2024年12月20日

12月まとめ(11〜20日)


邦枝完二/佐々木康/中村錦之助/千原しのぶ『悲恋おかる勘平』、川口松太郎/萩原遼/大川橋蔵/大川恵子『緋ぼたん肌』、古今亭菊之丞独演会 於高円寺〈ちんとんしゃん〉、ザ・ニュースペーパー12月公演 於銀座8丁目〈博品館劇場〉、住吉山声/萩原遼(佐々木康)/片岡千恵蔵『赤穂城』『續赤穂城』『女間者秘聞 赤穂浪士』、「昭和歌謡DJナイト」 於経堂〈さばのゆ〉、ハワード・ジーフ/ゴールディ・ホーン『プライベート・ベンジャミン』、カトリーヌ・アルレー/ベイジル・ディアデン/ショーン・コネリー/ジーナ・ロロブリジーダ『わらの女』。

12月11日(水) 朝8時起床。白湯→ぶなしめじと油揚のおつけ、卵かけご飯(かつ節)→老父買い物代行(サミット)→ひさしぶりに揚げ玉いただこうと、松葉茶屋にて昼(天かけ)→灯油購入し帰宅→B電子よりひさびさにCD仕事の依頼をいただき、要確認事項の連絡業務など→『The W』の録画編集→『笑点特大号』見ながら、煎餅、ぶなしめじと油揚げのおつけ(揚げ玉、うずらの卵×2)、金宮お湯割り×3→午睡→牡蠣ホワイトシチュー(白菜、玉葱、ニンジン、椎茸)、バゲット、金宮酎ハイ×4→夜10時就寝。
12月12日(木) 午前1時半起床。白湯→『悲恋おかる勘平』(原作:邦枝完二、監督:佐々木康。原健策、喜多川千鶴、千原しのぶ、中村錦之助、高木二朗、毛利菊枝、横山運平、片岡栄二郎、吉田義夫、中村時蔵、加賀邦男。1956、東映)。『仮名手本忠臣蔵』の五段目と六段目をうんと簡略化したという趣。冒頭の、阿久里(のちの瑶泉院)(喜多川千鶴)が手元に届いたばかりの赤穂明神のお札を江戸城にいる夫浅野内匠頭に届けるようお軽(千原しのぶ )託し、江戸城に着いたところで早野勘平(中村錦之助)に出会い恋を語らう、というくだりは、本作で用意した挿話だそうだが(詳しくは知らない)、そこで松の廊下の刃傷沙汰が起き(浅野家家来の台詞だけで話は進む)、そんな大事な時に鼻の下を伸ばしていた廉で勘平は咎められ、お手打ちになるところを阿久里に助けられ主家追放となる。そこからは、山崎街道で図らずも与市兵衛、定九郎、勘平と金が巡り、真実を知らない勘平が浅野家残党に金を寄付ししかし誤解によって大石内蔵助(中村時蔵)から金を突き返されるも腹を切って死ぬ直前に誤解が解け連判状に血判を捺し、お軽は身を売られたが偶々大石に事情を話したことで瑶泉院の侍女となり、そこで夫勘平の名が連判状にある−−すなわち四十七士のひとりであることが判明する終幕までの流れは、まあお馴染み(歌舞伎ではお軽の行末が不明瞭なので、瑶泉院の侍女となったのはやはり本作独自なのかもしれないが)。改めて映画にした大きな意義は何かと考えるとよくわからないが、観ていて世間知らずの権力者の短慮が、そのお家や家来ばかりでなく、直接は関係のない市井の人々(たとえばお軽の老親や早々に藩を離脱した定九郎など)ののちのちの生活にまで影響する≠ニいうことが頭に浮かんだ。『忠臣蔵』の主要テーマではないかもしれないが、案外脇のテーマとしては重要かもしれない。あと本作では、槍の名手であるとともにちょっとした運のなさから道を外れてしまったいじけっぷりも見事な勘平=中村錦之助と、そんな勘平を支えるおかる=千原しのぶを魅力的に撮っているのは言うまでもないが(スターだから仕方ないが、中村錦之助の白塗りメイクは今の眼で見ると違和感はある)、お軽の老母おかやを演じた毛利菊枝の芝居がとても印象に残った→ちりめんじゃことうずらの卵、御酒×2→朝方5時就寝→朝9時半起床。白湯→牡蠣ホワイトシチュー(白菜、玉葱、ニンジン、椎茸)、バゲット→『緋ぼたん肌』(原作:川口松太郎、監督:萩原遼。月形哲之介、大河内傳次郎、片岡栄二郎、有馬宏治、水野浩、櫻町弘子、松浦築枝、大川橋蔵、大川恵子、霧島八千代、楠本健二、堀正夫、星十郎、山本順太、阿部九洲男、中野雅晴、荒木忍。1957、東映)。旗本大草家の次男徹之助(片岡栄二郎)は、将軍家台覧の試合で相手の戸田平吾(月形哲之介)を辛くも破り、美人の誉高い三谷家のひとり娘千種(櫻町弘子)との将来も約束され、さらには父主膳(大河内傳次郎)からなんでも欲しいものを申してみよという言葉を受けて藝者に産ませた故侘住まいに別居中の腹違いの兄源次郎(大川橋蔵)を家に戻して欲しいと申し出て、それも受け入れられる。で、めでたく源次郎が家に戻り、幸福な日々が続きそうに思われたのだが、くだんの勝負の結果を潔く認めることができない戸田平吾が酔って徹之助に斬りかかり、一緒にいた源次郎が返り討ちにしたところから話が転がり始める。源次郎は家に類が及んではいけないと身を隠し、旅の途中で拾った土地のやくざ吉六(堀正夫)の娘おきん(霧島八千代)とお梅(大川恵子)を助けるために草鞋を脱ぎ、横車を押す新興やくざの橋場の長五郎(阿部九洲男)と対峙する。その過程で自分は侍には戻らないと決意し、その証に背中一面に緋ぼたんを彫るのだが、その彫り物が本作の題名の由来。とにかく源次郎は町場のやくざ同士の争いを収めようとし、一方弟徹之助は日光東照宮の修理奉行を命じられるも戸田一派の妨害に会い…… という兄弟対照の構図で話が進むが、戸田一派が橋場の長五郎に助太刀を頼んだところから、ふたつの対立が重なり合っていく、という物語の構成とその塩梅がよかった。それと、まあ当然のように源次郎を真ん中にしたおきんとお梅の恋の鞘当てが展開するのだが、両名の源次郎への思慕の表現が荒事≠ェ展開する一方でなかなか効いていて、子持ちのおきんが源次郎おじちゃんがお父ちゃんになるといいなあという息子伊太郎(山本順太)に「おじちゃんはね、ぼんの父ちゃんにはならないほうがあの人には幸せだと母ちゃんは思うの。お梅ちゃんの幸せのためにも」とつぶやく場面はなかなか泣かせられる。そして終盤は、吉六の家に橋場一派が攻め入るも駆けつけた源次郎がこれを一蹴。その過程でおきんは殺されてしまうが、同時に日光から江戸に戻りつつある徹之助一行にも戸田一派が襲いかかり、それを土地の親分花川戸の仁三郎(荒木忍)から聞いた源次郎は吉六の家の後始末を仁三郎にまかせてまたもや駆けつけ、徹之助そして父主膳とともに、見事戸田一派を斬り倒す。そこで前述の「緋ぼたん肌」を見せるのだが、肌を見せるやその場を(そして大草家から)走って去ってゆく源次郎の去り際が見事。で、源次郎が旅に出ようとするところで仁三郎に連れられた伊太郎、お梅と再会、三人で道行きとなって終わるという、この手の映画としては完璧といってもいい終幕。ちょい役ではあるが仁三郎に扮した荒木忍のいかにも頼り甲斐のある様子や、弟徹之助に扮した片岡栄二郎のいい奴っぷりもいい塩梅に(観ていていい気持ちになるように)効いていて、なかなかの名作と思った→むじな南蛮玉そば、御酒×1→風呂→夕方高円寺に出て(中野からぶらぶら歩いた)、〈ちんとんしゃん〉にて古今亭菊之丞独演会鑑賞。「死神」と「文七元結」。「文七元結」が、大袈裟な演出や派手な芝居などないのに歌舞伎を見たような奥行きや手応えが感じられて、大満足であった→打ち上げ(懇親会)もこの辺でやめておこうからもう一杯、いや二杯と盃を重ねて、とても楽しく過ごした。いい夜だった(チリビーンズ、糸昆布とちくわの煮物、青菜煮物、おむすびなど、ビール中瓶×1、御酒×5)→平和に電車で帰宅。駅からタクシー→どん兵衛鬼かき揚げ啜って(揚げ玉、うずらの卵×1追加)から就寝。午前2時頃。
12月13日(金) 朝7時半起床→風呂→牡蠣ホワイトシチュー(白菜、玉葱、ニンジン、椎茸)、バゲット、バター→昼前日比谷に出てから銀座までぶらぶら歩き、〈泰明庵〉にてせりかしわそば、御酒×1→〈博品館〉にて、O形がM岸家の赤子へのお年玉(ぬいぐるみ)を購入→30分ほど時間余ったので散歩。特に収穫なし→開場時間になったので〈博品館劇場〉へ。席でしばし居眠り→ザ・ニュースペーパー12月公演見物。岸田文雄、石破茂などの政治家や皇室の面々などをぬるく風刺する、相変わらずのそのぬるさの塩梅とか、ひとりだけ無駄に熱い浜田太一の可笑しさなどを堪能したが、安倍晋三に関してだけより一層ぬるくて切先が鈍いような感じがするのが気になった→今回もお誘いくだすったYさんご一行と〈ライオン〉の二階で一杯。枝豆、ソーセージ盛り合わせ、ポプコーンシュリンプ、オニオンリング、ごぼうフライ、ミックスピザ、ビール中ジョッキ×1、御酒、白葡萄種、レモンハイなど→〈博品館〉でO形姪っ子の子供へのお年玉として絵本『ロッタちゃんの引っ越し』に出てくるバムセ(豚のキャラクター)のぬいぐるみを買ったので、絵本のほうも買いに〈教文館〉へ→そこから四谷三丁目に移動し、時間つぶしに〈新記で〉一杯。レタスオイスターソース、ピータン豆腐、豚耳。ビール中瓶×1.5→〈dress〉に移動しシュトーレン受け取り。ついでにラムお湯割り×2、151ストレート×2→平和に電車で帰宅。駅からタクシー→どん兵衛鬼かき揚げ啜ってから就寝。夜11時就寝。
12月14日(土) 宿酔というか疲れというかで午前中横臥→昼過ぎ木村屋あんぱん(けし、こしあん)、珈琲→録画消化→山かけそば(ちりめんじゃこ、刻み葱、生卵、揚げ玉)→風呂→ハム、ソーセージソテー(ニンニク)、トマト、椎茸白菜ちりめんじゃこのスパゲティ(生姜、山椒七味)、ピールロング缶×1、赤葡萄酒半分→夜11時就寝。
12月15日(日) 朝10時半起床。白湯→椎茸白菜ちりめんじゃこのスパゲティ(生姜、山椒七味)→O形作詞の「きみはじゃまっけ」をサビ前まで譜面化→『赤穂城』(原作:住吉山声、監督:萩原遼。片岡千恵蔵、四代目澤村國太郎、尾上菊太郎、山口勇、島田伸、小堀明男、山田五十鈴、加賀邦男、沢村アキオ、木暮実千代、御園裕子、清川荘司、薄田研二、月形龍之介、原健策、中野市女蔵、寺島雄作、河津清三郎、市川男女之助、富本民平、石黒達也、浅野光男。1952、東映)。第二次世界大戦での敗戦後、日本では仇討ちや復讐劇がGHQによって禁止されていたが(厳密に言うとGHQの方針に自主的に従った自粛、か?)、本作が戦後初の(外伝や義士銘銘伝ではない)本流本格の忠臣蔵≠セそうだ。三部構成で、第一部に当たる本作は浅野内匠頭長矩(片岡千恵蔵)の勅使院使の接待役拝命から、吉良上野介(薄田研二)による無視と嫌がらせ、松の廊下の刃傷沙汰、内匠頭切腹まで。そして赤穂城にて大石内蔵助(片岡千恵蔵の二役)が藩や仇討ちなどの前途を考えている(と思われる)ところで幕。全体的によく知られた忠臣蔵≠フ話を名優たちが再現、という趣で、日本人のいじめ志向≠意識的に描いているようなところも印象に残るが、片岡千恵蔵が浅野内匠頭と大石内蔵助の二役を演じるのが、無駄にややこしくて謎と言えば謎(まあ当時の大スターだから、片岡千恵蔵の二役で客を呼ぼうという程度の発想かもしれないが)。本作の白眉は薄田研二がものすごくいやあな吉良上野介像を演じ切っているところと思ったが、続く『續赤穂城』『女間者秘聞赤穂浪士』ではどのような芝居を見せてくれるのか、楽しみだ。なお本作で大石主税に扮した沢村アキオは後の長門裕之、そして一場面にちょいとしか登場しないが、主税の弟吉千代をのちに津川雅彦となる沢村マサヒコが演じている。音楽は深井史郎という人が担当しており、演奏は中沢壽士シンフォニックジャズオーケストラとのことで、まったく存じ上げない方々だが、派手さはないがしみじみいいなあと思わせられる響きも少なくなかった→菊水堂ポテトチップス、煮干し、鶏ささみ山かけそば(うずらの卵×2、刻み海苔)、ビール中瓶×1→風呂→トマトピーマンちりめんじゃこのサラダ、白菜とソーセージの炒め、ハム、玉葱と油揚のおつけ、ピール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→夜9時頃就寝→日付け変わる前に起床→『續赤穂城』(原作:住吉山声、監督:萩原遼。片岡千恵蔵、高松錦之助、加賀邦男、上代悠司、木暮実千代、小堀誠、田島義文、清川荘司、大友柳太朗、小堀明男、植村進、波路はるか、殿山泰司、御園裕子、富本民平、沢村アキオ、河津清三郎、月形龍之介、河部五郎、寺島貢、山田五十鈴、沢村正彦。1952、東映)。『赤穂城』の第二部で、舞台は主に赤穂城内と赤穂藩内。城明け渡しに臨んで、籠城を主張する者、早期に吉良を討つべしと主張する者、逃げ去る者と藩内の意向が分裂する中、大石内蔵助(片岡千恵蔵)がなんとかみなの気持ちをまとめていこうとする努力とその結果が描かれる。感情に任せて発言したり行動したりする藩士たちの様子は、前作での日本人のいじめ志向≠ニ同様に日本人の特徴を意識的に描いているのではなかろうかと思ったが、果たして。時間が経ちことの次第が明らかになっていく中で、問題は幕府対浅野家≠ナはなくもっと大きな(武家社会の構造的な)問題であることが見えてくるはずで、大石にはそれが見えているのだろうなと思ったが、藩士たちは相も変わらず目先の問題に囚われている、と思えるような描き方も見て取れるので、「日本人の特徴を意識的に描いている」という見方もあながち間違いではないと思うのだが。大友柳太朗扮する不破数右衛門が底抜けにいい人物なのにやはり目先の動向に囚われそこから先を見ることができない様子などに、複雑な感情を覚えざるを得なかった(その一方で河津清三郎扮する堀部安兵衛が大石の言うことを理解し考えを変える流れなどに救いも見えるのではあるが)。深い意図(があるのかも含めて)はよくわからなかったが、大石が二度「耐え難きを耐え、忍んでおられた(あるいは「忍び難きを忍び」)」と言うのは、やはり忠臣蔵≠フ話から読み取れる諸々を戦争の記憶(戦争から考えるべき日本人の特徴の記憶)に結びつけたいとする意図があるとも思ったが、穿ち過ぎか。殿山泰司が、不破数右衛門を慕いまた助ける居酒屋の親父として登場し、そこはそこで重苦しい空気がふっと和らぐ効果があるのだなとは思ったが、なんとなくではあるが、作品全体の中でうまく馴染んでいないような印象もあった→ハム、かつ節と昆布出汁殻、ビール中瓶×1、御酒×1→午前3時過ぎ就寝。
12月16日(月) 朝9時起床。白湯→玉葱と油揚のおつけ、ご飯、ちりめんじゃこ、かつ節と昆布出汁殻(胡麻油炒め、生姜)→「きみはじゃまっけ」、サビをなんとかひねり出し、アウトロまで完了。曲の構成はほとんど考えず、Aメロと同じ進行をイントロ/アウトロにくっつけただけだが、歌詞の感じからするとこれくらいシンプルなほうがよいようにも思う→『女間者秘聞 赤穂浪士』(原作:住吉山声/山上伊太郎、監督:佐々木康。片岡千恵蔵、瑳峨三智子、月形龍之介、三島雅夫、沢村アキオ、金沢ヨシヒロ、木暮実千代、花沢徳衛、阿井美千子、四代目澤村國太郎、加賀邦男、原保美、薄田研二、原健作、高松錦之助、大友柳太朗、徳大寺伸、河部五郎、朝雲照代、千原しのぶ、早川雪洲、山田五十鈴、松浦築枝、杉狂児、時田一男。1953、東映)。三部作の完結編。浅野内匠頭の弟浅野大学を藩主に立てたお家再興が、松の廊下の刃傷沙汰に関する自身の判断に背くという徳川綱吉(徳大寺伸)の手前勝手な判断からとうとう潰え、大石内蔵助(片岡千恵蔵)が討ち入りを決意し実行に至るまでの話になるが、その過程で浅野家の重臣で同志のひとり片岡源五右衛門(月形龍之介)の娘あや(瑳峨三智子)を吉良邸へ間者として送り込む、というのが、本作の眼目(戦前のマキノ雅弘『間者』では原惣右衛門の娘お千賀だったものを、本作では片岡源五右衛門の娘に置き換えたそうだ)。そのあやと間十次郎(原保美)との切ない恋物語も本作の重要な要素なのだろうが、意外にあっさりと描かれ、吉良邸討ち入りの際にあやが(その直前に辱めを受けてののち)殺されてしまうところも、ほとんど重くは描かれない。瑳峨三智子の内面も含めた美しさは印象に残るのだが、日本人の(よくない)特徴を表現しようともしたように受け止めることもできる前二作と比べると、ご存じ討ち入りの話の表面をなぞった、という印象のほうが強かったように思う(日本人に対する批判的な見方がまったくないわけではないのだが)。その点少し残念だったのと、あと例の立花左近≠フ場面(これもマキノ雅弘の創作だが)で本物の立花左近(早川雪洲)が登場してから歌舞伎の(歌舞伎調の?)長唄が流れるのだが、この場面も本作の売り物だろうに、なんだかパッとしなかったという印象だったのも残念。千原しのぶはまだちょい役だが、あやを救うために滔々と松原多仲(原健策)の非を謗るところはなかなかよかった→菊水堂ポテトチップス、月見南蛮そば(椎茸、揚げ玉)、ピール中瓶×1→風呂→夜、〈さばのゆ〉にて某SS師匠の選曲とおしゃべりによる「昭和歌謡DJナイト」にお邪魔。村下孝蔵やチューリップなどのフォークやバンド音楽もかかるあたり「昭和歌謡」という範囲からのイメージとはやや異なっていたし、またおしゃべり≠烽ルんとうにその場の思いつきを普通の音楽好きの人が普通に喋っているだけという趣だったが、その感じが却ってよくて楽しんだ。鶏手羽元ロースト、ビール中瓶×3→なおさんとSS師匠にご挨拶しておいとま→帰宅してカップ焼きそば、ビール中瓶×1→日付変わる前に就寝。
12月17日(火) 朝9時半起床。白湯→O形が喉が痛いというので、本日の〈むらさきmusicラボ〉はお休みさせていただく。二ヶ月続けて申し訳ない(先月は私のみ休み)→玉葱と油揚のおつけ、ご飯、梅干し、海苔→千歳船橋駅前まで出て、〈秀〉〈土井商店〉〈大橋豆腐店〉にて買い物→『プライベート・ベンジャミン』(原題『Private Benjamin』、監督:ハワード・ジーフ。ゴールディ・ホーン、アルバート・ブルックス、アラン・オッペンハイマー、サム・ワナメイカー、バーバラ・バリー、ハリー・ディーン・スタントン、ハル・ウィリアムズ、P・J・ソールズ、アイリーン・ブレナン、メアリー・ケイ・プレイス、トニ・カレム、クレイグ・T・ネルソン、ロバート・ウェッバー、オールストン・アハーン、ダミタ・ジョー・フリーマン、キーオン・ヤング、アーマンド・アサンテ、ミミ・メイナード、デニース・アルマ。1980、米Warner Bros.)。結婚式当日の新婚初夜に夫(アルバート・ブルックス)の腹上死に見舞われたジュディ・ベンジャミン(ゴールディ・ホーン)は、裕福な家庭に育ち苦労をしたこともない女性で、夫の死のショックのあまりラジオ番組への電話参加で知り合った陸軍の新兵募集係(ハリー・ディーン・スタントン)の説明を鵜呑みにして陸軍に入隊してしまう。そこで直属の上官ドリーン・ルイス(アイリーン・ブレナン)のしごきやソーンブッシュ大佐(ロバート・ウェッバー)の引き立て、そして新兵仲間たち(メアリー・ケイ・プレイス、トニ・カレム、ダミタ・ジョー・フリーマン、オールストン・アハーン)との友情によってひとりの人間≠ニして成長する。たまの休暇にニュー・オリンズを訪ねたおり、偶々再会した友人リズ(ミミ・メイナード)の紹介でフランス人医師アンリ(アーマンド・アサンテ)と出会い相思相愛の仲となり結婚に至るも、アンリの(フランス人男らしい?)不実さに愛想を尽かして、ジュディが我が道をゆく≠ニころで終幕。軍隊を通じた人格形成という設定には複雑な思いも生じるが、主人公が「ひとりの人間≠ニして成長」していく様は、ゴールディ・ホーンの魅力もあり、いい塩梅に清々しくまた美しいと思った。題名は直訳すれば「ベンジャミン二等兵」といった意味だろうが、これを「ジュディ二等兵(Private Judy)」としなかったところは慧眼か(「private」に「私的な」「自分だけがわかる」といった意味が含まれているかどうかは未だ考察中)。各登場人物の人物造形、これまたいい塩梅の笑い、音楽、場ごとの空気感などなど、映画的な魅力もたっぷりと味わえた。なおプロデュース(制作総指揮)はゴールディ・ホーン→煮干し、山かけそば(刻み葱、生卵)、ビール中瓶×1、御酒×1→風呂→晩の支度→録画消化しながら(助け人走る)、長芋千切り(刻み海苔、醤油、胡麻油)、大根はりはり(酢、針生姜)、大根銀杏切り湯豆腐(油揚、葱斜め筒、生姜)、なめこ汁(青葱)、ご飯半膳、長芋とろろ(刻み海苔)、ビール中瓶×1、御酒×3→夜10時就寝。
12月18日(水) 朝7時起床。白湯→なめこ汁(青葱)、汁かけ飯(湯豆腐、ニンジンとニンニク)→老父買い物代行(サミット)および買い物付き添い(サンドラッグ、オリンピック。足の親指が靴内部に当たって靴擦れが治らないというので、指用の絆創膏と踵が固定できつま先が開いているサンダルなどを購入)と昼食(はま寿司にて、まぐろ、大葉漬けアカイカ、活〆ぶり、活〆まだい、真あじ、あさりみそ汁)→希望ヶ丘の〈サミット〉で買い物して帰宅。レシート取り忘れて憮然とするも、昨日の残金との差額で今日使ったのがいくらだったか易々と判明→賄い当番→『わらの女』(原題『Woman of Straw』、原作:カトリーヌ・アルレー、監督:ベイジル・ディアデン。ラルフ・リチャードソン、ジョニー・セッカ、ショーン・コネリー、ダニー・ダニエルス、ローレンス・ハーディ、ジーナ・ロロブリジーダ、ピーター・マッデン、アレクサンダー・ノックス、マイケル・グッドリフ。1964、英Relph-Dearden Productions製作/United Artists配給)。裕福で横暴なチャールズ・リッチモンド(ラルフ・リチャードソン)と、母親をチャールズに奪われたが養子として従順にチャールズの秘書を務める甥の青年アンソニー(ショーン・コネリー)の元に、新たなチャールズ付きの看護婦マリア(ジーナ・ロロブリジーダ)がやってくる。アンソニーはチャールズの遺言により全財産(5000万ポンド)のうち2万ポンドしか受け取れないことになっているのだが、アンソニーはチャールズのマリアへの好意を見抜き、マリアがチャールズと結婚できるように計らうことで自分の取り分を100万ポンドにまで増やそうと画策する−− という設定だが、ジーナ・ロロブリジーダ扮するマリアの権力者を権力者とも思わない気丈さと、そしてなにより(看護婦の制服を脱いだときの)妖艶さによって、奸計の首謀者はマリアのほうなのではないか、と勝手に物語を頭の中で変換して観てしまった。むろんすぐにそれが間違いであることに気づくわけだが、それだけジーナ・ロロブリジーダの魅力炸裂、という映画であった(ちなみに、年齢のことを言うのは不適切かもしれないが、ジーナ・ロロブリジーダはこのとき37歳。「an international sex symbol」と称されていた時期に当たるのか)。裕福だが孤独なチャールズが次第にマリアに惹かれていく様や、それを受け止めきれない(主にチャールズの横暴さによる)マリアの様子(実は普通の弱い女という描き方)、チャールズがマリアに抱いた好意によって人間としての何かを取り戻してはいくもののなお残酷な人間性も捨てきれない様子(主に黒人使用人のトーマス=ジョニー・セッカとフェントン=ダニー・ダニエルスの兄弟に、その残虐性は発揮される)の描き方は真に迫っているし、冒頭でチャールズが飼い犬に噛まれる場面は人望のなさ≠表していて、終幕ではマリアが犬たちに慕われているという対比も面白かった。物語の展開としては、マリアがめでたくリチャードと結婚し全財産を相続するべく遺言書が書き換えられ、アンソニーの計画は成就すると思われたのだが、しかしチャールズの急死によってマリアは窮地に陥る。しかししかし実は−− という二段構えのどんでん返しも面白くはあったが、畳み掛けるには勢いが足らず、ただ結末を急いだ、という取って付けたような印象になったのが、いささか残念ではあったかな。そこに至る伏線はちゃんと張ってあったので、何か間とかスピード感とか緩急とか、そんなような些細なことがそういう印象を得た要因なのかもしれない→菊水堂ポテトチップス、ニンジンとニンニクの煮物、湯豆腐、青葱しらすぼし入り炒り卵、煮干し、酢昆布、鶏大根ニンジン白菜のカレーライス(小皿)、ビール中瓶×2、御酒×3→シュトーレン三切れと牛乳→夜8時就寝。
12月19日(木) 日付変わってすぐ起床。お茶→風呂→NHKで放映された『テレサ・テン in NHKホール リマスター版』を鑑賞。素晴らしい→続けて『バトルヒーター』(原作:睦月三日生/島川AZ、監督:川島透/飯田譲治。柄本明、パッパラー河合、サンプラザ中野、今福将雄、室井滋、小宮孝泰、原ひさ子、小倉久寛、NEWファンキー末吉、バーベQ和佐田、岸谷五朗、石井恒一、奥貫薫、富田靖子、三宅裕司、嘉門達夫。1989、アミューズ、CBS・ソニーグループ、松竹富士製作/松竹富士配給)。人喰いコタツが古アパートの住人や来訪者を次々に襲うホラー・コメディ、ではあるが、原作が小説とのこと。小説の文章から読者それぞれが思い浮かべる映像をそのまま大事にしたほうがよかったな、と思ってしまう映画だった。特にコタツのヒーター部分が人を喰う口になっているのだが、そのデザインの発想が貧弱で、それだけで映画化した意味を疑問に思う。当時売り出し中(いやもう売れていたか)の爆風スランプからギターのパッパラー河合が主役に抜擢され、その芝居が意外にきちんと物語にハマっていたのと、古アパートのセットがかなりきちんと作り込まれていたのと、やはり当時人気上昇中だったりTVの人気者だったりした面々(柄本明や室井滋を筆頭に、劇団スーパー・エキセントリック・シアター関連から岸谷五朗、三宅裕司、小倉久寛、コント赤信号から小宮孝泰、劇団東京ヴォードヴィルショーから石井恒一など)が脇を固めているのと、この三点によってまったく見られない″品ではなかったが、老夫婦(今福将雄、原ひさ子)の心中、夫を殺害した妻とその愛人(小倉久寛、室井滋、小宮孝泰)の顛末など物語の中での位置付けや意味合いが不明な点があったり、地図を誤ってコピーしたことでピアノコンサート≠ノ人が集まっていない様子がまったく描かれていなかったり、手落ちとも思える点も少なくなかった。ヒロインであるはずの奥貫薫がまったく輝いていなかったり、富田靖子起用の意味もよくわからなかったりで、総合的に、もう一度(あるいは繰り返し)観る意味はないなという判断に至った作品であった→鶏大根ニンジン白菜のカレー、ビール中瓶×2、金宮お湯割り×1→朝方6時就寝→朝10時半起床。白湯→なめこ汁、鶏大根ニンジン白菜のカレーライス(バターライス)→『バトルヒーター』復習→「高柳ギター16」第一稿作成し送付→『笛吹若武者』(原作:北条秀司、監督:佐々木康。美空ひばり、月丘千秋、大川橋蔵、宇佐美諄、明石潮、山茶花究、矢奈木邦二郎、堀正夫、星美智子、大友柳太朗、鳳衣子。1955、東映)。『平家物語』の「一ノ谷の戦い」でよく知られる平敦盛(大川橋蔵)とその妻玉織姫(美空ひばり)の悲恋を題材にした映画だが、悲しいかな教養のなさ故、玉織姫がどういう人物なのか、よくわからない(高知県香美市の轟の滝の伝説に残る人物であるし、また『平家物語』には明確に登場しないようだが、歌舞伎や民謡などでは平敦盛の妻として扱われている)。その所為もあるのかもしれないが、一本の映画としては若い大川橋蔵が美しいなあと思ったくらいで(美空ひばりは特に見るべきものがなかったと感じた)、製作の意図もわからず、退屈を覚えてしまった→煮干し、鶏大根ニンジン白菜のカレー、豚汁のとん&舶ェ(豚バラ肉、油揚、大根、ニンジン、白菜、葱、ぶなしめじ、ニンニク、おろし生姜)、酢昆布、た抜き、ビール中瓶×2、御酒×4→『飯島直子の今夜一杯いっちゃう?』視聴。我々夫婦がさくらとして出演した回だが、意外に恥ずかしさを感じないものだな。しかし自分が飲んでいるを見ながら飲むというのも滅多にない経験だ。飲みすぎた→夜0時就寝。
12月20日(金) 朝9時半起床。白湯→宿酔のため昼過ぎまで横臥→昼過ぎ、豚汁、卵かけご飯(しらすぼし)、長芋とろろ(刻み海苔)→以前花き市場の仕事で世話になったAさんより、『飯島直子の今夜一杯いっちゃう?』を見たと電話をいただき笑う→『ひばりの陽気な天使』(監督:斎藤宗一。美空ひばり、松竹歌劇団、森川まさみ、十朱久雄、本多康彦、小島輝明。1953、松竹)。ジャズに憧れる牧師の娘ゆかり(美空ひばり)が、優しい父(十朱久雄)とジャズを禁じる厳しい先生(森川まさみ)と楽しい仲間たち(松竹歌劇団)に囲まれ悩みつつも幸せに暮らしているところに、母親に死に別れ孤児となった兄弟(本多康彦、小島輝明)がたまたま教会を訪ねてきたのをきっかけに、弟のほうの誕生会を開こうとする。ゆかりが兄弟を迎えにいっている間に、厳しいはずの先生が祝宴の支度をしてくれて、最後はゆかりが思いっきりジャズ歌唱を披露する−− という心温まる映画。そんなに凝った作品ではないが、冒頭の指人形によるタップダンスや美空ひばりのひとり二役(合成)による歌と踊りだったり、美空ひばりが歌と踊りの最中に譜面を破いて登場したり、厳しい先生も実はジャズが好きだったり、ゆかりが兄弟を迎えにいって帰ってくると部屋が真っ暗で訝しんでいると仲間たちと父親が暗闇の中からひょっこりと現れる演出だったりが、なかなか楽しい。中には「『かかしと田吾作』はジャズです!」という迷台詞や、唐突な芝刈りしながら歌う場面、兄弟の弟が歌う「猫死んじゃった」、先生のジャズ好き表明や改心が唐突などなど、意味不明な箇所も多々あるが、それも含めて「なにを見せられていたのだろう」という感じも楽しかった。美空ひばりは、概ね実年齢(18歳)のイメージの役作りなのだが、歌う場面ではいきなり後年の貫禄を醸し出すのに、わかっていても驚く→菊水堂ポテトチップス、月見むじなそば(ぶなしめじ、刻み葱)、ビール中瓶×1→O形サイト更新(絵日記)→風呂→『金曜日の別荘で』(原題『La Villa del venerdì』、原作:アルベルト・モラヴィア、監督:マウロ・ボロニーニ。チェッキー・カリョ、ジョアンナ・パクラ、ジュリアン・サンズ、マルコ・ディ・ステファノ、ララ・ウェンデル、ヴェロニカ・デル・チアッパ、ソニア・トパツィオ。1991、伊Metro Film S.r.l.製作/P.A.C.配給)。原作は、アルヴェルト・モラヴィアが最初の妻エルサ・モランテとルキノ・ヴィスコンティとの三角関係をもとに描いた小説。ひと組の夫婦が互いに愛人の存在を認めながら、妻アリーナ(ジョアンナ・パクラ)は、肉体的な関係よりも自分を賛美することを重視するインテリで理屈っぽいシナリオライターの夫ステファノ(ジュリアン・サンズ)よりもピアニストで野生的な愛人パオロ(チェッキー・カリョ)にのめり込んでいき、ある日パオロが(ステファノの存在に腹を立て)アリーナに暴力を振るったことから、パオロとアリーナの間にSMの快楽が芽生え、それを知ったステファノは執着と嫉妬に苦悩する−− という物語で、最終的には元の鞘に収まるのだが、アリー役のジョアンナ・パクラの魔性の女っぷりは見事だったものの、いささかメロドラマ臭が濃いように感じられた。原作の背景を知らずに観た所為もあるかなと思ったが、いや知っていたら余計にそう感じられたとも思う。やはり原作を読まないと物語への理解には及ばないなと思った。監督のマウロ・ボロニーニという名前には見覚えがなかったが、調べたらゴダールも参加したオムニバス『愛すべき女・女たち』に監督(第二話「ローマ皇后も好きだった」)として参加していた人だった→鴨燻製、ビール中瓶×1→午前3時就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記