「姉ちゃん」と呼ばれる留美子(初名美香)を中心とした東京の不良少女グループ5人が羽田空港でクルマを盗み大阪に向かい、その途中で掏摸の銀二郎(高宮敬二)に出会い、大阪では唖のカップル(松岡きっこ、江波志郎)が枕探しと靴磨きで金を稼ぎ、そしてまゆみ(清水まゆみ)を中心とする大阪の不良少女グループ8人と衝突しながらも仲よくなっていく過程はスピード感もあって引き込まれたし、稲垣隆扮するインチキ外人と菅原文太扮するバーテンの荒川、そして荒川の情婦朱美(豊原路子)が組んで純情そうな女をナンパしてレズビアンに仕立てるという展開も刺激的だったが、荒川による殺人が起きてから不良少女たちが乗り込んで仇討ちするくだりはやや冗長というか、前半ほどの勢いが感じられなかった。当時の大阪の町並みが映るという点も面白くはあるのだが(法善寺横丁の〈夫婦善哉〉なども映る)、繰り返し観るかというとちょいと難しい。ちなみに男の主役と言ってもよいと思う掏摸銀二郎役の高宮敬二は、新東宝で吉田輝雄・菅原文太・寺島達夫と共に「ハンサムタワーズ」として売り出された俳優。ハンサムタワーズは新東宝倒産後松竹、東映渡り歩いたとのことだが、まだ売れる前の菅原文太が重要ではあるが出番の少ない役で出演しているのもそういう経緯か。売れる前とはいえ、『現代やくざ』シリーズ(1969〜1972)や『まむしの兄弟』シリーズ(1971〜1975)、『仁義なき戦い』シリーズ(1973〜1974)での芝居と同じ水準の迫力や存在感を湛えていて、売れるというのはいろいろあるのだな、などと考えた。ちなみにベンチャーズ丸パクリのようなエレキ楽曲を書いたと思われる音楽の鈴木淳は、ちあきなおみ『雨に濡れた慕情』『四つのお願い』『X+Y=LOVE』などの作曲家と同じ人物かな?→た抜き、金宮お湯割り×3→朝方5時過ぎ就寝。
11月16日(土) 朝10時起床。白湯→裏の空き家(千葉の伊藤さんという人が現在の持ち主だそうだ)が、取り壊されるのか売られるのかわからないが、境界線確認の立会いが必要というので立会い→白菜と油揚のおつけ、親子粥(卵、鶏ささみ、ちりめんじゃこ、ニンジン)→『チロルの挽歌 前編「再会」・後編「旅立ち」』(脚本:山田太一、演出:日向敏文。杉浦直樹、大原麗子、高倉健、佐野浅夫、白島靖代、河原崎長一郎、芦川誠、西岡徳馬、金子信雄、菅井きん、岡田英次、田中義剛、吉丸晴子。1992、NHK)。無骨で無口な鉄道技師立石実郎(高倉健)に自殺寸前のところを助けられた大手ゼネコンの資材部長菊川隆彦(杉浦直樹)は、あろうことか立石の妻志津江(大原麗子)と駆け落ちし、北海道納布加野敷に逃げ落ちて、ふたりで衣料品店を営んで暮らしている。元は炭鉱として賑わっていたが今は過疎のその町に、偶然立石が、自分が務める鉄道会社が資本参加するテーマパーク事業の担当者として赴任。テーマパーク事業は市長(河原崎長一郎)の肝煎りだが近隣の牧場主(岡田英次)による反対もありなかなか進まない。そんな中で立石と菊川・志津江がついに出会ってしまい、どちらが町を去るかで話は錯綜し、立石に去られては困る市長と反対派の牧場主、そして町の世話役である商店会長(金子信雄)まで巻き込んで、事態は意外な方向に展開する。その、大人たちが意地を張りながらもがき苦しんでそれでもなんとか最善の着地点を見つけようとする展開の仕方に、今までに味わったことのないような心の揺さぶられ方を味わった。テーマパーク事業を巡る紆余曲折も含め、立場の垣根を越えようとする努力についての描写とか、立石が自分からテーマパーク事業への異動を希望した理由とか、もうとにかく、脚本も演出も役者たちの芝居も完璧で、こんな田舎町に高倉健みたいな男が来たら実際には大騒ぎだろうとか、高倉健はサングラスをかけないほうがよい(かけるとスターっぽさがますます際立ってしまう)とか、大原麗子の声が魅力的過ぎるとか、そんなケチしかつけられない。市長と牧場主の田舎の人独特のお節介や、古い世代の男ならではの意地の張り方やマチズモ的な言動を多少意地悪く描きながらも、それが事態をいい結果に動かす力にもなり(もちろんそれは、そういう男たちがいい人≠セからだが)、あるいはそれに大原麗子が反発する様もちゃんと描かれているところに、舌を巻いてしまう。どこにでもいるような中年男を演じる杉浦直樹はもちろん、無骨で誠実に生きてきただけの男(それ故妻に逃げられた)を演じる高倉健がその男の弱いところをじわじわ見せてくるところなども見事。金子信雄がもののわかったいい老人≠演じているところも見どころと思う。エピローグがちょっと都合よ過ぎる展開にも思えたが、そこを勘案しても山田太一脚本の傑作ドラマと言うしかないだろう。「なんとか最善の着地点を見つけようとする展開」の中での大原麗子のマチズモに反抗する台詞にもしびれたが、牧場主が放った「人民は逆らうことを忘れたらしまいだ。向こうも腐る、こっちも腐る」という台詞も記憶に残る。なお題名の「挽歌」とは、元々は葬送の際に棺を乗せた車を挽く人たちが歌う歌のことで、延いては人の死を悼んで作る詩歌のことだが、ここでは去り行く古い時代を悼む歌≠ニして使われていると思ったのだが、実際はどうだろうか→菊水堂ポテトチップス、たぬきそば(うずらの卵×2、ビール中瓶×1→『チロルの晩夏 後編「旅立ち」』の録画を誤操作で消してしまったので(番組前後の不要部分を消去しようとして範囲選択を間違えた)、泣く泣くパッケージソフト(DVD)を注文。手痛い出費だが、買えてよかった→晩の支度→風呂→『刑事コロンボ』見ながら、ほうれん草バタークミン炒め、ソーセージと鶏ささみのカレー煮(ニンジン、じゃがいも、玉葱、ニンニク、生姜)、トマトソテー(ちりめんじゃこ)、四つ折りオムレツ(青海苔)、きつねスパゲティ(ぶなしめじ、生姜)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→夜0時就寝。
11月17日(日) 深夜起床→『チロルの晩夏』のDVD購入、Paidyの後払いが撥ねられ憮然→その手続きは明朝にするとして、やらなきゃと思っていた銀行のワンタイムパスワードカードの更新手続きをようやく→録画消化、整理しながらビール中瓶×1→朝方6時就寝→朝10時起床。白湯→白菜と油揚のおつけ、きつねスパゲティ(ぶなしめじ、生姜)→『毛皮のヴィーナス』(原題『Le Malizie Di Venere』、原作:レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホ、監督:マッシモ・ダラマーノ。レジス・ヴァレ、マディ・ラール、ラウラ・アントネッリ、ウルフ・アクヴァ、ヴェルナー・ポッハート、レナーテ・カッシェ、ジョシル・ラケル、ローレン・ユーイング。1969、伊VIP Production、Roxy Films製作)。原作をうすくなぞった、という印象の映画ではあるが、タイトルバック(序盤の一場面の使い回しだが)も含めて劣情を催させる絵造り≠ヘよいし、なんといってもラウラ・アントネッリがワンダを演じているので好意的に観るしかない、という作品であった。笑いの要素はほぼまったくないが、エロとはうらはらの間抜けで平和な音楽はイタリア艶笑喜劇らしくてよい(とりあえず『ピンクのルージュ』の音楽担当を調べたがリズ・オルトラーニという人で、本作は違う人−−ジャン・フランコ・リヴェルベリ−−だった。他の同種の作品については調べていない)→菊水堂ポテトチップス、ソーセージと鶏ささみのカレー煮、博多マルタイラーメン半人前(うずらの卵×1)、ビール中瓶×1→『新サイコ』(原題『High Anxiety』、監督:メル・ブルックス。メル・ブルックス、パール・シェアー、ロン・キャリー、ディック・ヴァン・パテン、ハーヴェイ・コーマン、クロリス・リーチマン、ハワード・モリス、ロン・クラーク、リー・デラノ、チャールズ・カラス、バリー・レヴィンソン、マデリーン・カーン、ルディ・デ・ルカ、アルバート・ウィトロック。1977、米Crossbow Productions製作/Twentieth Century Fox配給)。何度も観ているし、いつもどおりヒッチコック作品の元ネタを意識しないでただただ笑ったが(何度観ても同じところで同じように笑ってしまうのはすごいな)、いつかどの場面がどのヒッチコック作品のどの場面に当たっているかをすべて分析したいなとは思う。今回の鑑賞では、精神病院に監禁状態≠フ疑いが浮上した富豪のブリスベイン(アルバート・ウィトロック)の娘ヴィクトリア役のマデリーン・カーンの、本来美女で魅力的な女性なのに男から見た女性の魅力≠笑いのためにすべて封印した様に、改めて感心した。それと、邦題は『新サイコ』だが本来は『新めまい』のはず(主人公は高所恐怖症だし、そもそも原題が『High Anxiety』だし)、でも『新サイコ』にしたのは英断だな、などとも考えた→ほうれん草胡麻汚し、鮭とぶなしめじのホイル焼き(ニンニク)、煎餅二枚、柿ピー、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→夜9時過ぎいったん就寝→日付変わる前に起床→『甘い汗』(原作:水木洋子、監督:豊田四郎。小沢昭一、京マチ子、木村俊恵、小沢栄太郎、池内淳子、千石規子、若宮忠三郎、沢村貞子、桑野みゆき、名古屋章、笹岡勝治、川口敦子、五代目春風亭柳朝、桜井浩子、佐田啓二、五十嵐としみ、内田透、千草恵子、金子勝美、山茶花究、市原悦子、野村昭子。1964、東宝)。水商売の世界で身体を張って、母親、兄弟とその家族、自分の娘という大人数の家族を支えてきた中年女性梅子(京マチ子)が、家族(沢村貞子、名古屋章、春風亭柳朝など)や世間や昔の男(小沢昭一、小沢栄太郎、佐田啓二など)の無理解や心ない仕打ちを受けながらも仲間(千石規子、池内淳子など)の優しさに支えられながら、しかし本人の頭の悪さや世間知らずもあってより辛い方向に少しずつ少しずつ堕ちていき、最後には娘竹子(桑野みゆき)に去られてしまうという、観終えてから考えるととても辛い物語であった。その辛い物語を、夏という季節を背景に京マチ子はじめ汗だくの登場人物たちと場末感を強調した風景でもっていかにも暑苦しく描きながらも、絵造りの美しさによって観る者を不快と快の境界線の上に立たせ続けるような作りは見事と言っていいのか何と言っていいのか、とにかく感心した。冒頭が顕著で、のちのちもおそらく意識的に用いられていたと思うが、登場人物をレース?越しに撮ったり斜め後ろから撮ったり髪の毛が乱れた状態で撮ったり、誰だかわからないように撮っていくやり方も面白い。しかしその所為もあって、何を伝えたいのかが伝わってこない箇所も多々あると感じたが、そんな中で突然桑野みゆきが水着姿で船橋ヘルスセンターのウォータースライダーような施設を滑り降りるといった爽やかな場面を挿入したりもする(その水着姿があとになって仇となり、また物語が転がる機能も果たすのだが)。そうした危ういような均衡を意識的に作り上げた点も考え合わせると、ずっしりとした手応えを感じるかなりの力作であると思う(細かい点だが、映画冒頭で梅子を囲おうとする小沢栄太郎扮する骨董屋が梅子に手渡した日傘が、その後も要所要所で使われるという配慮の細かさも見どころではあろう)。ちなみに佐田啓二は、昔の女である梅子を利用して朝鮮人の金子(山茶花究)が営む店を乗っ取り、怒って乗り込む金子を梅子が身体を張って止めているのにその梅子に向かって塩を撒く最低の男辰岡に扮しているが、映画ではこれが遺作となった(本作の撮影終了後に遭った交通事故により死去)。桑野みゆきはこの頃すでに清純派から次の段階に入っていたし、本作より前の『恋とのれん』(1961、番匠義彰監督)では少し薹の立ったきつい様子もある女性の役を見事にこなしていたが、本作では溌剌とした、しかし自立心に富んで大人になりつつある高校生を見事に演じている→鶏ささみニンニク醤油漬け、金宮酎ハイ×2、御酒×1→午前4時就寝。
11月18日(月) 朝8時半起床。白湯→白菜と油揚のおつけ、ご飯、梅干し、ちりめんじゃこ、海苔→昨日観た映画の感想まとめなど→山かけそば(生卵、刻み葱)→『若い樹々』(原作:壷井栄、監督:原田治夫。市川好郎、姿美千子、高野通子、青山ミチ、村田知栄子、瀧花久子、町田博子、須藤恒子、倉石功、八潮悠子、三田村元、渚まゆみ、穂高のり子、岸正子、平井岐代子、三角八郎、小山内淳、宮島健一、本郷功次郎、堀川真智子、森矢雄二、竹村洋介。1963、大映)。一年半ほど前(2023年4月)に観たことがあるのをすっかり忘れていたが、観ているうちに思い出したので調べてみたら、前に観た際は「駄作、失敗作という印象を得た」と切り捨てていた。が、主人公立花理々子(姿美千子)と恋仲で理々子の田舎を一緒に訪れた、ふた親ともおらず東京に出てきてクリーニング屋で働く橘悟(倉石功)が、終幕で「俺、根っこの会に入ろうと思う」と漏らすわけで、そういう境遇の人たちに向けて世間は冷たくても、若い人たちを心配して厳しくしている面もあるから希望を捨てるな≠ニいうメッセージを発していると思うと、そういう人たちがどう受け止めるかを真剣に考えないと滅多なことは言えない、という映画と捉えるのが正しかろうと、今回は思った。と思ったが、私はそういう苦労をしていないので、本作についてはやはり軽率なことは言えない。前回観た際に軽率に記した感想を、反省の意味で引いておくことにする。「家庭の経済事情で高校に上がれず、それでも東京に出て働けば夜間高校に行けるのではと期待を胸に状況し、女中の口にありつくも奉公先はことごとく田舎の貧乏人に差別的で旧弊で冷ややかで不親切。という状況の中から若者たちが自分の生き方を見つけて歩み出すという点で明朗篇≠ニいう評価も目にしたが、主人公の立花理々子(姿美千子)がひたすら素直で明るいのと比較すると、奉公先の奥さん、ご隠居、令嬢ら(妾腹の末っ子、蘭子=渚まゆみは除く)の態度のひどさが際立ち過ぎていて、明朗篇≠ニは呼びにくいし、観ていて不快でもある(理々子の友人千鶴子=高野通子が社長令息に騙されるくだりも救いがなさ過ぎる)。そういう描写が続く中で、彼女らの学校の先生(本郷功次郎)が「周囲の大人たちも君たちを心配して厳しくしている面もある。そういう面に気づかないのは、君たちが未熟だからだ」といったような説教を垂れ、それは正論の一面もあるけれども、この映画で出てくる大人たちに関していえばまったく当たっていないし大人たちの弁護にも若者へのエールにもなってないなと思った。よって、終幕(わざわざ蘭子が東京から田舎にやってくる)で救いが訪れ若者たちが未来に向かって歩き出すというのは、なんだかとても取ってつけたように思わせられた。『警察日記 ブタ箱は満員』と共通するテーマがあるという点では本作のほうがまだましだが、やはり駄作、失敗作という印象を得た」→風呂→『チロルの挽歌』(DVDが届いた)観ながら、煮干し出汁殻唐揚げ、ポテトサラダ(ニンジン)、納豆オムレツ、柿ピー、玉葱のアチャール、木の屋さんま醤油味付け缶詰、玉葱と油揚のおつけ、吉祥寺piwang監修ど海老カレー、ご飯、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×6→夜11時就寝。
11月19日(火) 朝8時起床。白湯→玉葱と油揚のおつけ、卵かけご飯、海苔→食後眠くなり、昼過ぎまで二度寝。しかし目覚めてもすっきりせず→納豆そば(うずらの卵×2、刻み葱)→風呂→夕方高円寺へ。〈ちんとんしゃん〉にてTV番組の取材のさくら(某女優の酒場探訪番組)。特に緊張するということはなかったが(入店時にちょいと驚いたような小芝居はした)、冗談やバカ話をどこまでしたらいいのかには気を遣った。あと撮影スタッフは仕事なので当然みな真剣な表情で、それがさくらとはいえただの酔客としては妙なる居心地だったかな→取材終わると本日の番組のTV局勤務のご常連(この番組に関わってはいない)がいらしたので、ようやくバカ話。なんだかずいぶん飲んでしまった→タクシーで帰宅。赤堤通り沿いで降りて、〈すき家〉で夜食など購入→牛皿、牛丼、ビール中瓶×1→午前2時頃就寝。
11月20日(水) 宿酔で終日横臥(本日の予定二件は明日と明後日に日延してもらった)。夜中に気分が悪くなり起きて、寝しなに食べた牛丼を吐いてしまった。バカだ→午前中玉葱と油揚のおつけ、牛丼の残り。午後博多マルタイラーメン1/2(うずらの卵×2、ニンニク、刻み海苔)。夜犬飯(玉葱と油揚のおつけ、生卵)。その後きつねうどん(長芋とろろ)→『待っていた極道』(監督:山下耕作。山城新伍、若山富三郎、清川虹子、志賀勝、潮健児、弓恵子、金子信雄、内田朝雄、江幡高志、遠藤辰雄、大木実、藤岡重慶、笠置シヅ子、小松方正、橘ますみ、渡辺文雄、山岡徹也、沢彰謙、関山耕司。1969、東映)。若山富三郎『極道』シリーズの第四作。釜ヶ崎に労働者専用のアパートを建てるという公約を掲げた代議士真弓田大作(金子信雄)の選挙応援をした島村清吉(若山富三郎)が、一向に果たされない公約に業を煮やして東京に乗り込んでひと騒動、という話だが、本作ではかなり意図的に笑い≠盛り込もうとした印象。ただし大筋の物語の中に単発的な笑いを散りばめた、という感じで、全体として笑いが血肉になっているような感じは受け取れなかった。真弓田の秘書白木弘美(弓恵子)がある種のマドンナ的存在として登場し島村清吉が鼻の下を伸ばすが、それも清吉の妻みね子(清川虹子)がとつぜん上京してきた際に清吉があたふたする、というくだりのための存在でしかないようなのもいささか残念だし(もちろん真弓田の不実を暴いたりはするわけだが)、そもそも話の発端となった釜ヶ崎の労働者専用アパートも、結局は真弓田が死んでしまうので実現しないはずだが、島村清吉とその子分ジョージ(山城新伍)、山谷で労働者たちの世話をする東京のヤクザ小堀武男(大木実)らは、真弓田やその仲間の東京ヤクザ天野正次郎(内田朝雄)らを壊滅させたあと香港に逃げる≠ニいう設定だったから、映画冒頭で釜ヶ崎の労働者たちがそのことで大騒ぎしているという描写があるのに有耶無耶のまま終わってしまう。という物語全体の整合性を考えるとあまりよく練らずに勢いで撮った≠ニいう印象が残るが、しかし観る側がその「勢い」に乗ってしまえば楽しい時間を過ごすことができる、という映画かなと思ったが、果たして。おそらく映画館の暗闇で観てこその映画なのだろう→映画一本観た以外は結局終日なにもせず(即席ラーメンは作ったが)。午前2時過ぎ就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記