2025年01月20日

1月まとめ(11〜20日)


黒澤明を第一作から≠フ続き(『醉いどれ天使』『静かなる決闘』『醜聞(スキャンダル)』『羅生門』『白痴』)、三島由紀夫原作映画三本(『美徳のよろめき』『肉体の学校』『愛の渇き』)、新藤兼人/深作欣二/宮本真希/富司純子『おもちゃ』。

1月11日(土) 午前11時起床→釜揚げそば(生卵、どんこ、揚げ玉)→『醉いどれ天使』(監督:黒澤明。堺左千夫、谷晃、大村千吉、志村喬、三船敏郎、中北千枝子、殿山泰司、生方功、千石規子、木暮実千代、河崎堅男、木匠久美子、飯田蝶子、久我美子、進藤英太郎、山本礼三郎、笠置シヅ子、清水将夫。1948、東宝)。志村喬扮する型破りでだらしはないが正義感に篤い(この「篤い」は誤用かもしれない)医者真田と、三船敏郎扮するわかっちゃいるけどやめられない態のヤクザ松永との、最終的にはすれ違ってしまう心の交情を描いた作品、という点では感心はするものの、前作『素晴らしき日曜日』と比べるとぐんと映画を創るのが上手くなっていて、その分観ていてちょっと醒めてしまう、という感じを感じた。まあしかしこれは、それこそたまたま黒澤明の映画を制作順に観ている個人の感想でしかなく、そんなことよりもたとえば当時ヨーロッパや米国に持って行ってもかなり熱烈に受け入れられるだろう完成度と力を持った作品であることは、言うまでもないのではないかと思う。とはいえ、その「ちょっと醒めてしまう」には、本筋である「医者とヤクザとの心の交情」以外の部分が本筋にどう関わってくるのかがよくわからなかった(自分には)という理由もある。松永の情婦奈々江(木暮実千代)が出所してきた兄貴分岡田(山本礼三郎)に取られてしまうくだり、岡田と親分(清水将夫)が結核で弱っている松永を鉄砲玉に使おうとしているくだり、岡田の元情婦美代(中北千枝子)が真田の元で保護され働いているくだり、酒場の女ぎん(千石規子)が松永を助けるために一緒に田舎に行こうと口説くくだり、そしてギターの与太者(堺左千夫)の傍らにとつぜん登場する岡田が実はギターが得意というくだりや唐突に笠置シヅ子が登場し「ジャングル・ブギー」を歌うくだりなどなどが、理屈では理解できるしそれぞれうまく撮ったなとは思うものの、それぞれの情としての必然性がよくわからず(正確には情に訴えてくることがなかった、という感じか)、そのため物語に引き込まれずに「ちょっと醒めてしまう」という感想を得た次第。久我美子扮する「セーラー服の少女」が屈託なく結核を克服するのと松永が強がっているのにいつまでも結核から逃げようとするのとの対比も、本作の中では感動を呼ぶ要素であると理解しつつ、ちょいと理がまさったような印象として残った。名作であることは納得するが、なかなか難しいものだ→菊水堂ポテトチップス、ミックスナッツおかきうに味、カップ鴨だしそば、ビール中瓶×1、御酒×1→『美徳のよろめき』(原作:三島由紀夫、監督:中平康。月丘夢路、三國連太郎、千田是也、葉山良二、宮城千賀子、高田敏江、高友子、安部徹、南田洋子、芦田伸介、草薙幸二郎、西村晃、渡辺美佐子、北林谷栄、信欣三。ナレーター:高橋昌也。1957、日活)。原作が三島由紀夫、脚本が新藤兼人。それを中平康が、月丘夢路、三國連太郎、葉山良二、宮城千賀子、安部徹らを配して映画化したのに、なんでこんなに月並みで薄っぺらくて表面的なメロドラマに仕上がってしまったのだろう、というのが率直な感想。黛敏郎の音楽が多少の高級感を付け加えてはいるが、三島由紀夫の原作のフランスの心理小説の趣を生かした文体≠ニいう要素は微塵も感じられなかった(というか私にはわからなかった)。主人公節子に扮した月丘夢路は存在しているだけで魅力的だが、その友人牧田与志子のいかにも遊び慣れているがしかしそれに溺れていることに拠る薄汚れた感じの人物像を宮城千賀子がとてもよく表現していて、また何も知らないようでいてそしてとても品のない育ち方をしてきたようでいてすべてを理解しているかのような節子の夫倉越一郎という人物像を作った三國連太郎も見事ではあったが、全体が最初に述べたような感じなのでただただ惜しい。あとは節子の家の住み込みの女中(高友子)がやけに可愛らしかったが、しかしその可愛らしさは物語に対してなんの意味もなかった。三島由紀夫は自作について「何もムキになつて書いた小説ではないんですがね。シャレタ小説を書きたいと思つてゐたんでね」語っているそうだが(引用はWikipediaより)、絵造りや人物造形などに洒落た感じがまったくなかったわけではないものの、おそらく三島の意図した「シャレタ」感じはほぼなかったと思う。まあせっかくの機会だから、これは原作を読み返してみよう。追記)後日反芻してみて、『美徳のよろめき』を「月並みで薄っぺらくて表面的なメロドラマ」にしたのは、考えようによってはとても背徳的で贅沢な行為だったのではなかろうか、とも思った→「これは原作を読み返してみようと思って書架を探したがなかった。中学か高校の頃に読んだのは間違いないのだが(山手線の中で読んでいて、変なおじさんに「よろめき……」と話しかけられたのを覚えているのだ)。また買わねばなるまい→風呂→『刑事コロンボ』見ながら、菊水堂ポテトチップス、シュヴァインソーセージとピーマンの炒め、数の子、広島産かきときのこのオリーブ油漬け缶詰、舞茸ソテー、たらこリゾット、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→夜11時頃就寝。
1月12日(日) 朝9時半起床。白湯→キャベツと油揚のおつけ、ご飯、梅干し、海苔→『あっぱれ五人男』(監督:斎藤寅次郎。永田光男、田中謙三、北上弥太朗、花菱アチャコ、高千穂ひづる、川田晴久、清川虹子、千秋みつる、堺駿二、伴淳三郎、山路義人、神楽坂はん子、打田典子。1953、松竹)。花菱アチャコ=日本駄右衛門を中心にした、白浪五人男≠フパロディ。他の四人は、弁天小僧菊之助が伴淳三郎扮する菊太郎、南郷力丸が堺駿二扮する力蔵という江戸の町のチンピラコンビ。そして赤星十三郎が北上弥太朗扮する青木十三郎、忠信利平が川田晴久扮する利平、青木十三郎は野洲宇都宮の内藤家に仕えていた身ながら家宝胡蝶の香炉が盗まれたためそれを探しに脱藩し江戸に出てきて、そこで青木家に仕えていたが納戸金を盗んで蓄電していた利平とばったり出会うという設定。まずこの五人の組み合わせがちぐはぐで、青木十三郎=北上弥太朗と利平=川田晴久とに面白みがなく、他の三人と噛み合わない。そもそも義賊である日本駄右衛門と、コソ泥も働く町のチンピラふたりが行動を共にするのはわからないでもないが、お家の危機を救おうとする青木十三郎とその青木家の金を盗んで蓄電した利平については、そういう道筋を作ってあるにせよ、日本駄右衛門に合流する必然性に乏しい。花菱アチャコの日本駄右衛門が妙におっとりしていて品がいいのが可笑しく(もちろん花菱アチャコの持ち味を活かすよう計算した上での人物造形だろうが)、伴淳と堺駿二も(これまた言うまでもなく)いつも通りの可笑しさだったのに、なんとも惜しい。笑いについてはアチャコ、伴淳、堺駿二に任せて映画としての演出で笑わせるという場面がなかったように思うが、これは要再検証かな→菊水堂ポテトチップス、月見そば(どんこ)、ビール中瓶×1、御酒×1→『ひばりの陽気な天使』(監督:斎藤宗一。美空ひばり、松竹歌劇団、森川まさみ、十朱久雄、本多康彦、小島輝明。1953、松竹)。昨年末(2024年12月20日)に観たばかりだが、酒の肴として。新たな感想や発見は特にないが、やはりこれくらい昔の映画はこれくらいすっとぼけているほうが好みだな。すっとぼけ具合の塩梅がとてもよい作品と思う→『エルフ〜サンタの国からやってきた〜』(原題『Elf』、監督:ジョン・ファヴロー。ボブ・ニューハート、エドワード・アズナー、ジェームズ・カーン、ウィル・フェレル、エイミー・セダリス、フェイゾン・ラヴ、ズーイー・デシャネル、メアリー・スティーンバージェン、ダニエル・テイ、アーティ・ラング、ジョン・ファヴロー、リディア・ローソン・ベアード、マイケル・ラーナー、アンディ・リクター、カイル・ガス、マーク・アケソン、ピーター・ディンクレイジ、クレア・ローティエ。2003、米New Line Cinema)。昨年末(2024年12月29日)に観たばかりだが、酒の肴として。新たな感想や発見は特になし→梅干し、酢昆布、トマトとピーマンのサラダ、シュヴァインソーセージとじゃがいもとニンジンのクミンソテー、オリーブボロナ、ビアシンケン、数の子、ミックスナッツおかきうに味、らっきょう赤ワイン漬け、金宮お湯割り×3、金宮酎ハイ×3→夜11時頃就寝。
1月13日(月) 朝9時半起床。白湯→キャベツと油揚のおつけ(揚げ玉)、ご飯、納豆、海苔→『静かなる決闘』(原作:菊田一夫『堕胎医』、監督:黒澤明。三船敏郎、宮崎準之助、植村謙二郎、千石規子、山口勇、三條美紀、松本茂、伊達正、須藤恒子、志村喬、町田博子、中北千枝子。1949、大映)。東宝が第3次東宝争議(東宝社員に党員が多かった日本共産党も関わった労働争議)後も映画製作が困難だったため、黒澤明は山本嘉次郎、成瀬巳喜男、谷口千吉らと退社し映画芸術協会を設立。本作はその第一作として、大映で撮られたもの。軍医として戦場で戦傷病者の治療に当たっていた藤崎恭二(三船敏郎)は、手術をしていた患者中田龍夫(植村謙二郎)がたまたま梅毒保持者だったため、指先の傷から梅毒に感染してしまう。戦後父孝之輔(志村喬)の医院で医師として勤め始めるが、梅毒がこじれ、そのた婚約者松本美佐緒(三條美紀)へ煮えきらない態度を取り続ける(真実を話すと美佐緒が恭二が治癒するまでいつまでも待ち続けてしまうため)。恭二が死から救ったダンサーの峯岸るい(千石規子)は見習い看護婦として医院に住み込んでいるが、世の中を拗ねている。そこに恭二が中田と再会、梅毒を放置したままの中田の妻が妊娠していることを知り、さらに悩みを募らせる。物語としては、戦争で深い痛手を負った人間が戦後もその痛手が癒えず、そのため人間関係をこじらせていく、というものと思った。戦争は人になかなか癒えない傷を負わせるけれども、人間もまた癒えるのが難しい傷を他人にそして自分に与え続ける、という主題を見て取ったが、果たして。主人公恭二が静かに苦悩するばかりで話がなかなか転がらず、中盤までやや退屈したが、登場人物それぞれが恭二の真実を知っていく過程での、千石規子と三船敏郎の鬼気迫る芝居には震えを覚えた。そして父孝之輔の、警官による恭二は聖人≠ニの言葉を受けた最後の台詞「あいつ(恭二)はね、ただ自分より不幸な人間のそばで、希望を取り戻そうとしているだけですよ。幸せだったら案外俗物になっていたかもしれません」に籠められたであろう人間を見る冷徹な眼差しは、黒澤明のあるいは原作者菊田一夫が環境が聖人風の人間を作るだけである≠ニ言っているようで、考えさせられるものがあった→菊水堂ポテトチップス、たらこトースト、鶏ささみ南蛮(生卵、長芋とろろ、刻み葱)、ビール中瓶×1→風呂→『南氏大いに惑う』(原作:源氏鶏太、監督:枝川弘。市川和子、船越英二、角梨枝子、小笠原まり子、八潮悠子、清水谷薫、山根恵子、小原利之、鶴見丈二、川上康子、立花宮子、小川虎之助、柴田五郎。1958、大映)。これも一度観ていたのをすっかり忘れていたが(2023年7月4日)、特に新しい感想はないものの、タイトルロールの音楽の洒落具合や、主人公南礼三(船越英二)がモテる場面でかかるトロンボーン主体の楽曲の滑稽味、バーの場面でかかるスカ風R&Bやラテンなど、音楽への気配りの細やかさに気がついた。本当のところは監督や製作陣の証言がなければわからないが、前回観た際の感想「退屈凌ぎの娯楽映画としては、水準ちょうどという心地よさを提供してくれる、職人技的な味わいを感じさせられた」の音楽面での裏付けを得た、と、今回は感じた→ケバブミート、春菊、ビール中瓶×1→夜10時就寝。
1月14日(火) 日付け変わる前に起床→『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』を途中まで→柿ピー、金宮お湯割り×4→朝5時半就寝→昼12時起床。白湯→B電子関連連絡業務。今後発生するであろう細かい修正を除けばめでたく了→キャベツと油揚のおつけ、卵かけご飯、納豆、海苔→『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(原題『Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street』原作:スティーヴン・ソンドハイム/ヒュー・ホイーラー『スウィーニー・トッド』(ミュージカル)、監督:ティム・バートン。ジェイミー・キャンベル・バウアー、ジョニー・デップ、ローラ・ミシェル・ケリー、アラン・リックマン、ヘレナ・ボナム=カーター、ティモシー・スポール、ジェイン・ワイズナー、エド・サンダース、サシャ・バロン・コーエン。2007、米Dreamworks Pictures製作/Paramount Pictures、Warner Bros.配給)。複数のバリエーションがある理髪師/連続殺人者のスウィーニー・トッドの物語から、ヒュー・ホイーラー脚本/スティーヴン・ソンドハイム作詞作曲のブロードウェイ・ミュージカル版を下敷きにしたミュージカル映画。音楽もソンドハイムの作品を流用しており、まずその素晴らしさが印象に残る。原作のミュージカルを観ていないのでなんとも言えないわけだが、主人公スウィーニー・トッド(ジョニー・デップ)がただの殺人狂ではなく、妻ルーシー(ローラ・ミシェル・ケリー)を街の権力者ターピン判事(アラン・リックマン)に無理矢理奪われて街を追われた、という前提があって、そこに売れないパイ屋の女主人ラヴェット夫人(ヘレナ・ボナム=カーター)との出会い、トッドが街を追われる前に理髪店を営んでいる頃に小僧として雇っていたアドルフォ・ピレリ(サシャ・バロン・コーエン)との再会や確執があって殺人者になっていく、という物語の設計は、説得力があって観ていて自然に引き込まれるものだった。トッドの航海仲間の若者アンソニー・ホープ(ジェイミー・キャンベル・バウアー)がトッドの娘ジョアンナ(ジェイン・ワイズナー)と恋に落ちるという流れも効いていたし、とにかく物語の設計や登場人物の関係性の設計に隙がない。彩度を極端に落とした(しかし特定の色だけは強調する)絵造りも含めた演出も、役者の芝居と歌も完璧で、あくまでもミュージカル版を知らないからではあるが、何度でも楽しめる名作と思った。終幕でトッドの殺人が加速度を増していく中で、仲間だったラヴェット婦人や、そうとは知らずにルーシー(女乞食に身を落としていた)にまで手をかけ最後にパイ屋の小僧トビー(エド・サンダース。登場時はピレリの小僧だった)に殺される流れは強烈だったが、その直前、実の娘であるジョアンナが変装したのに気づかず殺そうとするもふとした偶然で殺さなかったのは、アンソニーの安否が厳密にはわからないものの、本作の物語の中の唯一の救いか→『しぶとい連中』(原作:藤沢周平、監督:鷹森立一。菅原文太、山口果林、黒川恭佑、高山江美、白木万里、川地民夫。1987、東映/ANN)。テレビ朝日系列の時代劇放送枠『傑作時代劇』の一本(第十作)。始末屋≠ニいうよろず問題解決業(手荒なこともする)に従事する元畳職人の熊蔵(菅原文太)が、仕事帰りに橋から身投げしようとしていた母子(山口果林、黒川恭佑、高山江美)に出会い、ありったけの銭を出して助けてやる。と、その母子が熊蔵の家を探し当てて居ついてしまい、なにかと世話を焼き始める…… という物語で、身投げの場面ではしょぼくれていた母親(山口果林)が次第に活き活きと輝き始めるのが面白い(子役ふたりは最初から楽しそうにしているのが可笑しいのだが)。母親の行動にもそれなりに理屈があって、それが熊蔵にもだんだんわかってきて心が通い合ってくる様は、さすが菅原文太だけあって素晴らしい。終幕もとても幸福な気持ちにさせてくれる。藤沢周平の原作を壊さぬようにうまく活かしたのだろうと思うが、小品だが繰り返し観たくなるドラマだった→ケバブトースト、ビール中瓶×1→『野良犬』(監督:黒澤明。清水元、三船敏郎、河村黎吉、岸輝子、松本克平、千石規子、伊豆肇、志村喬、安雙三枝、山本礼三郎、本間文子、東野英治郎、長濱藤夫、生方功、淡路惠子、伊藤雄之助、本橋和子、生方明、田中榮三、清水将夫、千秋實、三好榮子、高堂國典、戸田春子、飯田蝶子、登山晴子、菅井一郎、三條利喜江、木村功。1949、新東宝、映画芸術協会製作/東宝配給)。新しい時代の刑事ドラマのお手本を作り上げてしまったという点だけで、歴史に残る名作と言ってよいと思う(私が言うまでもないか)。そしてふたりのアプレ・ゲール(新米刑事の三船敏郎、新米刑事の盗まれたピストルを入手して強盗に用いる木村功。いずれも復員直後に荷物を盗まれた′o験を持ち、それが映画の中の現在の行動のきっかけとなっている)の行動を問うことで、戦争は確かに爪痕を遺すが、そのあとどう行動するかは個人次第、という主題も突きつけてくるものと思ったが、果たして。「そのあとどう行動するかは個人次第」に関しては、『静かなる決闘』で感じた「戦争は人になかなか癒えない傷を負わせるけれども、人間もまた癒えるのが難しい傷を他人にそして自分に与え続ける、という主題」も思い出したが、戦争を経験した人間がその後どう生きるかというのは、黒澤明のひとつの主題だったのかもしれない。三船敏郎扮する新米刑事村上をやさしく導く佐藤刑事の志村喬は名演。ピストル屋のヒモ≠ニいう役割を演じる千石規子も、本作でも『酔いどれ天使』『静かなる決闘』に引き続き、心をかきむしられるような芝居を見せてくれた。そしてピストル強盗遊佐(木村功)をかばうダンサー並木ハルミに扮した淡路惠子は鮮烈のデビューといったところか(淡路恵子の映画デビュー作)。ただし刑事ふたりに問い詰められてやけになり、遊佐に買ってもらったという白いドレスを着てくるくる回りながら「楽しいわ、楽しいわ」と呟く場面は、いささか滑稽味が勝ってしまったのが、淡路恵子には可哀想な演出になってしまったような気もした。その他の出演者は、出演時間の多寡はあれどみな物語全体に影響するというよりは物語を場面/\で転がす役割と言ってよいと思うが、そのひとりひとりにまで気を配った演出とそれに応えた各役者の芝居、そして音楽の用い方に至るまで、本作でも(これまた私が言うまでもなく)黒澤明の完璧主義≠たっぷりと堪能させられた。その一方で、本作の優れた点を言語化するのが割と容易く、そのためなんだかわからないけれども心揺さぶられた、という体験は希薄だったように思う。重厚濃厚≠ネ映画であるのに、ずっしりとした手応えはなぜかそれほど感じられなかった。私の見方が間違っているかな→たぬきそば(春菊)→風呂→じゃがいもとニンジンのクミンソテー、ケバブミートと春菊の炒め、大根と油揚のおつけ、ビール中瓶×1→夜9時半就寝。
1月15日(水) 日付け変わってすぐ起床→前から気になっていた、クラシックギターの3フレットと4フレットのバリ取り。応急措置としてはなんとかなった。が、1弦のナット近くに少し傷が入っているのが気になる。ナットの溝に問題があるのかな(以前も弦によっては1弦が切れやすかった)。ひとまず、予備の弦を仕入れておこう→『若さま侍捕物帖 黒い椿』(原作:城昌幸、監督:沢島忠。大川橋蔵、丘さとみ、金剛麗子、青山京子、田中春男、水野浩、坂東吉弥、阿部九洲男、千秋実、山形勲、河野秋武、沢村宗之助、水原みゆき。1961、東映)。以前観た際(2015年10月17日)と同様、「若さまがいきなり「保養で大島に来ている」と独白するのでびっくりして笑う」。舞台が旅先、しかも離島だけに、江戸での大家のお家騒動を交えた他の回と比べると登場人物も事件も構成要素が少なく、その分謎が提出される際の衝撃が鮮やかで強いという印象が残った。シリーズ他作品と比べるとその辺りが本作の魅力だったし、若さま(大川橋蔵)が一層のびのびしているのもよい。と同時に、日本の田舎(だけじゃないか)の閉鎖性についてはかなり厳しい視点で描いているなと思ったが、ただしこれは当時のおざなりで当たり前の視線≠ナある可能性もあるかもしれない(離島を舞台にしたからこれくらい閉鎖的だろう、という深く考えたわけでもない差別意識があったとか)。その点を考慮する必要はあると思う→金宮お湯割り×2→朝5時就寝→朝8時半起床。白湯→大根と油揚のおつけ、ご飯(胡麻油、たらこ)、海苔→老父買い物代行(サミット)。次回は昼を外で食べたいというので、〈Homer〉を提案、誕生祝いということで決定→ガソリン入れて帰宅。家を出る前は〈玉乃屋〉で鴨田舎と思っていたが、面倒くさくなり帰ることにした→『醜聞(スキャンダル)』(監督:黒澤明。三船敏郎、高堂國典、縣秀介、上田吉二郎、山口淑子、三井弘次、大杉陽一、小沢栄、日守新一、岡村文子、千石規子、志村喬、桂木洋子、清水一郎、千秋實、殿山泰司、神田隆、北林谷栄、小藤田正一、青山杉作、左卜全、清水将夫。1950、松竹)。発端はマスコミのスキャンダル至上主義に異を唱える話で、そう思って観始めると、オートバイを駆って伊豆の山々を描きに来た新進画家青江一郎(三船敏郎)が、たまたまた山道を歩いているところを出会った人気女性歌手西条美也子(山口淑子)をオートバイに乗せて宿まで送って部屋で談笑していたところをパパラッチ(三井弘次、大杉陽一)に捉えられ、ゴシップ誌『アムール』に取り上げられてしまう−−そして青江が単身編集部に乗り込み社長堀(小沢栄)を殴る、から始まるスキャンダル至上主義との闘い≠ェ主旨の映画と思ってしまうが、うらぶれた中年弁護士蛭田(志村喬)が青江からの訴訟の弁護を買って出たあたりから、弁護士だが弱い人間である蛭田が主人公のように描かれていると思い、実はスキャンダル至上主義との闘い≠謔閧熈弱い人間の自分との闘い≠ェ主題ではないかと思えてくるのだが、それはあながち間違いではないと思う。裁判の最後に蛭田が、自らの恥を晒して堀からの買収を暴露し、それを評して青江が「今日僕は星が生まれるのを見た」と発言するところからも、スポットライトは蛭田に当てられていたのだ。そうとわかってからの志村喬の芝居(と志村喬の登場場面につけた演出)はずっしりとした手応えで、たとえば堀に買収されて帰宅したが娘正子(桂木洋子)の父を想う気持ちを障子の外で聞いた蛭田が耐え切れずに酒場へとしけこんでからの場面で、いい塩梅の滑稽味を伴って酒場の酔っ払い(左卜全)やホステス、酔客全員と「蛍の光」を歌う場面など、まさに肺腑をえぐられる思いで、『生きる』での志村喬の歌唱場面を遥かに超える感動を覚えた(歌う直前の志村喬と左卜全の漫才のような会話も、その感動に効いていたように思う)。その志村喬はもちろん、他の役者では青江の友人で画のモデルの千石規子の自分の意見をはっきり言いつつ頼り甲斐がある感じや、ゴシップ出版社社長の堀を演じた小沢栄の海千山千の嫌な奴っぷりなど(映画中では「金無垢の下劣さ」と表現される)も感銘を受け印象に残ったが、黒澤明は少し役者の力に頼り過ぎなのではないかとも思った(本作も含め、志村喬、千石規子、そして大河内傳次郎、藤田進、中北千枝子、そして『虎の尾を踏む男達』の榎本健一などなど)。しかしそれを言い出したらどんな映画監督も同じか。物語の二点三点ぶりが、黒澤の頭で考えられたことはわかるが、それでいて心揺さぶられる感じは『野良犬』より上出来の作品と想う一方、蛭田の娘正子が冠をかぶっているところで三船のオルガンで美也子がクリスマスソングを歌ったり、正子が父の改心と勝利を知らずに死んでしまったり等々、ちょっとやり過ぎ≠ニ思った場面も少なくない。それも含めて黒澤明の作風なのだろうが、本作までの十本を観て、そういうところで黒澤明に興味を持たずに来たのかな、とはちょいと思った。ああ、あと、幕開けは走るオートバイのエンジン〜後輪のクローズアップから始まり印象的なのだが、これは『野良犬』のタイトルバックの野良犬の絵となにか呼応するのだろうか。それと、前作『野良犬』まで見られた戦争の傷跡と、その傷跡の上で(中で、元で)これからどう生きるか≠ニいう視線は感じられなかった。そのことにも何か意味があると思われるが、これは今後も黒澤作品を観ていく中で、時間が解決してくれるのだろうか→柿ピー、フランスパン(オリーブ油、塩)、月見そば(どんこ、揚げ玉、刻み葱)、ビール中瓶×1、御酒×1→「きみはじゃまっけ」の修正案ほぼ思いつく。イントロと歌の間のギター叩き、サビの延長の歌詞、〆で風景をガラッと変える仕方。この方向で行けそうではある→午睡→菊水堂ポテトチップス、ミックスナッツおかきうに味、ハム、ソーセージキャベツ炒め、大根と油揚のおつけ、おむすび、御酒×1、ビール中瓶×1→夜11時就寝。
1月16日(木) 朝7時半起床。白湯→玉葱のおつけ、ご飯、酢昆布、梅干し、塩昆布、温泉卵、海苔→『東京ラプソディ』(原作:佐伯孝夫、監督:伏水修。藤山一郎、椿澄枝、星玲子、井染四郎、宮野照子、伊達里子、御橋公、星ひかる、大村千吉、柳谷寛、堤眞佐子、梅園龍子、山縣直代、藤原釜足、岸井明、千葉早智子、竹久千恵子、神田千鶴子。1936、P.C.L.映画製作所製作/東宝映画配給)。藤山一郎の大ヒット曲の人気にあやかって、たわいもない青春の恋愛話をでっち上げて客を呼ぼうという映画−− という先入見で観始めたが、まあそういう傾向もないではないし、公開当時は「50銭の入場料で藤山一郎の歌を聴きながら東京見物ができます」という宣伝文句が使われたそうだから、「藤山一郎の大ヒット曲の人気にあやかって〜」という見立てはあながち間違いではあるまい。しかし実際観てみると、クリーニング屋の若旦那若原一郎(藤山一郎)が恋人ハト子(椿澄枝)と物干し台で「恋の饗宴」を歌っているとその歌声が隣接する銀座のホテルの一室に届き、そこで仕事をしていた女流作家矢野晴美(伊達里子)と尋ねてきた伯爵別井(御橋公)が、この若い男を歌手として売り出そうと思いつく。そして実際若原一郎は人気歌手として売り出されていくが、その過程で恋人ハト子とは会えなくなり、友人たち−−ダンスホールのダンサーマキ(星玲子)やサックス吹きの船橋(井染四郎)、クリーニング屋の前で靴磨きをする少年俊坊(大村千吉)−−には裏切り者扱いされ、一郎自身不満を募らせてゆく。そして一郎が幼馴染の藝者蝶々(宮野照子)と再開したことがゴシップ記事となり、ついに一郎は歌手引退を決意する…… といった物語が、モダンで洒落た絵造りで綴られ、無理を強いる大人(主に女流作家の晴美)以外の若者たちは心根のよさが容貌に表れているようで、とても気持ちのよい鑑賞を楽しんだ。「モダンで洒落た絵造り」については、「PCLきってのモダニスト」と評された伏水修という監督によるもので、この監督についてはまったく知らないに等しいが、1936年に本作含め四作を監督し、いずれも大成功だったそうだ。本作でもセットや構図が美しいのに加え、同年に公開されたフレッド・アステア/ジンジャー・ロジャーズのコンビの『有頂天時代』(Swing Time)のポスターを使用するなど(日本公開は本作よりあと)、小津安二郎に勝るとも劣らないモダニストぶりを発揮している(ちなみに伏水修は1910年、小津安二郎は1903年の生まれ)。また藤山一郎以外の若者たちには、椿澄枝がPCLスター、友人マキ役の星玲子は宝塚歌劇団引退後日活でトップスター、その恋人船橋役の井染四郎も日活トップスターと、当時のスターを揃えている。「とても気持ちのよい鑑賞」と感じた背景には、やはり歌謡映画とはいえ製作にはかなりの力と熱が込められたのではなかろうか。終幕では『東京ラプソディ』がフルコーラス(幻の五番も!)歌われ、それに結構感動させられるのだが、藤山一郎・椿澄枝に続いて山縣直代、梅園龍子、千葉早智子、堤眞佐子といったPCLスター女優がワン・コーラスずつ歌う中(堤眞佐子はマキのダンスホールの同僚役でも出演)、PCL映画で三枚目として活躍した藤原釜足や岸井明が唐突に登場するのはご愛嬌か。なお、私は当時のことについてはほぼ無知なので、本稿に於ける情報については娯楽映画研究科佐藤利明氏のnote( https://note.com/toshiakis/n/n834fcc0aa9b2 )を頼った→来週の〈Homer〉での老父の誕生祝い、無事予約完了→『羅生門』(原作:芥川龍之介『藪の中』、監督:黒澤明。千秋実、志村喬、上田吉二郎、京マチ子、森雅之、加東大介、三船敏郎、本間文子。1950、大映)。本作は黒澤明作品の中では何度か観ているものだが、今回観て思ったのは、橋本忍の原案を黒澤明と、あともうひとり誰か小説家を交えて、芥川『藪の中』の改作小説として発表したほうがよかったのではないか、だった。登場人物ごとの芝居のバリエーションや、証言者の証言内容による京マチ子=真砂の演じ分け、崩れかけた羅生門に降る大雨と終幕の晴れ間、多襄丸(三船敏郎)と真砂の夫(森雅之)のへっぴり越しの斬り合いなどなど、映像化に際しての工夫やその効果は多々あれども、それが却って複数の証言から織りなされる事件≠フ捉えどころのなさや、あるいは杣売り(志村喬)の最後の証言から真相が明確になりそれをきっかけに人間に対する希望が見られるという流れなどから来る感心・感動の幅を狭めてしまっているように思った。簡単にいえば、そもそも映像化の必要性は、というところに気持ちが行ってしまったわけだ。とはいえ初見の際に大きく感心したのも事実だが、やはり『野良犬』と同じく、意外に?理が勝ってしまった♂f画ということなのだろうか。あの場面はどうだったかな? と気になったりしない限り、もう観ない作品ではあると思うが、果たして。細かい点だが、映画の終わりに敢えて「羅生門」という扁額を映さなくてもよい(映さないようがよい)のではなかろうか。あと後半(真砂の証言の場面)にラヴェル『ボレロ』によく似た音楽が流れるのが今回初めて気になったが(以前気になってたかもしれないが忘れた)、黒澤明のアイデアで早坂文雄が作曲したとのこと。当然のことながら、フランスでは物議を醸したのだという(早坂のオリジナル・ボレロだ、と主張して乗り切ったとか)→菊水堂ポテトチップス、即席ラーメン(博多マルタイラーメン屋台とんこつ。玉葱、ニンニク、生姜、酢)、ビール中瓶×1→「きみはじゃまっけ」、作詞者O形から追加部分が上がってきたので、発表会用の譜面制作→高柳昌行『汎音楽論』へのノンブル付け、索引作成の作業に着手(なにせノンブルすら付いてなくて必要な記述を探すのに骨が折れるので)。ひとまず各ページに鉛筆でノンブル入れながら、キーワード候補に線引き→ニンジンとトマトのサラダ、小松菜とソーセージの炒め、牛すじ肉の赤ワイン煮缶詰、柿ピー、ビール中瓶×1、金宮お湯割り×2、御酒×1→夜0時就寝。
1月17日(金) 朝8時起床。白湯→玉葱のおつけ、ねこまんま(塩昆布、かつ節、胡麻油)、梅干し→『美人母娘三人、あゝ華麗なる結婚サギ 長崎篇』(監督:鷹森立一。柏原芳恵、森下愛子、朝丘雪路、松崎しげる、神山繁、中島ゆたか、藤堂新二、アパッチけん。1987、ANN)。前編・後編の二部作(前編見たのを記録していなかったので、いつ見たか不明)。前編・後編の二部作(前編見たのを記録していなかったので、いつ見たか不明)。二部作にするまでもない内容であった。そして後編は、母娘が希望を託したホテルチェーン重役の青年が交通事故で死亡したというTVニュースに母娘が愕然とするところで終わりで、人の命や物語の作法をなんだと思ってるんだ、という格好だった。一作めはまあまあ面白かったし、放映時に見た記憶からはまた見たいと思っていた作品だったのだが、結局森下愛子の魅力の思い出だけでそう思っていたようだ→風呂→「きみはじゃまっけ」のサビのギターを練ってみる。練るというほどではないが、少しいい感じにはなった→昼は千歳船橋駅前に出て、まずは〈La Pineta〉で昼。白インゲン豆のサラダ、カリフラワーのスープ、ミートソーススパゲティ、フォカッチャ、赤葡萄酒一杯→〈秀〉〈オオゼキ〉〈春日屋〉〈大橋とうふ店〉〈土井商店〉で買い物して帰宅→黒澤明、次は『白痴』を観る予定なので、原作と映画とであらすじを比較していたら、原作のナスターシャに当たる登場人物の名前が「那須妙子」なのに気づいて笑う(演ずるは原節子)。あとムイシュキンのモデルがキリストならロゴージンは悪魔がモデル、Rogozhin=rog=ロシア語で角=悪魔という説もある、そうだが、そのロゴージンに当たるのが赤間伝吉(演ずるは三船敏郎)。駄洒落か、笑わそうとしているのか→『必殺必中仕事屋稼業』見ながら、菊水堂ポテトチップス、ビール中瓶×1→あまりに寒いのでまた風呂→『マイケル』(原題『Michael』、原案:ピート・デクスター/ジム・クインラン、監督:ノーラ・エフロン。ジョン・トラボルタ、ジーン・ステイプルトン、ロバート・パストレリ、ウィリアム・ハート、ボブ・ホスキンス、アンディ・マクダウェル、テリー・ガー。1996、米New Line Cinema)。酒肴として鑑賞。前回(2024年12月28日)同様楽しい時間を過ごしたが、特に新発見や新しい感想はなし→『白雉』(原作:フョードル・ドストエフスキー、監督:黒澤明。森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬、東山千栄子、千秋実、文谷千代子、千石規子、三好栄子、原節子、高堂国典、井上大助、左卜全、柳永二郎、明石光代。1951、松竹。黒澤明が完成させた作品は、試写の段階で4時間25分(265分)で二部構成にする予定だったが、松竹副社長城戸四郎からクレームがつき黒澤は3時間2分(182分)まで短縮。しかし松竹はさらなる短縮を要求し、黒澤がそれを拒むと松竹側で短縮編集を行い、2時間46分(166分)の現存版≠ニなった(黒澤のオリジナル版は現存していないとのこと)。映画冒頭ではドストエフスキーの執筆動機(眞に善良な人間が描きたい云々)を援用しつつ「一つの單純で清浄な魂が、世の不審懐疑の中で無慙に亡びて行く痛ましい記録である」と物語の説明が字幕でなされるが、その後も字幕やナレーションで物語の背景にまで踏み込んだりするのは、松竹での短縮作業≠ナの苦肉の策かなと思ったが、果たして。さてこの現存版≠ヘ、幕間こそ入らないものの、「第一部 愛と苦悩」「第二部 恋と憎悪」の二部構成になっていて、第一部は亀田欽司(森雅之)と赤間伝吉(三船敏郎)はじめ各登場人物の紹介や各々の出会い、あるいはこの物語に至る人間関係などの説明に費やされ、第二部で亀田欽司、赤間伝吉、大野綾子(久我美子)そして那須妙子(原節子)の愛憎に焦点が当てられる。もちろん第一部で物語や登場人物、人間関係の背景が語られてこその第二部だが、字幕やナレーションまで使ってここまで短縮するのであれば、いっそ第一部をもっと刈り込んだほうが、第二部の愛憎が鮮やかに印象に残るものになったのではないかと思った。原作のにおいを残さなくても第二部で描かれる愛憎は成立するし、そう考えると、亀田の庇護者であり略奪者でもある大野(志村喬)の妻里子(東山千栄子)の横暴さや、金のために那須妙子との結婚を画策している香山睦郎(千秋実)の弱さ脆さ、その妹孝子(千石規子)の気の強さなどは、おそらく敢えて描かなくてもよかったような気もした(そして黒澤さえうんと言えば、その刈り込む作業はとても楽しいものだったのではないかと想像する)。赤間伝吉は原作ではロゴージンに当たり、原作ではムイシュキン(映画では亀田欽司)をキリストと見るならばロゴージンは悪魔とされているそうだが、本作ではむしろ−−衣装を含めた人物造形から−−那須妙子こそ悪魔(天使のふりをした)であると思ったが、さてどうだろう(悪魔の隠喩≠ノついては、原作の記憶を辿ったりネット上の記述を確認しただけなので、原作を再読しないと確かなことは言えないが)。少なくとも赤間伝吉は、強引に那須妙子を我が物にしようとはするが、裏表のない人物として描かれていて、悪≠フ要素はないように思える。話は戻るが、先に「いっそ第一部をもっと刈り込んだほうが」と書いたことと矛盾するが、主人公四人−−森雅之、三船敏郎、久我美子、原節子−−以外の、主に第一部での見せ場が多い役者たち−−志村喬、東山千栄子、千秋実、文谷千代子、千石規子、三好栄子、高堂国典、井上大助、左卜全、柳永二郎、明石光代−−の芝居は素晴らしく、いくつかの不満を除けば一本の映画としてかなり見応えのあるものと思う。その上で主人公四人の芝居が輝くわけではあるが、とりわけ原節子のファム・ファタルっぷりには驚かされ、小津『麦秋』と同じ年に撮られたとはにわかに信じがたかった(ちなみに撮影は『白痴』が1951年2月から5月まで。『麦秋』が同年6月から9月まで)。原節子なくしては、本作は成り立たなかったのではないかとすら思わせられた。最後に「いくつかの不満」を挙げておくが、まず冒頭、悪夢を見て叫んでしまったからといって、見知らぬ初対面の人間に聞かれてもないのに悪夢の内容やその背景を説明するか?という疑問(亀田と赤間の青函連絡船での出会い)、いくらお金持ちでも雪深い北海道に屋根がガラス張りの家を建てるか?という疑問(那須妙子を囲っていた東畑(柳永二郎)の家での妙子の誕生日パーティの場面)、老いて恍惚となった赤間の母(明石光代)ももうひとりの白痴=|−むしろ未だ目の前の状況に悩みや戸惑いを抱える亀田よりもより白痴≠ナはないかと思われたのだがその点についての説明が皆無なのはなぜかという疑問、など。いずれも瑣末なことではあるが、黒澤明といえばどうしても完璧主義者≠ニ見てしまうので、これらの点を穴≠ニ考えたくなってしまう次第。あと原作ではムイシュキンが白痴に戻り療養の日々を送り、ロゴージンはナスターシャを殺してシベリアに送られると記憶しているが、本作でも赤間が妙子を殺し亀田が倒れるものの、亀田と赤間のその後が明確には描かれないのも不満と言えば不満である。本作の終幕は、最後に妙子との闘いに敗れた形で亀田のもとからひとり去っていった綾子(原作ではアグラーヤに当たる)が「白痴だったの,私だわ!」と漏らす場面で、それはそれで説得力を感じるわけではあるが→『極道罷り通る』(監督:小沢茂弘。若山富三郎、遠藤辰雄、今井健二、清川虹子、志賀勝、池田謙治、南利明、松平純子、岡本健、菅原文太、秋山勝俊、森秋子、宇崎尚韶、江波多寛次、志村喬、若山ゆかり、熊谷武、疋田泰盛。1972、東映)。若山富三郎『極道』シリーズの第八作。次の『釜ケ崎極道』でシリーズは終了し、あとは他シリーズとの共演(『極道VSまむし』『極道VS不良番長』)となるというこのタイミングで、なぜか山城新伍が参加せず。おそらくまあスケジュールの都合などではないかと思うが、海外で銃を買って帰ったため1970年代初期三年ほど干されていた≠ニいう話もあるから、そっちの所為かな。山城新伍の代わりを名古屋弁でお馴染みの南利明が務めていたが、やはり親分島村清作(若山富三郎)を子分ジョージ(山城新伍)が手のひらで転がしている≠ニいう構図がないと、このシリーズの面白さは半減。前半で女賭博師(かな?)の長村ぎん(森秋子)が出てきての清作とのやり取りは面白かったが(清作に手籠めににされそうになる際に、いかにも裏街道の女なのに「お嫁に行けなくなってしまいます」と言うのには笑った)、あとは、単細胞の清作が代紋を持たないことでバカにされたため潰れそうな一家の代紋を買い取るべく旅に出て、一度は正義感に目覚めるものの老獪な新興ヤクザに騙され善良な人たちを裏切ってしまうが真実を知り新興ヤクザを撃滅する、という、本シリーズの基本に忠実なものの、前述の長村ぎんの場面以外は笑いもなく(お決まりの、清作とミネ子(清川虹子)のキスシーンはあるし、寝ぼけ眼の清作がお起こしにきたミネ子の顔をぼんやり眺める場面のずさんな光学特殊効果の使い方にも笑はしたが)、感触としてはよくあるヤクザ映画と同様の印象であった。清作と兄弟分の石堂常男(菅原文太)が、清作の敵方への義理から清作と対立するものの、やはり真実を知って清作に討たれるところはグッと来たし、旅先の土地の親分を志村喬が演じているのも印象に残る部分だが、シリーズの中で言えば真ん中から下、という評価になるか→簡易雑煮(餅一ケ、顆粒鶏ガラ出汁、もみ海苔、かつ節、揚げ玉、黒胡椒)、菊水堂ポテトチップス、釜揚げそば(刻み葱)、ビール中瓶×1→風呂→キャベツと蕪とリンゴのサラダ、さつまいもサラダ、豚バラ肉と蕪の葉の生姜焼き、キャベツと油揚のおつけ、ねこまんま(酢昆布)、ビール中瓶×1、御酒×1→夜10時就寝。
1月19日(日) 午前4時起床。白湯→『釜ヶ崎極道』(監督:山下耕作。若山富三郎、山城新伍、大木実、関山耕司、潮健児、佐藤京一、志賀勝、清川虹子、小松方正、遠藤辰雄、天津敏、東三千、加賀まりこ、渡辺文雄、内田朝雄、山田良樹、志摩靖彦。1973、東映)。若山富三郎『極道』シリーズの第九作。次のその次は『まむし』『不良番長』との共演なので、実質的にはシリーズ最終作と見てよいかもしれない。そのためか、島村組も第一作『極道』のメンバー(山城新伍、大木実、潮健児、佐藤京一、志賀勝)にほぼ戻り、敵役も天津敏扮演の八ッ藤武、そして第一作の場面が静止画で挿入される(ただし、以上すべてが第一作のものか、厳密には吟味していないので、記憶違いがあるかもしれない)。物語は例によってあまり細部にわたって綿密に組み立てられたものではないが、島村清吉(若山富三郎)が島村組を解散せざるを得ない状況から芸能興行社に鞍替えすると金に困った劇団がやってきて、すぐに興行の旅に出たその先で八ッ藤らの悪行に生き当たる−− という行き当たりばったりにも見える展開と、そしてなんといってもジョージ(山城新伍)はじめ子分たちが親分清吉(若山富三郎)を敬いながらも半分小馬鹿にしている感じは、このシリーズのファンとしてはたまらない(もちろん清川虹子扮するみね子と清吉の濃厚で可笑しなキスシーンもある)。芸能興行社を立ち上げた清吉が東映の撮影所を訪ねると、そこにいかにも映画スター然とした若山富三郎本人が登場するギャグ?はまああってもなくてもと思ったが、そういう杜撰な感じも含めて、前作が前作だけに、『極道』シリーズを楽しんだ、という趣。そういえば主題歌「極道ブルース」は新アレンジ、新録音にだった(ファンク風味に料理されなかなかカッコよかった)。ちなみに本作には大手商事会社で悪事に(半分は仕方なく)加担する女社員役で加賀まりこが出演していたが、観ている最中は加賀まりこだとまったく気づかなかった→簡易雑煮(つゆのみ、餅一ケ)、御酒×1→朝7時就寝→12時半起床→キャベツと油揚のおつけ、卵かけご飯、海苔→『肉体の学校』(原作:三島由紀夫、監督;木下亮。岸田今日子、木村俊恵、東恵美子、田中明夫、市川翠扇、佐藤晴彦、山ア努、中川ゆき、山村聡、有馬昌彦。ナレーター:久米明。1965、東宝)。絵造り、編集ともに凝っていて、編集の際の省略のリズム(パチンコ屋の入り口で声をかけられ驚いた主人公浅野妙子が店内に駆け込むところなど)や、心象風景的な表現(パチンコ屋での中心人物ふたり以外の暗転など)、ドキュメンタリー的な表現と非現実的な(超現実的な?)表現が交互にそして区切りなく繰り返される編集(パチンコ屋を出た浅野妙子が逡巡しながら店に戻る場面など)、被写体へのあるいは被写体同士の距離感の感覚(喫茶店での浅野妙子と佐藤千吉の場面など)などなどは、少しく高踏的な感触を伴っている点、三島由紀夫の文章を視覚的に表そうと努めた結果かもしれない。しかし見慣れてくると、単に格好をつけた前衛気取りのような気もしてくる。自分で事業を行ってはいるが成功して裕福で時間も自由になる有閑マダム≠ナあるところの浅野妙子(岸田今日子)に惚れられ半ば無意識に(というかあまり何も考えずに)利用しようとする学生佐藤千吉−−ゲイバーにバーテンダーとして勤めている−−を、山崎努はよく表現しているとは思ったが、原作での千吉がそうだったのかもしれないけれども、最終的にはそれほど奥行きのある興味深い人物ではなかったし、千吉が妙子を裏切って結婚しようとする室町聰子(中川ゆき)も物語になにか楔を打ち込むような存在として機能していなかったので(他の登場人物はいずれも印象に残るような使われ方ではなかった)、結局のところ、岸田今日子の藝や魅力−−芝居はもちろん、七変化的な服装の変化も含めて−−に負うところの多い映画だったという印象が残った。途中、浅野妙子が佐藤千吉への恋慕と嫉妬その他の感情に狂うところは、女の浅はかさにぐっと焦点を当てたようで、今となってはいささか陳腐な発想と受け取ったが(原作を読んだ際はそういう感想には至らなかったと思うが)、最終的にはある切り札≠浅野妙子が手に入れ、佐藤千吉との恋愛ゲーム(と言ったら軽過ぎか)に勝利する。「ある切り札=vを入手して用いるというのはちょいと興醒めかなとも思ったが、その使い方−−もちろん本作に於いてはその映画的な用い方とその際の岸田今日子の芝居−−は鮮やかではあった。そして浅野妙子がもう学校は卒業した≠ニつぶやくことで物語は終わるのだが、このつぶやきは字幕で表現され、映画はそこで唐突に終わる。しかしせっかくの映画化なのだから、学校を卒業してその後どうなったのか、蛇足でもいいから仄めかしてほしかったなとも思った。ちなみに三島由紀夫は本作について「実にソフィスティケイテッドな作品が生れた」「原作の会話、スタイルが十分に活かされてゐて大へんうれしい」と述べているそうだから、私がなにか言うこともないのかもしれない(ただし左記は本作の広告文でのことだから、頭から信用することもできない)。1998年にはフランスでブノワ・ジャコ監督、イザベル・ユペール主演で映画化されているそうだから、そちらでは諸々どう表現されているのか、観てみたいものだ→菊水堂ポテトチップス、月見たぬきそば(刻み葱)、ビール中瓶×1→風呂→蕪酢、蕪の葉と豚バラ肉の炒め、鶏ささみとどんことニンジンのスープ(昆布、ニンニク、生姜、顆粒鶏ガラ出汁、塩)、ビール中瓶×1→『愛の渇き』(原作:三島由紀夫、監督:蔵原惟繕。浅丘ルリ子、中村伸郎、石立鉄男、楠侑子、山内明、小園蓉子、岩間隆之、志波順香、紅千登世。1967、日活)。三島由紀夫四作めの長編小説の映画化。各登場人物の来し方を詳しく描かなかった点以外は、原作にかなり忠実な映画化と思ったが、果たして。主人公悦子に扮する浅丘ルリ子も、もうひとりの重要人物である園丁・三郎に扮する石立鉄男も、それぞれその内面に空虚を抱えているような、生活や人生に芯がないような人物像を見事に表現していたと思う(もちろん演出のよさもあるだろう)。特に石立鉄男は、何も考えていない若者を実に見事に造形していた。そして妙子も三郎も、空虚さ故の加虐性(サディズム)も従順さも反抗精神も持ち合わせていて、お互いがそのときどきに表す性質によって一筋縄ではいかない人間と人間の関係が描かれるという点でも、本作の演出や役者の芝居は印象に残った。原作についてはもうほとんど忘れてしまったが、終幕で三郎がとつぜん妙子を押し倒すのは、本作からは三郎は妙子が自分のことを好きなのはなんとなく知ってはいたが、心動かされないようにしていた(あるいはそんなに心動かなかったのかもしれない)≠オかし自分が妊娠させた女中美代(紅千登世)の一件で妙子を許せない気持ちがとつぜん燃え上がり、妙子に癒えざるべき苦しみを残すことを決意した≠ニ読み取ったが、果たして。再確認と思い原作のあらすじを見てみると、美代の一件を妙子が告白した際に三郎は何も考えていない様子で悦子は失望を覚えるが、しかし三郎ははじめて悦子に女を感じた≠ニあるので、そこはやはり「何も考えていない」ということだったと捉えるのが正解かもしれないが、ただナレーションで三郎は妙子を苦しめようと思った≠ニいうくだりがあったようにも思う(要確認)。で、義父であり愛人でもある杉本弥吉(中村伸郎)が妙子の叫び声を聞いて、何事かと馳せ参じた際に持っていた鍬で、妙子は三郎を殺してしまうわけだが、その描写もまるっきり割り切れてない人間の心理を割り切れないままに描いている≠ニいう感触を得た。一応妙子が「(三郎が)あたくしを苦しめたからですわ」と動機を語るが、しかし芝居からは、理由が定かではない衝動的な殺人を描いていると感じ、その描写が素晴らしいと思った。ちなみに三島由紀夫自身は、(宣伝文句としてではなく)「すぐれた映画作品であり、私の原作の映画化としては、市川崑氏の「炎上」につぐ出来栄え」「これはいはゆる女性映画であり、浅丘ルリ子の扮する悦子が全篇出づつぱりである。浅丘ルリ子は、目をみはるほどの好演技で私はおどろいた」「一等むつかしいカタストロフの殺しが、必然的に論理的に説得力を以て組み立てられてゐるのに感心した。この決して通じ合はない恋物語に於て、末尾の温室シーンで、悦子が、女中の妊娠を中絶させたのは私の仕業だとどうしてわかつたか、と三郎を問ひ詰めると、三郎が、あのヴィーナス像を盗んだのは私の仕業だとどうしてわかつたか、と睨み合ひながら反問する一瞬に、何の接吻も抱擁もなしに、おそろしく熱度の高い恋のエモーションを迸らせたのは、そこまでの計算がよくできてゐるからだと思ふ」(「映画的肉体論――その部分及び全体」、映画芸術1966年5月号所収)と語っているので、この映画化にはかなり満足したようだ。敢えて言えば、妙子と三郎の関係に於いて美代の存在感が希薄だった点は残念かな→金宮お湯割り×2→午前2時就寝。
1月20日(月) 午前11時半起床→鶏ささみとどんことニンジンのスープおじや(塩昆布)、煮りんご→O形サイト更新(絵日記)→『おもちゃ』(原作:新藤兼人、監督:深作欣二。宮本真希、魏涼子、六平直政、荒木雅子、喜多嶋舞、津川雅彦、富司純子、南果歩、野川由美子、谷口高史、笹野高史、梅本直輝、柴田善行、安岡真智子、松村康世、竜川剛、坂本真衣、市村貴俊、竜川剛、月亭八光、岡田茉莉子、三谷昇、加藤武。1999、東映、ライジングプロダクション製作/東映配給)。売春防止法施行前後の昭和33年(1958年)、京都の花街(おそらく祇園)を舞台に、ひとりのおちょぼ(宮本真希)が舞妓になるまでの過程を描いた映画。おちょぼ時子に扮した宮本真希の芝居と意思の固そうな口元の様子が素晴らしかった。あとはあまり言葉で言い表したくないような感動すら覚えた映画で、終盤で舞妓となる直前の時子がわざわざ大阪まで出掛けて幼馴染の山下(月亭八光)が地道に働く様を遠くから眺めたり、そのあとお母さん里江(富司純子)に言う「うちはお母さんが舞妓にしてくれはったこと、ありがたいと思うてます」という台詞だったり、あるいは時子が舞妓になる晩の里江と藝者の先輩たち(南果歩、喜多嶋舞、魏涼子)の様子には涙さえ流れた。喜多嶋舞扮する染丸と馴染みの大学講師(谷口高史)のドライブの場面で昭和33年に「GORDON」ジンの現在と同じような意匠の瓶はあったのかな?という瑣末な疑問や、京の花街を少し美しく描き過ぎのような気はする(まあ映画だからいいのか)≠ニいう自分の年齢では解決できないような疑問も感じたが、観終えてから考えるとまあ割とどうでもいいように思った。あとは女性に観てもらっての感想を聞きたいかな。ちなみに本作は、溝口健二『祇園の姉妹』に触発され新藤兼人が書いた小説を自らが脚色し、(深作欣二による)映画化が実現したとのこと(ちなみに「おもちゃ」は本作での時子の源氏名であるが、山田五十鈴扮する『祇園の姉妹』の主人公の源氏名でもある)→菊水堂ポテトチップス、鶏ささみとどんことニンジンのスープ、蕪の葉と豚バラ肉の炒め、月見たぬきそば、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→午睡→夜10時過ぎ起床。『おもちゃ』復習→「きみはじゃまっけ」、歌と合わせる練習。歌の旋律がなかなか譜面取りにならなかったが、各部分の主旨は一応説明できた→麻婆豆腐、鶏唐揚げ二ケ、ビール中瓶×1、金宮お湯割り×4→『ゲロッパ!』(監督:井筒和幸。奥貫薫、常盤貴子、トータス松本、太田琴音、根岸季衣、長塚圭史、西田敏行、岸部一徳、ラサール石井、木下ほうか、田中哲司、山本太郎、桐谷健太、吉田康平、益岡徹、田中哲司、藤山直美、篠井英介、小宮孝泰、日向丈、ウィリー・レイナー、寺島しのぶ、岡村隆史、徳井優、長原成樹。2003、シネカノン他製作/シネカノン配給)。笑って泣けるハートウォーミング・コメディ、を目指したのだろうが、簡単な設定とプロットだけ書かれた第一稿の脚本をそのまま、なんの情熱もなく撮ったという印象。画面はことごく寂しいし(終盤の海辺でのイベントの場面など『ハング・オーバー』シリーズの終幕に似てはいたものの、遠く及ばない)、話はデタラメでもよいがデタラメを本当にする魔法もまったくない。全体を通じてちょっとずつ笑わせようとする場面も差し挟まれるが、主役の西田敏行(ジェイムズ・ブラウン好きのヤクザの組長)と寺島しのぶ(タクシー運転手)の場面と西田敏行が留守番役の根岸季衣を自分の別れた娘(常盤貴子)と間違えて抱きしめるところとモノマネ藝人たちが登場する場面以外はほぼ可笑しさが弱く、キョトンとするばかり。総理大臣の弱みを握られた≠ェ話を転がす一要素なのだが、それが赤ちゃんプレイの写真を撮られたこと≠サういえば三谷幸喜『THE 有頂天ホテル』で「マン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した堀田衛(角野卓造)のクネクネダンス≠フ動画が引っ張るだけ引っ張られて鑑賞の楽しさを転がしていく効果を上げていたが、本作の赤ちゃんプレイの写真を撮られたこと≠ヘ、それに遠く及んでいなかった(ただし『THE 有頂天ホテル』の公開は2006年なので、『THE 有頂天ホテル』のほうが本作を参考にしたのかもしれない。あるいはもっと昔のほかの映画で同様の手法があったのかもしれないが、それについては知らない)。なによりも、登場人物全員がJB好き、ソウル・ミュージック好きに見えないのが痛い(西田敏行の子分役の岸辺一徳が運営するソウル・ダンス教室の面々をもっと活かせたはずだし、チンピラ役の山本太郎、桐谷健太、吉田康平がいずれもソウル・ミュージックに疎いようなのも残念だし、肝心の場面で敢えて?JBナンバーを使わない意味もよくわからなかった)。「ジェイムズ・ブラウン好きのヤクザの組長」の娘役の常盤貴子もせっかく魅力的なのになんだか活かされてない印象だった(ナインティナインの岡村隆史も、登場させる意味が不明であった)。あといいところをなんとか挙げれば、エンドロールで登場人物ほぼ全員が交代で踊るところかな。ほかにも文句がいくらでも書けるが、これくらいにしておく。残念→朝6時就寝。
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