2025年01月31日

1月まとめ(21〜31日)


キム・ヨンギュン/イ・シヨン『殺人漫画』、スティーヴ・バーカー『ゾンビ・サファリパーク』、川口松太郎/渡辺邦男/藤山一郎『春よいづこ』、小杉勇/春日八郎/岡田眞澄/白木マリ『赤いランプの終列車』、田中邦和×佐藤芳明 於四谷三丁目〈dress〉、ダニエル・クワン/ダニエル・シャイナート/ミシェル・ヨー/キー・ホイ・クァン/ジェイミー・リー・カーティス『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』、ルキノ・ヴィスコンティ/バート・ランカスター/シルヴァーナ・マンガーノ/ヘルムート・バーガー『家族の肖像』、アルノー・デプレシャン『二十歳の死』、瑞穂春海/美空ひばり/川喜多雄二/日守新一『悲しき瞳』。

1月21日(火) 朝9時半起床。白湯→風呂→鶏ささみとどんことニンジンのスープ、ご飯、酢昆布、塩昆布、海苔→昼過ぎ〈むらさきmusicラボ〉。「きみはじゃまっけ」の仕上げ。歌の区切りごとの音の伸ばし方や表現方法などを細かく吟味。面白かった→〈Homer〉〈二丁目SOZAI〉に寄ることを検討するも、前者は休憩時間中、後者は臨時休業で残念。希望ヶ丘の〈サミット〉で惣菜など買って帰る→そばつゆ仕込み→アンガス黒牛ジューシーカットステーキ・ガーリック、若どりレバー焼き、キャベツとトマトのサラダ、みつせ鶏のチキンかつ、ビール中瓶×1、御酒×1。悪いけれども、〈サミット〉の惣菜はうまくないな。寿司は慣れてしまった所為かまだ選択肢に残るが→なんだか妙にくたびれて、また食べ始めてすぐにお腹いっぱいになってしまったので、ちょいと午睡→起きてから鯖の押し寿司3ケ、まぐろ鉄火中巻2ケ、納豆巻き2ケ、御酒×1→『ゲロッパ!』復習→風呂→11〜20日分の日記校正(映画の感想部分)→明朝のおつけ製作(なめこ、油揚、青葱)してたらお腹もこなれ目が冴えてきたので、『修道女の悶え』(原作:スタンダール『ローマ散歩(Promenades dans Rome)』、原題『Interno di un convento』、監督:ワレリアン・ボロズウィック。アレックス・パルテキサノ、マリーナ・ピエロ、ロレダナ・マルティネス、オリヴィア・パスカル、リジア・ブラニス、ガブリエラ・ジャコーベ、マリオ・マランザナ、ロドルフォ・ダル・プラ。1978、伊Trust International Films、Lisa Film製作/V.I.S. Distribuzione Cinematografica配給)。19世紀前半のイタリア中部にある修道院を舞台に、音楽や恋愛・性愛を無邪気に希求する修道女たち(強制的に入れられたという設定のようだ)と、修道女たちを監視し弾圧する(むろん修道女たちの破滅を防ぐためもあるのだが)院長との軋轢を描く。イタリア艶笑喜劇かと思って観たら、最後には神父の甥と修道女が関係を持ち、院長が毒殺され修道女たちも自殺、真相解明に乗り出した司祭は事件を闇に葬るという展開になり、修道院というものの在り方を批判的に問うような内容だった。若い(まだ少女か)修道女たちが「音楽や恋愛・性愛を無邪気に希求する」様の描写は扇情的というよりはあっけらかんと明るく、映像表現としてはなかなか好ましいと思ったが、果たして。日本では2003年にDVDが発売されたのみで、おそらく誰も知らない類の映画と思うが、まあまあなかなかの佳作ではないかと思った。修道女たちはそれぞれ個性的ではあるが、被り物(ウィンプルというのかな?)をしているので顔がよくわからず、またネット上にも情報が少ないので不明点も多かった。ということで、一応主要登場人物と俳優をここにも(登場順に)列挙しておく。シルヴァ(雑用係。修道女のひとりと関係を持つ):アレックス・パルテキサノ、アメリア(老シスター):不明、(以下主要な修道女たち)ヴェロニカ:マリーナ・ピエロ、マルティーナ:ロレダーナ・マルティネス、アマンディーヌ:オリヴィア・パスカル、フィオレンヌ:不明、ベアトリーチェ(ディルド作り):不明、クララ(主人公。神父の甥と関係を持つ):リジア・ブラニス、院長:ガブリエラ・ジャコーベ、ルクレチア(刺繍係のシスター):不明、パオロ(修道院に侵入しクララとセックス):不明、告解神父:マリオ・マランザナ、ロドリゴ(神父の甥):ハワード・ロス、妊婦シスター:不明、司教:ロドルフォ・ダル・プラ。あと序盤に音楽室?で修道女たちが音楽と踊り(そして修道女同士のセックス)にふける場面があるのだが、そこに登場する修道女たち(バイオリニスト、オルガニストなどもいる)が「主要な修道女たち」なのか、別の修道女たちなのかは不明。それとちなみに、原題は「修道院の内側」といった意味のようだ。最後に、本作の原作はWikipedia情報によればスタンダール『ローマ散歩(Promenades dans Rome)』(1829)とのことだが、これはスタンダールによるローマの人・歴史・藝術を訪ねる、という内容のようだ。ほんとうに本作の原作なのだろうか?→アンガス黒牛ジューシーカットステーキ・ガーリックふた切れ、納豆巻き四ケ、温泉卵(オリーブ油、塩)、バターご飯(顆粒鶏ガラ出汁、黒胡椒)、御酒×4→朝5時過ぎ就寝。
1月22日(水) 昼12時半起床。白湯→なめこ汁、ねこまんま、納豆巻き1ケ→『修道女の悶え』復習→連絡業務(原稿の一部改稿など)→『エロチカ・ポリス』(原題『La Poliziotta Fa Carriera』、監督:ミケーレ・マッシモ・タランティーニ。フランチェスコ・ミュール、エドウィジュ・フェネシュ、ジュゼッペ・パンビエリ、ジジ・バリスタ、ミケーレ・ガミーノ、マリオ・カロテヌート、アルヴァロ・ヴィターリ、ジャンフランコ・ダンジェロ、リッカルド・ガッローネ、ガストーネ・ペスッチ。1976、伊Dania Film製作/Medusa Distribuzione配給)。警察官志望の若い女性が憧れの警察官になり、所長付きとなるものの捜査はドジばかり、しかし必ずお色気を伴った活躍をして、ついには表彰されるという、日本なら二時間ドラマくらいの作品。物語も事件も特筆することはないのだが、主人公の女性警官ジャンナ・アミクッチ(エドウィジュ・フェネシュ)なんだかやけに魅力的なので、その魅力でついつい観続けてしまう(ちなみにエドウィジュ・フェネシュは、ほぼ同時期に撮られていた『青い体験』シリーズ全三作の主演)。まあそれだけの映画だが、笑いどころはぬるいとはいえ割といいところを突いているし、エドウィジュ・フェネシュを取り巻く男優がすべて間抜けなのがよくて、中でもとりわけ署長アンティノーリ(マリオ・カロテヌート)の部下タラッロ(アルヴァロ・ヴィターリ)の間抜けっぷり、コメディアンぷりは印象に残った(他の何かの作品でも観たことがあるかもしれないと思ったら、『青い経験 エロチカ大学』で観ていた)→納豆巻き2ケ、まぐろ鉄火中巻2ケ、菊水堂ポテトチップス、月見そば(刻み葱)、ビール中瓶×1、御酒×1→老父のPCのローマ字/かな入力が切り替わってしまったという連絡が昨日あったが、調べて解決したので電話で伝達。Windowsの操作としては基本の基本で調べるまでもなかったが、普段使ってないので骨が折れた→風呂→『有吉の壁』『笑点特大号』見て笑いながら、春雨サラダ(トマト、きゅうり、卵薄焼き)、麻婆豆腐、なめこ汁、ご飯半膳、ビール中瓶×1、御酒×3→夜12時就寝。
1月23日(木) 昼7時半起床。白湯→なめこ汁、麻婆豆腐乗せご飯→老父買い物代行(サミット)→老父の誕生祝いということで〈Homer〉へ。特選牛サーロインステーキ、カキフライ、コンソメジュリアンスープ、パン2ケ。満足。父も楽しんでくれたようでよかった。今後の試しに、焼サンドウィッチ(アメリカンクラブハウス)を持ち帰りにしてみる→父を送り、灯油購入して帰宅→菊水堂ポテトチップス、ビール中瓶×1→午睡→キャベツとトマトのサラダ、焼サンドウィッチ3切れ、野菜ポタージュ(じゃがいも、ニンジン、玉葱、キャベツの芯)、ビール中瓶×1→風呂→『殺人漫画』(原題『더 웹툰: 예고 살인』、監督:キム・ヨンギュン。イ・シヨン、キム・ドヨン、オム・ギジュン、ヒョヌ、クォン・ヘヒョ、イ・ヨンニョ、ムン・ガヨン。2013、韓CJ E&M Corporation製作/CJ E&M Pictures配給)。一度は挫折した女性漫画家が、とあるきっかけでヒットに結びつく作品を描くことができるようになるが、その作品は当事者しかしらない過去や当事者が殺害されることを予告するような内容。実際の殺人事件(人死に事件)と作品との類似に気付いた刑事が、女性漫画家を追い詰めていき、意外な真相に辿り着く−− という作品。漫画の絵も交えた恐怖の描写はなかなか。しかし終盤に差し掛かり「意外な真相」が明らかになる過程が、ちょっと説明が明確すぎて、恐怖を薄めてしまうかなという印象もあった。映画の中の漫画の表現はちょっと見ものかなとは思う。ちなみに原題を直訳すると「もっとウェッブ漫画を:予告殺人」のようだが、これを『殺人漫画』としたのは、切り詰めることで映画の内容を鮮やかに表した点で正解と思う→『女奴隷船』(原作:舟崎淳『お唐さん』、監督:小野田嘉幹。菅原文太、山口多賀志、三ツ矢歌子、三原葉子、菊地双三郎、丹波哲郎、川部修詩、宗方祐二。1960、新東宝)。クイーンと呼ばれる日本人女性(三原葉子)が差配するお唐さん船=|−日本の女性を上海に売り飛ばす奴隷船−−に、遭難した日本人中尉須川(菅原文太)が救われたところで、丹波哲郎が首領に扮する海賊船に襲われて、須川や、野戦看護婦になると騙されて連れてこられた瑠美子(三ツ矢歌子)など女性たちを含むお唐さん船≠フ乗員全員が捕虜になる。海賊の首領は日本の女性たちを中国人陳(川部修詩)に売り渡すことにするが、陳が須川の正体を知っていそうだと見るや、そちらも取引の材料にしようとする−− といったところから、須川と日本の女性たちが海賊や珍たちから逃れるという展開を描いたものだが、観る者に何を伝えたいのか、何を面白がってほしかったのかがまったくわからなかった(それはわかるが面白くない、ではなく、それ≠キらわからない)。菅原文太も売れない時期が長かったようなので、ファン/マニアはこういう作品も抑えなければならず、大変だなあと思った。感想としてはそれくらいか→海苔(醤油)、梅干し、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×2→午前4時半就寝。
1月24日(金) 午後1時起床→ニンニクスパゲティ野菜ポタージュかけ、クリームあんぱん→『女奴隷船』復習→即席ラーメン1/2→1月11〜20日の日記まとめ→風呂→『殺人漫画』再見→キャベツとトマトのサラダ、鶏もも肉じゃがいもニンジンのクミンバターソテー、野菜ポタージュ、鰯と菜の花のニンニクスパゲティ1/2、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1/2、御酒×1/2→夜10時半就寝。あと「きみはじゃまっけ」のギター練習はしたか。
1月25日(土) 午後1時起床→『錆びたナイフ』(原作:石原慎太郎、監督:舛田利雄。杉浦直樹、峰三平、深江章喜、水木京一、青木富夫、安井昌二、宍戸錠、天路圭子、河上信夫、高原駿雄、小林旭、石原裕次郎、弘松三郎、北原三枝、白木マリ、清水将夫、楠田薫、渡のり子、黒田剛、山田禅二。1958、日活)。石原裕次郎にとっては19本めの出演作、デビュー作『太陽の季節』(1956)ですでにスターの座を獲得しているから、本作などは余裕綽々≠フスターっぷりではある。宍戸錠は石原裕次郎より映画デビューは早く(石原裕次郎デビュー前年の1955年、森繁久彌主演の『警察物語』に若い巡査役で出演している)、本作が30本めの出演になるが、まだスターの座は射止めておらず(と思うが果たして)、本作でも重要な役回りではあるものの、短い出番ふたつみっつくらいの印象であっさり殺されてしまう。小林旭は映画出演12本めで(映画デビューが鈴木清順『飢える魂』だったとは恥ずかしながら初めて認識した)、このとき二十歳、作中でもまだ小僧っ子という役どころではあるが、アクションの切れのよさもあって、石原裕次郎よりも輝いていたと思った(ただしこれは贔屓目かもしれないが)。五年前の市会議長の自殺と、主人公橘行彦(石原裕次郎)が恋人に乱暴した男を刺殺した事件の真相を手繰っていくと、土地のビジネスヤクザ(杉浦直樹)そしてさらなる黒幕につながっていく…… という物語で、物語自体はまあ可もなく不可もなくと思うが、真相が明らかになっていく過程で橘が「すべてが巧妙なトリックの裏に隠されている」と呟くのは噴飯ものか(なぜならば、そのトリックを組み立てた原作者や脚本家が自分の組み立てたトリックは巧妙≠ニ言っているように聞こえたから)。あと橘の独白で、「この手が人を刺した」と呟く場面があるが、独り言でそんなこと言うか? とか。いずれも話の流れにうまく乗っていればつまらない疑問を感じることはないようにも思うので、何か浮いてしまっていたのだろうと思うが、果たして。暴力を捨てるかどうか、あるいは一度は封印した暴力を再び振るうかどうかの葛藤≠描いた辺りは面白かったとは思う。これは何度も書いているが、「石原裕次郎よりも輝いていた」という観点でいうと、やはり本作でも北原三枝は印象に残る。あと若い頃の杉浦直樹が不気味さや迫力も伴った怖い感じを醸し出していたのが、私が迂闊なだけかもしれないが、意外であった。と書いていて、そんなことを感じるということは、本作を観てたつもりだったが観てなかったのか→鰯と菜の花のニンニクスパゲティ1/2、焼き海苔、簡易雑煮(油揚、蕪、生姜)つゆのみ、たぬきそば(刻み葱)、金宮水割り×3→朝6時半就寝→午前11時半起床→簡易雑煮(餅1ケ、生卵、揚げ玉)→『ゾンビ・サファリパーク』(原題『The Rezort』、監督:スティーヴ・バーカー。ジェシカ・デ・ゴウ、マーティン・マッキャン、ジャッサ・アールワリャ、ローレンス・ウォーカー、ショーン・パワー、デイヴ・ウォン、エレン・リース、ダグレイ・スコット、クレア・グース、シェーン・ザザ、ステファン・ペジック、ジェイミー・ワード、ケヴィン・シェン。2015、英LWH Entertainmentほか製作/101 Films配給)。20億人もの死者を出したゾンビとの戦争≠ゥら7年後、戦争で生き残った(というのも変だが)ゾンビが離島に隔離され、「リゾート」という名の豪華な観光施設で狩の対象≠ニして観光客に狩られるという世界が舞台。そこに若いカップルのルイス(マーティン・マッキャン)とメラニー(ジェシカ・デ・ゴウ。戦争の心理的後遺症を克服するために参加という設定)、10代のゲーマーであるジャック(ジャッサ・アールワリャ)とアルフィー(ローレンス・ウォーカー)、婚約者に捨てられた女セイディ(エレン・リース)、セイディと同じくひとりで参加だが謎めいた退役軍人のアーチャー(ダグレイ・スコット)らが一チームとして狩≠開始したところ、「リゾート」のシステムがハッキングされ崩壊、「リゾート」の参加者たちは、ゾンビに襲われるはめになる…… という展開のきっかけとなった「ハッキング」をしたのが、ゾンビの権利団体≠ニいうのがとても味わい深い設定。そもそも「リゾート」の場面のはじめのほうでゾンビたちは、元は人間なんだよな≠ニ思わせるような演出(ゾンビを人間とは思わない人たちの台詞や行動など)があって、それに続いて主人公のひとりメラニーがゾンビを元は人間だと思う視点≠持っていることがわかり、ゾンビになると心はどこに行くのか≠ニいった疑問を呈したりする。その上でのゾンビ権利団体によるハッキング≠ナあり、「リゾート」運営会社(および難民救済団体)の人間の所業とは思えない≠謔、な行為が(図らずも)明らかになるという展開は、なかなか考えられていると感心した。人間描写などは薄味だし(10代のゲーマーたちも、四人で参加する浮かれた投資家たちも、来し方の描き方が軽い、あるいはほぼない)、アーチャーの映画内での役割もただ銃さばきがうまい≠セけなのも不満だし(ゾンビ権利団体の一員で、セイディの行動を監視していた?≠ニ思ったが、それは勘違いだったようだ)、また笑いもまったくないが、目の付けどころはよい映画と思った→山かけそば(刻み葱)→風呂→『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』第一部まで(途中で酔って眠くなったので)。今のところかなり面白いし、複雑さと単純さの塩梅がとてもうまいと思った。あと公開時はもっぱらミシェル・ヨーに注目が集まっていたが、実際観てみると夫役のキー・ホイ・クァンが達者なのに(そしてその達者ぶりをうまく演出で活かしているのに)感心した。本作の魅力のかなり大きな要素であると思う→ビアシンケン、モルダデラ、トマト、鴨燻製炙り、ピーマン炙り、菊水堂ポテトチップス、蕪酢、ビール中瓶×1.5、金宮酎ハイ×2→夜10時就寝。
1月26日(日) 午前4時起床→『春よいづこ』(原作:川口松太郎、監督:渡辺邦男。徳川夢声、水町庸子、原文雄、藤山一郎、英百合子、霧立のぼる、奥山彩子、手塚克己、齋藤英雄。1940、東宝映画)。町医者早川(徳川夢声)の息子太郎(藤山一郎)がいろいろあって東京の大学の医学部に進むが、音楽全般への才能と歌のうまさを認められ最後には歌手として大成功する、という話。藤山一郎扮する太郎が、最初にヴァイオリンを披露したかと思えばトロンボーン、アコーディオンでも確たる腕を示し(実際の演奏はなかったと思うがトランペットやギターもこなすという設定)、地元の鼓笛隊を指導し、さらに自身の作曲が流行歌手進藤治子(奥山彩子)の歌でレコードが吹き込まれるという才能の発揮っぷりである。太郎が進学した大学に、志(太郎の場合の音楽のような)に反して親の希望で医学部に来た学生で構成される「反志会」という集いがあるのが、時代を反映しているようで面白い。物語の細かい部分には粗というかあまり考えていないように見受けられるところもあったが、音楽と青春というテーマの映画としては、親の反対や無理解の描写もありつつ朗らかでいい気持ちにさせてくれる作品だった→『あの丘越えて』(原作:菊田一夫、監督:瑞穂春海。美空ひばり、鶴田浩二、飯田蝶子、奈良真養、新田実、森川まさみ、河村黎吉、紅沢葉子、戸川美子、井川邦子、中村弘子、南新一郎、水上令子、北龍二、堺駿二、高屋朗、河村百合子、中川健二。1951、松竹)。2023年5月27日に初めて観て以来二回め(衛星劇場の「歌謡映画特集」の流れで再見)。新発見は特にないが、世田谷が「あんなところ」呼ばわりされた上に山が近い土地に描写されていた箇所にはやはり笑った→ビアシンケン、モルタデラ、酢昆布、餅ソテー(胡麻油、塩)、磯部焼き、金宮お湯割り×4→午前10時就寝→午後3時起床→『赤いランプの終列車』(監督:小杉勇。春日八郎、岡田眞澄、白木マリ、近江大介、刈屋ヒデ子、中村万寿子、金田正一、小泉郁之助、早川十志子、宮城けんじ。歌手出演:平尾昌章、斎藤京子、三船浩、若原一郎、石井千恵、三橋美智也、大津美子。1958、日活)。岡田真澄がうらぶれた(しかし心の張りはまだ残っている)芸能興行社社主(といっても社員は自分のみ)、白木マリがその友人にしてライバル、このふたりが列車で移動中に知り合った車掌に扮するのが春日八郎で、岡田真澄を頼って歌手になろうと上京するも岡田真澄には裏切られ、しかし都合よく業界関係者に救われて歌手として大成功。破滅ぎりぎりの岡田真澄に再会し救う、という、気持ちがいいんだかどうなんだかよくわからない内容ながら、岡田真澄がけっこう本気の芝居を見せていて、物語など刺身のツマとばかりに当時の流行歌手の歌唱シーンばかりで構成される映画ながら、観終えるとちゃんと一本の物語映画≠楽しんだという記憶が残る。嫌いではないし、いい印象を得た。「当時の流行歌手の歌唱シーン」はいいが、列車の中で金田正一が登場して春日八郎と会話する場面は謎。笑いが多いわけではないが、「業界関係者に救われ」た春日八郎がテスト録音をした際、録音ブースからディレクター?がOKサインを出すのを見てお金のことかと思い財布からお金を取り出して見せるところはなんだか妙におかしかった。あとまだ汚れていない#猪リマリを見ることができるのも貴重かもしれない(「まだ」と言ったが、1957年の『嵐を呼ぶ男』や本作と同年の『錆びたナイフ』では夜の匂いをまとった女を演じているから、まだ昼の女の役もやっていた≠ュらいに表現するのが妥当か)→夕方四谷三丁目へ。まずは〈新記〉にて醤油焼きそば、ビール中瓶×1→〈dress〉に移動し、田中邦和×佐藤芳明のライブ鑑賞。演奏曲目や感想は後日追記するが、選曲も演奏もとても楽しく、〈カフェ・ムリウイ〉で何度か聴いた、「望洋たる大陸」と銘打った際の同じデュオ演奏と比べると、ほんの少し耳に馴染んだ音楽に近い、という印象はあった(ただしこのふたりで何をどうやるかという基本的な姿勢は「望洋たる大陸」と同じと思う)。2025年2月17日追記:演奏曲目は、「Last Tango In Paris」や「Mesecina」(後者はエミール・クストリッツァ監督『アンダーグラウンド』で使われた曲)などの映画音楽、聴き慣れたジャズ・スタンダードや各種名曲(「Tea for Two」「Alfie」「Libertango」)、バッハのフルートソナタ、ショーロ、東欧の曲などなど多彩。たとえばショーロの曲(曲名不明)などは。ブラジルの土着の音楽を東欧の楽器で日本人が演奏する≠ニいった具合で、どの曲についても正解がない¥態の演奏に、却ってこれぞ音楽という感興を得た。アンコールは「Hush-A-Bye」だったが、なるほどおふたりとも森山威男のバンドのメンバーだった→〈dress〉ではケーキ二種(レモンケーキ、ルバーブとゴルゴンゾーラのチーズケーキ)、ラムお湯割り×4、ストレート(シングル)×2。ゆっくり飲んだこともあり、楽しい酒であった。具合が悪くなったり眠くなることもなかった→平和に電車で帰宅→カップラーメン(飯田商店醤油らぁ麺。ニンニク醤油味付けゆで卵1/2乗せ)啜って、午前3時就寝。
1月27日(月) 午前9時起床。白湯→簡易雑煮(餅1ケ、もみ海苔)→〈富士自動車工業〉にクルマ12ヶ月点検入庫。いつも応対してくれる方もインフルエンザで大変だったそうだ→旧小坂緑地が休園なので脇の馬坂を登ったところ、脚の筋肉の衰えを実感。そろそろなんとか始めなければな→歩いて帰る道すがら〈藤木商店〉で焼き鳥、〈大橋とうふ店〉で油揚、〈結〉で天ぷらと唐揚げ買って帰宅→『べらぼう』見ながら焼き鳥(もも×2、つくねと皮×1)、鶏唐揚げ、天ぷらそば(イカ、レンコン)、ビール中瓶×2→午睡。かなりぐっすり充実の午睡だった→風呂→『赤いランプの終列車』『春よいづこ』『東京ラプソディ』など再見→焼き鳥とピーマンの炒め、イカ天、レンコン天、鶏唐揚げ、ビアシンケン、モルタデラ、ソーセージ炒め、酢昆布、舞茸と油揚のおつけ、ご飯半膳、ビール中瓶×1、金宮お湯割り×4→『恋山彦』(原作:吉川英治、監督:マキノ雅弘。大川恵子、大川橋蔵、田崎潤、田中春男、薄田研二、柳永二郎、日高澄子、明石潮、原健策、中村時之介、堀正夫、片岡栄二郎、小柴幹治、花房錦一、大村崑、丘さとみ、伊藤雄之助、香川良介、三井京子。1959、東映)。江戸時代五代将軍徳川綱吉(小柴幹治)のころ、壇之浦の戦いに敗れた平家の末裔である伊那の小源太(大川橋蔵)−−中盤で伊那の虚空蔵山にある平家の村を柳沢吉保(柳永二郎)に攻められて滅ぼされる−−と、三味線の名器「山彦」を巡って柳沢吉保に父十寸見源四郎(明石潮)を殺された娘お品(大川恵子)が、紀の国屋文左衛門(香川良介)の手引きで仇柳沢吉保を討つ、という、まあある種荒唐無稽な話。小源太が江戸で最初に綱吉、吉保と対峙し敗れそうになり逃げ伸びたのち、は画師・英一蝶(伊藤雄之助)に救われるのだが、英一蝶の親友の島崎無二斎が小源太に瓜二つであり(大川橋蔵がふた役)、また小源太の境遇に心打たれたころから身代わりを買って出て柳沢吉保方の捕手の前で自ら命を落とし小源太が死亡したと工作する辺りはなかなか涙を誘われるが、全体的にはなんだかピンとこなかったというか、物語がすっと入ってこなかったり、心打たれなかったり、という塩梅だった。マキノ雅弘が1937年に阪東妻三郎、花柳小菊、河部五郎、沢村国太郎、香川良介らで撮った『恋山彦 風雲の巻』『同 怒濤の巻』のセルフ・リメイクということなので、私がボンクラなのか、あるいは私には合わなかったのかもしれない→朝6時就寝。
1月28日(火) 昼頃起床→舞茸と油揚のおつけ、ねこまんま、海苔→日記整理、B電子B-40の一部改稿、諸々予約など→『エブリウェア・エブリシング・オール・アット・ワンス』(原題『Everything Everywhere All at Once』、監督:ダニエル・クワン/ダニエル・シャイナート。ミシェル・ヨー、キー・ホイ・クァン、ステファニー・スー、タリー・メデル、ジェニー・スレイト、ビフ・ウィフ、スニタ・マニ、アーロン・レイザー、ジェームズ・ホン、ジェイミー・リー・カーティス、ブライアン・ル、ハリー・シャム・ジュニア。2022、米Year of The Ratほか製作/A24配給)。破産寸前のコインランドリーを経営する中国系の中年女性エヴリン(ミシェル・ヨー)は、頼りない夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)からは離婚を切り出される寸前、娘ジョイ(ステファニー・スー)は反抗期でかつ同性愛者、老父ゴンゴン(ジェームズ・ホン)は頑固な上にボケかけている…… という破滅的な状況の中、締切も迫り財政状況も逼迫する中、内国歳入庁(IRS)に(誤魔化しするつもりも持ちつつ)税の申告に行くと、夫ウェイモンドの人格がガラッと変わり、なんだか頼り甲斐が出てきたかと思えば自分は別の宇宙(アルファバース)の人間≠ニ多元宇宙(マルチバース)の話をし出す。混乱しつつも厳しい監察官ディアドラ(ジェイミー・リー・カーティス)と清国についてやり取りしていると、いつの間にか多元宇宙(マルチバース)に放り出され、宇宙ごとに異なる性質や記憶や能力を持つ人間(女優、料理人、歌手、カンフーの達人など)として、宇宙ごとに現れる敵と戦い、出会う人と交流していく。という物語の設定はとても複雑でまた展開する速度も速く、初見では着いていけない部分も多々あったが、それなのに一見バラバラの各宇宙ごとの展開がとても面白く、飽きずに眺めていられる。そしてそうした複雑で展開速度の速い物語の上に、とても根源的な家族再生の物語があり、また全体的には複雑な構成を持ちつつ主要登場人物の数が少なく徒な複雑さを削ぎ落とした単純性も併せ持っていて、その複雑さと単純さの塩梅がとてもうまいと思った。また「各宇宙ごとの展開」も、家族がうまく行っていない状況を巧みに反映して組み立てられている(娘のジョイが最大の敵ジョブ・トゥパキとして立ちはだかるなど)。名作映画からの引用もいくつかあり、一回観ただけではすべてを語り尽くせるほど理解が及ばないし(私の頭が悪い所為もあり、また家で酔っ払って鑑賞した所為もある)、重要な要素であるベーグル≠ノついてもよくわからないままだったが(鑑賞後にいくつかの記事を読んで頭では理解したが)、その割にはたっぷり楽しめた。ミシェル・ヨーの芝居の素晴らしさは公開当時から評判だったのを知っていたが、夫役のキー・ホイ・クァンが達者なのに(そしてその達者ぶりをうまく演出で活かしているのに)感心した(『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』にて、上海からインドとインディ・ジョーンズを手助けする中国人少年ショーティを演じていた人。本作がおよそ20年ぶりとなる俳優復帰作)。本作の魅力のかなり大きな要素であると思う。マルチバース、移民/多言語、経済的困窮、家族の危機、老い、LGBTQ、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などなど、現代の人々が抱える諸問題を塩梅よく散りばめている点も、再見の際には理解を進めたい(ただしADHDについては、作品ないでは名言されていないが、エヴリンの人物像にそういう設定がなされていたそうだ)→芽キャベツニンニクソテープチトマト添え、ビアシンケンとモルダデラの炙り、鴨燻製炙り、オイルサーディン、ブリーチーズ、バケット、じゃがいもとニンジンのチキンコンソメスープ(ニンニク、キューブスープ)、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1/2→夜10時過ぎ就寝。
1月29日(水) 日付変わってすぐ起床→『エブリウェア・エブリシング・オール・アット・ワンス』の感想まとめ→クラシックギター用のストラップや弦などを〈サウンドハウス〉に注文→風呂→『家族の肖像』(原題『Gruppo di famiglia in un interno』、監督:ルキノ・ヴィスコンティ。バート・ランカスター、ジャン=ピエール・ゾラ、ギイ・トレジャン、シルヴァーナ・マンガーノ、エルヴィラ・コルテーゼ、クラウディア・マルサーニ、ステファノ・パトリッツィ、ヘルムート・バーガー、ロモロ・ヴァリ、エンツォ・フィエルモンテ、クラウディア・カルディナーレ、ドミニク・サンダ、フィリップ・ハーセント、ウンベルト・ラオ、ヴァレンティノ・マッキ。1974、伊Rusconi Film製作/Cinema International Corporation (CIC)配給)。早くに家族をなくし−−その辺の事情はあまり明確には語られないのだが−−孤独に暮らす老教授(バート・ランカスター。字幕では「科学教授だった」と示されるが、これも詳細不明。物語内の現在では美術愛好家)のもとに、有閑マダムのビアンカ(シルヴァーナ・マンガーノ)、その娘のリエッタと婚約者ステファノ(クラウディア・マルサーニ、ステファノ・パトリッツィ)、そしてビアンカの愛人コンラッド(ヘルムート・バーガー)が、上階の部屋を貸して欲しいととつぜんやってくる。教授は静かな生活を壊されたくなくて拒否したり、すったもんだの挙句結局貸すのだが、その一団が傲慢で非常識で言動もまったく理に適っておらず、教授は嫌な顔をしながらも、しかし次第に心を開き受け入れていく−− という物語。貸した部屋の住人はコンラッドのみという契約のはずが、一団は傍若無人に出入りしたり、とつぜん姿を消したり、かと思えば政治運動に関わっていたというコンラッドがかつての仲間に深夜襲われたり(博打の借金を巡って、かもしれない)と教授には落ち着かない状況が続くが、コンラッドの美術に関する造詣の深さなどもあり、「落ち着かない状況」は教授の日常になってゆく。長いそして老いての孤独が疑似家族を求め構築し安らぎを覚える、という物語と思うが(しかしその安らぎはいとも簡単に崩壊する)、「一団」の行動が日本人からするとあまりに傍若無人で、前半は不愉快すら覚えるほど。それによってそのあまりな傍若無人っぷり≠ェなにか本作にとって意味があるのかと思ってしまうのだが、しかしあれはイタリア人の国民性でたとえば日本で言えば『男はつらいよ』シリーズの車寅次郎のようなものかもしれないとも思う(教授の受け入れっぷりを見るとそうも思えてくる)。以前に観たのはもう三十数年前に深夜TVの放映でだったので、今回は(も?)その辺が割り切れず、もやもやしたものが残った。教授の台詞に「家族と思えばどんな結果になっても受け入れられる。すべてはこの家族のために役立ちたいと思って、とんだことになった」というのがあるが(映画からのメモではなくネットで拾った)、「家族と思えばどんな結果になっても受け入れられる」を表現しようとしてのあまりな傍若無人≠セったのかもしれない。あるいは疑似家族を強烈な存在≠ニして描くことで、教授晩年の擬似家族体験を鮮やかに表現したということか→じゃがいもとニンジンのチキンコンソメスープ、バケット3切れ、ビール中瓶×1、金宮水割り×1→朝7時就寝→昼頃起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、卵丼(小)→B電子B-40の修正案OK出たので第三稿まとめて提出→『二十歳の死』(原題『La vie des morts』、監督:アルノー・デプレシャン。ティボールト・ド・モンタランベール、ロシュ・レイボヴィチ、マリアンヌ・ドニクール、ベルナール・バレ、スザンヌ・ウォーターズ、ロランス・コート、ロラン・シリング、エレーヌ・ルーセル、エマニュエル・サランジェ、ベノワ・ブリオーネ、エマニュエル・ドゥヴォス、エリザベス・メイビー、アンドレ・セリエ、エリック・ボニカット、レゴリ・バケット、グスゼル・ゴフリー、ルイ=ド・ドゥ・ランクザン、ジョルジュ・ルッキ、ニコラス・コレツキー。1991、仏Odessa Films製作/Forum Distribution配給)。二十歳のパトリックが散弾銃で自殺を図り、昏睡状態になる。それを受けて親戚一同が集まることになり、Mac Gillis家にLenehan家、O'Madden Burke家、そしてパトリックの両親Fitzsimmons家(要確認)、総勢19名が集まる。O'Madden Burke家の長男(要確認)ボブはガールフレンドのローランス(エマニュエル・ドゥヴォス)まで連れてくる。で、例えば『桐島、部活やめるってよ』のように、パトリックはほぼまったく登場せず、親戚たちはパトリックへの関心を語り合ったり、パトリックの行動を理解しようとしたり、一方で若者たちは単に親戚がひさしぶりに集まったときのような会話をしたりしながら、時が過ぎていく。やがてパトリックの死が伝えられて、映画は幕。原題『La vie des morts』は「死者たちの人生」といった意味だが、「死者」が複数形(morts)であることから、親戚一同、あるいはその中の何名かは「死者の人生」を送っていると描かれていると思ってよいと思うが、それがパトリックへの無関心を表しているのか、ただ漫然と生きている様を指しているのかは、よくわからなかった。ひとりMac Gillis家の長女パスカル(マリアンヌ・ドニクール)のみ、パトリックの自殺に苛立ち、妊娠したかもしれないと動揺し、しかし親戚たちは楽しく過ごしもし、終幕では生理が来て、その早朝父エドワール(ベルナール・バレ)からパスカルの死を知らされる、と、パトリックの自殺に寄り添い動揺しているように描かれている。映画自体はひとりの青年の自殺をきっかけに、集まった親戚が家族の存在を見つめ直す様を描いた≠ニいうことのようだが、総勢19名もの登場人物(終盤に少しだけ出てくる司祭=ジョルジュ・ルッキを除く)を50分という短い時間の中に配し動かし「死者たちの人生」を紡いでいく様は見事だなと思ったものの、一度観ただけではその辺をどう捉えどう言語化していいのかは、よくわからなかった(じっさい、ほぼなにも理解していないに等しい)。登場人物の相関が複雑なので、再見のために(登場順に)整理しておく。Mac Gillis家:クリスチャン(弟1。ティボールト・ド・モンタランベール)、イヴァン(弟2。ロシュ・レイボヴィッチ)、パスカル(姉。マリアンヌ・ドニクール)、エドワール(父。ベルナール・バレ)、ドリー(母。スザンヌ・ウォーターズ)、祖母(俳優不明)。Lenehan家:イザベル(姉。ロランス・コート)(ほか三名はFitzsimmons家のあとに登場)。O'Madden Burke家:トニー(弟。ロラン・シリング)、ネル(母。エレーヌ・ルーセル)、ボブ(兄)エマニュエル・サランジェ)、シャルル(父。ベノワ・ブリオンヌ)、ローランス(ボブの恋人。エマニュエル・ドゥヴォス)。Fitzsimmons家:Jeanne Fitzsimmons(パトリック母親?。エリザベス・メイビー)、Père Fitzsimmons(ジョルジュ。アンドレ・セリエ)。Lenehan家:ポール(兄。エリック・ボニカットー)、シモン(弟。グレゴリ・バケ)、イリナ(母。スゼル・ゴフリー)。その他:ニコラ(親戚。ルイ=ド・ドゥ・ランクザン)、司祭(ジョルジュ・ルッキ)、アレクサンドル(親戚。ニコラス・コレツキー)→キャベツとオイルサーディン(酢、オリーブ油)、じゃがいも細切りバタ炒め(ニンニク)、鴨燻製とプチトマトソテー、小松菜胡麻汚し(油揚)、なめこきつねそば(どんこ、刻み葱)、ビール中瓶×2、御酒×1→『二十歳の死』の感想まとめ、意外に難しかった。というか、頭で理解しようとして理解できそうに思う要素は多々あれど、感想というのがあまり浮かんでこない映画だった(色々考えた結果は書いてみたが)→風呂→東京大衆歌謡楽団を取り上げた番組(『令和に昭和を歌い継ぐ』『鹿児島・宝山ホール&浅草公会堂』)見ながら一杯。菊水堂ポテトチップス、海苔、バター炒り卵、ビール中瓶×1、御酒×3→朝方就寝。
1月30日(木) 昼前起床。お茶→小松菜と油揚のおつけ、卵丼(小)→クラシックギター用のストラップ(肩掛け+サウンドホール引っ掛け)届いたので試してみる。最適な状態への調整はまだまだ必要だが、使えそうではあった→ぶらぶら歩いて〈富士自動車工業〉までクルマ引き取りに(先日の帰途と同じ道程で、今回は〈旧小坂家緑地〉を通過)。「クラッチレリーズシリンダーよりオイル漏れ」が少し心配だったが、いますぐどうにかなるほどの状態ではないし、今回の措置でまったく問題なしとのことで安心→世田谷通り沿いの〈サミット〉にクルマ停め、〈Analog Hamberger+Coffee〉にてハンバーガーほか購入→帰宅してサラダ(キャベツ、ピーマン、トマト)、オニオンリング、フライドポテト、アナログハンバーガー、ビール中瓶×1→引き続きストラップ+立奏練習。なかなか難しい。座って足ジングルも試みるが、これまた難しい上にあまり面白くはならない。どうしたものか→『明日は日本晴れ』(監督:清水宏。三谷幸子、水島道太郎、国友和歌子、間山政次郎、日守新一、坂田源次郎、御庄正一、上田熊男、上田秀男、石原ミドリ、明美京子、荒木忍。1948、東宝)。観始めてから、二年前(2023年3月5日)に観ていたことに気づく。新しい感想などは特にないが、バスの故障をきっかけにいろいろな人たちのいろいろな感情が噴出するものの按摩・福市(日守新一)の優しさがすべてを超えてはいけない一線≠フ範囲内に収めているのかな、とか、終幕で運転手清次(水島道太郎)と車掌サチ(三谷幸子)が峠でおそらく一晩動けぬ故障車の中でふたりきりで過ごすその顛末が気になる、とか、そういう前回思いつかなかった興味はいくつか湧いた。地味ながらけっこうな名作と思うのだが、それは日守新一の芝居に依るところが大きいのかな、とも→ソーセージ炙り、鴨燻製炙り、ピーマン炙り、ビアシンケン炙り、胡麻せいろ(あつもり)、金宮お湯割り×5、御酒×3→『本日の必殺必中仕事屋稼業』見ながらギター練習(指板を見ないで弾く練習)したのち就寝。午前2時半。と思ったが、衛星劇場で清水宏/根上淳/淡島千景『母のおもかげ』やっててつい終盤だけ観てしまう。午前3時就寝。
1月31日(金) 朝8時起床。白湯→小松菜と油揚のおつけ、おむすび(塩昆布)→微妙に宿酔につき、老父の買い物代行を午後にしてもらって午前中しばし横臥→昼過ぎ、老父買い物代行(クリエイト、サミット)および通帳記帳→ガソリン補給(千円分)→昼は外食はやめにして、希望ヶ丘の〈サミット〉で買い物して帰宅→天玉うどん(茄子、春菊、さつまいも、れんこん、カボチャ、海老。胡麻、おろし生姜)→晩の支度(キーマカレー仕込み)→風呂→パセリキーマカレー(舞茸、豆板醤、オイスターソース)製作→おむすび、コロッケ1/2、ささみカツ、ビール中瓶×1→『大江山酒天童子』(原作:川口松太郎、監督:田中徳三。本郷功次郎、林成年、島田竜三、勝新太郎、根上淳、市川雷蔵、山本富士子、小沢栄太郎、中村鴈治郎、田崎潤、金田一敦子、中村玉緒、左幸子、荒木忍、上田吉二郎、中村豊、千葉敏郎、長谷川一夫、澤村宗之助、伊達三郎、浜田ゆう子。1960、大映)。これまた観始めてから以前観ていたことに気がついた(2022年10月8日)。そのときは「冒頭の、四天王(本郷功次郎、林成年、島田竜三、勝新太郎)と一人武者(根上淳)、そして源頼光(市川雷蔵)の揃い踏みからタイトルが出るところまではしびれるくらいカッコよかった。が、冒頭で大江山鬼退治の伝説を見せて「だが然し」とその異聞が始まってからは、せっかくの居並ぶスターもやや色なく、子供騙しの特撮映画の趣になってしまったのが残念」と書いていて、確かに鬼童丸(千葉敏郎)の黒牛や茨木童子(左幸子)の鬼、土蜘蛛甚内(澤村宗之助)の蜘蛛などの造形や特撮全般などは、今回観ても「子供騙し」と思ったし、ときにあからさまな説明台詞が差し挟まれるけれども、人工着色っぽい照明をふんだんに使った絵造りは今回はなかなか楽しく感じたし、酒天童子(長谷川一夫)が正義漢に描かれているのも意外性があって面白かった。大立ち回りもなかなかの迫力、そして頼光と四天王たちが大江山に山伏のふりをして乗り込んだときの、勝新扮する渡辺綱が舞う「延年の舞」(字が合っているか確証がないが、合っているとすれば『安宅』『勧進帳』からの引用か)の見事だった。といった次第で、今回はどちらかというと楽しんで観た。前回「どこでどう「子供騙し」という印象になってしまったのだろう?」という疑問を持ったようだが、結局のところ、特撮のチャチさによるものと思う。まあそれはこの時代の映画だから仕方あるまい→パセリキーマカレー小皿×3、バケットトースト4切れ、金宮酎ハイ×2、金宮お湯割り×2→『悲しき瞳』(監督:瑞穂春海。美空ひばり、庄司晃良、大山巌、高瀬暎子、中村正紀、川喜多雄二、日守新一、望月優子、三井弘次、藤乃高子、草間百合子、井上正彦、奈良真養、水上令子、北龍二、多々良純、小林九十二、長尾敏之助、川田義久、新島勉、武田法一。1953、松竹)。美空ひばり主演の当時のアイドル映画≠ナあり、物語の進行とは関係のない(ように思える)美空ひばりの歌唱場面も差し挟まれるが、脚本がしっかりしているのか、一本の劇映画として十分堪能できた。東京の下町(佃島か?)の中学校を舞台に、田辺瞳(美空ひばり)はじめ修学旅行を楽しみにしている生徒たち(そして家の都合で参加できない生徒=中村正紀扮する坂田金八)とそれを見守る若い教師益本(川喜多雄二)と瞳の父親でもある定年間近の老教師(日守新一)をまず映し、決して裕福でも未来が明るい確証があるわけでもないが日々を幸福に過ごしている様子を提示したあとで、老教師の元不良教え子の新聞社勤務の阿久津(三井弘次)が登場し、金八の家でもある酒場に出資しようと女将つや(望月優子。金八のおばという設定)をかき口説いてから老教師に金の無心に行く。老教師は逡巡しながらも、阿久津の窮状(むろん阿久津の嘘)と今度失敗したらこの子の未来はない≠ニの思いから、修学旅行のための積立金(おそらく一ヶ月分)を貸してしまう。一週間で返済という阿久津の約束は、当然守られない。といったところから、益本の(ちゃんと計算した上での)義侠心、老教師の葛藤とやはり真実を述べようという覚悟(これも立派なだけではなく、子供たちの前で嘘をつきたくないという虚栄心や良心の呵責も窺える)、その結果としての金の不始末≠ノ対する世間の冷たい目と手のひら返し、さらに金にだらしない叔父(多々良純。老教師の亡妻の弟)のちょっかいなどなど、現実味を伴った人と人との関係や挿話が紡がれる(老教師が退職金で弁済しようと考えていたのに、それまでの教育者としての功績を評価されて定年が三年延び、その結果弁済できなくなってしまい窮地に陥るといった序盤から中盤にかけての展開は、設定だけでも見事だし、演出も日守新一の芝居も見事に効果的だった)。最終的には瞳の説得に応じた阿久津の改心と真実の告白から、校長(奈良真養)やPTA会長後藤(北龍二)の老教師に対する評価も変わり、すべて丸く収まり瞳の姉光子(望月優子)と益本との結婚まで決まってめでたしめでたしで終わるわけだが、その手前に結局修学旅行に発つことができた生徒たちの楽しそうな様子や(宿での美空ひばりの歌唱と踊りはよかった)宿の主人の優しさを示す挿話を挟んだのも、終幕に向けての流れとして効果的だったと思う。書き忘れたが、金の不始末≠フ直後の、父の不始末だが直接の下手人というわけではない瞳に対する旧友たちの態度(非難、無視、あるいは庇い立て)の塩梅、寿司屋の息子太郎(庄司晃良)と酒場の子の金八−−すなわち町場の地べたの(おそらくそれほど裕福ではない家の)子供たち−−だけが瞳に付くという流れも、よい視線と思った→午前4時半就寝。
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