2025年02月20日

2月まとめ(11〜20日)


Nuts & Nougat(桜井芳樹、高岡大祐) 於四谷三丁目〈dress〉、発表会 於〈むらさきmusicラボ〉、斎藤寅次郎/アチャコ/浪花千栄子『勢揃い 大江戸六人衆』、ジャスティン・ザッカム/ダイアン・キートン/ロバート・デ・ニーロ/スーザン・サランドン『グリフィン家のウエディングノート』、本多猪四郎/雪村いづみ/池部良/藤木悠『こだまは呼んでいる』、斎藤寅次郎/出雲八重子/小倉繁/弁士:佐々木亜希子『子宝騒動』、川端康成/久松静児/岸惠子/三宅邦子/上原謙『母の初恋』。

2月11日(火) 朝7時起床。白湯。目覚めたのは午前2時過ぎだが、起きて飲酒とはせず、朝まで寝床で粘った→キャベツのおつけ、ご飯、たらこ、海苔→午前中メガネの配達待ちでほぼなにもできず→昼までに届く予定だがあと一時間の眠気に耐え切れず、O形にあとを頼み午睡→午後1時過ぎ起床→メガネ届いており、試着の結果は良好→胡麻汁月見そば(刻み葱)→夕方下北沢に出て、〈Zoff〉にてメガネのレンズ入れ依頼。納期の確認方法をきちんと説明できない店員が謎であった→四谷三丁目に移動し、〈新記〉で晩。黄金ニラとモヤシ、エビシウマイ、カサゴ生姜葱ソース蒸し、シンガポールカレービーフン、ビール中瓶×2→〈dress〉に移動し、Nuts & Nougat(桜井芳樹、高岡大祐)ライブ鑑賞。二人の一音一音が素晴らしく至福。高岡大祐の歯笛とスキャットも、私にとっては新鮮で心動かされる響きだった→いちごとホワイトラムのレアチーズケーキ、ラムソーダ割り×1、ラムお湯割り×2、BOSOロック×1。最後にもらったBOSOという九十九里?のラムが、海藻の出汁のような味と香りでなかなか→平和に電車で帰宅→カップヌードル啜ってから就寝。午前2時頃。
2月12日(水) 朝7時起床。白湯→チキンカツサンドイッチ、カフェオレ→ギター練習。一部必ず間違えるところ出現(警告音≠ネど)。あとで重点的に処置しよう→老父買い物代行(クリエイト、サミット)およびエアコンフィルター掃除→十割天せいろ(松葉茶屋)。暖かいので外の席にて、焚き火も堪能。味わいの印象としては天ぷらが勝ってしまうので、十割の場合はただせいろのみのほうがよいかもしれない→ガソリン補給して帰宅→ 『だから言ったじゃないの』(原作:松浦健郎、監督:堀池清。安井昌二、柴田新、中村万寿子、松本染升、広岡三栄子、松山恵子、渡のり子、久木登紀子、芝あをみ、光沢でんすけ、千代田弘、上野山功一、井東柳晴、冬木京三、久松晃。1959、日活) 「だから云ったじゃないの」は唄うグラマー≠ニ言われた松山恵子が歌った昭和33年(1958)のヒット曲で、本作(何故か題名もクレジットの曲名も「言った」表記になっている)はこの歌のヒットにあやかって(即成的に)作られたプログラム・ピクチャーと思われる(おそらく)。歌詞の「だから云ったじゃないの/港の酒場に飲みにくる/男なんかの云うことを/バカネ/ほんきにほんきにするなんて」や「男の言葉にだまされて/さんざわたしも泣かされた」という部分をモチーフに物語が構築されたと思われるのだが、しかし港の酒場に飲みにくる男の言葉にだまされた≠フは主人公のひとり中沢道子(中村万寿子)の母親で清水港の酒場〈ラメール〉を営むアヤ(広岡三栄子)が土地の顔役光村(松本染升)に体よく店を乗っ取られるという部分で、それが物語の導入というか土台というかそういう機能は果たしているものの、主となる話は組を裏切った男鮫川(冬木京三)を、組からの使命を受けて神戸から伊東に追ってきた谷譲次(安井昌二)が、鮫川および鮫川を匿っている土地のヤクザ光村(松本染升)を倒す。その過程で道子との恋の芽生えが示唆される≠ニいうもの。要するにヒット曲「だから云ったじゃないの」は、本作にとっては題名と松山恵子本人の出演によって客を呼ぶ看板としてのみ機能していると想うのだが、果たして。物語にも演出にも役者たちの芝居にも、私は見るべきものをほとんど感じなかったので、そんな風に思ってしまった(ちなみに松山恵子は酒場の歌手として登場するものの、序盤で「ねえ、どうすりゃいいの」を歌ったあとは東京のレコード会社のオーディションに受かってレコードを吹き込む≠ニいうことで姿を消し、あとは終盤にちょいと顔を覗かせて酒場の女たちと、吹き込んだばかりの新譜という設定の「だから言ったじゃないの」を歌うだけ)。終幕では谷譲次が鮫川と光村を殺して警察に連行されるのだが、アヤの店の名義はすでに光村になっているという設定なので、アヤの店が守られた、というわけではないのも気になるところ。まあ、ほんのちょい役だがまだ若くて細面の上野山功一の姿が少し拝めるのが貴重か。そういえば「Kinenote」によれば鮫川に扮したのは富田仲次郎となっていて、これまた若い頃はずいぶん細面だったんだなあ≠ニ思ったのだが、ちゃんと確認したら鮫川を演じていたのは冬木京三だった→カリカリチーズおつまみ、チキンカツひと切れ、ビール中瓶×1→午睡→風呂→『Cu-Bop』(監督:高橋慎一。セサル・ロペス、ハバナ・アンサンブル(エミリオ・マルティニ、ルリー・エレーラ、オットー・サンタナ)、アクセル・トスカ、(U)nity(マウリ・アコスタ、ルケス・カーティス)、シオマラ・ラウガー、イレアナ・サンチェス、ロランド・ルナ、ミゲル・バルデス、アデル・ゴンサレス、アベル・アコスタ。ナレーション:テルマリー。2018、Kamita Label製作/ぴあ配給)。2019年9月10日に観て以来二度め。その際は、ドキュメンタリー映画として1)「キューバに残った人たちとニュー・ヨークに渡った人の音楽的な明暗というものをいろいろな角度からはっきりと語ってほしかった」、2)「キューバの音楽学校の学生たちがアクセル・トスカの音楽を聴いてどう思ったのかも伝えてほしかった」、3)「キューバに於ける音楽とニュー・ヨークに於ける音楽の共通点と違いを、もっと明確に表すことだってできたはず」、4)「取材することによってなにを描きなにを語りたかったのか、一回観ただけでは明確にはわからなかった」、の四点の不満を感じたと記録してあったが、やはり今回も同じ。2)に関していえば、前回も感じたと記憶しているが、キューバを離れずに音楽を続けてきたセサル・ロペス&ハバナ・アンサンブルの音楽と、ニュー・ヨークで鍛えられてきた(アクセル・トスカ率いる)(U)nityの音楽との差異に残酷さを感じ、それは制作者が意図したことなのか私の受け取り方(あるいは思い込み)なのかを確かめる術が映画の中に見つからなかったことも、やはり不満を感じる点ではある。あと、映画冒頭で「Cu-bop」という言葉について1940年代にアメリカのジャズが失ったアフリカのリズムを、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらBebopの旗手たちががキューバ音楽から取り入れて作っていった音楽≠ニいう説明があり(引用は不正確)、であればアフロ・キューバン・ジャズも含むアメリカでの話を語っているのかな?(チャーリー・パーカーに『Afro-CuBop Recordings』というレコードもあるし)と思わせられたところで、1959年のカストロによる革命でいったん幕を閉じる≠ニキューバでの話に転換しアメリカでの話は語られない、という点もよくわからなかったし、キューバではいったん幕を閉じたCu-Bopがどのように復活したのか(してないのか)≠ニいう点についての明確な提示が見当たらなかったのも残念な点である(もちろん、私の理解不足かもしれない)。セサル・ロペス&ハバナ・アンサンブルと(U)nityの音楽、また合間に紹介されるキューバの人々の音楽と生活(そしてイレアナ・サンチェスの画業)がいずれも興味深いものだったので(エンド・ロール直前のセサルとアクセルたちのセッションも)、おそらく本作の重要なテーマであろう「キューバを離れずに音楽を続けてきたセサル・ロペス&ハバナ・アンサンブルの音楽と、ニュー・ヨークで鍛えられてきた(アクセル・トスカ)率いる(U)nityの音楽」の差異の描き方が鮮やかでなかった点には、おそらく何度観ても不満が残るだろうと、今回観て改めて思った。そしてその不満が(自分の理解不足であれば)解消されるかもしれないという期待から、今後も何度も観てしまうだろうなとも思った→レンコンとニンジンのきんぴら(胡麻)、トマト、鯖塩焼き、ひと口餃子×5、チーズ、キャベツのおつけ(揚げ玉)、ご飯(錦松梅)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×4→ギター練習→午前1時就寝。
2月13日(木) 朝9時半起床。白湯→じゃがいものおつけ、卵かけご飯、海苔、錦松梅→ギター練習→『だから言ったじゃないの』『Cu-Bop』復習→たぬきそば(うずらの卵×2)→『だから言ったじゃないの』『Cu-Bop』感想まとめ→風呂→冷奴(醤油、かつ節、錦松梅)、鍋(豚バラ肉、えのき、白菜、豆腐、こんにゃく)、うどん半玉、ビール中瓶×1、御酒×4→寝しなにくだらない駄洒落映画の題名を思いついて、一人で笑う→夜9時就寝→深夜起床→『Zの戦慄』(監督:丸根賛太郎。上田寛、高田実、河津清三郎、羅門光三郎、林寛、見明凡太郎、市川右太衛門、伊達三郎、市川春代、原健作、月丘夢路。1948、大映)。市川右太衛門主演の現代劇は珍しいのではないかな、と思い観てみた次第。ちなみにWikipediaによれば「GHQの占領政策によりチャンバラ映画の製作が規制されたため、他の時代劇スターと同様、現代劇にも出演するようになった」とあるが、それに基づくと本作が戦後の現代劇出演第一作≠ニなるようだ。ただし敗戦直前に『マリア・ルーズ號事件 奴隷船』『菊池千本槍 シドニー特別攻撃隊』『国際密輸団』など(おそらく)明治を舞台にした作品に出演しているから、確かなことはきちんと調べないとならない。で、本作の物語を整理すると1)密輸団一味が首領津島(市川右太衛門)と副頭目烏山(高田実)との間で割れている、2)津島の妹早苗(月丘夢路)は警察官で、同僚井川刑事(河津清三郎)と恋人同士である、3)津島は酒場のマダム三千代(市川春代)と恋仲である、4)津島は最後に改心して密輸団の壊滅を決意し、早苗と井川に託す、ということになるが、観ていてこの話がまったく頭に入ってこない。私の頭や目(登場人物の顔や様子をすぐに覚えるのが苦手)なこともあるだろうが、登場人物の外見的な特徴がヤクザも刑事も似ていたり、三千代が脈略なく和装と洋装を着替える(しかも和装の直後に洋装で登場したりする)上にこれに扮する市川春代の雰囲気と月丘夢路の雰囲気に共通のものが感じられたりという点でけっこう混乱したし、三千代に惚れている客の伴さん(原健作)の物語内での役割が不明で、これも混乱の一因なのではないかと思う。市川右太衛門が加藤刑事(羅門光三郎)を殴る際のパンチ力がすごいなあ、というバカな感想しか残らなかった。ほかに印象に残ったのは原健作(のちの原健策)と河津清三郎が若過ぎてひと目では誰だかわからなかった、ということくらいか。当時の世評はどうだったのだろうか。後援に「神戸市警察局」「神戸市水上警察局」とあるから、いろいろ小うるさいことを言われての結果かもしれない(邪推)→鍋の残り、金宮酎ハイ×1、御酒×2→朝5時就寝。
2月14日(金) 朝9時半起床。白湯→煮込みうどん(昨夜の鍋に茹で卵とニンジン追加)→散髪の予約してたが、諸事情ありキャンセル。申し訳ない→ベーコンエピ、牛乳→予定変更で時間できたので、その分ギター練習→風呂→じゃがいもと芽キャベツの蒸し、ひじき煮付け(こんにゃく、ニンジン、油揚)、ひと口餃子×5、じゃがいものおつけ、ご飯、錦松梅、ビール中瓶×1、御酒×1→東京大衆歌謡楽団の映像作品二本ようやく見終わる。今のところ、存在は面白いが音楽としてはもう少し何か欲しい、という感じ。『コンサート』の映像のほうは2時間20分見続けるのはちょいとつらい(なので何回かに分けて見た)→『Zの戦慄』復習→午前2時就寝。
2月15日(土) 朝9時起床。白湯→じゃがいものおつけ、ご飯、錦松梅→10時半出発→まずは深大寺に立ち寄り、〈玉乃屋〉にて昼。太打ち釜揚げ→少し早めに〈むらさきmusicラボ〉に着き、二回リハーサル。本番環境だとまだ普段の力を出せないと改めて痛感→さて発表会本番。昨年の夏祭りには参加していなかった子供たちも今回は参加、親御さんも含めかなりの大勢が集まったが、子供たちがみな大人しく礼儀正しく、そしてピアノ演奏もそれぞれ自分の演奏したいことをやり切っている、という感じだったのに驚いた。大人参加者としては、最近シェケレを始めたという方と父兄のひとりのパーカッション・デュオ(曲目は「Be My Baby」)、我々、そしてトリはピアノ教室を主催されている方によるパーカッション演奏(曲目は「ラ・カクカラーチャ」)で、「ラ・クカラーチャ」は子供たちにも打楽器が配られ全員参加の楽しいものだった(私はギロを担当)。私は「きみはじゃまっけ」のギターの序盤のオブリガードでミスをしたし、やはり広い会場だとクラシックギターの生音が響いてこず、そのため会場を見回したり聴いている(見ている)人たちを楽しませる余裕がなかったなどの反省点あり。しかしこればかりは場数だなあ→会がはねたあとは大人の参加者のみ残ってお茶を飲みながら感想を語り合い、午後4時前に解散→帰途〈Homer〉に寄って早めの晩。コーンポタージュスープ、ミックスピザ、ホーマー風ハンバーグステーキ(筍、椎茸、ベーコン、うずらの卵、じゃがいも、ほうれん草、ニンジン)、パン1ケ。食事の最中は派手なところや特別感を感じないのだが、食べ終わって店を出るとなんだか幸せな気分になる。意外に簡単な秘密だったりもするかもしれないが、いい気分を味わえることは(今のところは)間違いない→無事帰宅し、柿ピー、ひじき煮付け、野菜蒸し、ビール中瓶×1.5。ここで眠くなり、夜7時半いったん就寝→三時間ほどで起床→『勢揃い 大江戸六人衆』(監督:斎藤寅次郎。伊藤隆、鮎川十糸子、アチャコ、田中謙三、永田光男、益田キートン、千秋みつる、キドシン、伴淳三郎、浪花千栄子、北上弥太朗、星十郎、山路義人、宮城千賀子、堺駿二、香川良介、富本民平。1953、松竹)。序盤での河内山宗俊(アチャコ)と想い人の髪結おもん(浪花千栄子)との会話の調子が心地よいのにまず釣り込まれる。アチャコが放つ「アプレ」「DDT」「オフリミット」などの戦後英語ギャグも大きな笑いではないがこの時代ならではのちょうどいい感じを味わえるし、おもんが勘違いから角を出した際の暗闇の丑松に扮する伴淳三郎の「来た来た来た来た13号」も妙に可笑しい。山路義人扮する森田屋清蔵が常にコワモテなのに丑松に騙されて窮地に陥るやとつぜん滑稽味を頻出させたり、丑松が惚れている質屋上州屋の令嬢お半(鮎川十糸子)の無邪気なサディストっぷりがちょいと捻りの効いた使われ方をしていたり、あるいは松平出雲守に扮する益田キートンのバカ殿っぷり、その出雲守を諌めにきた高木小左衛門に扮する堺駿二の強烈なムードメイカーぶりなどなど、細かい部分の面白さ、可笑しさが積み重なっていき、その上で落ちぶれた直侍(北上弥太朗)≠追ってきた女房子供(鮎川十糸子、伊藤隆)の前ではせめて一人前の格好にしてやろうという周囲の人々−−もちろん三千歳(宮城千賀子)含む−−の優しさの描写が涙を誘う(直侍はその一件がもとで松平家に取り立てられ、物語はハッピーエンド)。笑いとしては先述のように小さいものの積み重ねが多い印象だが、廓の小部屋がとつぜん大舞台に変化して大規模なレビューが始まる(さらに小さいが回り舞台まで仕込んである)という派手な演出もあって、これがまた可笑しい。河内山が寛永寺からの使者北谷道海を偽って松平家に乗り込む場面で、きっちり「とんだところに北村大膳」と言い放ったあとに大袈裟に「ぶあかめえ」ではなくさりげなく「アホ」というのも可笑しかった。『天保六花撰』(あるいは『天衣紛上野初花』)からはかなり大胆に喜劇として作り替えられているが、演出・芝居・編集などなどによる構成や間のよさも含めて、喜劇映画としてはすこぶる傑作であると思う→『グリフィン家のウエディングノート』(原題『The Big Wedding』、監督:ジャスティン・ザッカム。ダイアン・キートン、ロバート・デ・ニーロ、スーザン・サランドン、ロビン・ウィリアムズ、アマンダ・セイフライド、ベン・バーンズ、キャサリン・ハイグル、メーガン・ケッチ、トファー・グレイス、クリスティーン・エバーソール、デヴィッド・ラッシュ、パトリシア・ラエ、アナ・アヨラ、カイル・ボーンハイマー。2013、米Two Ton Films、Millennium Films製作/Lionsgate配給)。彫刻家ドン(ロバート・デ・ニーロ)を中心とした裕福なグリフィン家の次男(そしてコロンビアから養子に迎えた)アレハンドロ(ベン・バーンズ)が、グリフィン家の友人でもあるオコナー家(クリスティーン・エバーソール扮するマフィン、デヴィッド・ラッシュ扮するバリー)のひとり娘メリッサ(アマンダ・セイフライド)と結婚することに決まり、ドンの別れた妻であるエリー(ダイアン・キートン)含むグリフィン家一同−−長男ジャレド(トファー・グレイス)、長女ライラ(キャサリン・ハイグル)、そしてドンの現在の内縁の妻にしてエリーの親友でもあるビービー(スーザン・サランドン)−−が集まることに。そこにアレハンドロの妹ヌリア(アナ・アヨラ)だけでなく予定していなかった実の母マドンナ(パトリシア・ラエ)も参加することになるのだが、マドンナは敬虔なカトリック信者で離婚というものを認めない。そこでドンとエリーは今でも仲のよい夫婦であること≠装うのだが−− というコメディであるわけだが、グリフィン家はドンが無信心で色情狂、ジャレドは29歳でオクテで童貞、ライラは夫アンドリュー(カイル・ボーンハイマー)と別居中に妊娠が発覚と、一家全員がなんらかの問題を抱えている。アレハンドロとメリッサの結婚に立ち会う神父のモナハンはアル中の治療中だし、ビービーはエリーからドンを寝とったいわば略奪(事実)婚、おまけにエリーは気の迷いから友人夫妻の夫であるバリーとかつて浮気をしたことがある。こうしたひとりひとりが直面する問題を丁寧に描きつつ、ドンとエリーの家族のための嘘≠ェ家族間の関係や友人夫妻そしてアレハンドロの出身家との関係をこじらせていくわけだが−−その最中に奔放なヌリアがジャレドを誘惑するという一幕もある−−、現実だったらそれぞれ頭を抱えるあるいは頭がおかしくなるような状況を時に面白おかしく描く描き方の塩梅がよく(もっともアメリカのこの手の映画はそういう塩梅のよいものが多い印象はあるが)、物語が大団円へと導かれていく様が、とても喜ばしい♀エじであった(そういう意味での喜劇≠ナもある)。登場人物ひとりひとりも、眼福を味わせながらその辺にいる人たちのようでもあり(ただし裕福な様子≠ェ目につき過ぎるきらいはあるが)、ああよい喜劇を観たな、という満足感を味わえた→柿ピー、煮干し出汁殻、じゃがいものおつけ(揚げ玉)、金宮お湯割り×5→朝食の支度してから就寝。朝6時。
2月16日(日) 朝10時起床。お茶→キャベツと油揚のおつけ、卵とじご飯(錦松梅)→『犯罪のメロディー』(監督:井上梅次。待田京介、菅原文太、鰐淵晴子、吉田輝雄、久保菜穂子、桑野みゆき、エドキン、寺島達夫、松井康子、松井康子、安部徹。1964、松竹)。脳腫瘍で余命三ヶ月を宣告されたボクサー青島(待田京介)と、心臓を患い思ったように生きられないトランペッター手塚(吉田輝雄)。青島は病のために負けた試合を八百長と疑われてボクシング界を追われ、自らかけた生命保険でせめて故郷に残した母親孝行ができると思ったのに母親はあっさり他界し、では生命保険をアパートの隣に住む看護婦(鰐淵晴子)が勤める病院に寄付することにしたら生命保険はなんと外交員が不正に着服していたことが発覚する。その過程で巨額の違法な資金≠フ存在を知るのだが、一方手塚も同じ「外交員」を通じてその資金の情報を得ていた。かくして残り少ない命を燃やそうと、ふたりは巨大な闇の組織に挑むことになるのだが−− どこか増村保造風味も感じさせられる、特に序盤の展開にはなかなか心つかまれた。青島がやけ酒を飲む酒場で手塚に出会い、手塚のトランペットで酒場の歌手あけみ(久保菜穂子)が歌う場面などかなりしびれるのだが、中盤以降は青島の葛藤と行動の描き方がバランスを欠いてくるように思い、少々だれてしまった。以外な人物が実は黒幕だった≠竍意外な人物が実は警察の人間だった≠ニいう展開も割とあっさりわかりやすく、そのため終盤に向けての青島と手塚のふたりと「闇の組織」との死闘もなんだか間延びした印象に捉えてしまった。結果としては青島は「闇の組織」壊滅にひと役買ったことになるのだが、それが八百長疑惑が晴れるのにつながらなかったのも残念(これは見落としかな?)。場面場面の絵造りが直感的にカッコいい≠烽フだったり、青島の故郷の恋人伊津子(桑野みゆき)の芝居が素晴らしかったり、見るべき要素も少なくなかったので、全体としてはいささか憾みが残ったが、青島の死が最終的には一般市民からの病院への寄付≠ノつながったところで話が終わるという救いが描かれたのはよかった。そういえば菅原文太が青島のセコンド役で出演。ちょい役ではあり芝居も一面的で巧みさは感じなかったが、出演場面での迫力や切れ味のよさは待田京介を喰っていると思った→たらこスパゲティ(パセリ、うずらの卵×2、刻み海苔)、ナス肉味噌パン、ビール中瓶×1→『笑点』見ながらビール中瓶×1→風呂→『こだまは呼んでいる』(監督:本多猪四郎。雪村いづみ、池部良、藤木悠、左卜全、千石規子、沢村いき雄、伊東隆、由利徹、南利明、飯田蝶子、横山道代、小桜京子、笹るみ子、河美智子、八波むと志、藤尾純、内海突破、沢村貞子、小柳久子、若水ヤエ子、瀬良明、出雲八重子。1959、松竹)。山梨の山あいを走る乗合バスの運転手鍋さん(鍋山精造)が池部良、コンビを組む車掌のタマちゃん(三好タマ子)が雪村いづみ。ぶっきらぼうで怒鳴ることも少なくないが好人物の鍋山と仕事を愛していて愛嬌たっぷりのタマ子の組み合わせがとても好ましく、序盤は特に事件も起きず淡々と山あいの町村と町村とを結んで走るバスと乗務員、そして町村の人々の暮らしぶりが描写されるだけなのだが、なんとも心地よい。タマ子は土地の名家である本屋の息子平沢健一(藤木悠)に惚れられ、やがて求婚されるのだが、両親(沢村いき雄、千石規子)の薦めもあり結婚前に足入れしてみたら身分違い≠ニいうことで姑孝子(沢村貞子)には邪険に扱われる。やがて平沢家を飛び出してバスの車掌に戻るのだが、その過程で描かれるタマ子の靴が傷んでいるので新しい靴を贈る≠ニいう話の流れでの、鍋山と健一それぞれの愛情の深さ≠フ描き方が秀逸と思った。鍋山がバスの運転手というだけで町の人気者であるなどのほのぼのとしたところなど、いい人たち≠描いたほのぼのとした作品ではあるが、バスそのものが人生のメタファー≠ニして描かれているような深みも感じた。雪村いづみを主演に据えたアイドル映画の趣もあるが(由利徹と南利明のいつも通りの笑い≠配したところなどもそう感じさせる)、繰り返し観たいと思わせられる魅力を持った名作であるとも思った→目玉焼き、ピーマン焼き、酢昆布、油揚煮(かつ節)、釜揚げ胡麻そば(葱)、御酒×4→夜11時就寝。
2月17日(月) 早朝起床するも二度寝し朝11時半起床。白湯→キャベツと油揚のおつけ、卵とじご飯(錦松梅)→ハードディスク整理→かけそば(うずらの卵×2、刻み葱)→唐突に、プランク30秒。いつまで続くか→風呂→晩の支度→『グリフィン家のウエディングノート』再見しながら、酢昆布、サラダ(キャベツ、ピーマン、トマト)、ポテトサラダ(ニンジン、バター、酢)、玉葱カレースープ(ニンニク、生姜)、ケバブミート、鶏と大根のカレー、チャパティ、ご飯、金宮酎ハイ×1、ビール中瓶×1、赤葡萄酒×1くらい→夜11時就寝。
2月18日(火) 9時頃目覚めたが宿酔で頭重く、午前中横臥。午後の〈中江クリニック〉受診の予定をキャンセル→昼頃起床。白湯→玉葱カレースープ、マトンビリヤニ→終日なにもせず→即席ラーメン(マルタイ棒ラーメンごま醤油、生卵、胡麻、海苔)→風呂→トマトとピーマンのサラダ、蒸し野菜(じゃがいも、ニンジン、芽キャベツ)、玉葱カレースープ、マトンビリヤニ、ビール中瓶×1→『子宝騒動』(原作:池田忠雄、監督:斎藤寅次郎。出雲八重子、小倉繁、野村秋生、横山準、小島照子、小島和子、藤松正太郎、高松榮子。1935、松竹キネマ製作/帝国館配給?)。子沢山の貧乏一家にまたひとり(ではないことが終幕で判明)子供が生まれるのだが、貧乏故に電気ガス水道すべて止められ産婆も来てくれない。という状況から始まるスラップスティックで、ギャグがギャグを生んでいくことによる笑いの渦の巻き方がものすごい。斎藤寅次郎の蒲田時代(1923〜1937年ということになるのかな?)の作品は、本作のほかに『明け行く空』『モダン怪談100,000,000円』(1929)、『石川五右衛門の法事』(1930)のみということなので迂闊なことは言えないが、和製スラップスティックの傑作であることは間違いないと思う。今回の鑑賞は、衛星劇場での放映にて、佐々木亜希子の説明(伴奏は永田雅代)による「活弁トーキー版」。説明は細かい笑いまでよく拾っていて、本作に新しい命を吹き込んでいたように思う。なお本作を放映した衛星劇場のWebサイトには、本作のタイトルロールにはない「高松榮子」の名前が記されているが、おそらく産婆役ではかろうかと思う。が、確証はない→プランク30秒→『母の初恋』(原作:川端康成、監督:久松静児。岸惠子、三宅邦子、上原謙、澄川透、田辺元、志村喬、丹阿弥谷津子、天津敏、千秋実、香川京子、小泉博、加東大介、黒田隆子。1954、東宝)。原作についてまったく考えずに観ると、ただただ岸惠子の美しさと可愛らしさに惹き付けられ、それから役者全員が過不足なく本作の物語世界を瑕疵のないものに構築していて、とても感心するのだが、かと言ってずんと感動し満足感を覚えるかと言えばそうでもない、という印象を得た。たとえば雪子(岸惠子)が自分の養父であり母・民子(丹阿弥谷津子)の初恋の相手でもある佐山(上原謙)を慕う気持ち、佐山が雪子を好ましく思う気持ち、ふたりの関係を見つめる佐山の妻時枝(三宅邦子)の想いといった内面、あるいは表面に現れない気持ち≠フ映画内での表現が足りない、あるいは敢えて鮮やかに描かない/淡く描くという方法を選択したのかもしれないが、私のような鈍感な受け手には、スッキリしない≠ニいう印象のほうが強く残ってしまった。雪子の結婚相手である若杉(小泉博)の、なにひとつ深いところの事情を知らないがそれでも真心から雪子を幸せにしようと決意する様子や(しかしおそらくそこは本作の肝ではないのではないかと思う)、民子が雪子に遺した「一番好きな人と一緒にならなくちゃ、女は一生不幸せなのよ」という言葉には、感動あるいは感銘を覚えるのだが(ちなみに後者は佐山によって「お母さんの亡霊」と切り捨てられてしまう)。スッキリしない≠ニ言えば、二度だが繰り返されるナマズのくだり、三度だが繰り返される白い花(三度とも種類の違う花と思う)のくだりが意味するところも、結局よくわからなかった。おそらく原作を深読みしないと理解し得ない映画ではなかろうかと思ったが、果たして。なおちなみに、本作で重要な役割を担う佐山の友人高浜(志村喬)は、原作には登場しない人物のようだ(本作では高浜が民子と佐山の関係をよく知る人物で、映画の撮影所の責任者?であり、雪子の縁談にもひと役買うが、原作では若杉と雪子の縁談は佐山が仕事をしている撮影所に出入りの洋服屋が仲立ち≠ニいうことのようだ)。あと、序盤の回想で民子の最初の夫役で天津敏が登場するが、クレジットはされていない(天津敏の出演は、本作を放映した日本映画専門チャンネルやWikipediaから得た情報。見れば確かに天津敏だった)→金宮お湯割り×1→午前1時就寝。
2月19日(水) 朝8時起床→キャベツと油揚のおつけ、ご飯(錦松梅、梅干し)→老父買い物代行(サミット)および昼食同行(〈なかじょう〉にてかけうどん小盛り、いか天、とり天、ごぼう天、ちくわ天)。老父〈なかじょう〉までのわずかな距離の歩行も辛そうなのが気にかかるが(帰途はクルマを回して送った)、うどんはまあまあ食べていた(後刻確認したら帰宅後体調を崩すことはなかったとのこと)→O型を滝山に送り、お義母さんにご挨拶。お元気そうでなにより→〈角上魚類〉に寄って魚を物色するも、上着のポケットからiPhoneが消えているのに気づき、気もそぞろになったので今晩の酒肴と考えていた牡蠣、しらすぼし、わかめのみ買って、クルマの中にiPhone落としてないか探索。結局、クルマの中で使用した際に上着のポケットではなく斜めがけしたカバンに入れていたことが判明。間抜けだ→ガソリン補給し、希望ヶ丘の〈サミット〉でさらに買い物して帰宅→牡蠣鍋とおつけの出汁を取ったのち、〈中江クリニック〉受診。血液検査で血を取ったが、その他はいつも通り→クスリの受け取りは明日にして帰宅→晩の支度→風呂→『新必殺仕事人』見ながら晩。酢昆布、煮干し出汁殻(胡麻油、醤油)、蒸し野菜(じゃがいも、ニンジン、芽キャベツ)、しらすぼしの卵寄せ、牡蠣ごった煮(大根、ニンジン、白菜、舞茸、油揚、昆布、胡麻)、わかめのおつけ、雑炊、ビール中瓶×1、御酒×1。それにしても『新必殺仕事人』は名作だ→食後小林政広『海辺のリア』を観ながら、ちょいと船を漕いでしまった。途中で切り上げて、夜0時就寝。
2月20日(木) 朝8時起床。白湯→わかめのおつけ(揚げ玉)、牡蠣雑炊(うずらの卵×2)→風呂→『海辺のリア』(監督:小林政広。仲代達矢、小林薫、阿部寛、原田美枝子、黒木華。2017、「海辺のリア」製作委員会(日本映画放送=カルチュア・エンタテインメント=WOWOW=ビーエスフジ=東京テアトル)(企画・制作:モンキータウンプロダクション)製作/東京テアトル配給)。認知症を患い現役を引退した老名優、その財産目当てで老名優に遺言状を書かせ老人ホームに放り込んだ娘とその夫と娘の愛人、そして老名優が愛人に産ませたが捨てた娘が織りなす−− なんと言ったらいいのかわからない作品。現実をまったく失った状態の老名優が老人ホームを寝巻のまま抜け出して海辺を彷徨いながらとつぜんシェークスピアの芝居(リア王)を演じ出す物語の核になるのは、娘由紀子(原田美枝子)が画策した老名優桑畑兆吉(仲代達矢)の財産乗っ取り、そして愛人に産ませた娘伸子(黒木華)の父に捨てられたことによる凄惨な人生で(言い換えれば親子の愛情が失われていく過程)、そこがしっかり描かれていてこその老名優に扮した仲代達矢の海辺のリア王≠ェ活きると思うのだが、背景の事情は主に娘婿(元々は役者志望で桑畑の弟子だった)行男役の阿部寛と、黒木華のふたりによる説明台詞で語られるのみ。その説明台詞をひとり芝居≠ニ受け取ってみると黒木華は頑張っていたと思うが(私が観た他の作品での黒木の芝居では経験しなかった、心打たれるところも多かった)、阿部寛の独白からは(説明内容はわかっても)何も伝わってこなかった。原田美恵子は阿部と黒木による説明を補完する程度の台詞しか口にしないし、小林薫扮する愛人は最後の最後に由紀子に向かって「悪党」とつぶやくのみ。このふたりはほぼただいるだけ≠ニ映った。終盤に差し掛かったところで入水したと思われる伸子が、最後に海に倒れ込んだ桑畑を助ける、という流れも、説明がまったくないのでよくわからない。もし想像力を働かせろと言われるとするならば、なら不注意な観客の想像力をも刺激する工夫が見られないのはどういうわけだと言い返したくなるが、まあ喧嘩腰になる意味はない。結論としては仲代達矢の芝居はすごいな、というだけの映画と、初見では受け取った→胡麻そば(うずらの卵×2、刻み葱)→メガネ屋に電話してみたら、明日仕上がり予定のがもう出来てるということなので、散髪の帰りに取りに寄ることにする→昼過ぎ表参道に出て散髪。ビール350ml缶一本と風呂をいただく→下北沢に寄り、〈Zoff〉にてメガネ受け取り→千歳船橋下車、クスリ受け取ってから〈藤木商店〉で焼き鳥買って帰宅(つくね、皮、ナンコツ、レバー、モツ)→『新必殺仕事人』見ながら本日の口開け。菊水堂ポテトチップス、焼き鳥五本、ビール中瓶×2、金宮お湯割り×3→『有吉の壁』(録画)見ているうちに眠くなり、夜7時過ぎ就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記