2025年03月31日

3月まとめ(21〜31日)


久々の〈茅ヶ崎館〉〈ジンギスカン〉、玉川奈々福『気合いっぽん浪花節』 於茅ヶ崎〈亀の子道場〉、「心細い散歩」思い出し、フョードル・ドストエフスキー/アンジェイ・ズラウスキー/チェッキー・カリョ/フランシス・ユステール/ソフィー・マルソー『狂気の愛』、ニール・サイモン/ハーバート・ロス/マーシャ・メイソン/リチャード・ドレイファス『グッバイガール』、ジャン・ユスターシュ『ぼくの小さな恋人たち』。

3月21日(金) 結局眠れず午前1時起床。昼間少し熱があったが、測ってみると平熱だったので、まあいいかと起きる→日記ブログの更新→『月影忍法帖 二十一の眼』半分観て柿ピー、ビール中瓶×1→午前4時就寝→朝8時半起床。白湯→わかめと油揚のおつけ、ご飯、佃煮(生のり、きゃらぶき)→老父を迎えに行き、〈三鷹の森皮フ・形成クリニック〉へ。痛みの原因の左足第二趾の傷は思いのほか重篤で、血流が十分でないため自然治癒での快方にはまったく向かっておらず、皮膚がほぼ剥けてしまった状態との由。左足第一趾の水虫は二の次で、まずは〈杏林大学病院〉で診てもらって第二趾の対策を立てるのが先決ということで、紹介状を書いてもらい、明日連れて行くことになる→老父宅で明日のための車椅子手配して、〈なかじょう〉でうどん啜って帰宅。いか天、しょうゆうどん小盛り、揚げ玉、大根おろし。帰途明日の遠出のためのガソリン補給→JDディスコグラフィー修正作業。あとひと息。今日中には終わるだろう→『月影忍法帖 二十一の眼』(原作:山田風太郎『忍者月影抄』、監督:倉田準二。里見浩太朗、小堀明男、松方弘樹、清村耕次、中谷一郎、三島ゆり子、近衛十四郎、北条きく子、有馬宏治、神木真寿雄、唐沢民賢、大里健太郎、大山洋一、春川純、木谷邦臣、植村謙二郎、大邦一公、団徳麿、滝恵一、智村清、五里兵太郎、伊藤克郎。1963、東映)。八代将軍吉宗(里見浩太朗)の時世、江戸の町は放火が相次ぎ騒然としていたが、将軍の座を奪われた尾張大納言家の仕業と思われたものの、確証がない。そこで間諜として檀新兵衛(松方弘樹)やその姉楓(北条きく子)らを尾張家江戸家老伊集院頼母(近衛十四郎)の元に送り込むが−− そこから吉宗配下の間諜と尾張家子飼いの忍者たちとの争いになり、浪人寺西弥九郎(中谷一郎)とその妹お縫(三島ゆり子)と友人の三次(清村耕次)らを巻き込んで、真相の究明に至るのだが、しかし風太郎忍法帖が原作と知り抱いた期待は、ごく地味な忍法が少ししか出てこず、外されてしまった。松方弘樹が藝人に身を窶して歌を歌ったりするところはちょいとよかったが、再見はないな→菊水堂ポテトチップス、山かけそば(生卵、揉み海苔、刻み葱)、ビール中瓶×1→午睡→明日の荷造り→JDディスコグラフィー修正作業、全体の確認と修正提案の作成完了。思ったより面倒な作業になった→風呂→ビール中瓶×1→午前3時半就寝。
3月22日(土) 朝6時半起床。白湯→わかめと油揚のおつけ、卵かけご飯(あみ佃煮)、生のり、海苔→朝8時半出発して老父迎えに行き、車椅子押して〈杏林〉へ。形成外科を受診。昨日の〈三鷹の森皮フ〜〉の見立てとは異なり、わざわざ土曜日に来てすぐにどうこうしなければならない状態でもなかった。もっとももう手の施しようがない状態ではあるものの、通院と薬で誤魔化し誤魔化しという感じのようだ→途中から姉が合流したので(本人も骨折の治療)、会計と薬受け渡しを頼んで、父を送り届けたらこちらは一路茅ヶ崎へ。調布ICから中央道、八王子JCT経由。車中でミートパイ半分と珈琲ふた口→午後2時半〈茅ヶ崎館〉着。サロンで珈琲いただいたのち、部屋でビール→茅ヶ崎駅前まで歩いて、予約しておいた〈ジンギスカン〉で早めの晩。チート、ジンギスカン、レバー、野菜焼き、ラム、ホルモン、ウメサワー×2→御一行が近くで飲んでいるとのことなので、ちょいと顔出し。〈風神〉にて生ビール×1のみ→タクシーで宿に戻り仮眠→まだ酔いが残ってるので転ばぬようそろそろと風呂。湯船では沖浦和光『天皇の国・賎民の国』の「鎮護国家仏教の〈貴・賎〉観」を堪能→持参のiPodとバード電子のキューブスピーカーにてマーティン・デニーなどを聴きながら、湯上がりのビール→午前1時頃就寝。
3月23日(日) 朝6時半起床。白湯→二度寝→朝8時半起床。白湯→レーズンサンド、塩パン、珈琲→サロンで珈琲いただいてチェックアウト→網元料理の〈あさまる〉まで30分ほどぶらぶら歩く。以前一度だけ行った〈萬蔵丸〉(すぐ近く)は料理人がお亡くなりになり店仕舞いしたとのこと。残念。〈あさまる〉はたいそうな繁盛で、開店30分前で長蛇の列。記帳して待つが、果たして→一巡めで入れなかったので諦めてキャンセル。海岸に出てさまよい歩く→結局いつもの〈蘭〉で一杯。餃子、厚揚げ焼き、焼うどん、ビール中瓶×1.5→早めに〈亀の子道場〉向かい、しばし休憩→半年ぶりの玉川奈々福『気合いっぽん浪花節』を見物。曲士は沢村まみ。毎回恒例の「ミニミニ浪曲講座」に始まり(今回は関東節、関西節、合いの子節などを勉強)、一席めは「清水次郎長伝 お民の度胸」。昨年たまたまタブレット純(なんちゃって浪曲)、宝井一凛(講談)で聴いていたが、またひと味違うお民像≠堪能。仲入りのあとはお馴染み「空手バカ! アラブ風雲録 岡本秀樹一代記!」。この会の第一回(二年半前か?)で聴いて以来だが、細部までけっこう覚えていて、聴きながら思い出して行く過程も楽しかった。話の組み立て方のうまさももちろんだが、玉川奈々福の語りがあってこその魅力とも再認識→出演者、主催者にご挨拶して、今回は打ち上げ失敬しておいとま。〈北村水産〉にて釜揚げしらすや鯵の開きなど買って帰途に着く。ちょいと渋滞→帰宅後は取るものもとりあえず一杯。『笑点』と必殺スペシャル見ながら菊水堂ポテトチップス、しらす煎餅、はまぐり煎餅、釜揚げしらす、あおさの酢の物(針生姜)、芽キャベツ蒸し、釜揚げしらすと紫蘇のペペロンチーノ、ビール中瓶×1.5、金宮酎ハイ×2→じきに眠くなり、夜10時就寝。
3月24日(月) 朝4時起床。白湯→煮干し出汁殻と葱の炒め、しじみ汁、しらす雑炊(生のり佃煮)、納豆、金宮お湯割り×1→二度寝→釜揚げしらすと新玉葱のかき揚げそば(紫蘇天ぷら、あおさ海苔)、御酒×1。かき揚げはもう少し揚げたほうが(あるいは二度揚げしたほうが)よいかもしれない→以前、大磯〈ATGC〉の店内音楽のために作った「心細い散歩」という楽曲のコードとギター・アレンジを思い出したので、タブ譜スタンプを使って記録。あとで譜面・音源化して、今度は曲先でO形に歌詞書いてもらい、一曲仕上げてみようかと思う→譜面化しながら細部を調整しまとまったかなと思ったが、主旋律とコードの不整合など見つけ、〈ATGC〉用に録音した演奏を聴いてみたら、コードについてはまだまだ確認が必要とわかった。すぐに終わると思ったが、もう少し時間が要るな→風呂→『むかしの歌』(原作:森本薫、監督:石田民三。冬木京三、伊藤智子、藤尾純、進藤英太郎、澤井三郎、花井蘭子、三條利喜江、山田好良、山根壽子、高堂黒天、深見泰三、森野鍛冶哉、菊池双三郎。1939、東映)。前回ちょうど一年前(2024年3月26日)に観ていたのをすっかり忘れていたが、感想はほぼ同じ。「明治維新直後の大阪船場を舞台に、廻船問屋のひとり娘が実の母、実の妹と出会い、混乱の最中に父親が財を失ったことで身を売られ、再び実の母・妹との別れに至る、という物語。わがままで勝気なひとり娘を演じる花井蘭子が実の母との別れの場面で見せる無言の笑顔が素晴らしく、改めて名優だなあと思う。また原作・脚本の森本薫は名作『女の一生』の作者だけに、さすがに物語もちょうど観る者の琴線に触れるいい塩梅であった。しかしながらおそらくほとんど修復されない状態での上映(放映)だったので、音声が悪く作品世界に入り込めなかったのが残念。映画自体の所為ではないが、鑑賞や理解を阻害するほどの音質や音量バランスだったので、一応記しておく」→しらす煎餅、はまぐり煎餅、しらすとろろ(海苔、紫蘇)、揚げスパゲティ、ニンジンとオイルサーディンのかき揚げ(ニンニク、生姜)、しらすと新玉葱のお好み焼き(鶏ガラ出汁顆粒、紫蘇、生姜、あみ佃煮乗せ)、しじみ汁かけご飯(1/4膳、あおさ)、ビール中瓶×2、御酒×3→夜9時就寝。
3月25日(火) 朝5時半起床。白湯→しじみ汁、ご飯、釜揚げしらす、佃煮(生のり、あみ、きゃらぶき)、納豆、海苔→『狂気の愛』(原題『L'Amour Braque』、原作:フョードル・ドストエフスキー『白痴』、監督:アンジェイ・ズラウスキー。チェッキー・カリョ、フランシス・ユステール、ソフィー・マルソー、ミシェル・アルベルティーニ、ラウル・ガイラッド、クリスチアーヌ・ジャン、ジュリー・ラヴィックス、ジャン・マルク・ボリー。1985、仏Sara Films製作/AMLF配給)。ドストエフスキー『白痴』を原作、というか下敷きにしているそうだが(エンド・クレジットにて「Ce film a été libremant inspiré par "L'Idiot" de Fiodor DostoÏevski. Il s'entend comme hommage au grand écrivant.」と記される)、そう言われてみればレオン(フランシス・ユステール)がレフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン、ミッケ(チェッキー・カリョ)がパルヒョン・ロゴージン、マリー(ソフィー・マルソー)がナスターシャ・フィリポヴナということか。しかし観ている最中は『白痴』云々は知らず、ただ冒頭の銀行強盗から無茶を続ける連中が移動中に知り合った線の細い青年と行動を共にするようになり、ヤクザに囲われている女を奪い去り、恋の鞘当てがあって破局に至る、最初から終いまで騒々しい映画、とのみ受け取った。その「最初から終いまで騒々しい」という点はすごいなと思ったし(エミール・クストリッツァ『アンダーグラウンド』を少し思い出した)、『ラ・ブーム』でのデビュー以来わずか5年・5作めのソフィ・マルソー(まだ19歳)の狂気の芝居にも驚いたが−−ただし同じズラウスキ−の『ポゼッション』でのイザベル・アジャーニ(こちらは映画デビュー11年・13本め、26歳)に比べるとまだ無理があるなと思う箇所も散見されたし、ソフィ・マルソーだけでなく全体的に狂気ってもその程度か≠ニ醒めることが何度かあった。あるいは単に変なことをしているだけ、とか、難解というよりわかりにくいだけ、とか、登場人物たちの切実さが伝わってこなかった、とか。何を言いたい・伝えたいのかわからないのは別にかまわないのだが、それを上回って襲いかかってくるようなものが、私には感じられなかった。というのは、やはり『ポゼッション』級の映画を期待したからか。といいつつ、ソフィ・マルソーが劇中で演じるチェーホフ『かもめ』の(ズラウスキーの演出に応えた)芝居、若い女優アグラエ役のクリスチアーヌ・ジャンの存在感と芝居の力、そしてやはり「最初から終いまで騒々しい」ことのすごさなどは印象に残った→菊水堂ポテトチップス、揚げスパゲティ、釜揚げしらすお好み焼き(小)、釜揚げしらすとあおさ海苔の酢の物、ごま汁せいろ(紫蘇、生卵)、ビール中瓶×1、御酒×2→午睡→白湯→風呂→山田太一『シャツの店』。ひとまず、脚本のよさはいうまでもなく、役者たちのうまさに感心。今では望むべくもない→じゃがいもと芽キャベツ蒸し、舞茸かき揚げ、釜揚げしらすお好み焼き、ビール中瓶×1、御酒×2→夜0時就寝。
3月26日(水) 朝6時起床。白湯→新玉葱と粗挽きソーセージのスープ(ポーチドエッグ、紫蘇)、ベーコンエピ→そばつゆ仕込み。ついでに酢昆布も。今回は酢うすめで(水200ml、醤油大2、そばつゆ大1、みりん大1、酢小1)→クルマの任意保険支払い、明日分の老父の買い物などで、希望ヶ丘方面をひと回り。〈司〉にて昼。餃子、半ラーメン、ビール中瓶×1→午睡→賄い当番→酢昆布、冷奴、トマトとピーマンと釜揚げしらすのサラダ(あおさ)、鯵の開き、冷やしぶっかけうどん(ごま汁、おろし生姜、紫蘇、うずらの卵×2、揚げ玉)、ビール中瓶×1、御酒×1→シャワー→夜11時就寝。
3月27日(木) 朝6時半起床。白湯→ソーセージエッグサンドイッチ、珈琲、牛乳→朝9時前、老父宅に買い物届け、車椅子に乗せて〈杏林〉へ。採血とレントゲンののち、ずいぶん待たされてから診察。炎症の様子を推し量る白血球の数値は正常に戻り、骨も骨髄炎の兆候なし。今後はクスリで処置しつつ様子を見るとの由。来週も同じく木曜に診察となった→調剤を待ちつつ〈スリーガネシャ〉にて昼。お得ランチ(豆カレー、ライス、サラダ、ラッシー)→クスリ受け渡しして、くたびれたのでどこにも寄らず帰宅→録画しておいた瀧川鯉昇「武助馬」と入船亭扇遊「試し酒」聴きながら一杯。菊水堂ポテトチップス、ビール中瓶×1→午睡→うとうとして目が覚め際、やたらに足が攣る、それもほぼ痛みはないのだが今までに経験してない攣り方。こむら返りに近いのかな?→鯵骨煎餅、煮干し出汁殻素揚げ、ニンジンかき揚げ、ソーセージとトマトと小松菜の炒め、ビール中瓶×1→風呂→金宮酎ハイ×1→夜11時頃就寝。
3月28日(金) 朝10時起床。白湯→ぶなしめじと油揚のおつけ、ご飯、佃煮(きゃらぶき、生のり、あみ)、梅干し、うずらの卵×2→『シャツの店』全六話終了。自分でも変わってきていることがわかっているのにそれを認めたくない初老の男の悩みと再生を描いた、脚本・演出・芝居すべて完璧な傑作、と思った。惜しむらくは主役の周囲の人たちの行く末も描いてほしかったなと思うが、最初から六話という企画なのでまあ仕方ないだろう→JDディスコグラフィー更新用原稿作成に着手→冷やし月見そば(あおさ、刻み葱、揚げ玉)→JDディスコグラフィー更新用原稿作成続き(ゴーの連絡あり)。指示原稿作成は了。あとは再度全件の再チェックで完了→賄い当番→小松菜と油揚の煮浸し(生姜)、ニンジン天ぷら、鰯骨煎餅、鰯刺身(おろし生姜、紫蘇)、ぶなしめじと油揚のおつけ、ビール中瓶×1.5→風呂→JDディスコグラフィー全件の再チェック、全体の1/3くらい了→『怪物』(監督:是枝裕和。安藤サクラ、黒川想矢、田中裕子、森岡龍、黒田大輔、角田晃広、永山瑛太、柊木陽太、高畑充希、北浦愛、中村獅童、片山萌美、中村シユン。2023、「怪物」製作委員会(東宝、ギャガ、フジテレビジョン、AOI Pro.、分福)製作/東宝、ギャガ配給)。脚本家坂元裕二への、東宝からの映画の開発をしよう∞連続ドラマの脚本家のよさを活かそう≠ニいう提案から、一本45分くらいの尺で走り切ったドラマを三本立てにしたらどうなるか≠ニいう発想が生まれ、脚本ができ、それが是枝裕和に持ち込まれて実現した映画、とのこと( https://press.moviewalker.jp/news/article/1141797/ )。その一本45分くらいの尺で走り切ったドラマを三本立て≠ェ、小さな町のさらに小さな小学校とその家庭という範囲内で次々に起こる小さな事件≠ノついての、子供思いの母親(安藤サクラ)からの、普通に熱心な教師(永山瑛太)からの、そして事件≠フ中心にいる子供たち(黒川想矢、柊木陽太)からの、みっつの視点で描かれるという構成に発展し、さらにそれがシングルマザー、モンスターペアレント、同性愛(の萌芽)という現代的な問題と人間の中(あるいは人間と人間の間)にいる「怪物」の存在を浮き上がらせてくる、という映画と思った。その「怪物」を浮き上がらせてくる過程での、特に最初の子供思いの母親が先生からの虐待の疑いを確認するために学校に乗り込んでくる≠ニいうくだりのミスリードっぷりが凄まじく、うっかり騙されて自分の頭の悪さを痛感(校長役の田中裕子、担任役の永山瑛太の芝居がものすごく、また他の教師たちへの演出もミスリードに見事に効いていた)。しかし、「自分の頭の悪さを痛感」させられたからというわけではないが、見終えてみたら三部構成だった≠フはともかく、物語全体を構成する要素−−それも重要な−−が多過ぎて、一度ではこの映画の肝になる部分を捉えきれなかった。「人間の中(あるいは人間と人間の間)にいる「怪物」の存在」を描き出すというのが眼目だったのかもしれないが、それはそれで新味があるわけでもないし、もしそうだとしても、やはり様々な要素の組み合わせが中途半端に複雑=iあるいは中途半端に明確=jであるように思えてしまい、感心する部分は多々あったものの、圧倒させられる前に理解も進んでしまって、全体としてはこの映画はなんだったんだろう、という印象が強かった(終幕の描写は救い∞解放≠表しているように思うのだが、それがそうと明確に受け取れないような表現と捉えた所為もある)。いっそ頭で考えても追いつかないくらいにわけがわからないほうが、好き嫌いは別にして圧倒されたのではないかと思う。先に述べた役者たちの芝居や、脚本と監督の意図を明確に実現するような演出、恐ろしいとも思った子役ふたり(黒川想矢、柊木陽太)、坂本龍一の音楽−−とりわけ校長と渦中の生徒による金管楽器の、やけの不安を煽る二重奏と、その効果的な用い方−−などなど、(繰り返しになるが)感心する部分は多々あったものの−− と考えていて、それでいて「全体としてはこの映画はなんだったんだろう」と思ってしまうのは、自分が時代の流れに着いていけなくなっている証左かもしれないな、とも思った。しかしそういう問題を解決するために繰り返し観たいかと言われれば、そう思える作品ではないな→『枯れ葉』(原題『Kuolleet Lehdet』、監督:アキ・カウリスマキ。アルマ・ポウスティ、ミッコ・ミュッカネン、ヌップ・コイヴ、ユッシ・ヴァタネン、ヤンネ・ヒューティアイネンマッティ・オンニスマー、アンティ・マエッタネン、シーモン・アル=バズーン、マルティ・スオサロ、アンナ・カルヤライネン、カイサ・カルヤライネン、犬のアルマ、マリア・ヘイスカネン、アリナ・トムニコフ。2023、芬Sputnikほか製作/B-Plan Distribution配給)。昨年2024年の5月21日に映画館(下高井戸シネマ)で観たばかりで、新たな感想もないのだが、前回観た際の感想はこれはこれで読み返してみたら面白いので、そのまま引いておく。「原題は語意としてはそのまま「枯れ葉」で間違いはないが、物語から考えると落ち葉(のような人たち)が風に舞うように流れ流れては出会いひと時を過ごす≠ニいうニュアンスかもしれないなと思った。ダメな人たち≠ェなぜそうなったかの来し方をほとんど描きはしないが、それぞれの背景がほの見えてくるのは、その落ち葉(のような人たち)が風に舞うように流れ流れて出会いひと時を過ごす≠謔、な描き方だからかなと思ったりもした。多くのアキ・カウリスマキ作品と同様、どれをどれの代わりに観ても同じような感触だが、それぞれにえも言われぬしみじみとしたよさがある≠ニいう印象ではあるものの、犬の起用が印象的なのは本作だけに限らないが、犬が終盤に向けての物語の展開にも作用する中で、アルマ・ポウスティ扮する主人公のひとりアンサが、犬と過ごしながら笑顔を見せるところなど、アキ・カウリスマキ作品では珍しいのではないか(どうだろうか)。もうひとりの主人公のアル中のホラッパ(ユッシ・ヴァタネン)の職場の友人フオタリ(ヤンネ・フーティアイネン)が自信満々に微妙に下手な歌を披露したり、ホラッパとアンサが初めてのデートでよりによってジム・ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』を観たり、上映が終わったあとの観客の感想が「ブレッソンの『田舎司祭の日記』を思い出した」「いやゴダール『はなればなれに』」だったりアンサの感想が「今までで一番笑った」だったり、例によって変なバンド(ギターとキーボード、ふたりともヴォーカルという編成のマウステテュトットなるフィンランドの姉妹ポップデュオだそうだ)が登場したり、カラオケバーではシューベルト「セレナーデ」が歌われたり(そういえば『罪と罰』でもテーマ曲的に使われていた)などなど、妙なる笑いが散りばめられている点も、他の作品同様印象に残った。2017年の『希望のかなた』のあと何を思って引退宣言し、本作で何を思って引退を撤回したのかは不勉強にして知らないが、引退を撤回してくれてつくづくよかったと思わせられた作品であった」→柿ピー、金宮酎ハイ×2、ビール中瓶×1→午前3時半就寝。
3月29日(土) 朝9時起床。白湯→ぶなしめじと油揚のおつけ、ご飯、佃煮(きゃらぶき、生のり、あみ)、酢昆布、うずらの卵×2→JDディスコグラフィー全件の再チェック、ようやく全体の半分→『グッバイ・ガール』(原題『The Goodbye Girl』、監督:ハーバート・ロス。マーシャ・メイソン、クィン・カミングス、バーバラ・ローデス、テレサ・メリット、リチャード・ドレイファス、マイケル・ショーン、ポール・ベネディクト、パトリシア・パーシー、ダナ・ローリタ、ニコール・ウィリアムソン。1977、米MGM、Rastar Pictures製作/Warner Bros.配給)。演劇の世界という、まあ一般的ではない世界を舞台にしているものの、人間の心の機微を実にうまく描いた作品と思った。監督、役者の力量はもちろんのこと、さすがニール・サイモンと言うべきか(ただしクレジットは脚本なので、原作にどの程度関わっているのかは不明)。主人公のひとりポーラ(マーシャ・メイソン)は、男と出来てしばらくすると男のほうが新しいよい仕事を得て去っていくという運命の持ち主だという設定なのだが、これは日本風にいうと「あげまん」なのではないか、と思った。その辺を織り込んで、本作を翻案して連続TVドラマに仕立てても面白いのではなかろうかと思ったが、これも年寄りの繰り言か→タネなし天ぷら、ニンジンの天ぷら、オイルサーディンと紫蘇、焼き海苔、月見そば(揚げ玉)、金宮お湯割り×5→午睡→『怪物』と『グッバイガール』再見しながら、トマトと新玉葱とピーマンのサラダ(オイルサーディン)、じゃがいもパリパリ揚げ、牡蠣ときのこのオリーブオイル漬け缶詰、ビール中瓶×2、金宮お湯割り×2。『怪物』は再見してみたら、自分の中での角が取れたという感じもあった→夜11時頃就寝。
3月30日(日) 朝8時起床。白湯→ぶなしめじと油揚のおつけ、卵おじや(あおさ)→JDディスコグラフィー全件の再チェック、2ページ分片付けて、あと1ページとなった→『隼人族の叛乱』(原作:海音寺潮五郎、監督:松田定次。阿部九洲男、長谷川裕見子、千石規子、市川右太衛門、勝浦千浪、松原千浪、三島雅夫、中村錦之助、佐々木孝丸、毛利菊枝、月形龍之介、清川荘司、原健策、進藤英太郎、楠本健二。1957、東映)。題名から、8世紀の隼人の反乱≠描いたものかと思ったが、本作の舞台は戦国時代だし物語の途中で豊臣秀吉が天下を取るから、史実の隼人の反乱≠下敷きに時の権力と虐げられる者たちの闘いに、敵同士の恋物語を混ぜ込んだ娯楽映画、と見たが、果たして。ネット上にある本作のあらすじを見ると、「九州日向の一円に土着した隼人族は、先住大和族の圧迫で壊滅に瀕していた」とあるが(左記はKInenoteより引用)、そうした歴史認識についてはちゃんと確認する必要があるとして、大和族が小狡く描かれているようなところは面白い。権力側の日向国司である桂原忠通(三島雅夫)の息子主税介(中村錦之助)と木之宮隼人の娘阿久根(長谷川裕見子)が恋に落ちたり、木之宮隼人の長佐多彦(市川右太衛門)が裏切り者川上の次郎(原健策)の妹志乃(勝浦千浪)に助けられながら裏切り者の妹と冷たくあしらい、しかし志乃のほうが熱を上げるという展開は、娯楽時代劇の要素としてとてもよく撮られていて、楽しかった。舞台は戦国時代ながら、日本古代からの民族闘争≠ノ興味を持つきっかけになっていたらいいなと思ったが、公開当時はどんな風に受け取られたのだろうか→菊水堂ポテトチップス、炙りきつねそば(おろし生姜、かつ節、あおさ)、ビール中瓶×1、金宮酎ハイ×1→午睡→賄い当番→風呂→トマト、鯖水煮缶と新玉葱(酢)、ニンジンとじゃがいものカレースープ(ニンニク)、きつねスパゲティ(紫蘇、生姜)、金宮梅サワー×3→JDディスコグラフィー全件の再チェック完了。修正指示原稿と追加・差し替えテキストの合番も見直し、申し送り事項も書いて送付→『ぼくの小さな恋人たち』(原題『Mes petites amoureuses』、監督:ジャン・ユスターシュ。マルティン・レーブ、ジャクリーヌ・デュフランヌ、イングリット・カーフェン、ディオニス・マスコロ、アンリ・マルティネス、モーリス・ピアラ、ピエール・エデルマン、マリエ・ポール・フェルナンデス。1974、仏Elite Films製作/AMLF配給)。題名『Mes petites amoureuses』は、アルチュール・ランボーの詩から採ったとのこと。物語は−− 母親(イングリット・カーフェン)と離れて祖母(ジャクリーヌ・デュフランヌ)の元、フランスの片田舎(ボルドーの郊外)に暮らす少年(日本でいえば中学生)のダニエル(マルティン・レーブ)は、ほとんどなにもないような町で、それでも温かい大人たちや親しい友人たちと楽しく過ごしていたのだが、ある日上の学校に進もうという歳になったダニエルを、離れた町(ナルボンヌ)でスペイン男ジョゼ(ディオニス・マスコロ)と暮らす母が迎えに来る。母の元で暮らすようになったダニエルは、しかし貧困故家上の学校には行けず、ジョゼの弟アンリ(アンリ・マルティネス)が営む二輪車の修理工場で働くことになる。ダニエルは、祖母の元にいたときと異なり、年上の友人たちや大人たちと付き合い、また生きていくことの辛酸も知り始め(特に母、ジョゼ、ジョゼの兄弟やその友人たちの身勝手さは強烈に印象に残る)、恋や性愛にも目覚めつつ、次第に大人になっていく−− といった物語で、ダニエルの生活や行動を中心にした短いエピソードが連ねられていくが、どのエピソードも4コマ漫画でいえば4コマめがない≠謔、な塩梅で、また他のエピソードと有機的に連なっていくような様子も希薄なのだが、その呼吸をとても面白く感じた。ナルボンヌに移り住んだあと、果敢に町の大人たち、あるいは大人ともいえないような中途半端な青年たちの中に入り行動しつつ、常に少しだけ怯えているような様子を窺わせるダニエルの佇まいが印象に残る。母の元に移って少し大人になったダニエルが、終幕で工場が夏休みに入り祖母の元を訪ね、ナルボンヌを去る前とまったく変わらないように子供らしい友人たちと遊びに出る、その微妙な対比がなんともいえない余韻を残す。よさを見出すのに少し時間がかかったが、そうとわかってみればとてもよい映画と思う。本作の本質にどう関わるのかはわからないが、どちらの町でも映画館がひとつの主要な場所であり、『北西騎馬警官隊』(セシル・B・デミル監督、1940)のポスターが映ったり、『パンドラ』(アルバート・リューイン監督、1951)が長々と引用される(劇場で上映されているものが映される)のも、ダニエルという人物の描写やその成長になんらかの意味をもたらしているものと思う。ひとまず、一度ざっと観た限りではそんな感想を得た(もう少し掘り下げるべきだろうが)。なおちなみに、前作『ママと娼婦』が高い評価を得たことで、本作では潤沢な製作予算が確保できたものの、興行的には失敗。結果として本作はジャン・ユスターシュの唯一のカラー長編となったそうだ→金宮お湯割り×5→朝食の支度→午前4時就寝。
3月31日(月) 朝8時起床。白湯→ニンジンとじゃがいものカレースープ、オイルサーディンとピーマンのスパゲティ、丸パン1/2→老父の銀行等の用事済ませてから〈中江クリニック〉受診。血液検査の結果が知らされたが、今回も特に問題なし。中性脂肪の値が割と改善されたとのこと。血圧に大きな変化や改善はないが、ここのところ起床時血圧の下が90を超えることがなくなった→薬局の調合待ちの間に、まず〈La Pineta〉で昼。サラダ、ニンジンのスープ、ペスカトーレ、フォカッチャ、白葡萄種二杯→〈秀〉〈オオゼキ〉〈イオンリカー〉などで買い物してクスリ受け取って帰宅→ストーブの外側の掃除と、レターラックの整理→『忍術御前試合』監督:沢島忠。尾上鯉之助、富田仲次郎、植木基晴、岸井明、月形龍之介、桜町弘子、伏見扇太郎、高松錦之助、望月健佐、有馬宏治、大河内傳次郎、山手弘、霧島八千代、堀正夫、植木千恵、八汐路佳子、秋田Aスケ、秋田Bスケ。1957、東映)。豊臣秀吉(大河内傳次郎 )対徳川家康(望月健佐)という構図の中で、甲賀忍者−−戸沢白雲斎(高松錦之助)とその息子虎若丸(伏見扇太郎)−−と伊賀忍者−−百地三太夫(月形龍之介)、石川五右衛門(富田仲次郎)、さぎり(桜町弘子)−−が暗闘を重ねる。その渦中、豊臣側の福島正則(堀正夫)の愛娘おねね(植木千恵)が石川五右衛門にさらわれたりするのだが、すぐに五右衛門の息子五郎一(植木基晴)と仲良くなって遊んだり、まあ緊迫感はない(ちなみに植木基晴と植木千恵は実の兄妹で、片岡千恵蔵のお子さん)。で、最後は何故か大阪城にて豊臣秀吉の前で甲賀伊賀が仁寿靴くらべをして決着が着く、という次第だが、忍術の描写は違いに蛙と蛇に化たりといったありきたりのものがほとんどで、まあ子供向けの忍術映画であり、それ以上のなにものでもなかった。が、子供(五郎一)が忍者やその手下(岸井明)にずけずけと親しげな口を聞いたり、物語や忍術がとてもわかりやすかったり、という点は、今の子供でも(子供は知らないことのほうが多いのだから)楽しく観られるのではないかなとは思った。実際はどうなのだろう? 今の若い親御さんやおじいちゃんおばあちゃんが昔の映画を魅せてやるなんてことはあるのだろうか→菊水堂ポテトチップス、煮干し出汁殻炙り、豚バラ肉生姜焼き、キャベツ千切り、ピーマン肉詰め、もずくと油揚のおつけ、ビール中瓶×2、金宮お湯割り×2→夜7時半いったん就寝。
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