2025年03月20日

3月まとめ(11〜20日)


ささみのシュニッツェル 於小金井〈Homer〉、斎藤寅次郎『明け行く空』、JDディスコグラフィー見直し作業、山田太一『早春スケッチブック』、『佐々木亜希子の活弁天国!vol.4』(ウィリアム・デズモンド・テイラー/メアリー・ピックフォード『連隊の花』) 於高円寺〈ちんとんしゃん〉、子母澤寛/松田定次/市川右太衛門/北大路欣也『父子鷹』、『第1回シン・道楽亭おでかけ公演 三三、柳家三三を上書きする』 於下北沢〈北沢タウンホール〉、『無声映画観賞会800回記念特別公演「百花繚乱 大活動写真大会」』 於〈亀戸文化センターカメリアホール〉、井上梅次/雪村いづみ/宝田明/高島忠夫/朝丘雪路『嵐を呼ぶ楽団』。

3月11日(火) 深夜起床し、日記ブログの更新など→朝7時横臥→午前11時起床。珈琲→金華鯖缶詰とカリフラワーの茎のカレー、コッペパン、スクランブルエッグ、牛乳→昼頃出て、〈むらさきmusicラボ〉にてレッスン。今後の課題をいろいろ考えたが、いずれも準備に時間がかかるので、本日も含めしばらくはボイストレーニングとソルフェージュ中心とする場合どんな進め方がよいか、の相談と試行錯誤。今までは曲の仕上げは頑張るが演奏は漫然≠ニいうきらいもあったので、表現力向上の効果が期待できそうだ→帰途は新青梅街道まで北上して〈角上魚類〉で買い物ののち、新小金井街道〜小金井街道と乗り継いで〈Homer〉で早めの晩。トマトクリームスープ、ささみのシュニッツェル、テーブルパン。ささみのシュニッツェルは、ささみ自体の味わい、衣の薄さと歯触りなどが想像以上だった。満足。クルマ故飲めないが、それでも本日もいい気持ちになった→帰宅して風呂→湯上がりの一杯。トマト、蛤と菜の花の酒蒸し、ビール中瓶×1、金宮(かりん蜂蜜)お湯割り×1→夜11時就寝。
3月12日(水) 朝8時起床。白湯→金華鯖缶詰とカリフラワーの茎のカレー、ホットドッグ→老父買い物代行(クリエイト、サミット)およびクスリ受け渡し→〈玉乃屋〉にて昼。太打ち釜揚げ→父から頼まれた荷物を郵便局より発送し、希望ヶ丘の〈サミット〉で家の買い物してから帰宅→父の皮膚科受診予約(3月18日)→録画消化しつつおやつ。菊水堂ポテトチップス、ちりめんじゃこ、たらこ、しらすぼし、ビール中瓶×2、御酒×2→午睡→日付変わってから起床→『明け行く空』(原作:新井睦子、監督:斎藤寅次郎。川田芳子、河村黎吉、高尾光子、久良形眞、小藤田正一、二葉かほる、坂本武。1929、松竹)。夫の死と舅の仕事の失敗により婚家と愛娘から引き離された恭子(川田芳子)は、婚家との離縁を望んだ生家には帰らず姿を消す舅純造(河村黎吉)は銀行の経営に失敗したため家屋敷を売り払い、恭子が産んだ孫娘玲子(高尾光子)と共に田舎に移り住んで乗合馬車の御者となる。その田舎に教会が経ち、女性牧師として赴任したのがなんと恭子。お互いに母、娘とは知らず、恭子と玲子は再会を果たすが…… という、簡単に言えば母もの=B喜劇の神様と称された斎藤寅次郎には(多分)珍しい傾向の作品と思うが、随所に細かい笑いを入れてしまうのは習い性か(その笑いを、弁士の佐々木亜希子はよく拾っていた)。その笑いの散りばめ方と、母娘再会のお涙ちょうだい的な物語の展開との塩梅がよいかといえばそうでもないように思うのだが、不思議と心地い鑑賞を味わえた。冒頭のみに出てくる恭子の父親?(俳優不明)以外はみなどこか可愛らしさが仄見える点も、そんな味わいを醸し出しているのかもしれない→鰯わた焼き(卵入り)、菜の花と新玉葱としらすぼしのサラダ、海苔巻き(しらすぼし)、わかめとじゃがいものおつけ(揚げ玉)、金宮お湯割り×4→午前4時就寝。
3月13日(木) 朝8時起床。白湯→わかめとじゃがいものおつけ、ご飯(しらすぼし)、納豆→JDのディスコグラフィー見直し作業。今年の新作追加のついでに全体を確認したら、廃盤になったもの、入手可能になったものがいくつかあったので、「->」「n/a」の表記を見直すことにした→山かけそば(生卵、刻み葱)→プランク70秒。あと腕立て伏せ。これは二回しかできなかった。情けない→風呂→焼き鳥(皮、ねぎま、レバー、つくね、軟骨)、蒸し野菜(ニンジン、芽キャベツ)、たらこしらすぼし和え(胡麻、紫蘇)、わかめとじゃがいものおつけ、ご飯半膳、梅干し、ビール中瓶×2、御酒×2→夜8時就寝。
3月14日(金) 日付変わってすぐ起床。洗い物片付けて白湯→そばつゆ仕込み。ついでに酢昆布製作→録画整理→朝5時半就寝→午前10時半起床。白湯、焼き芋ふた切れ→わかめとじゃがいものおつけ、ご飯半膳(しらすぼし、たらこ、酢昆布)→プランク70秒→JDのディスコグラフィー見直し作業。昨日は画面上で気になる点のみ確認しようかと思ったが、時間もあるので、印刷して一点ずつ確認していくことに方針変更→月見そば(揚げ玉、刻み葱)→山田太一『早春スケッチブック』第三話まで。ここまでのところは、平和な(いろいろあるが努力して平和を獲得している)家庭に不穏な影が差す、その描き方が意地悪くて、第一話で提示したそのエグ味をいい味わいに緩和していく手練は、さすが山田太一と思った。ビール中瓶×1→風呂→芽キャベツ蒸し、ピーマン炒め、鰯煮付け缶詰、ひと口餃子5ケ、トマト入りポタージュ(じゃがいも、ニンジン、玉葱)、たらこしらすぼしスパゲティ(紫蘇、刻み海苔)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ(薄め)×5→夜11時就寝。
3月15日(土) 日付変わってすぐ起床→『連隊の花』予習→金宮お湯割り×2→朝6時半就寝→午前11時起床。白湯→野菜ポタージュ、卵サンドイッチ、ホットドッグ、珈琲→『早春スケッチブック』第四〜六話。まだ若い鶴見慎吾も妹役もちょっとした喫茶店のマダム役の人も隅々までうまいなあとか、山崎努の芝居を見て今はTVドラマではああいう多面的な人間の表現を求められてないのかなとか、昔のTVドラマはセットやスタッフの存在を感じさせないとか、そんな感慨が次々湧いてきた→風呂→夕方高円寺。〈ちんとんしゃん〉にて『佐々木亜希子の活弁天国!vol.4』見物。本日はウィリアム・デズモンド・テイラー監督/メアリー・ピックフォード製作/主演の『連隊の花』(原題『Johanna Enlists』(ヨハンナ入隊)、監督:ウィリアム・デズモンド・テイラー。メアリー・ピックフォード、アン・シェーファー、ウェスレイ・バリー、フレッド・ハントリー、ジューン・プレンティス、ジーン・プレンティス、ウォーレス・ビアリー、エモリー・ジョンソン、モンテ・ブルー、ダグラス・マクリーン、ジョン・ステップリング、ラルフ・ファヌーフ大佐。1918、米Pickford Film製作/Artcraft Pictures Corporation、Paramount Pictures配給)を鑑賞。第一次大戦下、実在の指揮官であるラルフ・J・ファヌーフ大佐率いる第143野戦砲兵隊=実際の軍陣たちが出演、この映画を製作・主演したメアリー・ピックフォードに名誉大佐の称号が送られるというアメリカの国威発揚映画ではあるが、内容は田舎の少女のおかしな様子を嗤う≠ニいうもので、田舎の農場の娘ジョアンナに扮したメアリー・ピックフォードの魅力がなければ、今日鑑賞に耐えない部分も多い作品なのではないかと思う。しかしメアリー・ピックフォードの表現力と、物語の中で淡々と撒かれていく笑いとで、ただただよい気持ちで笑わせてくれる作品と思う。国威発揚的な要素は、終幕で、第143野戦砲兵隊の面々が宿営していたジョアンナの家であるランサラー農場からドイツの戦場に向けて出発する(その際にメアリー・ピックフォードが名誉大佐になったと知らされる)ところくらい。あとはひたすら、田舎の農場の娘と若い兵隊たちの恋の鞘当てを含むささやかなドタバタで話が構成されていく。本日上映された映像は、メアリー・ピックフォード財団によって(要確認)修復され、失われた第三巻が残されたスチル写真からの静止画と字幕によって補われ、またダン・ライトによる音楽が編み込まれた版で、それに弁士佐々木亜希子が説明を付加。メアリー・ピックフォードの田舎娘ぶりを表現するのに弁士ご本人ご出身の庄内弁を巧みに用い、細かいところの笑いや機微も丁寧に拾った説明で、昨夜YouTubeに転がっている版(第三巻欠落)を、字幕ひとつひとつを和訳して読みながら行った予習の、その何倍も楽しみ、理解することができた。映画鑑賞と同時に優れた話藝を楽しませてもらった。監督のウィリアム・デズモンド・テイラーについてはまったく知らず、劇映画の撮影や編集、その他ギミックなどの面で本作ならではの際立った特徴はよくわからなかったが、ジョアンナの農場での退屈な生活を描いた直後、第143野戦砲兵隊がランサラー農場へとやってくる姿を捉えた映像の、木漏れ日を巧みに使った絵造りは美しかったと思う(撮影にはCharles Rosherという人がクレジットされている)→本日も懇親会は失敬してまっすぐ帰宅→千歳船橋下車、〈イオンリカー〉〈春日屋〉で買い物して帰宅。〈春日屋〉ではコロッケを買おうと思ったら目の前を歩いていた家族が残っていたコロッケを買おうとしてヒヤヒヤする。結局一ケ買え、あと残っていたおさつコロッケを購入。顛末を店の人に話して笑いになったのはよかった→おさつコロッケ、芽キャベツ蒸し(ニンニク)、菊水堂ポテトチップス、コロッケ、トマトとシャンピニオン(ハム)のソテー、オイルサーディンと新玉葱とピーマンのアーリオ・エ・オーリオ・スパゲティ、ビールロング缶×3→『THE CONT』や会津の旅番組など録画整理→金宮お湯割り×2→プランク70秒→午前3時半就寝。
3月16日(日) 昼過ぎ起床→野菜ポタージュ、オイルサーディンとスクランブルエッグのサンドイッチ(紫蘇)、牛乳→JDのディスコグラフィー見直し作業。調査済み箇所を清書→『早春スケッチブック』第七話見ながら菊水堂ポテトチップス、ビール中瓶×1。山崎努扮する余命いくばくもない(という触れ込みの)元カメラマンの、同情の引き方が腹が立つほど上手い→風呂場の壁掃除→風呂→『早春スケッチブック』第八話見ながら煮干し出汁殻炙り、鰯皮焼き、鰯刺身(紫蘇、刻み葱、おろし生姜)、豆腐とひと口餃子の鍋(青葱、芽キャベツ)、舞茸と油揚のおつけ(ご飯)、ビール中瓶×1、御酒×3→夜10時過ぎ就寝。
3月17日(月) 午前3時起床。白湯→『早春スケッチブック』の残り見ながらペヤングソース焼きそば(生卵、紫蘇、胡麻)、金宮お湯割り×3→朝7時半就寝→昼前起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ(揚げ玉)、ご飯(酢昆布)→『咬みつきたい』監督:金子修介。安田成美、天本英世、吉田日出子、緒形拳、石田ひかり、串田和美、かとうみゆき、森本毅郎、糸井重里、中康治、上田耕一、仲谷昇、深水三章、本田博太郎。1991、キャストス、MMI、東宝製作/東宝配給)。「緒形拳が“一番合わない役を演じたい”ということで始まった企画」だそうだが(本作のWikipedia)、実際、緒形拳が吸血鬼になるという点が面白い、というだけの映画だった。あと面白かったのは吸血鬼となった緒形拳に首筋を咬まれる安田成美がとても色っぽいのと、「やっぱり日本人にはドラキュラは無理かしら」という台詞くらいか。まあそれでも、亡き夫(緒形拳)の声をTV番組越しに聞いた妻(吉田日出子)が「パパ笑ってる」とつぶやくところでちょっと目頭が熱くなるのは、しかし演出の力というよりは吉田日出子の芝居の力か。話は吸血鬼好きで血液の研究をしている安田成美がルーマニアから吸血鬼の血液を密かに輸入して勤務先の病院の冷蔵庫に隠したものの、不正を行っている会社の陰謀で交通事故に遭った緒形拳に輸血されてしまい、一度はお骨になった緒形拳が娘(石田ひかり)の血をお骨にかけられたことで一年後に復活。会社の不正を暴くというもので、それ自体はスケールも小さく特に感心するところはなかった。不正のスケールをもっと大きくして、荒唐無稽な話にしたほうが、日本人が吸血鬼になってしまうというバカバカしい展開が活きたのではないかともうが、果たして→カレーパン、刻み山かけそば(刻み葱、刻み海苔)、ビール中瓶×1→JDのディスコグラフィー見直し作業続き→芽キャベツとひと口餃子の鍋、ハムとトマトのソテー、ほうれん草胡麻汚し、ビール中瓶×1、金宮お湯割り×3→風呂→ビール中瓶×1→夜0時就寝。
3月18日(火) 朝7時起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、卵かけご飯、海苔→老父買い物代行(サミット)。本日は皮膚科に連れて行く予定だったが、昨日発熱のためキャンセル。帰宅後、昨日今日と往診に来てくれたかかりつけ医往診に電話したところ、インフルエンザも新型コロナも心配なしとのことなので、皮膚科は3/21に予約を取り直す→『父子鷹』(原作:子母澤寛、監督:松田定次。月形龍之介、市川右太衛門、長谷川裕見子、東山千栄子、高松錦之助、志村喬、薄田研二、山形勲、原健策、江原真二郎、吉田義夫、伊東亮英、加賀邦男、神田隆、北大路欣也、戸上城太郎。1956、東映)。子母澤寛が1955年5月から1956年8月まで読売新聞夕刊で連載した同名小説の映画化。そして北大路欣也の映画デビュー作(当時13歳)であり、市川右太衛門・北大路欣也父子の初共演作であり、このふたりが勝小吉・麟太郎父子を演じるという、まあ記念碑的な作品である。市川右太衛門扮する勝小吉が、好人物なのはよいとしていささか立派過ぎる(読み書きが苦手には見えない)という憾みはあるが、登場人物がみな好人物−−悪役でさえそう見えるし、小吉には厳しい勝家の「おばば様」(東山千栄子)も麟太郎誕生の際にはいかにも好人物らしく相好を崩す−−でありながら嫌なバカバカしさや不自然さを感じさせない、ある種明朗時代劇であった(小吉が同僚を殺してしまい座敷牢に入れられるくだりも、何故だかあっけらかんとした明るさを湛えていた)。歌右衛門の走りが堪能できるのも好印象→鰯骨煎餅、ごま汁せいろ(紫蘇、熱盛)、ビール中瓶×1→夕方下北沢に出て、〈北沢タウンホール〉にて『第1回シン・道楽亭おでかけ公演 三三、柳家三三を上書きする』を見物。

柳亭市寿・・・・・・・本膳
柳家三三・・・・・・・錦の袈裟
(仲入り)
遠峯あこ・・・・・・・アコーディオン慢謡
柳家三三・・・・・・・百年目

柳家三三、長講でもさすがに無駄を感じさせず(こんな言い方は失敬ながら)上手いなあと思った。ただ、上手い∴ネ上の何かを感じられなかったような印象も得た。それについて色々考え、もしかしたら声が好みでないというだけかもしれないと思い至ったが、それもまあ自信がない。機会を見てまた観察したいと思う。開口一番の柳亭市寿「本膳」については特に感想なし(四代目柳亭痴楽の「恋の山手線」を披露した意外はほぼ記憶も残らなかった)。遠峯あこのオリジナル曲「ボクかっぱ巻き」はぜひ覚えたいと思ったのと、「ホーハイ節」に少し目頭が熱くなったのは、記しておきたい。歌詞が聞き取りにくかったのは、会場の音響の所為かな?→Nピーさんいらしてたのでご挨拶。もちろん席亭にも。Nピーさんが某大御所漫画家(『至福千年』など)を紹介してくださってびっくり(しかも隣に座られていた)→下北沢では飲まず食わずで、経堂〈オオゼキ〉にて買い物して帰宅→刺身盛り合わせ(鯛、マグロ中トロなど。紫蘇)、鰯骨煎餅、ウィンナーと芽キャベツの炒め(ニンニク)、山かけうどん(刻み葱、揚げ玉)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→午前1時就寝。
3月19日(水) 朝7時起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、ご飯、梅干し、酢昆布→朝9時に出発し亀戸へ。けっこうきちんと雪が降り、鉄道は遅れたり止まったりしていたが、予定通りに亀戸着→〈カメリアホール〉にて無声映画鑑賞会(マツダ映画社)主催の『無声映画観賞会800回記念特別公演「百花繚乱 大活動写真大会」』を見物。鑑賞したのは以下の11本。

『国士無双』(監督:伊丹万作。瀬川路三郎、渥美秀一郎、片岡千恵蔵、山田五十鈴、高勢実乗、伴淳三郎。1932、片岡千恵蔵プロダクション製作/日活配給)。ふたりの旅の浪人(瀬川路三郎、渥美秀一郎)が適当な人物を評判の剣豪伊勢伊勢守に仕立て上げ騙りでもって豪遊しようと思いつく。そこに通りかかったのが名もない青年(片岡千恵蔵)。さっそく計画を実行するがすぐに仲違いし、やがてニセモノ≠ヘ本物の伊勢伊勢守(高勢実乗)の娘お八重(山田五十鈴)を助けたことから本物に出喰わすが、いざ試合となったらニセモノが買ってしまう−− という、どうでもいい物語ながら、片岡千恵蔵の喜劇役者≠チぷりが楽しい。物語はその後、伊勢伊勢守が山奥に住む仙人(伴淳三郎)の元に修行に行くがこの仙人も実はまったく腕が立たず修行にならない−− というところで今回の上映は完≠ニなるが、その後は本物が再びニセモノ≠ニ対決するがまたニセモノ≠ェ勝ち、本物はニセモノ≠ノ伊勢伊勢守の名を譲ろうとするが、ニセモノ≠ヘ「自分には贋も本物もない」と言い放ち、お八重を連れて去っていく、続くそうだ(元は84分の作品だが、今回上映された21分版の復元版のみ現存とのこと)。今回の上映では高校一年生!の弁士澤田四幸にて鑑賞したが、なかなか堂に入った説明ぶりだった。楽士忍田結梨、古田士明弥による演奏も、フルートとピッコロの持ち替えなどが場面にしっかりハマっていた

『極地征服』(原題『À la conquête du pôle』、監督:ジョルジュ・メリエス。1912、仏Georges Méliès、Star-Film製作/Pathé Frères配給)。『月世界旅行』(1902)の10年後に撮られた作品だが、このときメリエス51歳ながら、『月世界旅行』に劣らない想像力と想像を形にする力の凄み(笑っちゃうような無邪気な狂気)を感じさせられた。1911年のラール・アムンセンによる南極点到達を踏まえた映画とのことだが(ロバート・エドウィン・ピアリーの北極点到達、ロバート・スコットの南極点到達も同時期)、南極点まで手作りの「アエロ・ビュス」で向かうとか(マイクロバスに鳥の頭や羽を付けたようなデザインが可笑しい)、飛行中に大空に人間でもって表現される星座とか、南極点に「雪の巨人」がいて、目、耳、口、手をそれぞれ個別に動かしながら、大暴れした挙句に溶けてしまうという展開は可笑しく楽しい。ただしジョルジュ・メリエスのこうした作風はすでに飽きられており、また極地探検のドキュメンタリー映画が公開されたこともあって、興行的には失敗だったそうだ(そういう話を目にしはしたが、実際どうだったかは未確認)。そんなこともありメリエスはスポンサーであり配給社であったパテとの契約を破棄し(1913年)、本作および『シンデレラ』『雪の騎士』『ブリション家の旅行』の四本を1912年に製作したのが、映画作家としての仕事となった。弁士飯村宏美の説明は言葉少なく、婦人≠ェ気球から墜落してエッフェル塔に衝突する場面や南極に向かう「アエロ・ビュス」を追いかける自動車が谷底に落ちる場面などにも触れず(笑わせどころと思うのだが)、いささか物足りなかった。楽士神アえりのピアノは、「ジムノペディ第一番」「亡き皇女のためのパバーヌ」「きらきら星」「ボレロ」などの本作の画面に合わせた変奏がなかなか楽しかった

『虚栄は地獄』(監督:内田吐夢。花沢義之、瀧田静江、長谷川清。1924、朝日キネマ合名社)。新婚夫婦の春夫(花沢義之)と夏子(瀧田静江)は、互いの職業を大会社のエリート社員、社長秘書と称していたが、実は春夫は靴磨き、夏子はバスの車掌。最初に春夫の正体がばれ、春夫は絶望のあまり家に戻らず自殺を試みるがうまくいかず、今度は夏子の正体を知って激怒して帰宅。そこに借金取り(長谷川清)がやってくるが、ちょうどボーナスをもらって帰宅した夏子が全額弁済し夫婦仲も戻ってハッピーエンド、という呑気な作品。他愛もない物語ながら芝居や編集の間がよくて映画そのものが印象に残り、弁士武藤兼治の説明と楽士丹原要の演奏はほとんど記憶に残らなかった。それだけ説明も伴奏も映画と一体化していたということだろうか。鑑賞している間はとても楽しい時間だった。なお借金取りを演じた長谷川清は本作の撮影担当者を苦肉の策で出演させたとのこと。また監督自身も役者として出演しているそうだが(監督になる前は役者だった)、どの場面かは不明。その辺は説明してほしかったなと思う

『チャップリンの冒険』(原題『The Adventurer』、監督・主演:チャーリー・チャップリン 、エドナ・パーヴァイアンス、エリック・キャンベル、マルタ・ゴールデン、高野虎市、フランク・J・コールマン。1917、Lone Star Corporation製作/Mutual Film配給)。映画俳優としてのデビューを果たしたキーストン社時代(1914)から数えると63本め、ミューチャル社への移籍からは12本め(ミューチャル社での最終作)。また監督も兼任するようになってからは51本めに当たる作品(数え間違いがなければ)(その後自分の映画スタジオを設立し、さらにユナイテッド・アーティスト社の設立に参加となるから、チャップリンのキャリアとしては前半の最終作といった位置付けか)。チャップリン扮する脱獄囚が、驚異的な運動神経で看守ら追っ手から逃れ、妙齢の婦人(エドナ・パーヴァイアンス)とその母親(マルタ・ゴールデン)、エドナに懸想する大男(エリック・キャンベル)が溺れているのを助け、エドナといい仲になるが、追っ手に見つかり再び逃亡する、というだけの映画だが、アクションの卓抜さ、アクション・シーンの組み立て方のうまさだけでずっとゲラゲラ笑っていられる楽しい作品。弁士麻生子八咫の説明はかなり強烈で独特の臭みがあり、本作にものすごく合っているものの好き嫌いが分かれる藝風と思ったが、私自身は好き嫌いで言えば嫌いのほうに傾くけれども、そうした感想を吹き飛ばして余りある話藝とは思った。登場人物同士の会話よりももっぱらアクションで見せる本作を、まるでスクリューボール・コメディのように仕立てた着想と腕は見事と思った。坂本真理の伴奏は、聞けば直前にいろいろ変更があったそうだが、そういう事情を感じさせず、映画自体や小八咫の説明とも合っていて、全体でひとつの作品として成り立たせていた、という印象を得た(楽曲としてわかったのは「チャタヌガ・チュー・チュー」のみだったが、効果的な用い方と思った)

『野情』(監督:後藤秋声。団徳磨、木下孝、原駒子、吉田正雄、岡村静子、近藤登。1928、東亜キネマ製作)。お尋ね者の平九郎(団徳磨)、お新(原駒子)、金太(木下孝)が追われていて、お新だけ逃げ込んだ酒場で大店諸国屋の倅伊三郎(吉田正雄)に出会い身染められる。平九郎と金太はお新と別れ逃げ続けるが、伊三郎も堅気に戻りそうになりお新はいったんは幸せになるものの伊三郎の放蕩は止まず−− といったところでお新は平九郎と再会、というところで一巻の終わり。あとの物語は、伊三郎とお新、そして仲間の六蔵(近藤登)とおぶん(岡村静子)とが悪事に手を染めるが平九郎が身代わりとなって助ける、と展開するそうだが、その部分は残念ながら残っていないとのこと。弁士佐々木亜希子の説明は、本作ではふたりの女性の心理に寄っていたという印象だが、そう言い切るには記憶に自信がない。ひとつ前が『チャップリンの冒険』、ひとつあとが『三公と蛸〜百万両騒動』といういずれも強烈に印象を残す作品だっただけに、いつか本作単体でじっくり鑑賞してみたいと思う

『三公と蛸〜百万両騒動』(監督:村田安司、作画:村田安司。1934、横浜シネマ商会製作)。「切り絵アニメーション」とのことだが、登場人物やタコの動きが特徴的かつなめらかで驚く。冒頭の祭での踊りなど、今ならひとつのキャラクターをコピーして作れるだろうが、本作ではどうしたのだろうか(ひとつ撮ってフィルム上で合成、とも思えない)。物語はぐうたらな魚屋の三公が友人にそそのかされて海中に眠る千両箱を取りに行ったらタコに追いかけられて…… という他愛もないものだが、とにかく技術力の高さと表現力に脱帽。弁士山城秀之の説明と楽士湯浅ジョウイチの三味線による伴奏は、ただただ楽しかったなあという印象だが、これまた「それだけ説明も伴奏も映画と一体化していたということだろうか」。今回鑑賞した中では、『チャップリンの冒険』と並んでこのままパッケージ化してほしい≠ニ思った上映だった

『温泉悲話三朝小唄』(サウンド版)(監督:人見吉之助。岡島艶子、柳妻麗三郎、秋田伸一、岡村義男、藤川すみ子、マキノ正美、多美一枝。1929、マキノプロダクション製作)。鳥取県・三朝温泉の新民謡(ご当地ソング)「三朝小唄」(野口雨情作詞/中山晋平作曲)の完成(1927。鳥取県倉吉町教育会主催の音楽舞踊演奏会にて佐藤千夜子の唄、中山晋平の伴奏で発表と、1929年(昭和4年)のレコード化(芸者歌手の藤本二三吉が歌唱)を記念して製作されたご当地小唄映画。牧野省三が指揮を執りマキノ・プロダクションにより製作された。ちなみに本作は大ヒットし、田舎の湯治場に過ぎなかった三朝温泉を一大観光温泉街にまで盛り立てたという。物語は年に一度の祭で老若男女が三朝踊りに興じるところから始まり、その中のひとり、三朝小町とまで言われたお久(岡島艶子)が酔っ払った宿屋の倅杢之助(柳妻麗三郎)に追いかけられ逃げて、東京からやってきた旅客、画学生の俊夫(秋田伸一)の元に逃げ込み、やがて恋が芽生えて俊夫は当地に家まで建てるものの、婚約者だった通子(多美一枝)が病に伏したことを三朝温泉を訪ねてきた通子の弟(マキノ正美)から聞き、見舞いのため東京に戻ることに。お久は父吾作(岡村義男)に身を売られてしまっていて、俊夫が東京に行っている間に連れ去られてしまうのだが、それでも俊夫の立場を考え悲しい別れを選ぶという悲恋もの。「三朝小唄」の[]︎泣いて別れりゃ サイショ/空までェ ヨイトヨイトサノサ くもる、という最初の一節が涙を誘う。弁士のアラカンます子は三朝温泉ご当地の人で、特に明確に方言を強調したわけではないが、それでもお国訛りの味わいはあり、旅情をかきたてられた(アラカンます子ははご当地で無声映画「三朝小唄」を語り隊という会に所属しているそうで、「百花繚乱」当日はご当地からのお客を大勢引き連れてきていた)

『鞍馬天狗』(原作:大佛次郎、監督:山口哲平。嵐寛寿郎、嵐佳一、中村竹三郎、生駒栄子、山本礼三郎、市川小文治、嵐橘右衛門、五味国枝、尾上松緑、秋吉薫、尾上多摩蔵。1928、嵐寛寿郎プロダクション製作)。嵐寛がマキノ・プロダクションから独立して嵐寛寿郎プロダクションを設立、「嵐長三郎」の名を返上し「嵐寛寿郎」になってからの第一作。今回の鑑賞をいいきっかけに改めて嵐寛第一作の『鞍馬天狗』を復習してみたが、本作は幕末の賑わう大坂の町の様子と、杉作(嵐佳一)が角兵衛獅子を演じる場面から始まり、鞍馬天狗(嵐寛寿郎)はすでに大阪城の水牢に捉えられているという設定で、全編約71分のうち鞍馬天狗が登場するのは上映開始後24分を過ぎた辺り、杉作が大阪城にまんまと忍び込み水牢に囚われた天狗を見つけるところにて。今回の上映はそこから始まり、途中寺子屋の場面などをカットしつつ(47分を20分ほどに編集したと思われるが、果たして)、終幕の暁国庵での大立ち回りと新撰組、見廻り隊そして杉作率いる子供たちの三者揃い踏みまで。弁士坂本頼光が初舞台でかけたという作品だけに、切れ味鋭い説明を堪能。しかし何度観ても、最後の最後に(おそらくなんの役にも立たない?)杉作率いる子供たちが駆けつけて映画が終わるというのが可笑しい(同年に撮られた次作『鞍馬天狗 恐怖時代』へと続く)。楽士宮澤やすみの伴奏は、残念ながら記憶に残らなかった(ここまで三時間で七本めという所為もあるだろう)

『こがねの花』(監督・作画:大藤信郎。1929、千代紙映画社製作/東京シネマ商会配給)。落語でもお馴染みの「田能久」の物語を、ピカソやコクトーにも賞賛されたという日本のアニメーション作家の草分けである大藤信郎が、江戸千代紙を使ったアニメーションとして構築。『三公と蛸〜百万両騒動』と比べると人物の足の動きの表現に稚拙さを感じたが、杉浦茂の漫画をアニメーション化したアニメーション作家みなまるこの作品にも通じるようなキャラクター造形は魅力的。また字幕がくしゃくしゃっと片付けられる表現も面白いと思う。ちなみに本作はもちろん白黒作品だが、原画は「フィルムセンターの<映画遺産>常設展示室で、大藤自作の撮影台とともに確認することができる」そうだ( https://www.eibunren.or.jp/?page_id=1187 )。終盤の大蛇と団子兵衛のやり取りや、大蛇が退治されたあとに団子兵衛の怖いもの≠ニして小判が投げつけられる(与えられる)落ちのあっけらかんとした表現がとても印象に残ったのだが、やはり疲労を極めつつあったからか、残念ながら弁士大森くみこの説明と楽士天宮遥の伴奏については、なにか感想を綴るほどの記憶が残らなかった

『国定忠治』(原作:行友李風、監督:牧野省三。澤田正二郎、原清二、中村哲、中村若之助、上田吉二郎。1925、東亜キネマ等寺院撮影所)。新国劇の澤田正二郎を主演に据えた作品で、「澤正一派が舞臺では十八番の「國定忠次」をその儘撮影したに過ぎない映畫である。」といった評もある(山本漉tによる。『キネマ旬報』183号 大正14年1月21日付に掲載)。ちなみにマキノ映画製作所が1924年に東亜キネマに吸収合併された直後に製作された作品で、本作が大成功したため牧野省三はふたたび独立、同年のうちにマキノ・プロダクションを設立している。その割には本作の情報はネット上にほとんどなかったのだが−− さて本作は全四幕からなるが、上映されたのは第一幕の有名な「赤城の山」と第二幕の「山形屋」。悪代官を血祭りに上げた国定忠治(澤田正二郎)が川田屋惣次(中井哲)に説き伏せられて「可愛いい子分の手前等」と別れて赤城の山を降り、旅に出た先で偶々巡り合った老いた男の女を売った金を奪われてしまった≠ニいう窮状を知ってその奸計の大元である山形屋藤造(鬼頭善一郎)の元に乗り込み、金と娘を取り返すところまで。「山形屋」に入ってすぐ上映トラブルがあり、絵がまったく写らなくなってしまったのだが、弁士麻生八咫も楽士鳥飼りょうも淡々と説明、伴奏を続け、特に説明は画面がなくても絵が浮かんでくるような見事なもので、一観客としてはとても感心した。結局映像の不具合は解消され、「山形屋」の冒頭から再会されたのだが、暗闇のまま終わってもよかったかな。ちなみに当時の新国劇の面々からは上田吉二郎や島田正吾が出演しているそうだが、これについてはまったくわからず

『第七天国』(原題『7th Heaven』、監督:フランク・ボーゼージ。ジャネット・ゲイナー、グラディス・ブロックウェル、チャールズ・ファーレル、ジョージ・E・ストーン、アルバート・グラン、エミール・ショータール、デイヴィッド・バトラー、ベン・バード。1927、米Frank Borzage Production製作/Fox Film Corporation配給)。第一次大戦前夜のパリ、貧しいながら誇りを生きている水道掃除夫のチコ(チャールズ・ファーレル)が薄幸な若い娘ディアンヌ(ジャネット・ゲイナー)を救い、やがて結婚するもすぐに第一次世界大戦の兵役に取られ、前線で負傷。ディアンヌの元には戦死の報が届くが、チコは視力を失ったものの、ディアンヌの元に帰ってくる−− といった物語だが、終幕に戻ってくるチコは果たして生きて戻ってきたのか、それとも霊として戻ってきたのか、玄関のドアを開けて入ってくるチコに微妙な光が当たっているのですでに死んだものとして描かれているようにも思うし、ディアンヌが純真な面持ちでこれからは私がチコの目になる≠ニいうので生きて帰ってきたとも思える(英語版Wikipediaでは「When the war ends, Chico returns home, his death having been wrongly recorded, but he is now blind.」と説明されているので、「霊として戻ってきた」ように見える表現はたとえば戦禍をくぐったことで魂に磨きがかかった≠ニかなんとかの仄めかしで、物語の表面的には生きて生還≠セと思うのだが、果たして)。チコとディアンヌはじめとして、ディアンヌの姉のナナ(グラディス・ブロックウェル)以外は登場人物がすべて善良で暖かく純真な心を持っているという条件の上での物語の組み立て方が、よくできている(わざとらしかったりあざとかったりしない)なあと思った。ジャネット・ゲイナーという役者の個性がそうした印象に効いているのではないかと思うのだが、どうだろうか。それにしても、チコとディアンヌの出会いの直後、出会ったばかりのふたりが「第七天国」まで階段を登るところ−−もちろんそのカメラワークも含めて、ふたりの気持ちがだんだん近づいてきている様子が津川ってくる−−は素晴らしい(と思うのだが、この日の上映は短縮版とのことなので、実際には上映されておらず私が記憶で補ってしまったのかもしれない。ディアンヌがゴビンさんの家へと続く板を恐々渡る場面などはカットされていたように記憶する)。弁士澤登翠の説明は、この物語の素晴らしさをよく伝えてくれたと思うが、私にはちょっと感情過多のようにも思えた(登場人物の心根の美しさは画面からだけでも十分伝わってくるので)。楽士柳下美恵の伴奏は、細かいところは記憶していないが、映画にすっと寄り添うような演奏だったように思う。なおちなみに、小津安二郎『学生ロマンス 若き日』(1929)に本作のポスターが登場する(主人公の部屋に貼ってある)。本作の英語版Wikipediaにも「The theatrical poster for 7th Heaven is displayed on the wall of the student Watanabe's lodgings in the oldest surviving film by the Japanese director Yasujirō Ozu, Days of Youth: A Student Romance (Gakusei Romansu: Wakaki Hi, 1929).」と記されている(本作の内容には関係のない話だが)

→終演後、楽士の坂本真理さん、弁士の佐々木亜希子さんにご挨拶してから、亀戸からバスで両国に出てぶらぶらと柳橋、〈小松屋〉で佃煮買い、浅草橋駅前で一杯やって帰ろうと思ったが中途半端な時間なので目ぼしい店はまだ開いてなく、ぶらぶら歩ってて目についた〈ミツケ〉なるハンバーガー屋に入ってみる。ハンバーガーは昼だけとのことで試せなかったし、若者向けなのだろう味付けは濃いめだったが、まあまあ満足。オニオンリング、ごぼうチップス、キャベツ塩昆布、プルドポークバケット添え、ビール中ジョッキ×3→うとうとしながら平和に電車で帰宅→風呂→ビール中瓶×1→『嵐を呼ぶ楽団』(監督:井上梅次。雪村いづみ、宝田明、環三千世、吉川雅恵、水戸光子、山茶花究、高島忠夫、江原達怡、神戸一郎、水原弘、柳家金語楼、森川信、柳沢真一、安部徹、朝丘雪路。1960、東宝) 井上梅次の、一世を風靡した監督作品『嵐を呼ぶ男』が1957年製作。その二年後の1959年に同じく日活にて小林旭主演の『嵐を呼ぶ友情』を撮り、その一年後にフリーとなって東宝にて宝田明主演で本作。「嵐を呼ぶ」を冠する映画は検索すると意外にたくさんあるのだが(『嵐を呼ぶ男』以前に邦題で『嵐を呼ぶ太鼓』と付けられたアメリカ映画もある。原題は『Lydia Bailey』)、井上梅次のこの三本を並べてみると、東宝移籍後の本作はなんだか微妙な感じがする(何故「嵐を呼ぶ」を冠したのだろうか?)。内容としては、親譲りの才能に恵まれながらその才能にいささか溺れている気味のあるジャズ・ピアニスト牧宏志(宝田明)が、バンドの解散やマネージャーの持ち逃げなどの困難に遭いながら、徐々に集まってくる理想のメンバー≠ニ共にバンドとしてのし上がり、挫折し、復活するという話で、理想のメンバーが徐々に集まってくる≠ニいう辺りは好むところではあるが、それほど特異でもないという印象。モダン・ジャズ風中心の演奏はそれほど面白いものではなかったが、流し役の水原弘のギターと途中から宝田明に合流する高島忠夫のトランペットのセッションはなかなかだった(全体に、実際の演奏は誰が演っているのだろう?)。あと魅力といえばふたりの歌姫−−雪村いづみと朝丘雪路の存在か。ものすごく興奮させられるというわけでもないが、バンド映画としても青春群像としてもたまに見返したくなるであろう、という感じの作品であった。それ故やはり、何故「嵐を呼ぶ」を冠したのだろうか? と感じてしまう次第。まあ井上梅次がジャズをモチーフに撮った、という程度の理由なのだろう(小林旭の『嵐を呼ぶ友情』は、ふたりのトランペッターとギタリストの話)→柿ピー、金宮お湯割り×4。O形と些細なことで言い争い。ちょっと面倒くさかった→午前4時半就寝。
3月20日(木) 昼過ぎ起床。白湯→舞茸と油揚のおつけ、ご飯、生のり佃煮→昨日鑑賞した無声映画の感想まとめ→きつね南蛮月見そば(揚げ玉)→O形サイト更新(絵日記)→無声映画感想まとめ続き、完了→風呂→夜0時就寝。
posted by aokiosamublog at 23:00| 小ネタ/思考/日記